夜中の2時ごろ

わこ

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3.一晩の値打ち

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目の前には、うっすい黄金色の硬貨。
男二人で服も着ないで、下半身は未だ掛け布団の中。ベッドの上で上体だけ起こしたまま、掌に乗せた五百円玉を虚脱状態で見つめた。

「……三上さん」
「どした」

どしたじゃねえよコノヤロー。
なんて言ったら、怒るかな。隣で一服している三上に、根性焼きの一つでもされかねない。煙草でジュッ、と。イヤー。
そうなったら怖いから、下から窺うように覗き込む。

「……五百円?」
「妥当だろ。お前の値打ち」
「最初は万単位だったよね……」
「釣れるとは思ってなかった」

そうですとも。まんまと引っ掛かったのは俺ですよ。

今更そんなことを思っても遅い。意地もプライドもかなぐり捨てて、金で男に抱かれ始めて早二ヶ月。
その見返りは、なんと破格のワンコイン。一回目はこんなんじゃなかったのに。最初の時だけはもっとくれた。一晩で五万も貰えた。

だから。

なにコレ、超イイ商売じゃん。時給換算でいくらになるだろう。みたいな感じに、俺の軽い頭は一発で刷り込まれた。お互い空いている時間が合うときだけ、三上の求めに応じてこの部屋に来て。ベッドの上で大人しくしていれば、それだけで金が手に入る。
フリーター歴の長い俺には、それこそ夢のような話だ。
ウマいし。三上。

三上とはあれ以来、飲み仲間みたいな間柄になっていた。気まぐれに呼び出しを掛けてくるのは、いつも決まって三上から。
呼び出し文句は、だいたい定型化済み。奢ってやるから付き合え。じゃなかったら、出て来い、とか。脅迫まがいの要求を受け、しぶしぶ教えたケータイにそう言いつけてくる。別にいいんだけどね。本当に奢ってもらえるから。
金やるからヤらせろと、三上はあの日言ったけど。そうやって一緒に飲んでいたって成り行きでどうこうされるような事なんてなかった。でも誘われてはいた。会う度、会う度、金欲しいだろって。

誘い方がヤクザだ。俺はソープ嬢じゃねえんだよ。つーかなんで俺なんだよ。人選おかしいだろ。
今まで普通に生きてきたんだし、初めのうちは何度誘われても断っていた。男と寝るなんてムリ。しかもヤられる側とかあり得ない。そう思って、必死になって、目の前に札をチラつかされようとも耐えていたんだけど。

三上の言う、金欲しいだろ。アレは暗示だ。とてつもなく強力な。薄い笑顔を伴わせ、容赦なく誘惑してくる。
そして引っ掛かった三上の催眠効果。一緒に飲み行くようになってから、十回目くらいで?もうちょっと粘れよって自分でも思う。確かに思う。だけどどうしても、三上の口車と詐欺師のような目には逆らえなかった。
こいつパチ屋辞めて催眠術で食ってきゃいいのに。当然俺にだって葛藤くらいあったけど、金で釣られて一発乗り越えるモン乗り越えてみれば、吹っ切れるのに時間はかからなかった。
俺は三上に体を差し出す。三上は俺に金を差し出す。いいじゃん別に。問題ないよ。そう考えた俺が甘かった。

五万もくれたのは一回目だけ。二回目からは万札が三枚になっていて、それ以降どんどん減額。千円で繋いでいた日が続いていたけど、今晩はとうとう五百円だ。百円になるのも時間の問題だろう。
食って掛ってみようかな。一度だけ歯向かった時には、精神的にちょっとヒドイ目に遭わされたから迷う。だけど五百円ってさあ。ガキの小遣いかよ。
よし。ここは一つ。男は度胸だ。

「三上さん……俺、ヤメルよ? 金くれないオトコと寝てたって仕方ないし」
「ああ?」

…………こえェ。

駄目だ怯むな。頑張れ、俺。負けるな、押してけ。

「……別に俺、男なんか好きじゃないしさ。金くれるっつーからあんたの言う通りにしてきたけど、こんだけで相手するほど俺だって暇じゃないよ。深夜の検品バイトでもしてた方が儲かる」
「…………」

お。どうだろ、効いたっぽいかな。珍しく何も言い返してこない。
三上は煙草を咥えたまま、黙ってどこかを見つめていた。隣にいる俺ではなくて、向かいに突き当たる白い壁でもなくて、多分どこにも焦点を合わせていないと言うのが正解だろう。
心ここにあらずで、煙だけを漂わせているコイツ。その元である煙草を手にして口から離したと思ったら、まだ吸い始めて間もないソレは、早くも灰皿の上で押し潰された。

怖いんだけど。なんで消したんですか。なんで無言なんですか。
俺は今すぐ布団の中から抜け出し、本能が危険だと訴えている三上から遠ざかりたくて山々。でもここで動いたら本当に命に関わってくる。結局逃げることは叶わず、ビクビクしながら三上の顔色を窺った。

けど、なんだかなあ。こうしてまじまじ見てるとやっぱ思う。顔だけだったら、一つたりとも文句の付けようがないのに。
このルックスで、セックス上手くて、そこそこ収入のある男が。どうして男なんかをわざわざ金で買うんだかね。俺には理解ができないよ。
そういやヤリ友の女はどうしたんだろう。そんな事をふと考え始め時、黙っていた三上が突然俺に顔を向けてきた。

「伊織」
「えっ、あ、ハイ」

急に呼ぶなよ、なんなんだよ。呼んだついでに腕掴むなよ。
掴まれた腕はグイッと引かれて、なんとなく向かい合う。三上も靠れかかっていた壁から背を離した。

「明日も来い」
「エっ?」

言われた直後に、ボフッとベッドに埋まった背中。弾みで手から離れた五百円玉が気になる。
知ってる。そうじゃない。五百円とかどうでもいい。今考えるべきは一つ。
なんでこの人、俺の上に乗ってんの。さっき終わったばっかだよ。

「三上さん……?」

する気?

「ヤメルなんて言わせねえからな。話にノッてきたのはお前だぞ」
「そりゃ五万だったから……」
「十分だっての、五百円で。相殺したらそんなもんだろ。お前だって悪い思いしてる訳じゃねえんだ」

通じてねえ。しかも傲慢。確かに気持ちイイけども。得してるのは男の方だって、よくそんな風に女の子が言っているイミが分かった気がする。
でもダメだね。男が男でいる限り男は男でしかないんだから男の言い分は男の物だね。……難解。自分でもよく分からない。

三上の頭の中では、俺は三上に気持ち良くして頂いている身分ってワケだ。だから金なんか払ってやる必要こそない。
勝手なもんだな、男ってのは。俺はもう二度と、無理に女の子をホテルに誘ったりなんかしない。絶対しない。
一人心に決めたけど、俺を組み敷いているコイツは虚しくも最低野郎のままだ。
 
「イイ思いして金まで貰って、それで文句言うってどれだけ態度でけえんだ。湧いて出てくる金じゃねえんだよ。贅沢言うな」
「でも五百円ってのはさすがに……」
「だから。ヨくしてやってんだろ」

あーあーハイハイ。この人ロクな死に方しねえよ。三上なんかパチ屋クビになって、他に働き口が見つからなくて、路頭に迷った末に段ボール生活になって、犬やカラスと残飯争いしながら死ねばいいんだ。
陰険。ヤバいな俺、かなり根暗になってる。恨みが募ると人ってこうなるのか。
でも出来ればそう言ってやりたかった。それなのに許されなかった。後が怖いから元より言えもしないんだけど、言うかどうかを迷う暇さえ与えられず、三上の口で俺は言葉を封じられた。
こんな奴だ。死んじゃえって思う。だけどキスは巧い。悔しいくらいウマい。

「っン……」

俺の腕を押さえつけていた三上の手が離れた。髪に指を差し込まれて、撫でるような手つきで触っていく。その手つきと同じくらいにゆっくり唇を動かし、三上によって長くしつこく続けられるキス。
ヤメテほしい。いつもの高圧的な態度はどこに行った。変に甘ったるい空気感つくんないでよ。

だけどキスのとき、三上はいつもこんな感じ。シている最中も妙に優しい。額はともかくとして一応は金払ってんだから、買った男を丁寧に扱う必要なんてなさそうなものだけど。ていうか三上の性格なら、こっちが泣き叫んでも高慢チキを発揮しそうなもんだけど。
意外と優しい。予想外すぎてビックリする。最初は誰だこの人って思った。
 
「三上さん……」

ようやくキスから解放されて、そのまま三上の唇は俺の体へ。顎裏に下りて、喉を伝って、鎖骨に到達すると歯を立てられた。
ガリっじゃなくて、カリッ、みたいな。甘噛みってヤツ。
やめろよ、恥ずかしい。三上の性格が行為にもそのまま出るとしたら、間違いなくどエスの領域になる。それはそれで怖そうだけど、でも俺的にはそっちの方が親切だったかもしれない。

だってこの、羞恥プレイ。精神的にかなりイタイ。男にここまで優しくされたって全然嬉しくないし、単なる性欲処理機みたいな扱いをされる方がまだマシだ。
思っているそばから、またもや上に這い上がってくる三上の唇。小一時間ほど前にも散々吸いつかれた首に食らいついて、犬かお前はってくらいに舐め回してくる。
しつっこいなホントに。野郎の首なんかに食いついて何が楽しいんだよ。

「なあ……もう今日は……」

反対側に顔を背けつつ、執拗な攻撃にちょっとした抗議。でも生憎三上には聞く気がないらしい。
続行される、羞恥プレイ。こいつの舌使いはペテン的いやらしさを含んでいるから、こっちまで変な気分にさせられて困る。
だけどもう嫌。本気であと一回なんてことになる前に、完全拒否の姿勢で三上の肩を押し返した。

すると何をどう捉えやがったんだか、見事に逆効果という事態に。押し返した手を反対に取られて、シーツの上へと強制送還された。囚われた俺の手は放してもらえる事もなく、三上の指と互い違いに絡まる。
俗に言う、恋人つなぎ。拷問だろ。

「っ三上さん……」

片方の手がそんな状態にされたものだから、もう片方の手で三上を押し返して応戦。だけど今度は耳に下を這わせられて、ゾクッとした感覚に力が抜けそうになった。
折角盾突いていたいたこの腕も、すぐさま三上に捕えられる。また強制送還かと脱力気味に思っていたものの、今度はもっと悪質な目的があったようだった。
軽く引かれた手は、そのまま三上の口元へ。余裕綽々な目で俺をジッと見下ろしながら、チュッと指先に口づけてきた。

「…………」

やめとけよ、マジで。お前はどっかのハンターか。

こいつはきっと、この目で女をたぶらかしてきたんだろうな。男の俺でさえ、どうぞ好きにして下さいって気になってくる。
なんだか面倒になってきたという事情も相まって、献上物と化した俺は戦意を遠くへ投げ捨てた。俺が大人しくなれば、三上は一層のしたり顔。すげえムカつく。
ハンター色の強い目で俺を見下ろしながら、三上が満足そうに笑った。

「あと五百円プラスしてやるよ」
「……そりゃどーも」

少ねえよドケチが。





***





三上のおかげで翌朝はぐったり。これからバイトで立ちっぱなしだっていうのにやんなっちゃう。


「まいどありー。ぜんぜん金になんなかったけどー」
「文句言ってんじゃねえよ。いいから今夜も来い」
「ムリ」
「無理でも来い」

勝手な奴め。なんで朝っぱらから玄関で、こんな言い争いをしなきゃならないんだろう。
一緒に部屋を出た後もすぐには別れず、俺は三上にくっついてマンションの駐車場までやって来た。三上の仕事が早番の時は、ついでに俺の事もバイト先まで送ってくれるから。
と言うより早番の時なら本当についでって感じなんだけど、自分が遅番のときでもわざわざ一緒に起き出して、俺を送るためだけに車を出してくれる。
これには唖然。こいつが優しさを向ける方向は、常人とはちょっとズレてる。傲慢オレサマ野郎もたまには使える。なんて思ってみたり。

不気味にもこんな親切行為をしてくれるようになったのは、図々しい俺が図々しく頼んだ訳ではなくて、三上からの提案だった。事の発端、とまで言うと大袈裟だけど、キッカケは三上と飲んでいる時だった。
あの夜あの裏道に、三上がタイミング良く通りかかったのはなぜか。その理由を、大した意味もなく訊いてみた。酒の肴にでもなるかなあ、と。

それで三上から話してもらった真相は至って単純明快。なんでも俺が逆カツアゲをしていた現場はこのマンションの裏路地と繋がっていて、三上はあの場に煙草を買い足しに来たらしい。コンビニに行くよりも近い距離にある、自販機に用があっただけだった。
人助けなんて概念とは程遠い事実だ。でもそんな近道があるのなら、俺もバイトへ行くのにそっちを使いたいと思うのが普通。その話を聞き知っていた俺は、初売春の翌朝にマンション裏から抜けてその通りを歩いて行こうとした。
ところがそれを止めたのが三上。澄ました顔で煙草を吸いながら、送ってってやると。一言。

何かしら魂胆があるんだろうと初めは訝った。でもガキの頃から培ってきた俺の精神は、他人からの好意にひたすら寄り掛かる傾向にある。
一つ。貰える物は貰っておけ。一つ。甘えられる奴には甘えておけ。もう一個くらい模索中の、俺のモットー。我ながら素晴らしいと思う。

そんな訳で三上は車を出してくれるようになったんだけど、そこには魂胆というより保身しかなかった。俺がまたあの通りで、どっかの誰かにカツアゲなんぞしないように。自分のウチの近くで乱闘騒ぎを起こされて、サツがうろちょろするようにでもなったらウザいってな事らしい。
三上はお巡りさんが嫌いっぽい。やっぱなんか後ろ暗い事がある人なんだ。つーか俺は好き好んでカツアゲなんかしないからね。朝っぱらからそんなコトしてる人もいないよ。
裏道とは反対方向の大通りへと続く道に出ていく。三上がやる気なくハンドルを切るのを、俺もまたやる気なく助手席から眺めていた。疲れてるんだよ。お互いに。俺は被害者だけど。

「なあ、三上さん……」
「なんだよ」
「俺ムリだよ。今晩」

さっきの言い合いもあやふやになった事だし、この辺で念押し再開。たいした金もくれない相手に。シュミでもない男に。頑張る気力なんか芽生えてこない。

「そんな頻繁にシテても飽きるでしょ。俺も辛いし、三上さんだって男が好きってコトでもないんだろうし。女いるんならさ、そっちと遊んでよ。元々ヤリ友の女なら一銭も払う必要ないじゃん。つーかホント、そろそろやめない?」

三上が運転中なのをいいことに、夕べからの重複事項と溜まっていた苦情を一気に投げてみる。
ポイントは、最後。そろそろやめない?のトコロ。金にならない売春なんか続けていたら、俺はただのどエム野郎になっちゃう。

「俺もさー、ちょっと反省してる。こんなこと始めたのが間違いだった。相手が男ならリスクないかなあ、なんて思ってたけど、リスク無いのはあんただけで俺はやつれてく一方だよ。身も心もフトコロも。これ以上損な話もなかなか珍し…」

お互い真っすぐ前を向いたまま、鬱憤を晴らす勢いで言い立てていた。のはいいんだけど、よく見るとこの先にある交差点の信号は黄色に。そして赤に。
なんというタイミングの悪さ。矢印の一つも出てくれたっていいじゃん。進ませてよ。

「なんて事を、かるーく思っただけなんですけど……」

ここの信号は待ち時間が長い。焦る。一気に焦りだす。なんのつもりか、三上がシートベルトを緩めたもんだから余計に怖い。

「あの、いや、別にさ、三上さんが悪いとかそういう話じゃねくてね。なんつーかなあ、ほら俺も男だし? やっぱヤルなら女の子とヤリたいって言うか……。うん。三上さんも女の方が具合イイだろうなー、って」
「伊織」

苦しすぎる言い訳は容赦なく遮られた。遮られた時には、三上がすでに身を乗り出している。俺が埋まっている座イスの背もたれに、手を付いて迫られた。
逃げ場のない、狭いスペース内にあっての近距離。緊張感でとんでもなく居心地が悪い。

「あの……」
「そんなに嫌なら今夜はシなくてもいい」
「……はい?」

パチクリした俺の目。対する三上は顔色を変えようともしない。今のは俺の聞き間違いか。

「……いいの?」

確認は大事だ。ホウレンソウでは基礎中の基礎。
報告、連絡、相談……。しまった、入ってなかった。

そんなしょうもない事を頭の中で巡らせている一方、三上は俺をじっと見据えたまま。

「お前が嫌ならな」
「まあ……イヤっちゃあ、イヤだけど」
「はっきろしろよ」
「イヤです」

即答。少しだけ、三上の眉が不機嫌そうに動いた。
一瞬怯みそうになるけどそこは堪える。頑張って目を逸らさずにいると、三上はシラけた様子で何度か小さく頷いた。

「分かった、シねえよ。でもウチには来い」
「え、なんで」
「いいから来い。酒飲ませてやる」

あ、ズリい。酒って単語を出されると俺は絶対に逆らえなくなる。
数百円だろうと塵も積もればイイ値段。発泡酒だって馬鹿にはできない。だから酒で釣られれば手の平返すのは一発だ。

「……行く」
「よし」

チクショウ。人を犬扱いしやがって。頭、撫でんな。
でもこれで圧迫感からはようやく逃れられる。そう思って、ガチガチになっていた肩の力を緩めた。ところが気を抜いた直後、合わなくなった焦点。間近にあったはずの三上の顔がよく見えない。
キスされてるから。言ってみれば、当たり前なんだけど。

「んっ……ッ……」

マジかよ。車の中で本気なのスルなよ。なんなんですか、いきなり。

そして同時にふと思い出す。昔ちょっとの間だけ、ピザ屋で配達バイトをしていた頃の事。
いつだったか信号待ちの最中に、車内で濃厚にいちゃつくカップルがいた。その車の隣に並んだ記憶があるけど、今の俺達はその時のそいつらみたいな状態だ。
人が働いてるっていうのに、なんだコイツラと思っていた。あの時は。そりゃあ大層恨みがましく、半眼で舌打ちなんかしていた。あの時は。
じゃあ今の俺は何。この車の隣には、並んで停まっている車が。距離だってメチャクチャ近い。

「ッン、ぅ……」

舌を吸われて、不本意に揺れる肩。周りが通勤で慌ただしい朝っぱらから、男同士で、車の中で。
隣の車がどうにも気になってチラッと視線を向けようとすると、少しばかり手荒く顎を捕えられた。けど、唇はかすかに離れる。
 
「こっち見てろよ」
「んっ……」

自分に自信がある奴じゃなかったら到底吐けそうにないセリフを言ってのけ、不意打ち気味に、軽くチュッと。
そうして触れただけの唇はすぐに離れていく。そのまま何事もなかったかのように、三上は乗り出していた姿勢を元に戻した。
どうしろと。俺はどうすりゃいいの。

「………三上さん。今のナニ」
「キス」

うわ、うぜえ。この人、超ウザい。

「そうじゃなくて、目的」
「したかったから。目的も何も、それ以外ねえだろ」
「…………」

疲労感で一杯だ。
災いの元凶になっていた信号は青になり、沈み込んだ俺を乗せた車は再び走り出した。もしかしたら、というかきっと目撃されたに違いない隣の車は左へ。俺達は真っ直ぐ。これだけでも救いだろう。
どうしてくれんだ、三上。見知らぬドライバーからゲイカップルだって思われたかも。

「隣の車、見てたかな……」
「知んねえよ。アカの他人なんかほっとけ」
「……三上さんの神経って、きっと相当図太いよね」

ボソッと呟いてみたら、横目で鋭く睨まれた。視線すっ飛ばして素知らぬ顔を決め込む俺。だって怖いんだもん。無事にバイト先に到着したいもん。
危険動物とは目を合わせない事が生き延びるコツだ。ぼーっと外を眺めてやり過ごす。だけどぼーっと外を眺めていると、どうにもこうにも眠くなるという副作用が。

「……伊織。寝るな。もうすぐ着くぞ」
「ぅィーッす」

空返事。敵に起こされるとは無防備もいいとこだ。



それから数分で着いたバイト先。三上は車を歩道に寄せて停めた。眠気と戦いつつシートベルトを外す俺を眺め、隣から何気なく言ってくる。

「バイト終わったら家にいろ。迎え行く」
「え、いいよ別に。自分で行けるし」
「いいから」

言いながら腕を取られた。ドアの方に向いている俺をグイッと引っ張り、思わず振り返った先で重ねられた唇。

「…………」
「待ってろ」
「……ハイ」

三上はキスが好きっぽい。

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