悲猫

金魚鉢の淵

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猫は猫

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 猫は彼の奏でる一音一音を聴くことが好きだった。どんなに美しい音色さえも猫には響くことなく、どんな雑踏でも猫は彼の姿に模した音を探し出した。猫は彼からのメッセージの音が好きだった。精神安定剤であった。それほどまでに猫は彼に心酔していた。

 初めの頃、猫は彼に懐かなかった。彼はとても優しく猫はその優しさを疑うことしかできなかった。猫は怖かったのだ。臆病だったのだ。臆病な者は他人からの優しさや幸せを受け取ることさえ躊躇い、自分にはそんなものなど必要ないと思い込ませ、自分は強いと錯覚するのだ。そうやって生きてきた猫は餌が確実に用意されている時だけ寄っていき、その他は興味のない素振りを見せた。そうすることが自分を護るための唯一の手段であったのだ。
 
 しかしそんな頑固な猫も彼の優しさに心が揺らぐことがあった。彼はとても素直だったのだ。猫はひどく驚いた。隠すことを知らない彼の言動は、ずっと気持ちを隠してきた猫に衝撃と勇気と安心感を与え、猫は少しずつ彼に近づいていってしまったのだ。

 それが間違いであった。いや、間違いだったかもしれない、苦しいかもしれない、忘れてしまいたいと猫が気づいた時には彼の奏でる音にしか耳も目も心も受け付けなくなっていた。うっかり恋なんてしまったのだ。こんなもの猫の柄ではない。しまった、なぜだ、いつからだ!そして猫は猫であることを忘れ、ただ時間を浪費した。彼は自分だけではなく、他の人間にも優しいと気づいた時は無気力になり夜の風に打たれながら涙した。猫は猫であることを悔いた。春が来るというのに風邪は妙に冷たく、桜は美しいのに早く散ってしまえと呟き、届かない桜の木にただ不貞腐れて見上げることしかできない猫なのであった。
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