妖怪オリジナリティ 私と先生と不思議な怪異

神宮要

文字の大きさ
1 / 1

第一章

しおりを挟む
 夢の中で、私はかつての私を見ていた。
 あの日、私は学校をサボタージュして一人、何かから逃げていた。そう、『何か』から。私は何に襲われそうなのか、そしてどうして私なのかすら解らなかった。私が資産家の娘だから? それとも、この辺では名だたる有名な女子校に通っているから? いいや、違う。きっと私に罪はない。そもそもアレは人でない。なぜならあれは、もやもやとした影であり、猿であり、狸であり、虎であり、蛇であったからだ。あんなものが人であると、もしも皆が言うのなら、私が知っていた常識とは何だったのだろうと絶望するに違いない。私は最早、これからどこへ逃げれば良いのかすら解らなくなっていった。
「誰か……!」
 叫んでも、誰も来ない。この辺りは住宅街で人通りも多かった筈なのに、今は人の気配が全くない。住宅の窓にも、人の影すら映らない。恐ろしいほどの静寂が辺りを包んでいる。その中で私は、息を切らせて走っていた。だが、私は元々運動部でもない。寧ろインドアなこの体力がいつまでも保つ筈はなく、限界を迎えようとしていた。
 何の限界? きっと、命の。そんなことを考えながら、私は袋小路に入り込んでいたらしい。とうとうやってきた、私の終わり。ああ、私の人生はここまでかと諦めの表情で振り返る。相変わらず姿をまともに視認出来ない――いや、何かが、私を追い詰める。姿は解らなくとも、私には相手の感情が手に取るように解った。やっと、追い詰めた。もう後は、好きにするだけだと。
 諦める。いや、本当は諦めたくなんてない。自殺志願者でもない限り、好き好んで死にたい人間など中々いないだろう。けれど、ふと考えてしまった。私がこれ、、から生き延びたとして、これから先何をすれば良いのだろう。私には、正直なところ何でもあった。金も、容姿の良さも、学業の成績も、資産家の娘という肩書きも何もかも。でもそれらは私にとってただのステータスであり、生きがいではなかった。人生を軸とした目標は何もない。それに、死の間際でようやく思い至ったことに、私は苦笑してしまった。
「ああ、私」
 ぽつりと呟く。こんなことなら、私。
「恋のひとつでもすれば良かった」
 思い返してみれば、それだけが心残りといえば、そうかもしれない。告白されることは多々あれど、男性たち――時折女性もいたが――は、私の向こう側を見ていたように思えた。私ではなく、その後ろにある、何かを。だから私は全部断ってきたし、逆に誰か好きな人を見つけようとすることもなかった。もしも好きな人が出来たとして、その誰かも、私の向こう側を見る人だったら、きっと絶望してしまうから。
 影が飛びかかってくる。狙いすまされた一撃が、私に降りかかる。ゆっくりと私は目を閉じた。襲い来るであろう痛みが、どうか一瞬であれと願いながら。
 しかし――
「そうか、君は『持たざるもの』か」
 男の声が聞こえ、そして。
 ――私を殺そうとしていた影の、その胴体であろう部分から、何かの矢が突き出していた。
 甲高い声が響き渡る。悲鳴。絶叫。咆哮。そのどれでもあって、どれでもないような、そんな音が辺りに蔓延し、そうしてそれが薄れて消えた後、残ったのは傷ひとつない私と、それから。
「はじめまして。助けは不要だったかな?」
 そんな皮肉を込めた言葉を投げかけた男。私は、まるで矢をぽんと投げたような格好で何事もなくこちらに語りかけてくる長身を見上げる。それが、偏屈で、頑固で、面倒な人間、神咒かんのういたるとの出会いだった。

*****

「ごきげんよう、深津さん」
「ええ、ごきげんよう」
 そんなルーティンじみた会話を今日も口にしながら、私はにっこりと貼り付けた笑顔を浮かべその場を後にする。私からしてみれば、この学園は檻だ。何とはなしにそう思う。息苦しくて、狭苦しい。少なくとも、自由という言葉からは程遠い場所だろう。
「深津さん、ちょっといいかしら」
 ふと呼び止められ、振り返る。同じクラスの少女が、少し俯きがちにこちらを伺いながら言葉を続ける。
「あの、今日みんなで駅前のカフェに行くんだけれど。もし良かったら深津さんも一緒にと思って……」
「そうなの」
 正直言って、私はこういった誘いが得意ではない。カフェで繰り広げられるのは、誰かの悪口と同調圧力と、そんな重苦しいものばかりだ。他のみんなはどう思っているのかは知らないが、私個人としては毎回ご遠慮したいのが本音だ。しかしそれはそれで後々困ることになるのは事実であり、悩ましい。そんな浅はかな考えをしている自分が、酷くいやらしいと解っていながらも、それを止めることは出来なかった――今までは。
「ごめんなさい、今日はご遠慮させて下さいな」
 私の言葉に、少女は少し驚いたようだった。
「え、深津さん、この間も……」
「ええ、本当にごめんなさい。でも最近、少し用事が出来てしまって」
「用事って、どんな?」
 彼女の解りやすい落胆と、少しの失望と、それからほんの少しの興味が手に取るように解る。それに悪戯っぽくウィンクを返しながら、私は彼女に背を向けた。
「借金取りのようなものよ」


 その研究所は、学園近くの駅から少し歩いたところに存在する。蔦がびっしりと生えたビルは三階建てになっており、一階はコーヒー専門のカフェになっている。正直なところ、私は今まで紅茶党だったのだが、ここのコーヒーならば飲めるという逸品だ。そして二階はなぜかフロアごと空いており、三階にその研究所はひっそりと外看板も設置せずに存在している。いや、看板を設置したところで近隣住民の皆さんに困惑を与えるだろうから、そこはまだ『人間』に配慮しているというべきか――ともかく、私はカフェの店主に少しだけ挨拶をし、目的の人物がいるかどうか尋ねた。毎度のことながら外出した形跡はないとのことで、有難く礼を言い、古びた階段を上がっていく。一歩一歩、今日こそは、という思いで上がった先に、目的の扉が見えた。
『怪異研究所』
 これもまた古い扉に刻まれたのは、間違いなくその言葉だった。本気でこんなことをしているのか、と最初は呆れたものだったが、今では違う。あの人は呆れるくらい、本気なのだ。『怪異』というものについて。
 私は少し深呼吸をし、それからぐっと扉のノブを握る。そうして――
「至先生! 今日こそ、受け取ってもらいますからね!」
 扉を開け放つと同時に私はそう叫んで、この部屋の主を視線で探した。この部屋は、『怪異』にまつわるものだけでなく、研究所の主の趣味で、よく解らないホルマリン漬けの瓶が置いてあったり、蝶の標本が無造作に放置されたりしている。多分希少価値の高い品々だと思うのだが、この埃っぽい部屋の中に置かれているというだけで、その価値はぐんと下がってしまっていることだろう。実に勿体ない。
 そして件の男は、これまたアンティークなソファーにぼんやりと座って、何かを調べているようだった。古書だろうか、それをぱらりぱらと骨ばった指で捲りながら、ふいにこちらへ問いかけてきた。
「夢見くん。君は心霊現象というものを信じるかね?」
「え……心霊現象、ですか」
 開口一番、唐突に問われたその言葉が、私は少し不思議に感じる。私の知っているこの男は少なくとも、幽霊は研究していなかった筈なのだが。
「心霊現象って例えば、心霊写真、とかですか? まあ夏にそんな特集番組がありましたけれど、信じるか信じないか、で言えば微妙なところですね」
 先日ちらりと見たその番組は、明らかに合成なものが多く比較的チープな作りではあったのだが、その中にも合成に見えないような、惹かれるものも無くはなかった。
「写真の中に青い光みたいな……オーブって言うんでしたっけ、あれが写っていたのは少し興味がありましたけれど」
「うん、正にそれだ」
 男は、至先生は、そこでようやく本を閉じ、こちらの目を見た。
「そう、心霊学者というものもこの世界には沢山いてね。知り合いにもそういった男がいるのだが、よく議論になるのだよ。果たしてその『オーブ』と呼ばれるものが、心霊的なものなのか――或いは、怪異的なものなのかと」
「怪異的? オーブが、ですか?」
 特に私も詳しい訳ではないが、その内容には妙に引っかかるところがあった。確か、番組内ではオーブといったものは例えば人の魂だったり、意識体だったりとそんな説明だったのだが。
「ところで君は、化け狐は知っているかね? 九尾の狐だとか」
「あ、はい知っています。物語の中で時たま見ます」
「それは何より。まあ狐でなくても妖怪が現れる時には発生すると言われるのだが――それでは、狐火、もしくは鬼火、という言葉に心当たりは?」
「それも、何となく……もしかして、オーブとは狐火かもしれない、と。先生はそう言うのですか?」
 男は満足そうに頷き、それから『講義』を始める。
「そう、鬼火とはこれもまた広範囲に定義があるのだよ。死んだ人間の魂であったりだとか、人間の怨念が火の玉となって現れたりだとか。また、呼び方も各地方で違っていて、『遊火』やら『影火』と呼ばれる場合もある。夢見くんの知っている狐火は、ほぼ日本全国で知れ渡っていて非常に有名だろう。細かいことを言えば狐火は一般的に鬼火とは違うとされているのが通常だが、つまりはそういうことだ。写真に写る青い光というのは、実はオーブという心霊的なものではなく、妖怪による怪異のせいかもしれない、という話を僕は非常に推している。そう考えると、写真の中に写った人間が、次の瞬間何かに襲われるとするならば。もしかしたら霊ではなく、妖怪、もしくはそれらが起こす怪異かもしれない。胸が躍るとは思わないか?」
「先生……」
 私はすっかり頭を抱えてしまった。途中までは良い話だった。そう、終盤までは。しかしこの男の悪いところ――怪異の研究のためならば、誰かを少しぐらい犠牲にしても良いだろうというような思いが、隠されず、むしろ堂々と宣言されており、この研究マニアを何とかせねばという思いが溢れ出てくる。ダメ人間とはまさにこの男のために用意された言葉だと、改めて思い知らされた気分だ。

 ……そう、私の時もそうだった。今日見た夢を振り返る。あれは実際に起こった出来事だ。何か謎の物体に襲われて、死にそうになった所をこの男に救われた。だが実際のところは少し違う。
『君は、鵺も知らないのか』
 呆然と座り込んだ私に、どこか呆れたようにかけられた言葉。ぬえ。そんなことを言われても。転がり落ちた矢を拾い上げ、男は朗々と語り始めたのだ。
『猿の顔、狸の体、虎の手足、そして尾っぽは蛇。正体不明の代名詞とも言われているその妖怪は、古くは平家物語の中にも登場している。平安時代の天皇が恐れおののいたのをきっかけに、源頼政が弓矢でもって退治した。なればこそ、この妖怪の唯一の弱点は弓矢であり、こうして君を救うことが出来たわけだ』
『ええっと……』
 私は混乱した。どうやら私は鵺と呼ばれるものに襲われ、そしてこの男に救われた。それはどうやら間違いではなさそうだ。私はようやく震える膝に叱咤して立ち上がり、男に礼を言おうとした――その時だった。
『全く……君のせいで研究が台無しだ』
 台無し? 何が? 研究とは?
『鵺といえば本当に珍しく、少なくとも関東圏に発見例はほぼ無い。姿を現すことすら稀だ。捕獲して詳細に調べようと思ったのだが、君が袋小路なんぞに策もなく入っていくとは思わなかった。『妖怪退治』は僕の専門ではないというのに……どうしてくれるんだね』
『――え?』
 つまり私は囮だったのか? その発想に至るまでに、たっぷり三十秒はかかっただろうか。それを理解した時、この男のある種の異常さに気付いてしまった。この男は、人間よりも妖怪を優先して行動する非人間だと。
『全く、貴重な時間を無駄にしてしまった。君も早く帰りなさい。今ならば……』
『ちょ、ちょっと待ってください!』
 私は、それでも救われた恩という名目で男を呼び止めた。気だるげに振り返る男に、私は思わず、はっとした。
 銀の、多分背中まであるであろう髪をゆるりとひとつに束ねたそれが風で揺らめく。黒いコートはこの夏に似合わず暑そうであるのに、汗一つかいていない。白く骨ばった指が、先ほどの矢を持っている。それは、どこか幻想的で、非現実的なように思えた。こちらを訝しげに見るその蒼い瞳に、私は一瞬言葉を失った。
『何だね。私はこれでも研究に勤しんでいるんだ。用がないならば帰るまでだが』
 ぼうっと見ていた私にかけられた言葉に少しの苛立ちが混じっているのにようやく気付き、私は慌てて男に駆け寄った。
『その、本当に有難うございます。助けられたのは事実ですので……お礼などさせて頂きたく』
『結構だ』
『え?』
 私は、思わずまた疑問符を言葉にしてしまう。先ほどから、この男と会話をしていると、疑問しか浮かばない。
『金や物に興味はない。そして言葉だけの感謝など最も興味がない』
『えっと、いや……言葉だけではなく、純粋に感謝と、それから謝礼を……』
『僕が興味あるのは妖怪と、それにまつわる怪異だけだ。それ以外に何も欲しくはない。研究所にこもっているのが一番だ』
『そんな事を言わず……私、お金には困っていないんです。受け取って貰えないと、私の気が済みません』
『今どきの学生というのは皆こうなのか? 自ら金に困っていないと言う学生というものを、僕は初めて知ったが』
『事実ですので……と、とにかく今は手持ちが余り無いですが、家に帰ればありますのでどうか』
『いらん』
『そこをなんとか』
『いらんと言っているだろうが』
 すたすたと歩きだすその男に付きまといながら、私はどうにか謝礼だけでも受け取ってほしいと何度も訴える。私は、受けた恩は必ず返す主義だ。与えられっぱなしは性に合わない。いらん、いらんと言い続ける男に、私の頭の中で、どこかがぷっつんと切れてしまった。
『いいから、絶対に謝礼を受けとって下さい! それまで、毎日その研究所とやらに入り浸ってやりますからね!』

「そうですよ! 私は話の流れに惑わされませんからね。今日こそあの時の謝礼を受け取ってください!」
 少しの回想をして、私はようやくこの研究所に来た理由を思い出した。あれから研究所まで本当に一緒に行き、学校からそんなに離れていないことを確認し、それからほぼ毎日のように通い詰めては謝礼を受け取れと責め立てている。学園の子にはああ言ったが、実際のところ『逆借金取り』とでも言えばよかったのだろうか? 何せ、借金――恩があるのは、一方的にこちら側だけなのだから。
「と言いつつ、しっかり話の流れに乗っていたではないか」
「う」
 否定のできないその指摘に、私は思わずぎくりとしてしまった。私は元々妖怪だの怪異だのに全く興味も無かったし、信じてもいなかった。だが、実際に襲われて、助けられて、それから研究所に来るたびに毎回のように行われる『講義』に、なるほどと頷いてしまうのは本当のことだった。
「大体、君はおかしいとは思わないのかね。自ら謝礼を払おうと毎日のようにここへ足しげく通う自らの愚かさというものを」
 至先生はそう、ため息を吐きながら、持っていた本を近くのテーブルに放り投げた。本が着地するその際に埃が舞い散る様を横目に見ながら、私は必死に訴える。
「私は与えられるだけでは気が済まないんですと何度も言っているでしょう、先生」
「その、先生という呼び方もどうにかならんのか。僕は君の先生になった覚えはない」
「ならば、なぜ毎回妖怪や怪異について講義をしてくれるのです?」
「それも、前に言っただろう。君が『持たざるもの』だからだ」
 先生は、私のことをたまに、『持たざるもの』と呼ぶ。それは先生にとって、ある種の侮蔑の言葉だった。先生曰く、妖怪や怪異を見ることが出来たり、遭遇したりするくせに、そういったものに詳しくない人間であり、更に調べようともしない者がいる。それが先生にとっての『持たざるもの』であり、先生にとって最も苦手とする人間である、らしい。だからこそ、先生は隙あらば妖怪や怪異についての知識を私に植え付けようとするのだが、いかんせん、ぱっとこないというのが事実だった。
「でも結局鵺は倒せたからいいじゃないですか」
「倒したから問題なのだよ夢見くん。研究と討伐は違う。あれは僕が捕獲しようとして……ああ、もういい。僕は研究で忙しいんだ。帰ってくれたまえ」
「嫌です。今日こそ受け取って貰うんですからね、謝礼」
「学生からそんなに分厚い茶封筒を受け取ると思うのかね君は」
「多分、普通の人間なら両手をあげて喜んで受け取ると思いますよ」
 今日も今日とて学生鞄の中から厳重に封のされている茶封筒を出すと、先生はいかにも嫌そうな顔で、しっしと手を振った。私はといえば、いつも通り居座り続けますという意思表示で、先生の向かい側のソファーに座る。年代物であるとはいえ価値は高いのだろう。しっとりとした座り心地で、正直なところ私はこのソファーが気に入っている。そして何だかんだ言いつつ、下のカフェで購入したコーヒー豆を挽いてくれるのもまた、いつも通りの先生なのだった。


 先生の研究というのは、もちろんのこと妖怪や怪異についてなのだが、それでも特異だと言わざるを得ないのは、その内容だった。
『僕は、オリジナルの妖怪を見つけたいのだよ』と、そう言ったあの表情を、今でも鮮明に思い出せる。
 先生曰く、この世の中には多数の妖怪や怪異で溢れている。そしてその現象も多岐に渡り網羅されている。だが先生は求め続けている。それは例えば昆虫研究者が新しい虫を見つけるように。化学者が新たな元素を見つけ出すように。
 ――先生は、新種の『妖怪』を探し求めている。
 私の知る限り、そんな探求心を持つ人間は居なかった。だからこそ、少しだけ、その生き方に興味がある。それもまた、この研究室に入り浸るひとつの理由かもしれない――そう考えたところで首をゆるりと横に振る。いいや。私は思い直す。私は、あんな恐ろしい妖怪だの怪異だのにもう二度と関わりたくはない。私が、少なくとも妖怪を見ることが出来てしまうと知ったから、そしてそれに対処できるであろう人間が先生だから。……そもそも、礼をしたいだけだから。私は、何かの作業に没頭している先生の背を見ながらそう結論付けて、コーヒーを一口、飲み込んだ。

*****

 それは、突然のことだった。
「なんて簡単なことだったんだ」
 いつものように研究所に訪れ、至先生、と声をかけようとしたその時、何か大発見をしたかのように、先生はがたりとソファーから立ち上がった。
「そうか、そうだ、そうだったんだ。ああ、なんて簡単なことだったんだろう!」
「……先生?」
 私は恐る恐る、先生の名を呼ぶ。それに気づいた至先生は振り返ってこちらを見た――狂乱の笑みだった。
「夢見くん! 解ったのだよ。遂に解ったのだ! なければ作り上げればいい!」
「えっと……?」
 事情がさっぱり理解できない。だが、何となしに解る。これは――
「そう、私が、『新たな妖怪』となればいいんだ!」
 
 私は、妖怪も怪異も好きではない。関わりたくもない。だが先生は、まるで面白いことが目の前にあるかのように笑い続けている。よりにもよって、自らが『妖怪』に、『怪異』になればいいと言っている。それは、だめだ。
「先生、落ち着いてください! そんなの、先生が先生ではなくなってしまうのではないですか!?」
「いいや、素晴らしいことだよ夢見くん。妖怪になりたいと願い、そうして妖怪になれる。そうして様々な……新しい怪異を生み出すことが出来れば、それは私の願いそのものだ!」
 ははは、はははと先生は笑う。くるくると、踊り狂う。
 先生の願い。きっと、そうなのだろう。だが、それは何か違うような気がして……喉まで出かかっている言葉が、しかし何も出てこなかった。

 それからの先生は、私に対して一切無反応になってしまった。次の日には元に戻っているかもしれない、そんな淡い希望を抱いて研究所に赴いても、ただただ、荒れた部屋があるばかりで、先生といえば研究所の奥にある一つの扉――先生が書斎だと言っている場所だ――に引き籠もってしまい、出てこなくなった。いつも使われているソファはすっかり用なしになっているようで、微かに埃が積もっている。私は先生がひょっこり扉から出てきて、何事もなかったように私の名前を呼ぶのではないかと、先生の愛用のソファの対面に座って、夕方遅くまで待つ。そんな毎日を過ごしていた。
 このままではいけないと解ってはいるものの、対処法が解らない。私は精神科医でもないのだから、狂人を元に戻す方法など、持ち合わせていない。歯がゆい思いで日々を過ごすことになるなんて、予想もしていなかった。
 けれど考えてみれば、当たり前のことかもしれない。日常が、一気に非日常になってしまう。それを、私は一度体感したではないか。そしてそれが崩れ落ちていく様が、とても辛く恐ろしいことも、同時に理解している。私は、膝の上に乗せた両手をぎゅうと強く握りしめた。
 思えば、私が鵺に襲われてから数か月が経つ。あの時のじりじりとした茹だるような暑さはなりを潜め、涼しい風が窓の隙間から吹き抜けてくる。たったそれだけ。でも、私にとってはもうそんなに、だ。この不可思議で、非日常的で――それでも、少なくとも家や学園生活よりは少し、ほんの少しだけ愛おしいと感じられるこの場所が、いつの間にか私にとって温かな日常になっていたのだ。
 だから。
 このままじゃ、だめだ。


 先生が書斎に籠もるようになって、もう二週間が経とうとしていた。私はといえば何かをしなければならないと思いつつも、具体的な解決方法は見つからず、かといって無為に時間を潰す訳にもいかなかった。本来私は学業がすべきことであり、それをかつて先生は褒めてくれた。
『学業に熱心なのはいいことだ。満遍なく学ぶことで、それぞれに繋がっていき、新たな発見に繋がっていく』
 思い返せば、それが唯一、先生に褒められたことかもしれないと今更ながらに気付いてしまう。より一層、あの時の先生に戻ってほしいと思ってしまう。そう考えながら私は研究所一階のカフェでコーヒーを飲みながら宿題をこなしていた。このカフェはカウンター席しかなく、また五席ほどしかない。隠れた名店でもあるため、今日は私以外に客はひとりもいなかった。研究所に来る度に何かしらやりとりをしたりコーヒーを頂く機会がありマスターとはすっかり顔なじみになってしまったのだが、そんな彼もまた、至先生が最近豆を買いに来ないと心配をしているようだった。
「本当に、一体どうしたのでしょうねえ」
 マスターは、水のお代わりをついでくれながらそう言った。私はといえば、まさか先生が狂ったようにおかしくなってしまったんですとは言えず、本当にそうですねと曖昧に頷くしかできない。どうもマスターはいまいち三階の『怪異研究所』のことをよく知らないらしいが、それでも至先生とはそれなりに仲が良いらしい。だからこそ、心配なのだろう。
「心配といえば」
 マスターはふと、少し伸びた髭を太い指で触りながら宙を見た。「夢見ちゃんは、幽霊を信じるかい?」
「幽霊ですか?」
 私は思わずそれに反応してしまう。至先生のおかげと言うべきか、少し非日常な話が出てくると耳をそば立ててしまう癖がついてしまった。とはいえ、そういった話題は主に先生による『講義』が今までは主だったのだけれど。
「そう、最近ね……出るんだって。幽霊が」
 気を付けた方がいいよ、なんて軽く言うマスターに私は。
「……その話、詳しく聞かせてもらってもいいですか?」
 つい、カウンターから身を乗り出して聞いてしまうのだった。

 いやあ、ボクもね。詳しくはないんだよ。特に心霊現象なんて、夏の風物詩だろう? 最初は誰かが悪戯していると思っていたんだ。でも考えてみなよ。もう秋も半ばだ。肝試しにしたって時期が遅すぎる。だから、『もしかしたら』って思っちゃったんだよね。……近所に住んでる人でね、よくこのカフェに来てくれるマダムがいらっしゃるんだけれど、その人が見たって言うんだよ。人魂。青い炎。それも、何個も何回もね。その人、元々精神科に通っている方で、強い薬も飲んでいるって言ってたから、もしかしたら幻覚だったんじゃないかって悩んだらしいんだよ。でも、ここでそのマダムの話を聞いていた、これまた近所のお姉さんもね、私も見たって言うんだ。それでその二人でコーヒー飲みながらその光だか炎だかの話で大盛り上がりさ。いやあ、恐ろしいよねえ。こんな偶然あるんだって思っちゃったよ。ボクも、先日見たばっかりだったんだ。ぼんやり窓越しに映る、青い光をさあ……。

 私はカフェからの帰り道を歩きながら、マスターの話を頭の中で繰り返していた。青い光。青い炎。普通ならば、心霊現象と呼ばれるものなのだろう。もしかしたら、夏にやっていた心霊番組にもあった、オーブと呼ばれるものかもしれない。私にできることは何もないかもしれない。でも。ふと、脳裏に蘇る言葉があった。至先生が、私に『持たざる者』がいかに愚かであるか、という話の内容を。
『この世に生きる人間たちはとても愚かだ。不可思議な現象が起きれば何だかんだと騒ぐだけ騒ぎ、その正体を知ろうともしない。科学で解明しようとする者の方がまだましだ。だが彼らとて、科学のみで考えている時点で頭が固いと言わざるを得ない。居ないということを前提にして考えるべきではないのだよ、夢見くん。何割かは、科学で証明される事例もあるだろう。だが僕に言わせれば、残りの何割か――たとえ一割未満だろうが、本物はいるし、ある。その可能性を排除してはいけない。なぜ全て一つのもので解決できると信じているのか、そしてなぜ知ろうとしないのか、僕にはさっぱり理解できない』
 だから僕は侮蔑する。そう言い切った男の顔を、今も鮮明に思い出すことができる。
 あのひとの顔に浮かんでいたのは、紛れもない笑みだった。心底侮蔑したような笑みではない。まるで……だめな子供を仕方なくしかるような、そんな呆れたような微笑みだった。
 ああ。思い出してもイライラする。
 だって、
 それは偏屈で、変人で、妖怪や怪異マニアで、そんな異質な人間から放たれた言葉とは思えないほど、当たり前かつ正しいことだった。学問も、自然現象も、全部ひっくるめた上でこの男はそれでも本物の怪異を、妖怪を探している。そんな決意がひしひしと伝わってきてしまったのだ。
 ――だから。
 ――このままじゃ、だめだ。

*****

 その日、私は研究所へと足を運んでいた。いつになくズンズンと、自信を持って歩いていた。いや、本当は自信なんて全くない。所詮、妖怪関連に関しては全くのド素人である私が出来るのは、せいぜいネットサーフィンくらいだ。都合よく近くに有名なお寺や神社がある訳でもないし、そんな知り合いがいる訳でもない。秘められた力が存在する訳でもない。だが、ネットでの知識も役に立つ。私はそんな諸刃の剣とも呼べない付け焼き刃で、先生を助けようとしている。
 先生なら、何と言うだろう。少しだけ、笑ってしまう。でも、私にはこれしかない。
 一階のカフェのマスターに、今日も先生はいますかと目配せをする。頷きが返ってきたことに、少しだけ安堵した。もし今いなかったら、きっと今日の覚悟は霧散して、明日には跡形もなくなってしまうに違いない。古びた階段を登りながら、震える体を両腕でぎゅっと一度抱きしめる。二階を通り過ぎ三階へ。そこに、『怪異研究所』の文字がいつも通りぽつんとあることに、少しだけ安堵した。
「先生」
 ぎいと音を立て、扉はいつものように私を迎え入れた。鍵がかかっていたらどうしよう、などという不安は無意味だったようだ。だが、おかしくなる前の先生ならばソファに座ってこちらを見てくる筈であったけれど、やはり先生は奥の部屋へ籠もりきりのようだった。私はそこに入ったことはない。様子を見るために扉を開けたことはあるけれど、踏み入ってはいけない気がしてどうしても入れなかった。
 けれど今日の私は違う。思い切り、まるでパンドラの箱を開けるように、思い切り。だって仕方がない。先生を戻したい。こんな感情を持ってしまったのだから仕方がない。それにもしも災厄が溢れ出してくるのならそれは、私が背負ってみせる。
 先生は少しだけ驚いたような表情で振り返った。どうやらこの部屋は書庫のようになっていて、様々な本が部屋中に乱雑に置かれていた。先生の髪はぼさぼさで、目も虚ろだった。多少の飲食はしていたような形跡があるのがせめてもの救いだなと、どこか冷静な頭の隅で考える。でもこれなら、少しは会話になるだろう。息を吸い、 そうして吐く。そうして。
「先生を返してください」
 単刀直入にそう言った。


「……どうしてそうなるのかな? 深津夢見くん」
 先生は興味深そうにこちらにゆっくりと近付いてくる。それが少し恐ろしくもあったが、私はすんでのところで踏みとどまった。一歩でも引けば、これに飲まれてしまいそうだと、直感で思ったからだ。
「私は、至って正常なつもりだ。研究の邪魔をしないでくれたまえ」
「いいえ、あなたは、先生なんかじゃない。私は愚かではありますが、馬鹿のつもりはありませんので」
「ほう。では君がいかに馬鹿ではないかということを証明してみせたまえよ」
 乗った。私は心の中でガッツポーズをした。私は今まで喧嘩などしたことがなかったから、勿論挑発の仕方も解らなかったが、こんなにも安い挑発に乗ってくれる先生のような何者かに感謝した。もしかしたら、単純にこちらの言い分に興味があるだけなのかもしれないけれど、それはそれで都合が良い。
「ではまず……最近、この近辺に不思議な現象が起きているのはご存知ですか?」
「不思議な現象? 何だいそれは」
「先生ともあろう者が、ご存知ないんですか? 心霊現象ですよ。青い炎の目撃情報が多数あるんです。おかしいですよね」
「それは、オーブではないのか。それは心霊現象の専門家の分野だろう。何故私と関係があると……」
「いいえ。これらはオーブではありません。私も見たのですから」
 その言葉に、先生は少しだけ目を見張った。そう。私はこっそりと、深夜家から抜け出して、この近辺、目撃証言の多い場所を歩き回って、そうして見たのだ。青い炎を複数個。それから一階のカフェの常連さんにもそれとなく聞いたりして、簡単なマップを作った。そうして把握した。目撃例は、この怪異研究所を中心にして起きていると。
「今はネットの時代ですからね。私だって調べますよ、オーブと鬼火の識別方法くらいは。私の見た情報だと、鬼火は肉眼で見え、オーブは基本的に肉眼では見えない。写真やビデオ、何らかの媒体を通してではないと、視認出来ないと。私が夏に見た心霊番組でも、オーブはそれに当てはまっていました。諸説はありますが、きっと先生と、知り合いの心霊学者さんとはそういった話を良くするのでは?」
「ほう、それは良く調べたものだ。素直に賞賛しよう。しかし、それが私に何の関係があるというんだね」
 ああ、ここからだ。私はひとつだけ深呼吸をする。震えそうな足に力を込める。もしも私の想像が合っていたのならば――正直、私には手に負えないからだ。
「鬼火には妖怪が現れるときに出たり、鬼火そのものが妖怪であったりする場合がありますが……こういった営みをされている以上、先生が何らかの対策を取っていない可能性は低い。だから私はその上をいく妖怪の可能性を考えました」
「ほう。それは?」
「鬼火ではなく、狐火――先生から離れてください。狐の妖怪」
 先生は――先生のような誰かは、少しぽかんとして口を開けた。だがその口がにんまりと、まるで三日月のように歪み、その口から笑みの声がこぼれ落ちてくる。くくく、ははは、あはははは。
 心底楽しそうに笑う男は、最早、神咒至ではなかった。姿かたちは全く変わっていない。だけれども、纏う雰囲気はまるで別人だ。そもそも、『神咒至』というカタチであっただろうかと、疑問を覚えてしまう程に。
「いやあ、愉快愉快……中々に面白い話だったよ夢見くん。しかしいつ、私が『神咒至』ではないと気付いたのかね?」
「それは簡単です。先生は自分のことを、『僕』と呼ぶので」
 二重人格も考えたけれど、そこに鬼火の話が出たからには偶然ではないだろう。そう繋げてみたと伝えると、男は心底楽しげにまた笑った。
「ああ、成程な……つい癖が出てしまった。うっかりうっかり」
「……それで、先生から出ていってくれませんか。何なら油揚げでも買ってきますけれど」
 しかし、男は愉快そうな笑みから一転、厳しい表情でもって私を迎え撃とうとする。
「図に乗るなよ小娘。私の正体を見破ったことは褒めてやる。だが、私がそんなもので退治されるとでも思うたか?」
 ああ、そうだろう。私は内心で苦笑する。先生のためにスーパーで特売の油揚げを買うなんてこと、死んでも御免だ。だから私も、私の持てる全てで迎え入れよう。全力で。
「ええ、そうでしょう。あなたは誰かに退治されることを恐れて人に憑いている。ならば、?」
「お前――」
 男は目を丸くして絶句した。言外に問いかけてくる。この男のために、と。
「私にとって、他人はどうでも良い存在です。誰も本当の私を見ようとする人なんていなかった。色々な肩書きを目的として近付いてくる人たちばかり。他者に愛想がついたのなんて、もう随分と昔のことです」
 思い出す。私を見ているようで、しかし私じゃない何かを見ている人たちのことを。
「深津さま」
 それは、資産家の娘として見る目だ。
「夢見さん」
 それは、学内で羨んで見る目だ。
「深津さん」
 それは、深津家の肩書きを目的として見る目だ。
「夢見くん」
 これだけは違った。両親でさえ、今後を期待する目で私を見るというのに、先生のそれは、私を知りもしない、知ろうともしない純粋な目。呆れたような、先生の言う『持たざる者』を見る目。それはどこまでも平等で、私を普通の人間として見てくれる、最初の人だった。
 それだけで良かった。私には、それだけで良かったのだ。
 だから。
「私に憑いてください。それなら、何も問題はないでしょう?」
 助けられたこの身を、投げ出すことが出来る。
 男はついに言葉を失ってしまったようだった。普通ならば他人へ丸投げするだろう状況にいる人間が、自らを犠牲にすることを理解出来ないようだった。私だって、本当ならば誰かに押し付けたかった。でも、きっとそうしたら、先生は私を一生許さないだろうと解ってしまったのだ。それだけは嫌だった。そうしたら、何もかもが嫌になってしまう気がした。これが、どんな感情なのかは解らない。けれど少なくとも、私が抱いたはじめての感情であるということは、はっきりと理解している。
「解っているのか、狐に憑かれるということが、どういうことか」
 男は、それだけをようやく口にした。私は無言で首を横に振る。ネットでは様々なことが書かれていた。胡散臭い除霊法。謎の霊媒師。中には狐を追い出すために、身の毛もよだつ恐ろしい所業が行われ、挙げ句その人が死んだことも見たけれど、一切口にしないようにしようと決めた。だから、私はここに来るまでに、帰りたくなる足を、震える体を叱咤してここまでやって来たのだ。
 私はきっと前を見据えた。男の瞳をまっすぐに、射抜くように。
 私の覚悟が伝わったのか、男はふらりとよろめいた。背後にあったテーブルにがたりと体が当たり、本や紙などがばさばさと落ちた、その時だった。
『夢見くん、それだ』
 頭の中で声がした。紛れもなく、至先生の声だった。驚く私に間髪入れず、先生の声が響く。
『今足元に落ちた札だ。それを僕の体のどこでもいい、貼ってくれ』
 素早く目を凝らすと、たしかに男の足元に御札のようなものがひらりと一枚落ちていた。男もそれに気付いたのか、足でどこかへ蹴飛ばしてしまおうとするが、私は瞬時にその札に飛びついた。男の足元へと滑り込んだ私は、その衝撃でテーブルに背中をしたたかに打ったが、その痛みも関係なく、思い切り札を男のふくらはぎ辺りに押し当てた。
「貴様――貴様貴様貴様……!」
 常ならば蒼い筈の男の瞳が一瞬、燃えるような赤色へと変わったが、それは急速に温度を失っていくように霞んでいった。元の蒼い瞳へと戻った時には、もうあの恐ろしいような、違和感のある雰囲気はすっかり霧散していて、ああ、もとの至先生だと感じることができた。
「夢見くん」
 未だ痛む背中により床に這いつくばっている私に、先生は声をかけた。
「……すまなかったな」
 差し出された手に、私は遠慮なく手を乗せる。
 あたたかい。それが何より嬉しくて、私は少しだけ、涙を零した。

*****

「先生! また受け取ってくれないんですか!?」
「また君は……いい加減諦めたらどうかね」
 私は怪異研究所の扉を開け放ち、以前より分厚くなった現金袋を掲げた。至先生はうんざりと横目に見ながら、仕方がないとばかりに読んでいた本をぱたんと閉じ、私用のコーヒーを淹れてやろうと愛用のソファから席を立つ。そっと閉ざされた本を覗くと、これまた良く解らない難しそうなタイトルだった。
「先生、これはどういった本なんです?」
 試しに聞いてみると、キッチンの方から良いコーヒーの香りと共に、至先生の声が聞こえてくる。
「ああ、それは――」


 あの後、至先生は自らのことについて語ってくれた。私が指摘した『狐憑き』というのは、半分当たっていて、半分間違っているのだと。
『君の場合はただ単に狐が憑いている、ということであの単語を出したのだろうが、それは少し不正解だ。この世には不思議な家系というものがあってね。これは少し心霊的な解釈も含まれるので具体的に表現するのは難しいのだが……狐憑きの家系というものがあるのだよ。狐がその家を守り、また、他者を呪う力を持っている。そういった珍しい家系というのは日本でも発見されている』
『それって……それじゃあ、先生は』
『そうだ。僕――神咒家は狐憑きの家系でな。といっても、母や父はとっくに亡くなっているが』
 そんな。私は絶句するほかなかった。ならば、妖怪に近いところにいるからこそ、妖怪を研究するようになったのだろうか?
『それも違う。神咒家の特異なところは、狐の恩恵を受けられるのが常に一人のみということだ。恩恵は様々で、何もしなくても富に恵まれる、憎い相手を呪い殺すことも出来る、等だ。元々、神咒の咒という文字は呪いという意味でな、先祖は呪いを専門にしていたこともあったらしい。だが、それは周りからの恨みをかうことにも繋がる。狐の恩恵は、常に長子に受け継がせるが――恩恵のなくなった者がどうなるかは、想像に容易いだろう?』
 私はとうとう口に手をあてた。脳裏によぎったのは、恨みと妬みで死んでしまう、至先生のご家族の姿だ。人々に恨まれ、無残に殺される、顔も知らない先生のご家族。それを先生は、どう見ていたのだろう。
『流石に目の前で母が殺されたことは堪えた。だが、それが何だ。母は愚かだった。僕に継がせなければ、自分の身をずっと守れた。ずっと……寿命で死ぬまで』
『それは違います、先生』
 私はすぐさま否定した。だって、それでは先生のお母様が浮かばれない。
『先生。私は母になったことは勿論ありませんが、気持ちは解ります。お母様は、至先生を守りたかったんですよ。たとえ恨みで死ぬとしても、妬みで死ぬとしても、先生だけは生きてほしくて、それで……』
 その後は、言葉にならなかった。だって、私だって先生を守りたいと思ってこの身を投げ出す覚悟を決めたのだ。それがもしも全く伝わっていなかったのなら私はともかく、お母様が浮かばれない。
 先生は、少しだけ、遠くを見つめた。目線の先には、窓の外しかない。薄汚れたガラスごしの青空は、ぼんやりとした青でどこか味気ない。それをしばらく見つめたあと、先生はちいさく、ばかだな、きみたちはと、呟いた。
『……その後、僕の中に狐が入った。普通の人間で例えるならば、二重人格というようなものだ。だが、こいつが厄介で、勝手に僕の願望を増幅し、叶えようとする。私の研究はオリジナルの妖怪を見つけるという趣旨だが、今回あいつは自分の身を使ってオリジナルになろうとしたらしいな』
 まあやりかねん、とため息を吐く先生に、私は思わず聞いてしまう。
『……先生。先生はそうやって狐憑きに振り回されていたりしますけれど――どうして、それでも妖怪を研究しようと思ったのですか?』
 そんな私の問いに、先生はあっけらかんと答えた。
『妖怪による被害と、妖怪への興味は別物だよ、夢見くん。台風の被害にあったからといって、では誰も台風の観測をしないという訳ではないだろう? 被害にあったからこそ興味が湧く。世の中にはそういった研究の入り方もあるというだけだ』


「だからこそ、この覚という妖怪は面白くて……夢見くん? 聞いているのかね」
 先生がこちらの肩を揺さぶる振動で、はっとした。私にとって二回目の命の危機を、思い出してしまっていた。少しだけ心配そうな至先生の表情に、何でもないですと答えながら続きを促す。幸いにも、淹れてもらったコーヒーからは湯気がまだ微かに出ていて、そこまで時間が経っていないことを示していた。
 あの日から、私の生活は一変した。煩わしかった放課後のティータイムにはもう殆ど誘われていないが、学業の優秀さは相変わらずだと一目置かれているまま。未だ資産家の娘として見られている自覚はあるが、正直どうでも良かった。放課後に向かうのは、古臭いビル。一階のマスターに毎回挨拶をして、時たま上に豆を持っていってくれと頼まれる。
 私は家でも、それから怪異研究所でも、妖怪について、それから怪異について調べることが多くなった。確かに、あれらの事件は恐ろしかった。震えるほどに怖かった。だがそれ以上に、得体の知れない何かへの興味が湧いてくることを、無視することは出来なかったのだ。それを伝えたときの先生の驚き様は凄かった。今でも思い出すと笑ってしまうほどに。
 先生は言う。最近、妖怪たちの行動範囲が広がっている傾向にあることを。
 それは即ち、妖怪たちが人間たちの世界に紛れようとしているのではないかと。
 妖怪退治専門家にとっては願ってもない世界になりつつあるようだが、その前に研究をせねばならないと、電話で相手と口論をしているのを、最近は頻繁に見るようになっていて、今度、呼び出して直談判せねばと鼻息を荒くしている。どうやら先生と長い間付き合っているらしいのだから、これもまた変人なんだろうなと考えながらも、少しだけ楽しみにしている自分も大概だ。
「さて夢見くん、講義の続きだ」
 そう言って至先生は本のページをめくる。私は用意していた筆記用具とノートを準備して、はい先生、と返事をする。この講義が終わったら、次はフィールドワークでもしてみようかという話だ。
 これから先、何が起こるか予想もつかない未来。
 それこそ、私が求めていたものなのかもしれないと、ようやく気付いた。



しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

kiri
2023.12.16 kiri

至先生のかっこ良いのにダメさ加減なとこもいいけど、夢見ちゃんの普通っぽいのにかっこ良い心が好きです。
続きが来るなら待ってます。読み切りと言わず、ぜひ!

解除

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【12月末日公開終了】これは裏切りですか?

たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。 だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。 そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!

ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」 それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。 挙げ句の果てに、 「用が済んだなら早く帰れっ!」 と追い返されてしまいました。 そして夜、屋敷に戻って来た夫は─── ✻ゆるふわ設定です。 気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

三年の想いは小瓶の中に

月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。 ※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。