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その三 ファースト・コンタクト
四
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「嘉智子夫人様と申せば、つまりは・・・」
「はい、帝の夫人であり、恐れ多いことながら、私の娘・橘嘉智子様のことにございます」
時の帝は嵯峨帝である。桓武帝の第二子にあたり、幼少よりその聡明さを広く知られた。空海が入京を許された大同4年(809年)の4月に即位したばかりの新帝である。
その「夫人」が橘嘉智子。
「夫人」とは、単に天皇の妻女の事を言うのではなく、律令制における天皇の后妃の称号の事である。
最上位が「皇后」、次いで「妃」、「夫人」は三番目の地位という事になる。「夫人」には通常、最低でも正三位、従三位の位階が与えられる。
また、この時代は「妻問婚」であり、天皇は「妻」の「家」に通うのであり、嘉智子夫人も生活の中心は「橘家」なのであった。
「嘉智子夫人のお命が狙われているとは・・・。お心当たりはおありなのですか?」
「はい。それは数えきれないほどに」
三千媛の返答には何の迷いもない。
「なるほど・・・」
「和尚様にこのような事を申し上げるのは、申し訳ない事ですが、帝には妃として高津内親王様、夫人として多治比高子様がおられます。また帝の寵を受ける女官は十人では済まない事でしょう」
「ほーう、それはまたお忙しい方にございますね」
空海は平然と答えた。
「その数多くの妃・夫人・女官の中でも嘉智子夫人様は、最も深く、帝の寵愛を受けていらっしゃいます。それだけに・・・」
「妬まれることも多い・・・という事ですね」
「はい。更に我が橘一族です。わが一族は天下の大罪を犯した一族にございます」
「・・・」
「橘一族の大罪」。
世に言う「橘奈良麻呂の変」である。
「橘奈良麻呂」。嘉智子夫人の祖父にあたる。
奈良麻呂の父は、橘諸兄(たちばなの・もろえ)であり、聖武天皇のもと事実上、国政を動かした。
しかし、聖武天皇が皇女・阿部内親王へ譲位し、孝謙天皇がとなると、孝謙天皇は自分の母(光明皇后)の甥にあたる藤原仲麻呂に政治を委ねるようになったのである。
それは聖武朝で力を失っていた藤原氏の復権であった。
孝謙天皇は、現皇太子・道祖王を廃し、次期皇太子に大炊王を立てたが、これは藤原仲麻呂の意向が強く働いたためである。
当然、反仲麻呂グループが出来るわけであるが、その中心となったのが「橘奈良麻呂」であった。
ここに藤原仲麻呂を除き、新帝擁立のクーデターが画策されたのである。しかしこの計画は失敗し、奈良麻呂をはじめとし、道祖王、黄文王、大伴古麻呂などの王族・有力貴族が逮捕され、言語に絶する拷問を受けた。
多くの人々が獄死し、その中には奈良麻呂もいたのである。
一連のクーデター計画に関連して処罰された人数は何と443人。これ以後、藤原仲麻呂の専制はさらに強まり、仲麻呂の独裁政治となっていったのである。
聖武朝で国政の中心であった橘一族は一転、国家の謀反人となり、政治の表舞台から、一切、締め出されたのであった。
「嘉智子夫人様が、帝のご寵愛を一身に受けている。これは、橘一族を追いやった者たちにとっては看過できることではないのです」
「なるほど、単に妬み、妬心ではすまないという事ですね。この国の政(まつりごと)を橘が担うのか、藤原が担うのかという権門勢家の争いになっているということですか」
三千媛は、空海の言葉に否定も肯定もせず、姿勢を崩すことなく静かに座っている。
「それほどの大事となれば、一介の僧に過ぎぬ私では、お力にはなれません。もっと適した者がおるはず。逸勢が私を何と言ったかは存じませぬが、どうぞ違う方をお探しください」
そう言って空海は慇懃に頭を下げた。
「逸勢殿は和尚様の事となると、途端に口が重くなるのです。それは、逸勢殿が心底、和尚様には敵わないと思っているからでしょう。自らたのむところ、すこぶる厚いあの方が、そう思うというのは余程の事なのです。奈良麻呂の一件以来、『腐りし橘』と言われる我らですが、まだそれなりの『つて』がございます。和尚様の唐でのご活躍は調べさせていただきました。唐では、和尚様の事、いまだに語り草となっているようでございますね」
そう言うと三千媛は、空海が唐で関わったいくつかの「事件」について言及した。遠く離れた唐での出来事を、ここまで調べあげる三千媛の力は並大抵のものではない。
「随分と私の事をお調べになったようですね。唐での事を承知して、私に頼むと言うのであれば、夫人様の命を狙う者とは呪術師という事にございますか?」
「はい、その通りにございます。夫人様は呪咀をうけ、毒殺まで企てられたのです」
「はい、帝の夫人であり、恐れ多いことながら、私の娘・橘嘉智子様のことにございます」
時の帝は嵯峨帝である。桓武帝の第二子にあたり、幼少よりその聡明さを広く知られた。空海が入京を許された大同4年(809年)の4月に即位したばかりの新帝である。
その「夫人」が橘嘉智子。
「夫人」とは、単に天皇の妻女の事を言うのではなく、律令制における天皇の后妃の称号の事である。
最上位が「皇后」、次いで「妃」、「夫人」は三番目の地位という事になる。「夫人」には通常、最低でも正三位、従三位の位階が与えられる。
また、この時代は「妻問婚」であり、天皇は「妻」の「家」に通うのであり、嘉智子夫人も生活の中心は「橘家」なのであった。
「嘉智子夫人のお命が狙われているとは・・・。お心当たりはおありなのですか?」
「はい。それは数えきれないほどに」
三千媛の返答には何の迷いもない。
「なるほど・・・」
「和尚様にこのような事を申し上げるのは、申し訳ない事ですが、帝には妃として高津内親王様、夫人として多治比高子様がおられます。また帝の寵を受ける女官は十人では済まない事でしょう」
「ほーう、それはまたお忙しい方にございますね」
空海は平然と答えた。
「その数多くの妃・夫人・女官の中でも嘉智子夫人様は、最も深く、帝の寵愛を受けていらっしゃいます。それだけに・・・」
「妬まれることも多い・・・という事ですね」
「はい。更に我が橘一族です。わが一族は天下の大罪を犯した一族にございます」
「・・・」
「橘一族の大罪」。
世に言う「橘奈良麻呂の変」である。
「橘奈良麻呂」。嘉智子夫人の祖父にあたる。
奈良麻呂の父は、橘諸兄(たちばなの・もろえ)であり、聖武天皇のもと事実上、国政を動かした。
しかし、聖武天皇が皇女・阿部内親王へ譲位し、孝謙天皇がとなると、孝謙天皇は自分の母(光明皇后)の甥にあたる藤原仲麻呂に政治を委ねるようになったのである。
それは聖武朝で力を失っていた藤原氏の復権であった。
孝謙天皇は、現皇太子・道祖王を廃し、次期皇太子に大炊王を立てたが、これは藤原仲麻呂の意向が強く働いたためである。
当然、反仲麻呂グループが出来るわけであるが、その中心となったのが「橘奈良麻呂」であった。
ここに藤原仲麻呂を除き、新帝擁立のクーデターが画策されたのである。しかしこの計画は失敗し、奈良麻呂をはじめとし、道祖王、黄文王、大伴古麻呂などの王族・有力貴族が逮捕され、言語に絶する拷問を受けた。
多くの人々が獄死し、その中には奈良麻呂もいたのである。
一連のクーデター計画に関連して処罰された人数は何と443人。これ以後、藤原仲麻呂の専制はさらに強まり、仲麻呂の独裁政治となっていったのである。
聖武朝で国政の中心であった橘一族は一転、国家の謀反人となり、政治の表舞台から、一切、締め出されたのであった。
「嘉智子夫人様が、帝のご寵愛を一身に受けている。これは、橘一族を追いやった者たちにとっては看過できることではないのです」
「なるほど、単に妬み、妬心ではすまないという事ですね。この国の政(まつりごと)を橘が担うのか、藤原が担うのかという権門勢家の争いになっているということですか」
三千媛は、空海の言葉に否定も肯定もせず、姿勢を崩すことなく静かに座っている。
「それほどの大事となれば、一介の僧に過ぎぬ私では、お力にはなれません。もっと適した者がおるはず。逸勢が私を何と言ったかは存じませぬが、どうぞ違う方をお探しください」
そう言って空海は慇懃に頭を下げた。
「逸勢殿は和尚様の事となると、途端に口が重くなるのです。それは、逸勢殿が心底、和尚様には敵わないと思っているからでしょう。自らたのむところ、すこぶる厚いあの方が、そう思うというのは余程の事なのです。奈良麻呂の一件以来、『腐りし橘』と言われる我らですが、まだそれなりの『つて』がございます。和尚様の唐でのご活躍は調べさせていただきました。唐では、和尚様の事、いまだに語り草となっているようでございますね」
そう言うと三千媛は、空海が唐で関わったいくつかの「事件」について言及した。遠く離れた唐での出来事を、ここまで調べあげる三千媛の力は並大抵のものではない。
「随分と私の事をお調べになったようですね。唐での事を承知して、私に頼むと言うのであれば、夫人様の命を狙う者とは呪術師という事にございますか?」
「はい、その通りにございます。夫人様は呪咀をうけ、毒殺まで企てられたのです」
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