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第四十五話 玄人仕事

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「……はぁ。こりゃまた厄介やっかいなことになってきやがったな」

 戻るなり香織子かおりこから話のいきさつを聞かされた銀次郎ぎんじろうは、かぶっていた黒杢くろもく色のハンチング帽を脱ぎ去って、ため息を吐き漏らしながら白い頭をぽりぽりといてみせた。

「ともかくだ。……留守中、済まなかったな、バイト。おめえさんに任せておけば、万事安泰だと思ってはいたが……なかなかどうしてやるじゃねえか。城のお偉いさんを叩き出すたぁ」
「……あのね? ちゃんと聞いてた? 丁寧に応対して、丁重にお帰り頂いただけですから」
「それでもさ。さすがおいらの自慢のバイトだぜ」
「そういう時は、、じゃなくて、、っていうモンですーっ!」
「ははは。こりゃおっかねぇ」


 なんとも危なっかしいやりとりに思えるが、銀次郎と香織子の『祖父と孫』の関係性は、いつかの夜の打ち明け話がきっかけとなり、極めて良好になっていた。それは、今までの空白を埋めるような、そんな親密でひとつひとつをじっくりと確かめるようなやりとりになっていた。


 しかし、ひとたび店に出れば、銀次郎はマスターで、香織子はバイトになる。

 それは最初に交わしたふたりの間の約束ごとだったが、それ以上に、それぞれの肩書に誇りと責任をもっているからでもあった。銀次郎は決して、趣味や余生のたしなみでこの店にこだわり、続けているわけではない、と香織子が肌で感じ取ったからでもある。


「さて、夜のひと仕事だぞ、バイト」

 銀次郎は、手の中のハンチング帽を三和土たたきの脇のフックにかけ、代わりにその隣のエプロンを手に取ると、闘牛士マタドールの操るムレータのごとく鮮やかにひと振りして、きゅっ、と身にまとう。

「っと……。そういやあ、シオンの奴はどうした?」
「今、あたしの出した宿題と格闘中」
「へへ。そりゃあ大変てえへんだ」


 頼まれたことはきっちりとこなす。それが香織子のモットーだ。

 だが、その徹底した姿勢のおかげもあって、シオンの知識や知能レベルはすっかり遅れを取り戻し、今や銀次郎より物知りで賢く育っていた。なにより、それでふたりの孫娘の仲がこじれるどころか、以前にも増して仲睦まじくなっているのだから、銀次郎には言う事なしである。


 と、急に香織子は何事かを思い悩むように眉を寄せてこう言った。

「あの人……ハーランドさんが最後に言ってた、、って一体なんなのかな?」
「ん? 魔性の者、ってぇ奴か? そんなモン――」

 そう言って、鼻で笑い飛ばそうとした銀次郎の脳裡のうりに、ふと、浮かんできた顔があった。



(ははは。楽しみですよ、その時が。無様に這いつくばって、わたくしどもに慈悲を乞う日が)



 が、銀次郎は口元をゆがめてため息をつくと、かぶりを振ってこう続けた。

「俺らの知ったこっちゃねえ。そんなモンは、この街きっての腕自慢共に任せておきゃあいい」
「ま、そうだよね。……でもさ?」

 香織子が最後まで言わぬうちに、居間の引き戸が、がらり、と開いて、笑顔が顔を出した。

「終わったぁー! ね? ね? おねえちゃん! シオン、ちゃんとできたよ!」
「あら、ご苦労様。……ちょっと見せて。合ってるかどうか採点するから」
「へへーん! 今回は自信あるんだー! お願いしまーす!」
「どれどれ……」

 香織子は、シオンの隣の居間の縁に腰掛け、差し出された赤鉛筆を片手に、お手製の問題用紙に目を走らせる。すると、じきにその顔にみるみる驚きと笑みが浮かび上がってきた。

「す、凄い……全部合ってるじゃない! よく解けたわね、とびきり難しいのにしたのに」
「えへへへ……。教える先生が上手だからだよー!」

 ぎゅっ。

 まだ甘えたがりなところのあるシオンに抱きつかれて目を白黒とさせながら、香織子はにやけかかった顔を怖いくらいに引き締め、わざと素っ気ない口ぶりで言う。

「――!? ……ま、まあ、それもそうよね」
「えー? もっとめてよー! シオン、褒められて伸びるタイプだからー!」
「あんまり褒めると調子にのるから駄目。……ち、ちょっと! あんまりくっつかないでよ!」

 身体の成長はかなり緩やかになっていたものの、すべてがこざっぱりと、するする、すとん、とした香織子の体型とは違い、シオンは出るところはもれなく出て、引っ込むべきところはくまなく引っ込んでいるという、同性の身からしてもかなり色香を感じる体型で扱いに困るのだ。

「えーん。ギンジロー? おねえちゃんが冷たいー!」

 真っ赤に顔を染めた香織子に容赦なくぐいぐいと押し退けられて、シオンは泣きべそをかく。しかし、子どもっぽさと大人の女性の両方の素養を持ち合わせているシオンの扱いに困っていたのは、銀次郎とて同じであった。だっこをせがむようなシオンの手を一瞥いちべつしてこうこたえる。

「ありゃ照れてるだけだ。いいから、おめえさんも早く支度したくしな。そろそろ客が来る頃合いだ」
「はーい!」

 一度出てきたシオンはたちまち居間の奥へと引っ込んだ。
 すると、香織子が困ったような顔つきで、銀次郎の隣に立ってつぶやいた。

「ちゃんと勉強しないと店は手伝わせない、って言われたら、喜んでわよね、普通は」
「はは。そりゃそうだ」

 だが、ふたりと一緒にお店で働きたいシオンは、そのためにはどんな難しい問題でも解いてしまう――いいや、違う。シオンにとっては、三人一緒であることがなにより大事なのだろう。

「ね? マスター? 今日シオンに出した問題、見て欲しいんだけど……?」
「よ、よせやい!」

 いきなりで慌てふためいた銀次郎は、突きつけられたのがあたかも刀かなにかだったかのごとく甲高い悲鳴を上げると、大袈裟に顔や身体をしきりに手で覆い隠しながら後ずさりする。

「お、お勉強なんてからきしの俺ぁにゃちんぷんかんぷんだ! ……そいつぁ、難しいのか?」
「あまりになんでも解いちゃうから、今日試しに出してみたんだ。……去年の大学入試テスト」
「おいおい……」
「……全部合ってるの。来年の準備でたまたま鞄に入れておいた奴なんだけどね……嘘みたい」
「おいおいおい……」

 我が孫のことだけに誇らしく思う気持ちもあるものの、さすがに話が出来すぎていて、少し気味悪くもある。やはり、人間と魔族とはすべてが同じとはいかないらしい。銀次郎は言った。

「……なら、今度はお堅いお勉強だけじゃなく、もっとありきたりなことを教えてやりゃいい」
「ありきたりなことって?」
「ありきたりなことって言やぁ、そりゃおめえ――」


 と、言い出した源次郎も上手く説明できる自信があまりない。
 が、思いついたままを口にした。


「惚れただの腫れただの、そういう奴のこった。化粧でもお洒落でもいい、おめえさんが好きなことを、夢中になれることを、あいつ――シオンにも教えてやりゃあいいんだ。できるか?」

 香織子はうなずいた。

「できるわよ」
「そりゃあいい」



 香織子は――急に視線を泳がせる。



「………………あ、あたしもだけど」
「はっ。そりゃあなおいいや」


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