夜中の2時ごろ

わこ

文字の大きさ
上 下
7 / 15

7.人生甘く見ていると変なところで突き落とされるらしい。

しおりを挟む

あったまイター、な翌朝。いくらなんでも飲みすぎた。

センパイの部屋の中のセンパイのベッドの上で目を覚まし、寝室を一周見渡しても誰の姿も確認できない。壁に掛かった時計を見ればすでに十時を過ぎているから、とっくに仕事へ行ったのだろう。
覚醒したのに途中からの記憶は存在しない。考えるまでもなくぶっ飛んじゃってる。ここまで飲んだのは初めて三上と会った時以来だ。

喧嘩して祝杯を挙げて、それがきっかけで男と関係を持つようになって。改めて思い返してみても俺はどうかしていたと思う。世話を焼いてやってる後輩がおかしな方向に道を踏み外していたなんて知ったら、さすがのセンパイでも俺のことを見放すかな。
頭を押さえながら、ボヤボヤと巡らせること数分。妙に重苦しい体をベッドの上で起こした。だけどその時、何気なく斜め下へと落とした目に映った物が一つ。ベッド脇の壁際にこじんまりと置かれたそれ。
ごみ箱の中身を眺めた。

「…………」

今更ながら気がついた事がある。そういえば俺、服着てないんだけど。
布団の上に投げ出した腕を茫然と見下ろし、そしてもう一度ごみ箱を振り返った。

「…………」

ちょっと。ちょっと待って。頭抱えたってどうにもならないけど、少しの間だけ整理させて。
これは何。どういう事。なんで俺は服着てないの。
ていうか問題なのはこっち。ごみ箱の中でこんもりしてる、大量の使用済みティッシュ。更にはその上に捨ててある、やたらと原色なこの箱が極めつけ。
ちょっと待ってよ。まずいだろコレは。何が激薄だ。何が抜群のフィット感だ。現物証拠突き付けてくんのヤメロよ。

「……あー、もー……」

両膝を立て、動揺するあまり布団の上から抱え込んだ。額を引っ付けて現実から逃れようとするものの、どうやらそれは許されないらしい。
映画のワンカットみたいに、一部一部の細切れになった光景が見える。酔い潰れてまともな思考の持てない俺が、センパイとここでした事を断片的に思い出した。

あり得ない。どうしよう。やっちゃった。するはずのないコトを仕出かした。継ぎ接ぎだらけの記憶の波が、一気に押し寄せて襲いかかってくる。
俺はどこで何を踏み誤ったんだっけ。制裁でされたキスの後、それでも懲りずに俺はどんどん飲み進めていた。次の日が休みならゆっくり寝ていられるからと、下世話な話も止めることなくセンパイを困らせ続けた。
それだけだ。それだけのはずだった。フワフワしてて居心地が良くて、どんなに迷惑な言動をしても許してくれるセンパイに懐きまくって。
気づいてみればこんな状況。完全にふざけてる。

理解ができない。なんでこんな事に。どういう経緯を踏めばこの事態に陥るんだよ。いくら酔っていたからって、センパイと寝るって頭おかしいだろ。
ゴミ箱の有り様に面食らい、自ら及んだ過ちに二の句が告げなくなった。俺の馬鹿さ加減にセンパイが付き合ったというのも不思議なもんだけど、とにかく悪いのは俺だろう。
この薄い記憶が正しければ、先に絡んだのはこっちだ。下品ついでにセンパイを誘って、その悪戯にセンパイが乗った。
どうすっかな。俺が今一番しなければならないことって何だろう。

……うん。そうだよな。まずは起きよう。

脱ぎ散らかした服を着込み、重い体でベッドから抜け出てからは、痛んじゃいけない場所の痛みから頑張って目を背けた。なんだかもう、気付かなかった事にして忘れたフリとかしてもいいかな。っていう現実逃避までしたくなる。
駄目だろうなあ、これは。寝室を出た先で、リビングのテーブルを目にして気落ちさせられた。
目覚めた俺が猛烈な頭痛に襲われることを、センパイはどうやら予期していたようだ。テーブルの上には小さな瓶が置いてある。ザ・二日酔い!!なんて書かれたラベルが貼ってある定番のやつ。

煽り文句が妙にイラっとくる。窮地に立たされている俺の精神状態がそうさせるのかな。でも本当に気になるのは、瓶の隣に置かれてあるここの部屋の鍵。
どうしてこんな場所に鍵なんかがあるのか。答えは簡単。俺のためにセンパイが置いて行ったから。

毎回この部屋に泊まった翌日の俺は、先輩に仕事があろうと自分が休みなら好きなだけ寝コケている。見送りもせずにグースカと。俺は呆れるほどに礼儀を弁えない後輩です。
だけど今まで一度だって、そんな俺をセンパイが無理に起こしていったことはない。ただ戸締りはして来いという意味で、こうして鍵を置いていってくれるだけだ。二つある内の片一方である、この部屋のスペアキーを。
借りた鍵をどうするのかも既に定型化していた。帰り際、古典的な方法で外からポストに投げ込んで返す。
ところがそんな事態が何度か続いているせいか、いい加減センパイも面倒になってきたらしい。この鍵を俺にくれると、そこまで言われたのはつい最近の出来事だっだ。

好きな時に来ていいから、欲しければいつでも渡す。その時センパイはそう言った。
その言葉が示すところは、俺が泊まる度に引き出しの奥からスペアキーを出し入れするのが億劫になったというもの。そう考えるのが普通。
だからあれは遠回しな嫌味で、鍵をくれるなんてさすがに冗談なんだと思っていた。センパイがどんなに善人だろうと、後輩の男に自分の部屋の合鍵を渡すなんてマネは普通ならしない。
少なくとも俺だったらしない。だけどセンパイはした。

俺の目の前に今あるモノがその証拠だった。小瓶と鍵の隣に置き捨てられた一枚の紙切れ。
「返さなくていい」と、シンプルな走り書きが残してある。

「…………」

仮にだ。いつもと全く変わらない朝を迎えていたとしたら。こんな紙切れを目にした俺は、先輩の半端ない世話焼き根性に一直線で飛びついた。
ホントにくれたよ、やったね。これでこの部屋の酒は俺の物だ。
という感じに。

どこまで行ってもとことん最低なのは百も承知だけど、生憎いまの俺はそこまで浮かれてはいられない。一晩ヤリ明かした相手に鍵を突き付けられても、素直に受け取っていいものかどうか凄く悩む。
不本意にも俺は三上で慣れちゃったから、男と寝たって別に今更なんとも思わない。でも相手がセンパイとなると話は別だ。
俺がっていうか、どっちかって言うとセンパイが。だって、大丈夫かなあの人。きっと今頃とんでもなく後悔していると思う。

男を抱いた経験なんて、普通の男は持ちたくない。俺がどうやってセンパイをタラシ込んだのかは覚えていないけど、嫌な記憶を植え付けちゃったのは間違いないはずだ。
酔っ払いの戯言に付き合ってやったせいで、気づけば年下の男と寝るハメに。どんな罰ゲームだ。
哀れだなあ、センパイ。あほだなあ、俺は。

「…………何してんだろ」

出来ることっつったら、呟いてみる事くらいだ。男の寂しい一人暮らしを紛らわせるため、金魚を飼い始めた時にだって話し掛ける事はなかったのに。追い詰められて出てきた独り言には、返ってくる慰めもなかった。
テーブルの上を眺め、しばらくの間はどんなアクションも起こせずに直立不動。だけどそうして立っていると、ズボンのポケットに突っ込んだままになっていたスマホが振動した。

「…………」

スマホって、便利なようで不便だ。どれだけ縛られてんだよ現代人。頼むからセンパイじゃありませんように。スタンドの店長でも誰でもいいから、何が何でもセンパイだけは勘弁してください。
そんな事を思いつつもしぶしぶ。勝手に切れてくれないかなあと、儚い願望を抱きながら出来る限りゆっくり手にとって、発信元の名前を確認。
その瞬間、重力による加速度とともに落っこちてきた漬物石が俺の胃の内壁にぶち当たった。それくらい気分が重い。ズシっときてる。

「…………はい」
『わりい。寝てたか?』
「あ、いえ。さっき起きたトコです」

一言目に詫びを入れる知り合いなんて、俺の知る限りセンパイを除いて他にいない。たぶん俺が起きだす頃を見計らって掛けてきてくれたんだろう。電話の奥からは、作業場の騒音がいくらか入ってくる。
さっき起きたなんて余計な事を言っちゃったから、電車来たとか何とか言って会話を逃れるセコイ手段もとれなくなった。困ったな。困ったとしか言いようがない。今まで生きてきた中で一番困っているかもしれない。
センパイはどういうつもりなんだろう。声の調子からは怒っているとかその類のものは感じ取れないけど、気まずいのは取り敢えず当たり前。

「あの……俺……」
『うん?』
「…………」

ここで詫びを入れるのも変かな。夕べはヤラせちゃってすみません、とでも言えばいいのか。アホだろ。
一度呼びかけたせいで、センパイは俺の言葉を待ってくれてるようだ。だったら何か言わないと。けど、何を言えばいいんだろ。
危機を脱したい一心で、容量の狭い頭を捻った。三秒ほど。

「……俺、ウニの塩辛ハマりました」
『ああ、そう?』
「…………」

ウニって!ウニって……ッ!
アタマの容量狭いにも程があるだろっ。絶対いま言うことじゃねえよッ。

「あの、そうじゃなくてですね……」
『俺もあれは貰ったもんなんだよ。どこで買えんだか今度聞いとく』

まさかだね。この話に乗ってきた。しかもまた食わせてくれそうな言い方。

「……どうも」

ちげーからー。もー、ホント違うよ俺。しっかりしろよ。
スマホを持ったまま頭を抱えて、上手くいかない流れに項垂れた。センパイだって仕事中で暇じゃないんだから、意味のない無駄話に付き合わせていちゃマズイ。
ここは腹を決めて、核心に触れないと。簡潔にまとめられるようにズバっと、それでいて慎重に。

「センパイ、夕べのこと……覚えてます……?」

慎重に……と意気込んだのに、言ってから間違えたと思った。俺じゃないんだから覚えてるよ。

『覚えてる。そりゃそうだろ』
「……ですよね」

ほら見ろ。センパイの尤もな切り返しに俺はトーンダウン。もしかしてセンパイなら、全部なかった事にしてくれるんじゃないかと一瞬過ぎったのは秘密だ。人生そこまで都合良くはいかない。

『お前は? 記憶無いとか言うなよ』

肩が重い。腰が痛い。忘れてくれるどころか追い詰められた。ここで記憶無いなんて言えたらどんなに楽だろう。

「……あります。一応」

細切れのボンヤリした記憶が。状況だけで判断すれば、間違いなくヤッたんだろうなと。察しがついただけで、ほとんど覚えていないんですが。
だけどいくらなんでも、そこまで本当の心内は明かせない。記憶もあやふやな事だし、ここは全て無かったことにして綺麗に忘れておきましょう。とかなんとか。
とはいえ今の俺の状態は、顔色も良くないガチガチモード。歯切れの悪い口調と言葉は、センパイにおおよその事実を悟らせたようだ。仕方ないなといった感じに、小さく笑った声が聞こえた。

『一応、ね。まあいいよそれでも。覚えてるなら』
「……怒ってます?」
『あっ? なんで?』
「なんでって……」

なんでもなにもないだろう。事故だろうとなんだろうと、俺達は一線を越えっちゃった。
怒らないにしても、もっと別の気持ちの表れくらいあってもいいじゃん。落ち込むとか後悔するとか。なのにセンパイは俺の想定をことごとく裏切ってくる。

『俺が怒る意味なんかねえだろ。正直ヨかったし』
「そう……ん?」

良かったって何。ただでさえパニックに陥る寸前な俺をセンパイはさらに追い詰めてくる。

『怒ってるっつーより驚いてるよ。スズのこと大体は知ってる気でいたけど……案外そうでもねえんだな』
「え、っと……なにが……」

訊かなきゃいいのに。

『お前が男に慣れてるとは思わなかった』
「…………」

訊いてみちゃうからこんな事になるんだよっ。

何を躊躇うでもなく、センパイは普通の声色でそんな事を言い出した。内容も内容だから、聞かされる俺は急激なめまいに苛まれる。
クラクラしそうだけどそんな場合じゃない。一刻も早く誤解を解かないと俺の沽券にかかわる。元々あって無いような沽券だけど。

「あのですね……なにも慣れてるわけじゃなくて……」
『安心しろよ。誰に仕込まれたかなんて聞かねえから』

人の言い訳遮ってまでそんな事言うのかよ。やめてよ。生々しいよ。マジで俺、夕べ何しただろう。
そうやって一人で頭を抱えていても、電話の向こうにいるセンパイは呆れる程にいつも通りだ。

『なあ、そんな事より鍵わかった?』
「えッ? あ……ハイ……」

センパイにとって俺達がここでしたコトは、そんな事なんて言えちゃう程度のものらしい。こっちは心底ブルーだって言うのに、さっさと話を変えたセンパイはケロッとしている。

『やるよ、ソレ。覚えてんだか知んねえけど、夕べずっと騒いでたし。鍵寄越せって』
「……はい?」
『うちの酒は全てお前の物なんだってな?』
「…………」
 
その言葉で理解した。出したんだな。心の声を。酒に呑まれた俺は。
からかい目的八割なセンパイの厭味で、なんだか別の意味で気まずくなった。苦心ついでに最後はとうとうだんまり作戦。変な事を言って墓穴掘るのも嫌だ。なのにこの人が言ってくるのはこんな事。

『どしたよ。今日はやけに大人しいな』

大人しくしていたいんだってば。センパイってこんな人だったかな。楽しんでるようにしか思えないんだけど。

「……センパイ、仕事は?」
『すぐ戻る。そんな邪険にするなよ』
「いや、そういう意味じゃ……」

逃げ道まで遮断されるという。もうどうすりゃいいの俺は。
クスクスとセンパイが笑っているのを聞きながら、テーブルの上の鍵を何とはなしに手に取った。勤め先から近いこの部屋を寝床にできたら楽だろうなと、軽く考えていた昨日までが懐かしい。
こんな経緯で実際に受け取ってみれば、とんでもなく重く圧し掛かってくる代物だ。ズッシリくる鍵を眺め、心の中では小さく溜息をついた。
どの道このままって訳にはいかない。ズルズル引き摺りでもする前に手を打たなきゃ。
 
「……あの……やっぱ、いいです……カギ」

ここは謙虚に。太々しい俺だけど、これは受け取っちゃマズい。センパイにとっては単純に約束を守っただけのつもりでも、これ以上気まずくなるのは困る。
俺にも多少の常識的な行動くらいなら取れると判明。それなのに返ってくるのは、相変わらず平然と構えている人間の声のみ。

『いいから持っとけ。心配しなくてもお前が考えてるような重いモンじゃねえよ。取って食おうなんて思ってねえから今まで通りにしてろ』

読まれてる。恥ずかしいな。
そりゃまあ俺だって、センパイの意図するところがただの善意だってことくらいは解ってる。けど、そうはいっても。

「……でも」
『使いたいときだけ使えばいい。部屋にお前一人くらい増えても気になんねえし』

俺が気になる。強引な人では決してなかったのにどうしちゃったんだ。
つーかその前に、センパイはいいのかな。俺みたいな野郎を部屋にズカズカ上がり込ませるなんて心配じゃない?
魔が差した瞬間に、俺が通帳の場所でも探り出したらどうする気だろう。そのうち印鑑ドコ?とか言い出すかもしれないよ。万が一にね。しないけどね。

「センパイ……なんでそんなに……」
『ん? ああ、悪い。ちょっと待って』

俺が途中で止めた言葉を聞き返そうとしたセンパイは、そう断ってから電話の向こうに向かって何かを言っていた。やっぱ忙しいんじゃん。煩い作業場でセンパイが声を張っているのが分かる。何を言っているかまでは聞き取れないけど、いつまでも俺と話していていい訳がない。
十代からの経験はあっても、今の職場に入ってからはそこまで月を跨いでいないセンパイ。シビアなご時世にクビでも切られたら大ゴトだ。

『スズ、悪い。また掛け直す』

少しして電話口に戻ってきた。掛け直してくれなくてもいいんですが。でも多分、断らなかったら絶対に掛けてくる。

「気にしないで仕事戻ってください。俺もそろそろ出ます」
『そうか? じゃあ、持ってっていいからな。鍵』
「…………」

なんだか圧力を感じる。珍しくセンパイから押し切られた。もう一度断ることもできずに、キッパリと言われて撃沈。

『お前が持ってろ。いいな?』
「……ハイ」

スマホ越しに、センパイは笑った。





***





その日はそれから、ぐだぐだダラダラ。家に帰って夜まで外に出ることもなく、重い体と微妙な気分を持て余して過ごした。
鍵はと言えば、とりあえず持って帰ってきたからここにある。ここにあるんだけど、それをどうしていいのかが分からない。

在り処はココ。通帳、印鑑、その他諸々の大事だけど滅多に使わない物をぶっ込んである棚の引き出し。うっかり行方不明になんてさせないように、鍵を引き出しの奥へとしまい込んだのは帰って早々の出来事だ。
苦しいのは分かっているけど、ここなら辛うじて俺の目につかない。いかにも貧乏なアパートだから、この部屋に泥棒が入りこむ事もほぼ百パー起こり得ない。これなら安心。大丈夫。センパイ宅のセキュリティーを、俺が原因で脅かしちゃう事態にはならないだろう。

そんな感じの事を延々六時間ほど、テレビの映像を垂れ流しにさせつつ裂きイカをつまみながら、夜の寂しい時間帯にズルズルと脳内で巡らせていた。ところ、

「…………」

鳴った。スマホが。今日一日、俺はこいつが鳴る度に挙動不審だ。そしてここで問題視すべきは当然、電話の相手方は誰かってこと。
例えば前にやっていた雀荘バイトの仲間から、貸した三百円を返せというセコイ催促の電話でもいい。かなり辛い妥協案としては、実家にいるお袋からやかましくも定期的にかかってくる最近どうなのコールでも、この際甘んじて受ける。

電話をかけてくるのは誰でも構わない。だけどできれば、あの人だけは本気で勘弁。センパイからの着信だけは、今は何があってもやめてほしい。
でもやっぱ、居留守はさすがに使えない。気まずさに押し潰されて気が狂いそうな心境だろうと、センパイをシカトなんて真似はいくらなんでも無理そうだ。
だから仕方なく、小さくため息をついてベッドの上に放り出したスマホを手に取った。ところが掛けてきた相手というのが、俺にとってはちょっと意外な人物。

「……ん?」

表示された名前を目に映して、数秒後にまた見返した。幸いなことにセンパイじゃない。三百円の取り立てでも、説教垂れる気満々のお袋でもなかった。
もう話すこともないと思っていたのに。かけてきたのはまさかの三上。今になって何の用だと思うよりも、意外なタイミングに驚く方が先だった。

「……ハイ」

本音を言えば出たくない。だけど三上が気になっていたのも本当。一番惨めなパターンで捨てられた屈辱は、本人に向かってどうしても一発ぶつけてやりたかった。それなのに思いの外、言いたかったはずの不満の言葉は出てこない。

「……なに?」

俺は何も言えなくて、かけてきたクセに三上も何も言ってこなくて、どっちも黙り込んじゃっていたら電話の意味がまるでない。止むを得ずこっちから訊いてみれば、三上の声を久々に耳にすることになった。

『今、どこにいる』

あー、三上っぽい。素っ気ない声質がいかにも。どこにいるってなんだよ。しばらく振りだって言うのに、突然掛けてきたと思ったらいきなりそれか。
俺達の別れ方は最悪の雰囲気だった。それが三上の態度といったら、つい昨日も会いましたみたいな慣れのある言葉の選び方だ。
相変わらず失礼な奴。少しはこっちの身にもなってみろ。

「……家にいるけど。なんか用?」

ムカつくから、俺も極めて普通に応対。ここまでくると意地だ。なんのつもりか知らないけど、用もないのに連絡を入れてくるような男じゃない。復讐だったらどうしようかとちょっとだけ心配な反面、もしもまたヤラせろなんていう内容だったら、こっちから殴りこみに行ってやろうと身構えた。
だけど三上の目的は、そのどちらとも判断できないものだった。いつもと変わらない声で、それでも少しだけ静かに言ってきた俺が予想できた範疇には、決して入っていなかったセリフを。

『会いたい』
「…………は?」
『会いに来い。今すぐ』
「……え」

目をパチパチさせている俺の状況。ポカンだ。何を今さら言いだすんだこの男は。
第一声は会いに来いじゃないし。会いたい、なんて可愛い言葉が先に来たのは何よりも驚き。言い方は三上っぽいのに内容が三上っぽくない。

「……何言ってんの?」
『聞いとけよちゃんと』
「いや、聞いてたけどさ……意味わかんないじゃん」
『言葉のまんまだろ。黙って会いにくりゃいいんだよ』

俺様な態度は健在なようで。やっぱムカツクよ三上。

「……なんで? 別に俺、あんたに用なんてないけど」

ツラを合わせて喋っている状況とは違う。スマホ越しの会話とくれば、俺にだって反抗の勇気くらい持てた。
淡々と突き返してやったこの言葉。気持ちのいい事この上ないね。

『お前に用があるかなんて聞いてねえよ。俺が来いっつってんだから来い』
「…………」

三上からしてみれば、俺の勇気はゴミ虫程度のものらしい。一蹴されて終わった。

『待ってる』

しかも自己完結。待たれたって困る。

「勝手に決めんなっての。行かないよ俺は」
『ならこっちから行く。迎え行くからそこにいろ』
「ムリ。この後すぐに出かけるから来たって無駄だよ」

超ウソ。出かける予定も場所もない。ところがとっさに出たこの言い訳は、思いの外三上の注意を引いた。

『……どこに?』

ぼそっと呟かれた低い声。いくらか機嫌が悪くなったような気もする。

「は?」
『どこ行くんだって聞いてんだ』
「なんであんたにそんな事言わなきゃ…」
『伊織』

なんなんですか。突然のお怒りモードは俺のせいですか。
上から叱りつけるように名前を呼ばれて思わず黙り込んだのは、数ヶ月間のうちに身に染み込んだ癖がそうさせる。三上対策用に編み出した、大人しくしておこう作戦による賜物だ。

『いいな。そこにいろよ。どこにも行くな』
「なに言って……」
『すぐ行く』

どもった俺の耳に届いた。三上は言うだけ言って、ブチっと切られた通話。
ツーツー鳴る音が虚しい。というか……

「……やばい」

殺される。なんか良く分かんないけど怒ってたっぽいもん、三上。ここで呑気に三上の到着を待ち構えていたらどうなるか。俺の命はないと思われます。
うん。そうだね。ここにいたって怖いだけだしね。

逃げよう。

しおりを挟む

処理中です...