夜中の2時ごろ

わこ

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5.はんぺん、時々センパイ

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俺が三上に体を売るのは、週に一回か二回あるかないかという程度だ。
アホみたいに安い単価。その上さらに数もこなせないとくれば、三上から巻き上げられる金なんてタカが知れたもの。なんだけど。ここ最近に至っては、ダッチに用もないクセにしょっちゅう呼びつけてくる。


「伊織」
「なんスかー」
「メシ」
「…………」

大概こんな感じのコトを言われます。

夫婦生活三十五年目で、この前会社を定年退職したばかりの旦那で、専業主婦である自分の嫁を家政婦と勘違いした男が当たり前のようにデカイ顔をして言ってのけるセリフと言えば。
飯。風呂。寝る。だいたいこんなもん。

三上は正にその状態だ。抜きたくなったからってワケでもなく、なんとなくで俺を呼びつけては、一銭にもならない家事労働をさせようとする。飯作れ、とか。風呂の掃除しろ、とか。寝室テキトーに片しとけ、とか。
そのくせ飯を作ってみればマズイとか味が薄いとか煩いし、風呂掃除をしていれば手際が悪いとかなんとか因縁をつけてくるし。テキトーに片せって言うから言われた通りにしていたら、アレはどこにやったんだとかコレはどこにしまったんだとか。
小姑みたいだ。義母さんじゃなくて、敢えての小姑で。

秀逸なまでの嫁イジメにかけては天才。俺が何をしようが、三上はとにかく難癖をつけたがる。こんな事してて俺になんのメリットがあるんだろう。抱かれてる方がまだ楽だ。
なんにしたって金にはなんないけど、ただ働きの家政婦ゴッコは予想以上にストレスが溜まる。三上の部屋に入ってから、どっちのプレイに及ぶのかは寸前まで分からない。普通にセックスして終わりなのか、家政婦ゴッコの日なのか。それは全て三上の気分によって決まる。

そういう訳で、今晩の方向性は家政婦の日だった。バイトが終わって少しした頃に三上から連絡が入って、暇かと言われたから忙しいと答えた。実際、メチャクチャ暇だったけど。
まあ、俺がなんと言おうが結局は聞く耳持たずを貫く男だし、三上は自分の仕事を終えてから当然のように家まで迎えに来た。狭い部屋の中で人が折角ぐうたらしていたのに。ズカズカ上り込んできたと思うとその場で強制連行。

一昨日シタばっかじゃん、なんて内心で思いつつ三上の部屋に連れられてくれば、それでいてコトに及ぶ気配はどうやらなさそう。
それじゃあ俺は何をするか。気が向けば用の一つでも言いつけでくるだろうから、それまでの俺はのんびりゆったり。三上のベッドにトロトロ上がって、さっきまと同じようにぐうたらしていた。三上が近くで煙草を吸っていようが、浴室からシャワーの音が聞こえてこようが俺には関係ない。

そしてぐうたらする事三十分。風呂から出てきたホカホカ三上は、寝ている俺にメシ、と言った。小姑が。どうせまたマズイって言うんだろ。

「三上さん、実は俺いま腱鞘炎でさあ。手、動かせないんだよねー」
「そりゃ大変だな。片手で頑張れ」
「…………」

いや、確かに。見え透いた嘘だけど。両手ともにすっごくピンピンしてるけど。
他に言う事くらいあんだろうが。鬼かお前は。

「……俺って三上さんの何?」
「はあ?」

うん。確かに。俺も言ってから、はあ?って思った。
俺は三上にとっての何でもない訳で。

「……もういいや。何食いたいの?」

どうせ何を作ろうが、あんたの口には合わないんでしょうけれども。

「別になんでもいい」
「なんでもいいが一番困る」
「なんだっていいっつってんだろ。つべこべ言ってねえで起きろよ、とりあえず」

こいつ、絶対に結婚できない奴だッ。ていうか、すんなっ。どうせ一カ月と持たない。
という胸中をひた隠しに、ノッソリと起き上がって三上の前を素通りした。その間、できる限り目は合わせない。余計な恨み辛みをうっかり口に出して、睨まれでもしたらそれはそれで怖いから。
キッチンに行って冷蔵庫を開ければ、この前みたいに食材が勢揃い。なんてことはない。初めてここに泊まったあの日以来、俺はこの冷蔵庫の中にまともな食料が入っていたのを見たことがなかった。

「……なんもないじゃん。何をどう作れっての。エアー調理?」
「芸人か、お前。やりたいなら勝手にやれよ」

腹立つー。

冷蔵庫の中に顔を突っ込んで、背後にいる三上に呼びかけたところの反応。そんなアホな動作、やりたいだなんて一言も言っていない。
イラっとしながら一度三上を振り返り、見下してくる目線に負けた。もう一度冷蔵庫とご対面。さっきから俺の目に映っているもので、調理できそうな物というとコレしかない。

「……はんぺん」

ちょっと……。
カワイイな、なんか。チョイスが。

人に飯を作らせるために、三上は時たま俺を連れて食料の調達に行く。車があるなら一人で行けよと思うけど、なにがなんでも俺を荷物持ちとしてコキ使いたいらしい。
でもこの前買い物に行った時、ハンペンなんか買った覚えがない。一昨日も俺はここに来たけど、冷蔵庫にハンペンは入っていなかったと思う。
てことは、買ってきたんだ。わざわざハンペンだけを。そういえばさっき車降りた時、小さいサイズの白いビニール袋をぶら提げていたような気がする。あれ、はんぺんか。

「おい。聞こえてんだよ、笑ってんの。何がおかしい」
「え? いや、別に? 気のせいじゃない?」

バレた。肩が揺れないように必死で抑えようとしていたけどバレた。笑うの超こらえてるのに。
だって、ハンペンだ。よりにもよってハンペン。三上が一人でスーパーだかコンビニだかに寄って、ハンペンをお買い上げしている様子を思い浮かべようものならば。
すげえ笑える。この仏頂面でハンペンをレジへ。

「……っぶハ!」

やっべ、ツボった。

「……おい」
「あー、いやいや違う違う。今の笑ったんじゃないよ。ちょっと吹いただけ」
「イミ同じだろ」

そうですね。
俺が小刻みに笑い続けていると、後ろにいる三上は怒りを通り越して呆れた様子だった。聞こえてきたのは小さい溜息。
そんな三上のことは放置を決め込み、問題のハンペンを取り出して冷蔵庫をようやく閉めた。自分の部屋の冷蔵庫なら開けてから三秒以内に閉めるけど、人の家ならお構いなしにいつまででも開けている俺。部屋主が何にも言ってこないから気にしない。

手にしたのはハンペンとチーズと、適当に味を付けられそうなものだけ。そもそもこれしかない。だてに貧乏生活を続けていないから、俺もよくハンペンの世話にはなっている。安い割には旨いし、使い勝手もいい。
でも前にこの部屋で一度だけハンペンを使った時には、安っぽいとか犬の餌とか、とんでもなく失礼な感想を連発された。だからあれ以来、三上のためにハンペンを買うことはなくなっていたのに。
なんでこいつは、自分でこれを選んできたんだろう。

調理台の前に立って、袋を破いていいのものかと三上の顔を窺った。すると三上はすぐ隣にきて、俺からハンペンをふんだくると、ベリッと。

「あ」

ためらいもなく破った。三上が。ハンペンの袋を。

「トロイんだよ早くやれ。前に出してきたのあっただろ。アレ」
「へ?」

というと…安っぽい犬の餌?

「この前、さんざんマズイって……」
「黙ってやればいいんだよ」
「……実はウマかった?」
「いいからやれ」

ウマかったんだ……。
分かりづれえー。感想くらい素直に言えよ。

「……食いたいんなら作るけどさ、これ誰にでもできるよ? つーか作るってほどでもない」

ハンペン切って、バター焼きにして、醤油垂らしてまた焼いて。チーズ乗っけて、ちょっと溶かして、マヨネーズ噴射させて、出来上がり。
これを料理と呼ぶようになったら日本は終わりだ。

「どんな不器用にでもこれくらいなら出来る」
「うるせえな、自分でやるのはめんどクセエんだよ」

出たよ、横暴。慣れたもんだな俺も

仕方なくフライパンを用意して、ちゃっちゃか始める貧乏三分クッキング。いつまでも隣で見守っているはずがない三上は、早くもダイニングテーブルで寛いでいる。
スパスパと煙草を吸い始めたのを横目に、俺は手元でジュージューと地味な音を立てるだけ。あんまり好きじゃないマルボロのニオイは、バター醤油の香りで打ち消した。
しかしそれでも、漂ってくるのは白い煙。俺の身近でこれと同じのを吸っている人が、あともう一人だけいたと思う。みたいな記憶の糸を辿りつつ。ポツリと。

「……最近いつも冷蔵庫の中カラだけど、前によく来てたっつー女はどしたの?」

チーズを溶かしながらなんとなく。手を動かしているだけなのもつまらなくて、たいした意味もなしに訊いてみた。
三上にはヤリ友がいたはずだけど、俺はそれらしき人の姿を見た試しがない。いつも呼びつけてくるのは三上の方だから、それも当然と言えば当然か。
でもちょっと前までは、冷蔵庫が空になっていることは少なかった。男が一人で住んでいる割には、部屋の状態も良かった気がする。そういうのって女の影があってこそだろう。
だからこの部屋を奇麗にしているのは、そのヤリ友なんだと思っていた。勘違い女だと、三上が言っていた事もあったし。

けど、なんだかこれは……別れたかな。どうしよう。地雷踏んでたら。

「ああ、もう来てねえよ」

踏んでたー!
しかも、シレっと言われた……!!

当たらなくてもいい予想は当たるようだ。三上は女と終わっていたらしい。そんな他人の事情はどうだっていいんだけど、俺が内心でビクビクしているのは別の理由。要らん事を言っちゃったせいで、三上の逆鱗に触れていたら嫌だなあ、と。
ところが三上は相変わらず煙草を吸い続けていて、怒っている様子も気分を害した雰囲気もない。何のリアクションもしてこないからチラッと顔色を盗み見れば、俺の地味な料理風景を詰まらなそうに眺めていただけだ。

「……なんで別れたの?」

また訊かなくてもいい事を。どうしてさっきから余計な一言ばっかり口走っているんだ俺は。
でもやっぱり、三上は大した反応も示そうとはしない。

「元々付き合ってたワケでもねえし。最初ヤルだけだったのがそのうち勝手に上がり込むようになってって、ウザいからそろそろ切ろうとは思ってた」
「とことんサイテーだよね」
「悪かったな」

投げやり。然っ全、悪いと思っていない奴の答え方だ。やっぱこいつ、結婚という概念からは誰よりも遠い。





焼きあがったハンペンを皿に移し、一緒に箸を持って三上の目の前に出した。俺もその向かいに座って、貧乏学生みたいな食い物をつまむ。うん。ウマい。さすが現役ビンボー。
俺の前にいるハンペン好きな男も、顔には出さないけどたぶん満足しているんだろう。パクパク食ってる。

「ウマい?」
「マズイ」

コノヤロウ!
訊いて損した。精神年齢が極端にお子様な三上だ。味の感想を求めても、嬉しい答えが返ってくることはあり得ない。
違うか。精神年齢だけじゃないな。三上はこう見えて、食の好みもガキっぽい。ピーマンは死んでも食わないし、反対に好きな物はふっくらタイプの卵焼き。
何食いたい?って訊いてみて、前に一度だけ答えてくれた事があった。その時の答え。オムレツ。
そんな可愛らしい単語が三上の口から飛び出してきた時には、自分から訊いたにも拘らず俺は思わず噴き出した。見た目ギャップもいいところだ。

あ、もしかしてこれかな。俺があの時笑っちゃったから、三上は食べたい物のリクエストを拒否するようになったのかもしれない。
意外にも傷つきやすい?

「……今度オムレツ作る?」
「あ?」

ハンペンの似合わない顔でハンペンを食いながら、脈絡もなく問いかけた俺に目を向けた三上。ここまでハンペンが似合わない日本人も珍しい。そんな三上に罪滅ぼしの意味も兼ねて、オムレツの誘いかけ。

「オムレツ食いたいって言ってたことあったよな? 作ろうと思えば作れるよ?」
「…………」

お、ちょっと揺らいでる感じ。慣れてくると面白いな。オムレツなんかほんとは作ったことないけど、それらしい形くらいにはなるだろう。
俺がここまでしてやる義理がないというのはその通り。でも暴君三上に比べれば、お子様三上はまだ可愛げがある。
ピーマン嫌いとか、ハンペン食いたいとか。焼き魚出したら、小骨取ってとか言いそう。なんとなく憎めないから、オムレツについては善意の提案。だけどその思いはあっさり裏切られた。可愛げを見せていようが三上は三上だ。

「作りたきゃ勝手に作れ」
「…………」

三上は三上だ。

「つーかハンペン、まっず。マヨネーズの味しかしねえよ」

ここでこいつを蹴り殺しても、俺にバチは当たらないと思う。









***









ストレスの一夜が明けた。三上の抱き枕にされていた俺は、半端ない肩こりのせいで寝た気がしない。

そしてバイト先での休憩中。いまだに肩こり取れてません。缶コーヒーを片手に、さっきからコキコキと鳴らしている首。事務作業とは縁遠いブルーカラーな若者である俺が、どうしてこうも肩こりに悩まされなきゃならないのか。
そんなの決まってる。三上が悪い。枕営業の有り無しはこの際どうでもいいけど、泊まる度にどこかしら痛くなるのは癪だな。
お互いにとって得がない。三上は何が楽しくて男の体を抱き枕にしてんの。心からそう思うけど、三上の気質は神がかり的に奇怪だ。

自販機の近くに設置してあるベンチでぐったりしながら、濃厚ブラックなコーヒーを仰いで喉に流し込んだ。ところが思いの外、頭はすっきりしてくれない。今日が三上の遅番の日で良かった。何日も続けて会おうとするには、なかなか忍耐力が必要になってくるあの男。
ピーマン嫌いなくせに。態度だけは一人前でいやがって。今度飯を作れなんて言ってきた時には、細切れにしたピーマンを卵に混ぜて焼いてやる。チマチマしすぎているせいで箸で避けられずに苦しめばいい。
段々恨みが深くなってきた。仕返しの仕方は相当に幼稚。惨めな気分で項垂れて、手に持った空の缶をゴミ箱めがけて放り投げた。缶はカコン、とゴミ箱の縁に当たり、弾き飛ばされて床に落下。いつもだったら入るのに。余計に惨めな気分になった。

溜息も出ずに肩だけを落とし、床と仲良くしている缶を拾い上げて今度こそゴミ箱へ。すると調度その時、ズボンの裏ポケットに突っ込んであるスマホが鳴った。
出るのは躊躇う。三上かと思って。だけど多分、あいつは俺の昼休みを見越してかけてきたんだろうから、出なかったら出なかったで後々煩いことになる。

ああもう、仕方ねえ。出てやるか。

しぶしぶながらスマホを手にしたけど、目に入った名前を見てちょっと拍子抜け。

「……ハイ」
『よお。久し振り』
「はい……。どうも」

身構えていたせいで答え方がよそよそしい。電話の向こうでは、三上ではない相手が笑った。

『なんだ、どした。暗いぞお前』
「やーそうですか? 普通ですよ。センパイこそどうしたんですか、こんな昼間に。仕事クビになった?」
『失礼なヤツ』

笑った声。三カ月ぶりくらいだったかな。この人と話すの。ちゃんと会ったのは一年前が最後だ。
挨拶もそこそこに、向こうからの要件は簡潔だった。

『なあ急なんだけど今晩ヒマあるか? バイト入れてんならいいんだけど』
「え? あー、いえ全然ヒマなんですけど地元帰ってる余裕はないです」

この人が今いる場所は、俺が育った場所のはず。ここからだと電車で一時間強。帰れないこともないけど疲れる。
と思ったけど、人類全てが三上のような横暴野郎な訳じゃない。むしろこの人は優しい部類だ。久々に会おうとする人間を、遠くへと呼びつけるような真似はしなかった。

『いや、俺も今は地元出てコッチにいるんだよ』
「え? ああ、そうなんですか。いつから?」
『先々月くらいから。お前、あのアパート引っ越してない? あそこから二駅先のトコ』

へー。知らなかった。言ってくれれば遊びに行ったのに。食い物恵んでもらえるし。
て言うと本当に面倒みてくれちゃうような人だから、甘えたいのをグッと堪えて世間話へと移行した。

「地元出てどうしてんすか? 仕事は? 変えた?」
『いや、変えたっつーかやってる事は同じ。知り合いに誘われて作業場移ったんだ』
「あーなんだ。マジでクビ切られたのかと思いました」
『ホント失礼だな』

失礼と言いつつ笑っているこの人。三上だったらこうはいかないから楽しい。

ああだこうだと言い合いながら、ユルい話をスマホ越しに交わす俺達。そのやり取りは数分の間続き、俺の休憩時間が終わる頃になって、今晩会おうと約束をした。
一日のバイトを終えて向かうは、家からでも歩いて行ける距離にある駅。センパイの方から来てくれる事になっていたから呑気に待っているだけで良かった俺も、一応は迎えに行った。
なんてったってこの人は、ヤンチャな高校時代のセンパイ。本当だったらもっと敬うべき一個上の男だけど、色々と云々カンヌンな出来事があったから、昔から可愛がってもらっている。そのセンパイを三年ぶりに目にした。




「どーも」
「なんだ、待ってたのか。家にいて良かったのに」

駅の外に出てきたセンパイを見つけ、歩いて行った先で面と向かって言葉を交わした。懐かしいというよりも、馴染んだ感覚の方が先に来る。電話ではちょいちょい話していたから、伝わってくる雰囲気はいつでも一緒。

「悪いな。どんくらい待った?」

おー、さっすが。今の言葉、三上のヤローに聞かせたい。
わざわざ後輩の元に出向いてくれた上に、気遣いまで見せてくれる。そんな人が相手なら、俺だって常に素直でいい子だ。
 
「いえ、全然。俺もバイト帰りなんで。センパイは仕事いいんですか?」
「今日は元々休み。お前もこの後バイト入ってないんだよな? とりあえずメシでも行くか」

やったよ。迎えに来て正解。期待の眼差しで先輩を直視した。

「……そんな顔しなくても奢ってやるよ」
「いやー悪いですよー」
「ヘタな演技やめろ。スズって飯と酒と金の話が出ると急に可愛くなるよな」

高校ではセンパイが卒業するまでの二年間、結構な割合で奢ってもらった。それからもごく稀に会う機会があると、確実に奢ってくれた。
今回も然り。可愛いと思われているとは知らなかった。

駅でずっと喋っていても頭悪いし、入る店を探しがてら二人並んで適当にぶらつく。駅前の通りを歩きながら、男二人の会話に上がるのはどうでもいいような内容ばかり。だけど時々、真面目に自分の近況も話したり。
一年のうちにしばしば、センパイの気の向くままに電話が入る事は良くある。この人は高校を卒業してから車やなんかの修理工場で働き始めて、そこで仕事をしながら整備の資格を取った。聞けば今の職場というのも、当時通っていた整備学校で知り合った人に誘われた所らしい。

センパイは昔から好きだったもんな。車とかバイクとか。エロ本よりも高級外車の雑誌で盛り上がれるこの人を、変人だと罵ったらちょっと本気で怒られたことがあった。人の趣味は馬鹿にしちゃいけない。
そんなような思い出話をタラタラとしていたら、隣から俺を眺めてセンパイが笑った。

「なんつーかなあ。ほんと変わんねえよな、お前は」

それはどういう意味だろう。若くて元気なままだって、ポジティブに取ってもいいかな。じゃあ、俺もお礼しないと。

「センパイはちょっと老けました?」

俺流、お礼の言葉。センパイは呆れたような笑い。

「落ち着いたとかイロイロあんだろ、言い方」
「ああ、貫禄出たとか?」
「先にそっち言えよ」

ユルイ。この人と話していると本当に緩い。いいなあ、なんか楽。ストレスとか一つもない。
俺がほしかった話し相手はこういう人だ。最近、三上による拘束時間が長いためか、落ち着ける人と一緒にいるだけで妙に和む。

だけど高校で初めて顔を合わせた時は、お互い心象は最悪だったと思う。
センパイは俺があの学校に入学した時、すでにピラミッドの頂点にいた。イキがったガキのイキがった遊びだと馬鹿にしていると、物凄く痛い目に遭う仁義なき戦いの勝者。

中学で頭悪すぎて、それでも高校だけは行けと鬼みたいなお袋が煩くて、そこしか受からなかったから仕方なく入学したヤンチャ高校。何も考えずに入った俺は、そこまで荒れた場所だなんて知らなかった。
ポヤンポヤンとしつつ男まみれの地獄生活を送りながら、なんとなくケンカ吹っ掛けてくる奴は多いなあとは思っていたけど。フルボッコにされるのは怖いから、来る者拒まずで相手をしている事数ヶ月。怯える子羊が頑張って身を守っていただけなのに、階層の頂点に君臨していたこの人は、そんな俺に一発で目をつけた。

このセンパイ。夏川春樹。夏だか春だかハッキリしろよと思った、初対面当時。
わーわー周りで囃し立てられながら、半ば強制的にセンパイと及んだタイマン勝負。サシでやったらやっぱり強くて、完全アウェーな状況の中でガンガン殴られた。

見た目はいかにもな番長体格という訳でもなく、センパイはどちらかと言えば細身。ところが中身は外見を裏切り、悪ガキの頭をやっているだけはあった。
でもそこは俺だって男なんだし、いくら子羊と言えどヤラレっぱなしと言うのは格好悪い。だから一発殴られたら、一発殴り返すのは基本。足払われたら寝技で返して、鳩尾に膝が食い込んできたら悶えながらも頭突きで応戦。
俺がやり返す度に周りからは怒号が飛ぶけど、いちいち気にしていたら確実にオトされる。

一度舐められたら終わりだろうなと、良く分からないながらに感覚で察していた。残りの二年半をボロ雑巾扱いで過ごすなんて嫌だから、夏川を負かしてやろうと俺も必死。ここで降参するのは地獄行きを意味する。
それでだ。命懸けで挑んだ結果、相討ち。お互いがお互いの頬に最後の一発を決めて、ほぼ同時に地面へと倒れ込んだ。俺の顔のすぐ近くにセンパイの顔があるのが分かったけど、俺はセンパイの方を向く体力が残っていないし、それはセンパイも同じ。
二人の男がボロボロになってゼーハー言ってって、そこで俺のチャレンジャーな勝負は終了。以来、センパイとは馬鹿みたいに仲良くなった。

と言う。見事なまでの、なんだそりゃ展開。
頭の悪い男が集う高校のノリってこんな感じだ。一対一の男同士が張り合えば、その後も因縁を引きずるか、急に打ち解けて仲良くなっちゃうかのどっちか。
俺とセンパイの二択はたまたま後者だったというだけの話。ただ一つだけ、俺達には今だに張り合っている事がある。

「だから、ゼッテー俺のが後だった。スズが先に倒れて、後から秒差で俺がダウン」
「違いますって、あれは俺の勝ち。つーか状況からして俺のが明らかに不利だったでしょ。周り中、皆センパイの応援してんだもん」
「俺だってそれと同じ状況で前のアタマ張り倒したよ。脳ミソ軽そうなゴリマッチョだったな」
「むしろセンパイは見た目が詐偽ですよ」

これ。卒業してから数年も経つのに、いい歳こいた男が顔を合わせる度に同じ事を言い合っている。
馬鹿な事してたよなー、とかなんとか言う割には、お互い自分の勝ちを譲ろうとしないまま時間は経過。センパイも早いとこ負けを認めればいいのに。


「吸うか?」

大通りから小道に入ったところで、センパイは一服し出した。慣れたニオイは三上が吸っているのと同じものだ。定番過ぎるマルボロ。十代でデビューするには頑張った感じ。
それをついでに俺の方にも向けてきたけど、首を振って答えると思い出したように箱を仕舞った。

「そっか、吸わねえんだよな。いつも思うけど普通逆だろ。嫌いなら未成年でやるなよ」
「だってあの高校、悪い事してないとイジメられますもん」

タバコと無免許は悪い子の必須項目。今考えるとかなりアホっぽい。

「イジメ返したろ、お前なら」
「しませんよー、俺イイコだから」
「どこが」

どこがって言われた。結構ホンキで、俺は自分をいい子だと思っていたんだけど。今更ながらに周りからの評価を知って、でもまあ別にいいかと気にはしない。
いい子でも悪い子でも、毎日飯が食えればそれでいい。ヤバい世界にうっかり入って行きさえしなければ。
……困った、入って行ってる。ある意味ヤバい世界。俺、男相手に売春してる。ほぼ無料だけど。

「ここでいいか?」
「え? あ、ハイ」

自分の身の振り方をよくよく考え始めていたその時、隣から声をかけられてキョドる。目線の先にはどこにでもあるような居酒屋が。歩くのに飽きたセンパイに連れられ、一緒に中へと入った。
接客業の割にはいささか元気のないバイトの兄ちゃんに案内されて、俺達は二人がけのテーブル席についた。人の奢りなのをいい事に、早々にポンポン注文したってセンパイは怒らない。今日はいい日だ。

「そういやセンパイ、話あるって言ってませんでした?」

数分後。突き出しの枝豆をパクパクとつまみながら、ケータイでのやり取りをふと思い出した。
ちっさい緑の豆に、せっせかとがっつく俺。頬杖をついてその様子を眺めていたセンパイは、小さく笑ってはいるけど呆れている割合の方が多い。

「そういやって、随分だな。元の要件はそっちだ。豆と戯れさせるために呼んだんじゃねえぞ」
「似合う? 豆」
「恐ろしく似合う。スズはなんとなく豆っぽい」

自分で訊いといてなんだけど、微妙。豆っぽいって何。やっぱ貧乏くさい感じが出てんのかな。
センパイから貶されても、あんまりイラっとはしないから不思議だ。

「で、なんですか? 話」
「ああ、まあ。そんな大した事でもねえんだけどな。お前、就職とか考えたことある?」
「就職……?」

就職なあ。底辺高校出身者なんて雇ってくれる所はないだろうし、たとえ奇跡的にどっかに入社できても、一年持たずに辞める可能性は大アリ。だから高校が終わるよりも前から、生涯バイトでいっかー、という現代っ子な考えしか俺にはなかった。
そしてそれはセンパイも知っている。働きながら勉強をしていたセンパイは、俺が卒業する頃に仕事の事をやたらと心配してくれた。その時はまだ両方とも地元にいたから、わざわざ会いに来てくれたこともあって、本人の俺よりセンパイの方が真剣だったと言っても過言ではない。
でもまさか、改めてこんな話をされるとは。黙ったまま見返していると、センパイがいきなり核心をついた。

「俺が今いる会社で働いてみねえか?」

先輩がいるトコ?

「え……整備工場ってことですか? 俺には資格も下積み経験もないですよ?」
「いやそうじゃなくて、整備工場所有してる会社。サービスステーションの経営とか色々やってるとこなんだけどな、俺の勤め先からすぐの場所にある店舗でスタッフ募集してんだよ」

あー、なるほど。サービスステーション。あれはバイトだったけど、昔一度だけやってた事があったな。俺にしては結構長く続いてて、いつだったかセンパイとケータイで話していた時に、割と楽しいみたいな事を言ったかもしれない。
もしかして覚えてた?

「お前の問題だから俺が口出すような話じゃねえし、その気があるならってだけだけど。でも嫌いじゃねえんだろ?ああいうのも」
「……はあ。まあ」

覚えてたっぽいな。面倒見よすぎだよセンパイ。

「考えるだけ考えとけ。募集の締め切り、まだ先らしいから」
「あ、ハイ。どうも」
「……ほんと変わんねえなお前。大丈夫かよ、そんなポヤポヤしてて」

のほほんと聞いている俺に危機感を覚えたらしく、センパイの眉根がいくらか寄った。それを見て思わずヘラッとする俺。アホな後輩のせいでセンパイはがっくりだ。

「スズのこと放っといたらいつのまにか死んでそうで怖いよ」

そこまで?

「あ、たまに電話かけてくるのってもしかして生存確認でした?」
「……半分はな」
「あー、半分。そうなんだー。なんかここまで心配されんのも男としてどうなんすかね?」
「知らねえよ。心配されるようなことしてんなよ」

ごもっともです。すんません。
反省したところで、タイミング良くオーダーした品が運ばれてきた。俺の頭が飯に切り替わるのは早い。タダで食える皿の上の料理に浮かれ、酒の入ったグラスを手に取り、特大の溜息を寸での所で持ち堪える先輩に一礼。

「乾杯センパイ。いただきまーす」
「早え……」
「んー……っんまい」
「…………」

酒のペースも超はやい。





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