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獣の狂宴 リーンハルトの決意
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「…………?」
演奏の曲調が穏やかなものになった頃。何か空気が変わり始めた気がして、俺は舞台に目を向けた。
ぱっと見た感じ、何も異常はない。エルヴァールも妻と娘と共に演奏を楽しんでいる。他の貴族も同様だろう。
気のせいか……と思ったが、隣を見るとじいさんも両目を普段よりも開いていた。
「じい……」
そうして口を開きかけた瞬間。突然舞台の方から低い唸り声が轟く。
「!?」
「グルァアアアアアア!!」
あまりにも突然の出来事だった。舞台の裏から現れた化け物が、音楽団の一員の上半身を食いちぎったのだ。
あまりに現実離れした光景を前に、一瞬思考が停止してしまう。
「な……」
化け物は狼の様な獣だった。だがとにかくでかい。大人の上半身を食いちぎれるくらいにはでかい。これまであんな生き物、見た事がない。そしてそれは1匹ではなかった。
「き……きゃああああああ!?」
「な、なんだ!?」
「え、え、これ、ショーじゃないのか!?」
「あ、あれはぁ……!」
「ばかな!? 何でこんなところに!?」
複数の獣たちが次々に人に襲い掛かる。舞台はあっという間に血で染め上げられた。獣たちは一階席にいる貴族たちにも襲い掛かる。
「ひ……」
「エルヴァール様!」
「ヴェルト殿! あれは……!?」
「おそらくは冥狼と結社の……!」
「石を与えられたという怪物か!」
俺はフィアナから聞いた事を、最高幹部の他にエルヴァールとも共有していた。
フィアナは他に話さないでほしいと言っていたが、立場的にエルヴァールも巻き込んだ方が話が早いと判断したのだ。しかしまさかここで仕掛けてくるとは……!
「坊! どうする!?」
「相手の狙いが何か分からねぇ! 一階には騎士団もいる! まずはエルヴァール様を安全な場所に移動させる!」
エルヴァールとルブローネ、それにアズベリアを一か所に固める。だが二階席の会場の入り口には既に多くの貴族が殺到し始めていた。あれでは身動きが取れない。
だが状況はさらに目まぐるしく変わる。さっきまで音楽団が演奏していた舞台に、一人の女と数人の男たちが現れたのだ。
「あっはははは! 帝国貴族の皆さん、ご機嫌うるわしゅう! 私たちは冥狼さね! 今日は日ごろお世話になっている貴族の皆さんに、素晴らしいお届け物を持ってきてあげたよ!」
冥狼……! こんな形で仕掛けてきたか……! だが何故!? わざわざ姿を見せるメリットなど一つもない! どうして自分たちの犯行だと喧伝する!?
一階席は獣が大いに暴れており、阿鼻叫喚の地獄が生まれつつあった。二階席は相変わらず狭い入り口前で混乱が生じている。あれでは奥にいる皇族たちも、簡単には外に出られないだろう。
「め、冥狼……!」
「エルヴァール様、落ち着いて。……ハイラントはどこです?」
「……あそこだ」
エルヴァールの指さす方向にはハイラントと思わしき貴族がいた。周囲にはハイラント派と思わしき貴族たちが集っている。
だが誰もが本気で焦っている様な表情を見せていた。
「どういう事だ……ハイラントの差し金じゃ、ない……?」
演技にも見えない。現にハイラントも二階席の入り口を気にしており、誰もいなければ逃げ出したいという気配が感じ取れる。
そもそもこんな事になるなら、事が起こる前に退出しているか元から参加していないだろう。
「エルヴァール様! ご無事ですか!」
エルヴァールの元にも何人かの貴族が集い始めた。中にはアルフレッドの姿も見える。
これでエルヴァールは増々ここから離れづらくなったな。何より皇族より先に逃げ出すという真似、エルヴァールの立場ではやりにくいだろう。
「坊。一階もまずいかもしれん」
じいさんに言われ、一階席に視線を向ける。獣たちは貴族だけではなく、かけつけた騎士団もなぎ倒していた。
でかさ相応の膂力を持っているのだろう。何人もの騎士が、体当たりで壁まで吹き飛ばされている。
「……見過ごせないな。じいさん、エルヴァールを……」
「まぁ待て。ここはわしが行こう」
「しかし……」
「坊が行っては目立つ。わしなら誤魔化しがきくからのぅ。……ふうぅぅぅぅぅぅ!」
じいさんは貴族たちの視線を躱しながら、誰の目にも映っていないタイミングで魔法を発動させる。すると一瞬でじいさんの姿から、若い男へと姿が変わった。
「んへ!? じ、じいさん……!?」
突然の事で、緊急事態にも関わらず変な声が出てしまう。
どういう事だ。じいさんの魔法といや、素早さ重視の身体能力強化だったはず。今はどう見ても20代の若い男に変化している。
「最近新たな極致に到達してなぁ! 時間は短いが、全盛期の年齢に戻れるのさ! じゃ、ちょっと片付けてくりゃあ!」
そう言うとじいさん……いや、ハギリさんは二階席から一階に目掛けて跳んでいった。
そういや誰かが最近、じいさんの魔法が新たな極致に至ったとか話していた様な気がするが……まぁ話は後で聞こう。今はまだ敵の狙いが分からない。俺はこのままエルヴァールを護衛だ。
■
リーンハルトは突如現れた獣の怪物を前に、思考が停止していた。初めて見る人の死を前に、呆然としてしまう。
「きゃあああああ!!」
「た、助けてくれえぇぇ!」
だがどこかからか飛んで来た血が顔にかかった時。自分の使命を思い出した。
「……! や、やめろぉぉおお!!」
リーンハルトは剣を抜くと、勇気を振り絞って近くにいる獣に斬りかかる。
だが相手は巨体な上に人の動きはしない。これまで対人で訓練を積んで来たが、それらの経験が活かしにくい。しかしそれはここから退いて良い理由にはならなかった。
「おおおおおおお!!」
覚悟を決め、剣を果敢に振るう。だがリーンハルトの剣が届くよりも先に、獣は前足を横薙ぎに振るってきた。
「ぐっ!?」
とっさに剣で受けるが、筋力が違い過ぎる。リーンハルトは勢いよく地を転がった。
よく見ると、周囲には先輩の騎士たちも転がっている。中には息をしていないであろう者もいた。そして。
「きゃああああ!!」
さっきの獣が、女の子に視線を向けている。涎が垂れ、血が滴る口で何が行われるのか。想像するのは容易かった。
「う……あああああ!!」
リーンハルトは何も考えずに立ち上がると、大声を上げて獣に再び斬りかかる。なるべく自分に注意を向けておきたかった。
「ガルアアアアア!!」
再び獣の爪が迫る。だがこれを何とか剣で逸らす……と思ったが、やはり獣の筋力が強すぎて逸らしきれなかった。強い衝撃が全身を襲う。
「ぐ……! でも……!」
意地でも剣を手放さず、獣の足先に僅かに刃を食い込ませていく。だがそれに苛立ったのか、獣はリーンハルトの真上で口を大きく開けた。
(やられる……!? くそ……!)
おそらく自分の上半身を食いちぎるつもりだろう。鎧を着てはいるが、どこまで耐えられるか。
そして自分の死というものをぼんやりと意識し始めた時だった。
「破っ!!」
リーンハルトは頭から大量の血を浴びる。上を見ると獣は口先が切断されていた。
「……え?」
「はっはぁ! こんだけでかいと、切り刻みがいがあるってなぁ! 葉桐一刀流……! 真閃・裂空破ぁ!」
反りのある片刃の剣を振るう、若い男だった。帝都には多くの人種が住んでいるが、黒髪黒目というのも珍しいだろう。
だがリーンハルトはそんな男にただ一言。凄まじいという感想しか頭に浮かばなかった。
その一振りは獣の分厚い肉を簡単に切り落とし、あまりの素早さに獣も男を追いきれない。いや、リーンハルトの目でも見えない。
消えたと思えば一瞬で別の場所に姿を現し、確実に深手を負わせていく。あれだけどうしようもないと思っていた獣だったが、男の振るった剣撃により、とうとう床に沈んだ。
「さすがに一撃って訳にはいかねぇなぁ! だがこういう人外を相手にするのも悪かねぇ!」
「あ……あの……」
「おう坊主! お前、中々男を見せたな! 早くそっちのちびっ子を連れてここから離れろ!」
そう言うと男は姿を消した。だが既に別の獣の側まで移動しており、二匹目を仕留めにかかっている。リーンハルトは男に言われた通り、気絶した女の子を抱きかかえるとその場を後にした。
逃げ出す訳ではない。今、この子を守れるのは自分だけだと分かっているだけだ。それに自分ができる事は、こうして無事な人を避難させる事。獣を倒すのは、相応の力を持った者にだけ許される行為だ。
自分にはまだ、その舞台で剣を振るえるほどの力はない。
演奏の曲調が穏やかなものになった頃。何か空気が変わり始めた気がして、俺は舞台に目を向けた。
ぱっと見た感じ、何も異常はない。エルヴァールも妻と娘と共に演奏を楽しんでいる。他の貴族も同様だろう。
気のせいか……と思ったが、隣を見るとじいさんも両目を普段よりも開いていた。
「じい……」
そうして口を開きかけた瞬間。突然舞台の方から低い唸り声が轟く。
「!?」
「グルァアアアアアア!!」
あまりにも突然の出来事だった。舞台の裏から現れた化け物が、音楽団の一員の上半身を食いちぎったのだ。
あまりに現実離れした光景を前に、一瞬思考が停止してしまう。
「な……」
化け物は狼の様な獣だった。だがとにかくでかい。大人の上半身を食いちぎれるくらいにはでかい。これまであんな生き物、見た事がない。そしてそれは1匹ではなかった。
「き……きゃああああああ!?」
「な、なんだ!?」
「え、え、これ、ショーじゃないのか!?」
「あ、あれはぁ……!」
「ばかな!? 何でこんなところに!?」
複数の獣たちが次々に人に襲い掛かる。舞台はあっという間に血で染め上げられた。獣たちは一階席にいる貴族たちにも襲い掛かる。
「ひ……」
「エルヴァール様!」
「ヴェルト殿! あれは……!?」
「おそらくは冥狼と結社の……!」
「石を与えられたという怪物か!」
俺はフィアナから聞いた事を、最高幹部の他にエルヴァールとも共有していた。
フィアナは他に話さないでほしいと言っていたが、立場的にエルヴァールも巻き込んだ方が話が早いと判断したのだ。しかしまさかここで仕掛けてくるとは……!
「坊! どうする!?」
「相手の狙いが何か分からねぇ! 一階には騎士団もいる! まずはエルヴァール様を安全な場所に移動させる!」
エルヴァールとルブローネ、それにアズベリアを一か所に固める。だが二階席の会場の入り口には既に多くの貴族が殺到し始めていた。あれでは身動きが取れない。
だが状況はさらに目まぐるしく変わる。さっきまで音楽団が演奏していた舞台に、一人の女と数人の男たちが現れたのだ。
「あっはははは! 帝国貴族の皆さん、ご機嫌うるわしゅう! 私たちは冥狼さね! 今日は日ごろお世話になっている貴族の皆さんに、素晴らしいお届け物を持ってきてあげたよ!」
冥狼……! こんな形で仕掛けてきたか……! だが何故!? わざわざ姿を見せるメリットなど一つもない! どうして自分たちの犯行だと喧伝する!?
一階席は獣が大いに暴れており、阿鼻叫喚の地獄が生まれつつあった。二階席は相変わらず狭い入り口前で混乱が生じている。あれでは奥にいる皇族たちも、簡単には外に出られないだろう。
「め、冥狼……!」
「エルヴァール様、落ち着いて。……ハイラントはどこです?」
「……あそこだ」
エルヴァールの指さす方向にはハイラントと思わしき貴族がいた。周囲にはハイラント派と思わしき貴族たちが集っている。
だが誰もが本気で焦っている様な表情を見せていた。
「どういう事だ……ハイラントの差し金じゃ、ない……?」
演技にも見えない。現にハイラントも二階席の入り口を気にしており、誰もいなければ逃げ出したいという気配が感じ取れる。
そもそもこんな事になるなら、事が起こる前に退出しているか元から参加していないだろう。
「エルヴァール様! ご無事ですか!」
エルヴァールの元にも何人かの貴族が集い始めた。中にはアルフレッドの姿も見える。
これでエルヴァールは増々ここから離れづらくなったな。何より皇族より先に逃げ出すという真似、エルヴァールの立場ではやりにくいだろう。
「坊。一階もまずいかもしれん」
じいさんに言われ、一階席に視線を向ける。獣たちは貴族だけではなく、かけつけた騎士団もなぎ倒していた。
でかさ相応の膂力を持っているのだろう。何人もの騎士が、体当たりで壁まで吹き飛ばされている。
「……見過ごせないな。じいさん、エルヴァールを……」
「まぁ待て。ここはわしが行こう」
「しかし……」
「坊が行っては目立つ。わしなら誤魔化しがきくからのぅ。……ふうぅぅぅぅぅぅ!」
じいさんは貴族たちの視線を躱しながら、誰の目にも映っていないタイミングで魔法を発動させる。すると一瞬でじいさんの姿から、若い男へと姿が変わった。
「んへ!? じ、じいさん……!?」
突然の事で、緊急事態にも関わらず変な声が出てしまう。
どういう事だ。じいさんの魔法といや、素早さ重視の身体能力強化だったはず。今はどう見ても20代の若い男に変化している。
「最近新たな極致に到達してなぁ! 時間は短いが、全盛期の年齢に戻れるのさ! じゃ、ちょっと片付けてくりゃあ!」
そう言うとじいさん……いや、ハギリさんは二階席から一階に目掛けて跳んでいった。
そういや誰かが最近、じいさんの魔法が新たな極致に至ったとか話していた様な気がするが……まぁ話は後で聞こう。今はまだ敵の狙いが分からない。俺はこのままエルヴァールを護衛だ。
■
リーンハルトは突如現れた獣の怪物を前に、思考が停止していた。初めて見る人の死を前に、呆然としてしまう。
「きゃあああああ!!」
「た、助けてくれえぇぇ!」
だがどこかからか飛んで来た血が顔にかかった時。自分の使命を思い出した。
「……! や、やめろぉぉおお!!」
リーンハルトは剣を抜くと、勇気を振り絞って近くにいる獣に斬りかかる。
だが相手は巨体な上に人の動きはしない。これまで対人で訓練を積んで来たが、それらの経験が活かしにくい。しかしそれはここから退いて良い理由にはならなかった。
「おおおおおおお!!」
覚悟を決め、剣を果敢に振るう。だがリーンハルトの剣が届くよりも先に、獣は前足を横薙ぎに振るってきた。
「ぐっ!?」
とっさに剣で受けるが、筋力が違い過ぎる。リーンハルトは勢いよく地を転がった。
よく見ると、周囲には先輩の騎士たちも転がっている。中には息をしていないであろう者もいた。そして。
「きゃああああ!!」
さっきの獣が、女の子に視線を向けている。涎が垂れ、血が滴る口で何が行われるのか。想像するのは容易かった。
「う……あああああ!!」
リーンハルトは何も考えずに立ち上がると、大声を上げて獣に再び斬りかかる。なるべく自分に注意を向けておきたかった。
「ガルアアアアア!!」
再び獣の爪が迫る。だがこれを何とか剣で逸らす……と思ったが、やはり獣の筋力が強すぎて逸らしきれなかった。強い衝撃が全身を襲う。
「ぐ……! でも……!」
意地でも剣を手放さず、獣の足先に僅かに刃を食い込ませていく。だがそれに苛立ったのか、獣はリーンハルトの真上で口を大きく開けた。
(やられる……!? くそ……!)
おそらく自分の上半身を食いちぎるつもりだろう。鎧を着てはいるが、どこまで耐えられるか。
そして自分の死というものをぼんやりと意識し始めた時だった。
「破っ!!」
リーンハルトは頭から大量の血を浴びる。上を見ると獣は口先が切断されていた。
「……え?」
「はっはぁ! こんだけでかいと、切り刻みがいがあるってなぁ! 葉桐一刀流……! 真閃・裂空破ぁ!」
反りのある片刃の剣を振るう、若い男だった。帝都には多くの人種が住んでいるが、黒髪黒目というのも珍しいだろう。
だがリーンハルトはそんな男にただ一言。凄まじいという感想しか頭に浮かばなかった。
その一振りは獣の分厚い肉を簡単に切り落とし、あまりの素早さに獣も男を追いきれない。いや、リーンハルトの目でも見えない。
消えたと思えば一瞬で別の場所に姿を現し、確実に深手を負わせていく。あれだけどうしようもないと思っていた獣だったが、男の振るった剣撃により、とうとう床に沈んだ。
「さすがに一撃って訳にはいかねぇなぁ! だがこういう人外を相手にするのも悪かねぇ!」
「あ……あの……」
「おう坊主! お前、中々男を見せたな! 早くそっちのちびっ子を連れてここから離れろ!」
そう言うと男は姿を消した。だが既に別の獣の側まで移動しており、二匹目を仕留めにかかっている。リーンハルトは男に言われた通り、気絶した女の子を抱きかかえるとその場を後にした。
逃げ出す訳ではない。今、この子を守れるのは自分だけだと分かっているだけだ。それに自分ができる事は、こうして無事な人を避難させる事。獣を倒すのは、相応の力を持った者にだけ許される行為だ。
自分にはまだ、その舞台で剣を振るえるほどの力はない。
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