虹霞~僕らの命の音~

朱音

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消えない好きの理由

04

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 喉の奥に込み上げてきた塊を上手に呑み込めないまま、テーブルに戻ろうと振り返った時だった。
「……さっきの質問に対しての答えを聞いてないんだけど」
 いつの間にそこにいたのかは知らないけれど、非常に居心地が悪そうにしている時雨と目が合う。
 何かを言いたそうな顔で、でもこれ以上の言葉を発すると僕が拒絶すると予感しているようで。こんな彼は、僕が女だと知った直後くらいにしかお見掛けしたことがないや。
 テーブルに広げている何冊もの魔法学の本を確認したでしょう? 君に思い出してもらいたくて努力しているのに、どうして応えてくれないんだよ。お願いだから早く思い出して。
 ……なんて、喉に引っかかっている本音を零したところで、何かが変わるわけじゃない。いっそ、僕も時雨についての記憶を無くしてしまいたいよ。そうすれば、こんな虚しい思いをしなくて済むのに。
「頼む、教えてくれよ。俺は本当に、お前に好きだと言ったのか?」
 はは、笑ってしまうね。記憶を失くしたって、しつこいのは変わらないんだ。僕が男を演じている理由を問い詰めた時も、答えるまで物言いたげな視線で追いかけて来たもんね。
 だけど、どうしてだろうね。ハルやおじいさんの言葉は信じるくせに、僕の言う『知らない』は信じてくれないんだね。
「あぁ、確かに惹かれているとは言われたよ」
 喉に何かが引っかかっているまま発すると、低くて掠れた声が出る。
「君はいつだって傍にいてくれた。それらの言動が好意に繋がるかと言われると、そうなのかもしれない。だけど」
 さっきまで怒りが唇を震わせたけれど、今は違う感情が昂って声までを道連れにして。鼻の奥がツンと痛くて、握った手の平には爪が深く刺さる。
「好きになった理由を問えば即答できないし、魔法が当たったくらいで簡単に僕のことを忘れるし。本当は好きじゃないんだよ」
 自分で発した確定情報に、我慢する間もなく溢れた涙。そうだ、時雨は僕のことを好きじゃない。好きじゃないんだ……。
 今までの全てが彼の勘違いから生まれた言動だったとしたら、もういっそ、何もかも無かったことにして。君の世界から、無力な魔術師を一人消してしまってよ。
 乱れた呼吸を整えたくて深呼吸を意識しているのに、しゃくりあげるだけになってしまう。溢れるばかりで一向に止まらない悲しみが鬱陶しい。
 手首で瞼を強く押せば涙を止められないかな。そう思って少しだけ宙に浮かした手首だったけれど、それを掴まれて――
「……放っておけないと思ったんだよ」
 濡れた頬に触れる真っ白な髪。背中に回された腕。そして、理解不能な発言。
 突然抱きしめられて、脳は思考停止する。そんな僕にお構いなしで彼の言葉は続く。
「男を演じて必死に強がってるけど、それは傷付かないための予防線なんだと分かったら放っておけなくてさ」
 声の音程は同じなのに、先ほどまで違って柔らかさを含んでいる。驚いて顔を上げると、よく知っている青い瞳とぶつかる視線。
「……何の話をしているのさ?」
「俺が六耀を好きになったきっかけだよ! 最初は気にかけていた程度だったけど、一緒にいる内に可愛いところとか無防備な面を知って、今やどっぷりと好きになりました」
 真剣なような、半分笑っているような、読み取るのが難しい表情を見せられて思わず瞬きをしてしまう。え、ちょっと待って。
「お、思い出したの……?」
「それはもう鮮明に。記憶を無くしている時のことも含め全部思い出したよ」
 どうして急に思い出したの。それに何を突然、好きの理由を語っているのさ。恥ずかしいじゃないか。
 色々と言いたいことがあるのに、頭が混乱して言葉を紡げない。いや、でも単純に喜べない。だって、記憶を失った彼からは本心が見えたもの。
 更に強く抱きしめられそうになったので、一生懸命腕を突っ張って拒否する努力をする。
「いや、君は僕を好きじゃないはずだ。ハルやおじいさんから、僕のことが好きだったと聞いて心底嫌そうな顔をしていたもの」
 まだ潤んでいるであろう瞳で思い切り睨みつけて、事実を突きつけてみたんだけど。困惑しきった顔で返って来た言葉はこんなものだった。
「あれは、六耀のことを男だと思っていたからだよ」
 少し呆気に取られてから、やけに納得してしまう。
 なるほど……。記憶を失ったから、僕の性別に関する情報もなくなっていた。と言うことは、時雨の記憶は元に戻って、更には好きだと言ってくれる気持ちは本物……?
 安心して、なのにどうしてかまだ少し残った切なさがもう一度涙腺を緩ませる。不細工な泣き顔を見られたくなくて、鎖骨辺りに何度か頭突きを食らわせて悪態をついてやる。
「深く反省してください」
「すみませんでした。六耀のことを忘れるなんて、我ながらあり得ない不覚でした」
 どちらかが敬語で話しかけると相手も敬語で返す。僕ら二人の間でだけ通用する変な流れがきちんと完成した。そんな些細なことで確証を得られて、これまでの緊張と頬が思い切り緩んでいくのを自覚する。
 涙のせいで熱くなってしまった瞳を俯かせた時だった。突然床が煌めいて――
「六耀ちゃん! 時雨の記憶を取り戻す方法を見つけたのよ!」
「記憶を失った対象者、つまり六耀の涙を見れば…………って、何をしているんだい?」
 空間転移の魔法で一瞬にして現れた妖華と月花。本当に一瞬の出来事だったので、時雨は腕を解く間さえなかったようだ。
 開眼した妖華に思い切り睨みつけられて、そっと時雨の影に隠れよう。
「あの、いや、違うんだ。感動の再会を果たして、つい高揚した故の抱擁であってだな!」
「ほう。すっかり思い出しているようだね。と言うことは六耀。時雨くんに泣かされたんだね?」
 にっこりと笑いながらも、一瞬でどす黒い空気を醸し出す妖華と月花に冷や汗が背中に伝う。これは……保身に走った方が賢明だな。
「うん、時雨に泣かされてさ」
「えぇっ!? 裏切りだろっ」
「六耀ちゃんを泣かせるなんて許せないわ! 時雨、覚悟なさいっ」
「さてと、もう一度記憶を失ってもらおうかな」
「ちょっと待て、左手に待機させてる魔法を消してから話し合おう。って、頼むから話を聞いてくれよ!」
 まるで猛獣のような凶悪な魔力を感じて逃げ出した時雨と、彼を追いかけて行った二人。
 ごめんね、時雨。だけどさ、僕を散々振り回したんだから、少しくらいはお仕置きを受けてね?

 いまだに少し残っていた涙を指先で拭って、散らかした本を棚に戻していく。全くもう、こんなにも色々と調べたのに記憶の取り戻し方は単純だったな。
 だけど、僕が泣き虫じゃなかったらどうなっていたんだろう? それに、時雨が僕を好きになってくれた理由は、強がっていると知ったからだと言っていたよね。……人の弱みに惹かれるなんて悪趣味だな。
「リクー? あ、いたいた。皆がすごい勢いで廊下を走っていったんだけど」
「もしかすると、時雨様の記憶が戻ったのでしょうか?」
「うん、そうみたい。だけど、どうして記憶が戻ったのか分からないんだよね」
 魔術師三人の鬼ごっこを目の当たりにしてやって来たんであろう、ハルと桜。小首を傾げながら、あたかも何にも知りませんと演技をしてみる。
 だってさ、真実を語るには僕が泣いたと言わなきゃいけないでしょう?
 すぐに涙腺が緩んでしまって、揺らぎやすい僕はさ、時雨の前にしか姿を見せないんだよ。と言うわけだから、君が僕を好きになってくれた理由も二人だけの内緒にしておこうね。
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