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ウィークエンド・ナイト・バタフライ
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くるりとマドラーで掻きまわすと、オレンジ色の底に沈む赤紫がゆらゆらと解けて溶けていく。すっかり混ざり合う頃には赤に変わった液体、赤色は一番好きな色だ。
今日の衣装もお気に入りの赤いドレスだった。これを着る時の昂汰は機嫌がいい、というのは店の中での通説で、何があったのかという好奇の目がくすぐったい。昨日はつい勢いで店を休んでしまったせいで興味もひとしおといった様子なのだ。
日曜日の早い時間帯はまだ客も多いが、夜半も近い時間になると客足もまばらでキャスト達も少しだけ気が抜けていた。この時間帯にやってくるのは客とはいっても同業の連中ばかりだ。もしくは人の出入りの少ない時間帯にだけフロアに出てくる櫻子を狙っての古くからのなじみの客か。どちらにしても気の置けなさが段違いだ。
「もう、びっくりしたわ。あの紅音ちゃんがいきなり今日休みますなんて」
「ええ、ちょっと色々ありまして……」
苦笑と共に煙草の灰を灰皿に落とす。結局あのあと、せめて今日くらいは一緒にいたいとごねる健斗に負けてバイトを休んだのが事の顛末だった。
事情が事情だから昂汰が休むことに関してはなにもペナルティなどはないのだが、珍しい事なのでとにかく驚かれた。休日出勤で夕方からになることはあれど休むことまではしない昂汰が、と体調でも悪いのかと心配をかけてしまった。その実態は痴話げんかの事後処理なのだからなんとも申し訳ない。
「まあ、働きすぎだからたまには休んだ方が良いとは思うんだけどね」
「ええと、好きでやってることなので。気にしないでください」
肩を竦めてみせる。昨日のことを人に話すと職場の飲み会の時並に体が縮こまってしまうだろう。
恋人とのデート中に勝手な思い込みで悋気を起こして逃走、セフレの男に保護された挙句に恋人にお仕置きされました。許してもらえた後はこれでもかというくらいに甘やかされて、甘えられて家を出ることができませんでした。と、淡々と事実だけ並べてみるが、こんなこと恥ずかしすぎて口に出すのは憚られる。色々と自業自得ではあるのだが自分の恥部を自ら曝け出すのは嫌だ。
「それにせっかく恋人ができたんだもの。彼との時間も大事にしないとね」
「そう……ですね、善処します。はい」
「ちょっと紅音ちゃん言葉遣いが勤め人みたいになってるわよ」
おかしそうに笑う櫻子と、隣に座していた櫻子とは旧知の仲であるというなじみ客も笑う。昂汰はやはり身を小さくしながら平伏しそうな勢いで首を忙しなく振った。完全に仕事中と変わりのない仕種だ。
「紅音ちゃんは普段は昼の仕事してるんだもんなあ、それも仕方ないか」
「うう……キャストとしてはダメなのは分かってるんですけど、こう自分の事を色々と指摘されるとつい出ちゃうみたいです」
「生真面目でかわいいわよね、どっちにもなれるの私からしたら羨ましいくらいなんだけど」
櫻子が不意に漏らした言葉に昂汰はきょとりと目を見開いた。
――櫻子が自分を、羨ましい?
この世界に君臨する絶対的女王のような彼女が自分のような平々凡々な人間を羨ましいと思っているだなんて、俄かには信じられなかった。
「え、どこがですか。むしろどっちつかずというか……」
「そうねえ、でもみんな無いものねだりだから。私なんかはずっとこっちの世界で生きてきたんだもの。昼間の世界でも生きられる紅音ちゃんのことが時々眩しく見える時があるのよね」
その感覚は、分からないでもなかった。昂汰にも覚えがある。
会社で何でもないふりをして過ごしている時にふと思う、こういう生活をして同性しか愛せない自分への後ろ暗さ。大多数の人間がなんの制約もなしに受け取っている幸福を自分は手にすることができない、家族だったり恋人だったりと過ごす幸福ですらどこかに嘘を交えなければ口にできないことがときどきどうしようもなく虚しく感じる。
「分かってるわ。紅音ちゃんには紅音ちゃんにしか分からない辛いことだってあるんだものね」
「そうですね。やっぱりこっちの方が水が合うから、昼間の世界に自分の居場所ってないんじゃないかって、どうしても思っちゃうんですよ。この人たちは自分とは違ういきものなんだって」
だったらいっそのこと全部捨ててしまえたらいいのに。それができないのはおそれでしかなかった。どうしたって自分が自分なりに今までに築き上げてきた世界をすっかり捨ててこちらの世界に逃げ出すことなんてできない。
「私は、染まりきらないのも強さだし、紅音ちゃんらしさだと思うってことは覚えておいてほしいわ」
「……はい」
そうして艶然と笑む櫻子には一生頭が上がらないし、一生届かない。けれどそれでいいのだ。櫻子は櫻子で、昂汰には昂汰の生き方がある。
健斗とのことだってそうだ。健斗には健斗の生き方がある。その人生の中で昂汰と寄り添いあって生きるという時間を持つと彼自身が選択して決めた。それを尊重してやればいいだけの事、彼を一人の人間として、そうして認めてやればいいだけのことなのだ。
でも、どうしても後ろめたくて仕方が無かった。やっぱり拒めばよかった、健斗はこっちの世界なんて知らなくて良かったのに、という自分勝手な気持ち。
光の中に生きる美しい生物を、土の下に引きずり込んでしまったような。そんな気持ちはどうしたら解決できるのだろうか。
「――私もね、昔付き合ったことあるの。普通の男の子」
「うわ、やっぱ櫻子さんにはばれてる」
口元に手を当てる昂汰にいやねえ、と櫻子は軽く腕を叩く。
「思っちゃうわよね、この子の将来をおかしくしちゃうんじゃないかって」
「そこもばれてる……ほんと、もう隠し事できないなあ……」
手を額に当てて項垂れて見せた昂汰を見る櫻子の目は心なしか得意げだった。けれどその目は一瞬だけ寂しそうに、遠くを見るように細められる。
「けれどね紅音ちゃん、そういう後悔はやっぱり相手本人がするものだと思うの。相手の子があなたのことをちゃんと愛しているならそれにちゃんと応えてあげて」
そうして櫻子はふと唇を綻ばせて昂汰の頬に触れる。その指先のしなやかさに思わず胸がどきりと脈打つ。昂汰でさえこうなのだから、並の男ではたまったものではないのだろう。
「好きな人に好きって言ってもらえるの、私たちじゃなかなか天文学的確率なんだから胸張って愛されなさい」
「う、あう……櫻子さん……」
どうしよう、なんだか泣き出しそうだ。こんな自分を受け入れてくれた健斗のことが好きだとみんなに言って回りたい。自分の事を一番に祝福してくれるだろうこの優しい空間が何よりも大切だ。
ぎゅっと膝の上に乗せた手のひらを握って昂汰は顔を持ち上げる。下なんて向いてしまったら本当に涙が零れてしまいそうだったから。
「櫻子さん、お話があります」
「あら、なあに?もしかして寿退職?それにはまだちょっと早計すぎるんじゃない」
悪戯っぽく唇の端を持ち上げる櫻子に昂汰も思わず笑みが零れた。違いますよ、と返してから息を吸い込む。
「とりあえず、健斗……恋人が大学卒業するまではバイトとしてお世話になります。もしそれまでに彼の気持ちが変わらないようなら」
「変わらないようなら?」
「この道で生きていこうと考えてます」
「本当に、いいの?」
先程まで穏やかに笑んでいた櫻子の瞳が一瞬、剣呑に閃いた。問うているのだ、昂汰の覚悟を。
「――はい。彼も、了承しています。この姿が、一番いきいきしてるなら。一番好きな方に進むのがいいって、そうして生きるべきなんじゃないかって。そんな風に笑ってる顔が一番好きだって言ってくれて」
「彼がそう言うから、そうするの?」
はは、と昂汰の口から乾いた声が漏れる。それは肯定というよりかは自嘲に近いものがあった。
「そうじゃないです。元々やっぱりああいうの、向いてないのかなあって思ってたのもあって。でも、やっぱりまだどこか諦め、って言ったら悪いか。希望、持ってるんです。あいつが離れてくかもしれない、そんな未来にほんの少しだけ期待してる」
「……往生際が悪いのね」
金銭的な不安だけじゃない。それまで健斗がこの関係に、昂汰の生き方に耐えられるのか昂汰は試すつもりでいる。どうあってもやはり自分は性根が悪くて、未来を見据えて保険をかけていない時が済まないのだ。器が矮小だと言われても知ったことか。自分はそういういきものなのだと開き直ることにしてしまったのだ。
健斗には、そのこと含めて了承されている。口だけじゃないことを証明してやると息巻く彼が稚くて、愛おしくて。そしてもし、本当に学生を卒業するまでに彼が自分との関係を続けるのが難しいと彼が判断したのなら笑って手を離そう。
そう、決めたのだ。
「若い子の本気、舐めてると痛い目見るわよ?」
「もう結構見てます。でもやっぱり、あいつにはもっと考える時間が必要だと思うんです。好きって気持ちだけで突っ走れなくなることも、ちゃんと学んでほしいから」
「そうね、それもまた愛よね」
頷いて昂汰は立ち上がる。昂汰には明日からも昼の世界の仕事が待っている。そろそろ上がらないと、明日がきつい。
「とにかく、なにがあってもここはあなたの居場所だからね、紅音ちゃん」
「はい。ここに帰ってくると本当に安心します。これからもよろしくお願いします」
一礼して他のキャスト達にあいさつしながらバックヤードに下がる。私服に着替え、メイクを落とす。今まではどこか気が重かった日常へと戻るための動作が、なぜか今日はすんなりと行えた。
荷物を持って従業員用の裏口を開けると、ぽつねんと突っ立っている健斗の姿が目に入って、昂汰は自分が自然と笑っていることに気がついた。今日は彼も夕方からバイトのシフトが入っていたのだ。どうせなら一緒に帰ろう、と出かけに約束してみたらやけに上機嫌だったのを思い出す。
「お疲れ、昂汰。……ちょっと遅くない?」
「ありがとう、健斗。うーん、ちょっと話し込んでた」
「……よっぽど入ってやろうかと思った」
「それはダメ。健斗にはまだちょっと早い」
首を横に振ると見る間に健斗の顔が不機嫌そうに顰められる。そういうところが子どもなのだ。だからまだ子ども扱いをする。
「なんだよ、それ。あっという間に大人になってやるからな!」
「はいはい。楽しみにしてます」
おどけたように返して、帰り道に一歩踏み出す。本当は健斗の美貌に他のキャスト達が釣られて大騒ぎになることうけあいだから店には入れたくない、というのが本音であるがこれはずっと黙っていよう。健斗は褒められすぎると気持ちが大きくなって調子に乗りやすいきらいがある。
「昂汰、はい」
「ん?なに」
ずいっと手を差し出されて疑問符が浮かぶ。にもかかわらず健斗はというとん、ともう一度手を突き出した。
「手、つなご」
「えっなんで」
「人あんまりいないじゃん。だからそういう時くらいいいでしょ。ね?」
少し下の目線から見上げられてのおねだり。昂汰はすこぶるこれに弱い。
「……人来たらすぐ離すから」
「でも俺は離さないよ?」
ずっとね、と囁く声にさあっと耳が赤くなる。本当に、どうしてこんな子に育ってしまったのだろうか。計り知れない若者の未来にくらくらと目眩がしそうになりながら、昂汰は健斗のてのひらの温もりを大事に握りしめた。
完
今日の衣装もお気に入りの赤いドレスだった。これを着る時の昂汰は機嫌がいい、というのは店の中での通説で、何があったのかという好奇の目がくすぐったい。昨日はつい勢いで店を休んでしまったせいで興味もひとしおといった様子なのだ。
日曜日の早い時間帯はまだ客も多いが、夜半も近い時間になると客足もまばらでキャスト達も少しだけ気が抜けていた。この時間帯にやってくるのは客とはいっても同業の連中ばかりだ。もしくは人の出入りの少ない時間帯にだけフロアに出てくる櫻子を狙っての古くからのなじみの客か。どちらにしても気の置けなさが段違いだ。
「もう、びっくりしたわ。あの紅音ちゃんがいきなり今日休みますなんて」
「ええ、ちょっと色々ありまして……」
苦笑と共に煙草の灰を灰皿に落とす。結局あのあと、せめて今日くらいは一緒にいたいとごねる健斗に負けてバイトを休んだのが事の顛末だった。
事情が事情だから昂汰が休むことに関してはなにもペナルティなどはないのだが、珍しい事なのでとにかく驚かれた。休日出勤で夕方からになることはあれど休むことまではしない昂汰が、と体調でも悪いのかと心配をかけてしまった。その実態は痴話げんかの事後処理なのだからなんとも申し訳ない。
「まあ、働きすぎだからたまには休んだ方が良いとは思うんだけどね」
「ええと、好きでやってることなので。気にしないでください」
肩を竦めてみせる。昨日のことを人に話すと職場の飲み会の時並に体が縮こまってしまうだろう。
恋人とのデート中に勝手な思い込みで悋気を起こして逃走、セフレの男に保護された挙句に恋人にお仕置きされました。許してもらえた後はこれでもかというくらいに甘やかされて、甘えられて家を出ることができませんでした。と、淡々と事実だけ並べてみるが、こんなこと恥ずかしすぎて口に出すのは憚られる。色々と自業自得ではあるのだが自分の恥部を自ら曝け出すのは嫌だ。
「それにせっかく恋人ができたんだもの。彼との時間も大事にしないとね」
「そう……ですね、善処します。はい」
「ちょっと紅音ちゃん言葉遣いが勤め人みたいになってるわよ」
おかしそうに笑う櫻子と、隣に座していた櫻子とは旧知の仲であるというなじみ客も笑う。昂汰はやはり身を小さくしながら平伏しそうな勢いで首を忙しなく振った。完全に仕事中と変わりのない仕種だ。
「紅音ちゃんは普段は昼の仕事してるんだもんなあ、それも仕方ないか」
「うう……キャストとしてはダメなのは分かってるんですけど、こう自分の事を色々と指摘されるとつい出ちゃうみたいです」
「生真面目でかわいいわよね、どっちにもなれるの私からしたら羨ましいくらいなんだけど」
櫻子が不意に漏らした言葉に昂汰はきょとりと目を見開いた。
――櫻子が自分を、羨ましい?
この世界に君臨する絶対的女王のような彼女が自分のような平々凡々な人間を羨ましいと思っているだなんて、俄かには信じられなかった。
「え、どこがですか。むしろどっちつかずというか……」
「そうねえ、でもみんな無いものねだりだから。私なんかはずっとこっちの世界で生きてきたんだもの。昼間の世界でも生きられる紅音ちゃんのことが時々眩しく見える時があるのよね」
その感覚は、分からないでもなかった。昂汰にも覚えがある。
会社で何でもないふりをして過ごしている時にふと思う、こういう生活をして同性しか愛せない自分への後ろ暗さ。大多数の人間がなんの制約もなしに受け取っている幸福を自分は手にすることができない、家族だったり恋人だったりと過ごす幸福ですらどこかに嘘を交えなければ口にできないことがときどきどうしようもなく虚しく感じる。
「分かってるわ。紅音ちゃんには紅音ちゃんにしか分からない辛いことだってあるんだものね」
「そうですね。やっぱりこっちの方が水が合うから、昼間の世界に自分の居場所ってないんじゃないかって、どうしても思っちゃうんですよ。この人たちは自分とは違ういきものなんだって」
だったらいっそのこと全部捨ててしまえたらいいのに。それができないのはおそれでしかなかった。どうしたって自分が自分なりに今までに築き上げてきた世界をすっかり捨ててこちらの世界に逃げ出すことなんてできない。
「私は、染まりきらないのも強さだし、紅音ちゃんらしさだと思うってことは覚えておいてほしいわ」
「……はい」
そうして艶然と笑む櫻子には一生頭が上がらないし、一生届かない。けれどそれでいいのだ。櫻子は櫻子で、昂汰には昂汰の生き方がある。
健斗とのことだってそうだ。健斗には健斗の生き方がある。その人生の中で昂汰と寄り添いあって生きるという時間を持つと彼自身が選択して決めた。それを尊重してやればいいだけの事、彼を一人の人間として、そうして認めてやればいいだけのことなのだ。
でも、どうしても後ろめたくて仕方が無かった。やっぱり拒めばよかった、健斗はこっちの世界なんて知らなくて良かったのに、という自分勝手な気持ち。
光の中に生きる美しい生物を、土の下に引きずり込んでしまったような。そんな気持ちはどうしたら解決できるのだろうか。
「――私もね、昔付き合ったことあるの。普通の男の子」
「うわ、やっぱ櫻子さんにはばれてる」
口元に手を当てる昂汰にいやねえ、と櫻子は軽く腕を叩く。
「思っちゃうわよね、この子の将来をおかしくしちゃうんじゃないかって」
「そこもばれてる……ほんと、もう隠し事できないなあ……」
手を額に当てて項垂れて見せた昂汰を見る櫻子の目は心なしか得意げだった。けれどその目は一瞬だけ寂しそうに、遠くを見るように細められる。
「けれどね紅音ちゃん、そういう後悔はやっぱり相手本人がするものだと思うの。相手の子があなたのことをちゃんと愛しているならそれにちゃんと応えてあげて」
そうして櫻子はふと唇を綻ばせて昂汰の頬に触れる。その指先のしなやかさに思わず胸がどきりと脈打つ。昂汰でさえこうなのだから、並の男ではたまったものではないのだろう。
「好きな人に好きって言ってもらえるの、私たちじゃなかなか天文学的確率なんだから胸張って愛されなさい」
「う、あう……櫻子さん……」
どうしよう、なんだか泣き出しそうだ。こんな自分を受け入れてくれた健斗のことが好きだとみんなに言って回りたい。自分の事を一番に祝福してくれるだろうこの優しい空間が何よりも大切だ。
ぎゅっと膝の上に乗せた手のひらを握って昂汰は顔を持ち上げる。下なんて向いてしまったら本当に涙が零れてしまいそうだったから。
「櫻子さん、お話があります」
「あら、なあに?もしかして寿退職?それにはまだちょっと早計すぎるんじゃない」
悪戯っぽく唇の端を持ち上げる櫻子に昂汰も思わず笑みが零れた。違いますよ、と返してから息を吸い込む。
「とりあえず、健斗……恋人が大学卒業するまではバイトとしてお世話になります。もしそれまでに彼の気持ちが変わらないようなら」
「変わらないようなら?」
「この道で生きていこうと考えてます」
「本当に、いいの?」
先程まで穏やかに笑んでいた櫻子の瞳が一瞬、剣呑に閃いた。問うているのだ、昂汰の覚悟を。
「――はい。彼も、了承しています。この姿が、一番いきいきしてるなら。一番好きな方に進むのがいいって、そうして生きるべきなんじゃないかって。そんな風に笑ってる顔が一番好きだって言ってくれて」
「彼がそう言うから、そうするの?」
はは、と昂汰の口から乾いた声が漏れる。それは肯定というよりかは自嘲に近いものがあった。
「そうじゃないです。元々やっぱりああいうの、向いてないのかなあって思ってたのもあって。でも、やっぱりまだどこか諦め、って言ったら悪いか。希望、持ってるんです。あいつが離れてくかもしれない、そんな未来にほんの少しだけ期待してる」
「……往生際が悪いのね」
金銭的な不安だけじゃない。それまで健斗がこの関係に、昂汰の生き方に耐えられるのか昂汰は試すつもりでいる。どうあってもやはり自分は性根が悪くて、未来を見据えて保険をかけていない時が済まないのだ。器が矮小だと言われても知ったことか。自分はそういういきものなのだと開き直ることにしてしまったのだ。
健斗には、そのこと含めて了承されている。口だけじゃないことを証明してやると息巻く彼が稚くて、愛おしくて。そしてもし、本当に学生を卒業するまでに彼が自分との関係を続けるのが難しいと彼が判断したのなら笑って手を離そう。
そう、決めたのだ。
「若い子の本気、舐めてると痛い目見るわよ?」
「もう結構見てます。でもやっぱり、あいつにはもっと考える時間が必要だと思うんです。好きって気持ちだけで突っ走れなくなることも、ちゃんと学んでほしいから」
「そうね、それもまた愛よね」
頷いて昂汰は立ち上がる。昂汰には明日からも昼の世界の仕事が待っている。そろそろ上がらないと、明日がきつい。
「とにかく、なにがあってもここはあなたの居場所だからね、紅音ちゃん」
「はい。ここに帰ってくると本当に安心します。これからもよろしくお願いします」
一礼して他のキャスト達にあいさつしながらバックヤードに下がる。私服に着替え、メイクを落とす。今まではどこか気が重かった日常へと戻るための動作が、なぜか今日はすんなりと行えた。
荷物を持って従業員用の裏口を開けると、ぽつねんと突っ立っている健斗の姿が目に入って、昂汰は自分が自然と笑っていることに気がついた。今日は彼も夕方からバイトのシフトが入っていたのだ。どうせなら一緒に帰ろう、と出かけに約束してみたらやけに上機嫌だったのを思い出す。
「お疲れ、昂汰。……ちょっと遅くない?」
「ありがとう、健斗。うーん、ちょっと話し込んでた」
「……よっぽど入ってやろうかと思った」
「それはダメ。健斗にはまだちょっと早い」
首を横に振ると見る間に健斗の顔が不機嫌そうに顰められる。そういうところが子どもなのだ。だからまだ子ども扱いをする。
「なんだよ、それ。あっという間に大人になってやるからな!」
「はいはい。楽しみにしてます」
おどけたように返して、帰り道に一歩踏み出す。本当は健斗の美貌に他のキャスト達が釣られて大騒ぎになることうけあいだから店には入れたくない、というのが本音であるがこれはずっと黙っていよう。健斗は褒められすぎると気持ちが大きくなって調子に乗りやすいきらいがある。
「昂汰、はい」
「ん?なに」
ずいっと手を差し出されて疑問符が浮かぶ。にもかかわらず健斗はというとん、ともう一度手を突き出した。
「手、つなご」
「えっなんで」
「人あんまりいないじゃん。だからそういう時くらいいいでしょ。ね?」
少し下の目線から見上げられてのおねだり。昂汰はすこぶるこれに弱い。
「……人来たらすぐ離すから」
「でも俺は離さないよ?」
ずっとね、と囁く声にさあっと耳が赤くなる。本当に、どうしてこんな子に育ってしまったのだろうか。計り知れない若者の未来にくらくらと目眩がしそうになりながら、昂汰は健斗のてのひらの温もりを大事に握りしめた。
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