夜中の2時ごろ

わこ

文字の大きさ
上 下
10 / 15

10.捨て犬拾いました。

しおりを挟む

キッチリしているかテキトーかと聞かれれば、間違いなく適当な部類。罪悪感に駆られて死にそうなときには、とりあえず忘れた事にして問題を放置する。誠実とか真面目とか、その手の単語からは最も遠い。
俺の事。分かりやすいように改めて自己紹介。




「すずー」
「おー?」
「暇じゃねー?」
「超ヒマー」
「客来ねえかなあ」
「なー」

ビックリする位やる気がない。サービスステーションスタッフ二人の会話。俺と、俺と同期組の小宮山だ。待合所の中にある椅子に深く腰掛け、ボヘーっとした空気感を垂れ流している。
でも違う。決してヤル気がない訳じゃない。ヤル気云々の問題以前に、忙しく立ち回る程の仕事がないという悲しい現実が。

昼休みを過ぎた辺りのこの時間帯、スタンドに立ち寄る客の数は一気に減少する。客の入りがチラホラと目立ってくるのは、あと少し時間が経って夕方になった頃になるだろう。それがいつもの流れ。
とは言え時間帯の問題を抜きにしても、この業界へのダメージはここ数年大きくなる一方だそうで。景気は悪いし燃料価格は高いし、ガソリンスタンドなんていう商売には向かい風が吹きつけている。

仕事があって金を貰えるだけでも、十分に恵まれていると思わないといけない。零細だろうと上場無縁だろうと、不況下にある割には安定した会社にいられる俺達は幸せだ。
と、いつだったかセンパイが言っていたのを聞いた記憶が、有るような無いような。

「なあ、すずってさー」
「んー?」
「整備の夏川さんとデキてんの?」
「はっ?」

何の話!?人が社会情勢について真面目な見解を(受け売りで)立ててんのに、俺の隣の小宮山君はつまんなそうな顔して何を言ってんのッ!
夏川ってのは勿論センパイのこと。整備工場はここからすぐ近くにあるから、スタンドのスタッフと工場の整備士はお互いに顔見知りの間柄になるのが当然だけど。

なんでそんな話になるかな。男同士だよ俺達。するコトしといてこう言うのもなんですが。
後ろめたい事実があるだけに、突拍子もない小宮山の問い掛けは心臓に負担のかかるドッキリだ。ガラス張りの屋内から見える、外の光が妙に眩しい。日中の太陽から精神的に責められる日が来るとは思いもしなかった。

「……何言ってんの? 客来なさ過ぎてイカレた? あと二時間もすれば忙しくなるから我慢してよ」

微妙。はぐらかすのヘタだな俺。乾いた笑いで誤魔化してはみるも、対する小宮山は二コリともしない。
横からこそっと小宮山の顔を覗き見て、思いっきりバレて目が合ったもんだからますます気まずくなった。あはって感じの愛想笑いで逃げてみたけど、あんまり逃げられた気はしない。

「結構ウワサあるよ」
「へ?」

ウワサ?

「……噂、って?」
「お前と夏川さんはアヤシイって」
「…………」

マジか―。逃げ切るどころかむしろ追い詰められた。
なんで。どこ発信の噂よ。もしかしてセンパイの家は盗聴でもされてんのか。
内心ではハラハラしながら、シレっとしている小宮山によって最終的には黙らされた。ところがこいつはお構いなしで俺を横目に見ると、ここでもやっぱりシレっとした雰囲気のまま、

「だってベッタリじゃん、お前ら。飲み行くと必ず二人揃って帰るし」

とか言ってくる。
仕事終わりに会社の連中何人かと集まって、飲みに行った事は何度かあったけど。帰る時は確かに、二人で同じ道に向かって消えたけど。
つってもそれは帰る方向が同じだったり、どうせだったらセンパイの家に泊まっちゃった方が距離的に楽だったり、次の日が仕事なら尚の事、朝確実に起こしてくれる人がいた方が安心だったり。だらしない人間なりのしょーもない理由があるんです。

「夏川さんって面倒見良さそうだよな。なんつーか、お前の保護者っぽい」

そうそう。まさしくその通り。
 
「でもそれにしたって引っ付き過ぎだろ。あいつら一回くらいヤッてんじゃねえかとか言ってる奴もいるよ?」
「…………」

あーあ。

「まあ、さすがにそれは冗談だけどさ」

冗談かあ。真実は一回どころの騒ぎじゃないんだけど。どこの下世話な奴が言ってんだか存じませんが言い訳の言葉すら出てこない。
でもそうか。前からこんな感じだったから気にもしなかった。俺とセンパイは傍から見ると引っ付き過ぎらしい。ベタベタしてる訳じゃないにしても、そこそこ大人のクセしてセンパイ依存度が高いのは否定できない。
だけどヤメらんないしなあ。いまセンパイ依存を解除したら、俺は間違いなく乙四の試験に落っこちる。

テキストを買ってからしばらく経つけど、センパイによる無料講習がなければ俺は未だに一ページ分も理解できていなかっただろう。勉強なんてものを、俺が続けているコト自体がすでに奇跡なのに。

「高校同じトコなんだっけ? 夏川さんと」
「え? ああ、うん……」

己の利益を優先させようと目論んでいると、余程ヒマなのか小宮山が俺とセンパイの昔話を持ち出してきた。人の事をヒヤヒヤさせるだけさせておいて呑気なもんだ。隣で立ち上がったかと思えば、足を向けたのはカウンター。無造作に設置してあるコーヒーポットへと向かう。
俺の分も持ってきてくれるかなあ、なんていう淡い期待はザックリ切り捨てられた。自分のためにだけにコーヒーを注いで戻ってきた小宮山は、カップ片手に座り直してダラダラと話を続けた。

「なんとなくさー、すずは十代の頃から全然成長とかしなさそうなきがする。つーかしてねえだろ?」
「……たぶん」

否定はしないよ。できませんとも。
だけどさっきからなんの話なんだろうね。一人だけコーヒー飲んでんじゃねえよ。
 
「いいよなあ。夏川さんみたいな人が先輩じゃ楽だったろ? 高校の時の先輩っつったら、部活でシゴキ倒された記憶しか俺にはないよ」
「あー、なるほど。部活かあ。俺の高校、部活なんかあったのかな」
「どんなガッコ行ってたんだよ。院?」

人の出身校を監獄扱いしやがって。まあ似たようなもんか。
隣から漂ってくる香りに負けて、俺も気怠い腰を上げた。客用に置いてあるコーヒーメーカーだけど、この時間帯はだいたい俺達従業員のちょっとした味方になる。
なんてったって、午後のこのヤル気が出ない感。無駄話に花が咲いちゃうのもある意味不可抗力。

「夏川さんとは部活の先輩後輩だと思ってたけど違うんだ?」
「んー……なりゆきで仲良くなった感じ?」
「だから、どんな。お前と夏川さんってやっぱ謎」

謎って言われても、他に言いようがないんだから仕方ない。備え付けのカップにコーヒーを注ぎながら、顔も向けずに適当に答えたところの反応。俺達の事を知ったって大して面白くもないだろうに。

湯気の立つ黒い液体を目下に、小宮山の隣の席に戻った。こいつとこんな話をしているせいで、今はあんまり考えたくない人の顔が頭に浮かぶ。
今でこそ、面倒見のいいお兄さんを前面に押し出しているセンパイ。キレると結構怖いし暴力三昧の日々を送っていたなんて言っても、もしかすると誰も信じないかもしれない。
だって超いい人だもん。ビックリするくらいいい人だもん。どうすりゃそこまで心広く構えていられるんだと言いたくなる程、菩薩顔負けの優しい人だ。
そんな人と昔のまま、実の兄貴以上に慕って、仲良くわいわいやれていたらどんなに楽だっただろう。いつでも優しいし変わらず面倒見もいいけど。気兼ねのないサッパリしていた関係を崩しちゃったのは、他の誰でもなくこの俺だ。

「センパイってさ……」
「なに」
「……すげえいい人なんだ」
「…………」
 
気が重い。俺にしては珍しく罪悪感を背負いつつしんみり呟いてみたところ、思いの外小宮山からのリアクションが返ってこなかった。横目でチラッと様子を窺うと胡散臭そうな顔で見られる。

「いや、知ってるし」
「……だよね」

周知の事実。

「今さら何言ってんだよ。そうやって意味があんだか無いんだか分かんないようなコト言ってるから変な噂が立つんだろ。今朝だって夏川さんと同伴してくるし」
「同伴って……」

キャバクラじゃないんだから。それこそ誤解生むだろ。あるイミ事実っちゃあ、事実だけどさ。
通常、俺の通勤手段は電車と徒歩。でも時たま、センパイの家に泊まった次の日は車に代わる事がある。
免許アリ自家用車ナシの俺がどうしてと聞かれれば、それは単にセンパイに送ってもらうから。工場の手前にあるこのスタンドに立ち寄って、センパイは俺をここまで送り届けてくれる。

………そうか。そりゃそうだな。奇妙な噂も立つな、これじゃあ。後輩が堂々と先輩を足代わりに使ってんだもんな。

「で。実際のとこどうな訳?」
「ん?」
「夏川さんと。デキてんの?」

なぜソコにこだわる。しつこいな小宮山。

「……デキてたら怖いでしょ。俺もセンパイも普通に女の子が好きだよ」
「あ、そう。じゃあ合コン行く?」
「はい?」

あ、そう。で片づけられた。しかも何やら誘いを受けた。
もうキョトンだよ。俺は小宮山のペースについて行けそうもない。

「この話はどこに向かって走ってんの」
「今夜合コンやるからすずも来いってトコ」
「初めからそれだけ言おうよ。回り道しすぎだろ」
「暇だから」

なにコイツ。

ただでさえヤル気が出ないのに、同期からの要らぬ攻撃によってグッタリ感が重なった。いつ死んだっておかしくない。
噂がほぼ事実ってのもあって、心労がヤバい事になっている。複雑な心境の中でジトっとした目を小宮山に向けると、ケロッとした表情で返された。

「すずは中身超バカだけど顔だけはいいし、一回そいとこ連れてってみたいと思っててさ。お前入れて人数ピッタリにしてあるから来いよ」
 
すげえ上からなんですけど。何様ですかあんた。

「ちなみに相手のコらは看護大の学生」

お。看護大生。と言うと……。
 
「行く?」
「行く」
「早えな」
 
聞かれて即答すると鼻で笑われた。
いや、だってね。将来の看護婦さんだし。女子大生ってだけでも響きがいいのに、白衣の天使の特典付きじゃあね。これは男として黙っているわけにはいかない。
もしも俺が犬だったら、耳がピンと立って尻尾をブンブン振っている状態だっただろう。ここしばらく男と絡み合う事はあっても、女の子と仲良くなる機会に恵まれていなかったから気分は急上昇気味だ。
 
「何時から?」
「行く気満々じゃねえか」
「持ち帰れるかなー?」
「サイテーだよ、お前」

サイテーときとか。小宮山からの非難の目が凄い事になっている。自分から誘ったくせにちょっとはノッてよ。お持ち帰り目的で合コンに参加して何が悪い。

「夏川さんに怒られんじゃねえの? 浮気だっつって」
「だからデキてないからね俺達」
「お前の相手は夏川さんくらいしっかりした人じゃなきゃ務まんねえと思うけどな」
「俺らをどうさせたいワケ?」

合コンに誘ったり、センパイを推してみたり。あんまり軽々しくそういうこと言うなよ小宮山。人の事情も知らないで。状況的に今ちょっとシビアなんだからそろそろやめてくれ。

どことなく絶好調じゃない俺の理由は、夕べのアレにある訳で。俺はセックスの最中に別の男の名前を呼んじゃって。センパイはそれでもいいなんて言ってきて。
怒ることも萎えることもなく、その後も俺を抱き続けたセンパイ。ていうかむしろ、いつもよりしつこかった。本格的に一晩中しゃぶり尽くされたって感じ。
三上さんと口走ったことに関しては一切触れず、何も聞いてくることもない。俺を責め立てるという意思がセンパイの中には微塵もないようで、シている最中も終わった後も、ただひたすらに優しくされた。
日が昇ればいつも通り起こされて、ダルさにめげる俺の前に出てきたのは日本人の朝のお供、お茶漬け。昨日の夜に食欲がないなんて言ったのを心配していたのか、ガツガツと食を進める俺を見てセンパイは柔らかく笑っていた。

いつも通り。いたって普通。小宮山が言っていたように、ここにだってセンパイに連れてきてもらった。
だけどどうしても忘れられないのは、センパイのあの顔。辛そうっていうか、今にも泣きそうな。一度だって見たことのないような表情だった。
解決できそうにない悩みは忘れるに限る。そうやって、普段ならチャランポランにはぐらしていただろうけど。相手がセンパイじゃ無理だ。
ここまで世話になってきたあの人に、いくらなんでもそれはできない。そう考えるとやっぱ、無理矢理意識外に追いやっていた罪悪感にヒシヒシと苛まれてくる。

「……小宮山」
「あー?」
「やっぱやめるわ。合コン」

すごく後ろ髪は引かれるけど。ここで行ったら俺の人間性がとんでもなく問われる。底辺を超えた地下レベルの最低男に成り下がって、それだけじゃ留まらずに地球の裏側に突き抜けるかもしれない。
いよいよ意味が分からなくなってきちゃうし。一人で迷走する俺を、誘いを断られた小宮山が不審そうに眺めている。

「なんだよ、ノリ気だったのに」
「やっぱ悪いし……」
「何が?」

小宮山の不信感倍増。そうだよね。質問の答えになっていないからね。

「あー……実はいま俺、乙四の勉強センパイに見てもらってんだよね。それで今日もまた頼んでてさ」

苦しい言い訳をヘラヘラ返した。小宮山は完全に不審者を見る目で俺を眺めている。

「なにそれ。マジでお前ら怪しすぎんだけど。また夏川さん?」
「…………」

こうして余計に怪しまれた。言い訳の方向性を完全に間違えたようだ。

「合コンよりも男に勉強教わる方優先させんの? お前いつからそんな真面目人間になったんだよ。っつーか乙四くらい自分でどうにかしろって」
「どうせ問題文の意味だって理解できないよ」
「うわ……。なんか夏川さんって想像以上に苦労してそうだな」

小宮山のツッコミはいちいち手厳しい。なんだか俺は泣きそう。

「ほんとに来ねえの?」
「うん。地下レベルの男にはなりたくない」
「地下レベル? お前ってときどき不思議系だよな」

不思議系はちょっと嫌だな。





***





目の前のセンパイの顔をじっと覗き込むこと数分。若干の緊張感が漂う中、センパイの口が動くのを見た。
 
「お」
「え?」

ちょっとだけ、感心したような顔つきになったセンパイ。つられて声を出すと、センパイは深く溜息をついた。

「ようやく……」
「え……あの、……」
 
神妙な顔つきに、軽々しく声を掛けるのは憚られる。手には赤いボールペンを持ち、その目下、テーブルの上には俺が書きなぐったノートの一面が。
 
「……合格点」
「え?」
「……長かった……ここまで……」

ただ今、乙四の過去問集と対決中。なんかすげえゲッソリしてるよセンパイ。

けどまあそれも仕方ない。過去問集は俺にとって、というかセンパイにとっての強敵だった。俺が偉そうなことを言っていい訳じゃないんだけど。
択一式の問題が立ち並ぶそれ。毎年傾向はそう変わらないし、何度かやれば大体の人は身に付くものらしい。だけど俺はそうはならなかった。なんと言っても問題の意味から理解するのに時間がかかるというダメっぷり。放っておかれればすぐに投げ出したくなるから、頑張っているのは常にセンパイの方だった。

俺は何十回と同じテキストの同じ問題に手を付け、センパイもまた何十回と、同じテキストの同じ問題の採点をしては肩を落とした。でもその度に根気よく、同じ解説をしてくれるのがこの人のすごい所だ。
溜息は癖みたいにさせてしまったが決してキレる事もなく、ポケッとしている俺がどうにかこうにか理解するまで付き合ってくれていた。
そんな日々が大分続いた。問題集を開く度、俺はセンパイの心労を増やしていった。それが今夜、俺はとうとうやったらしい。夢にまで見た合格点。

「ようやく……。うん……。良くやった」
「あ、どうも」
 
感動のあまり、こんなにレベルの低い達成なのにセンパイは褒めてくれる。よっぽど疲れさせていたんだろう。今にも倒れそうな勢いで喜びをかみしめていた。

「…………ようやく」

言い過ぎじゃねえ?さすがに俺も傷つくよ。いや、文句つけられる立場にはないけどさ。
感慨に浸るセンパイには何も言えない。ここまで散々付き合ってもらったんだから当然だ。けれどノートに記載された点数を見る限り、このまま気楽に試験を迎えられそうな気配でもない。

「まあ、とりあえずは初の合格点だ。ギリギリもいいとこだけどな」

俺の倍以上の達成感を感じていながらも、現実主義者のこの人は抜かりない。さっさと自分の精神を落ち着けて、俺を諭す年上に顔に戻っている。

「あと一問、どっかでミスってたら終わりだった」
「あー……」
「あれだけみっちりやって、試験目前のこの期に及んで」
「あ……はははっ」
「笑えねえよ」

一喝。ごもっともです。
一瞬前までの感動は捨て去り、センパイは生真面目に眉間を寄せて赤ペンを置いた。まさか乙四ごときでここまで苦労するとは思わなかったと、少し前に先輩がボソッと洩らしていたのを思い出す。すんませんね兄さん。

俺が高校を卒業できたのは多分、崖っぷちの所にいながらも寸前の所で奇跡が起きたって言う話ではないと思う。
あれはきっと当時の担任とか学校の上の奴らとかが、とりあえずなんでもいいから俺を早いところ追い出したかっただけに違いない。
厄介払いだ、言ってみりゃ。卒業証書やるから出てけって。認めるのもなんだし考えないようにしてきたけど、今更ながら泣けてくる。

でもそんな俺がだ。ここに来て資格手当を目当てに、ほとんどした事がなかった勉強を再開。そんな奴にとっての国家資格取得の道は相当険しい。合格率がそこそこ高い試験だろうと、俺からしてみれば難攻不落の要塞だ。
攻め入ろうとする兵士を援護する司令塔、センパイ。疲れるどころの話じゃねえな。

「でもこのダンジョン、きっとまだレベル1くらい……?」
「今度は何を言いだした。浮かれてねえで真面目に考えろ」

センパイの目が死んでいる。ヒットポイントがどうのこうのなんて口走ったら、今度こそ本気でキレられるだろうな。
そんなやり取りを交えながらも勉強はまだまだ続く。優しくて丁寧だけどスパルタと言えなくもないセンパイによって、俺単独に行われる特別講義を受けていた。
センパイは今の仕事が一番好きなんだろうし何よりも向いていると思うけど、冗談抜きでガッコの先生とか家庭教師とかでも似合う気がする。生徒に人気の出そうな。そのお母様方からは更なる人気を獲得しそうな。

もしやセンパイ、いつの間に勝ち組人生?
違うか。俺の負け犬加減が半端ないのか。






***






「なんかスンマセン、わざわざ」
「別にいい。それより明日寝坊すんなよ」
「ぼちぼち頑張ります」
「……スマホだけは鳴らしてやるからその後は自力で行け」

良い子は夢の中の深夜帯。終電はとっくに過ぎた。俺のアパートまで車を出してくれたセンパイに礼を言ったら、更なる感謝項目が付け足される事になった。明日の朝は先輩のモーニングコールでどうにか起きられる事だろう。

深夜にウチまで送ってもらった事なんて初めて。だって今までならセンパイの家に泊まっていたから。ああ言う事があった訳だし、俺もセンパイも言葉には出さずともやっぱり内心では気まずかった。
普段ならセンパイの部屋に泊まっていく俺。それが帰宅を選ぶと言うのはお互い暗黙の了解と言うヤツで、試験対策が終わると俺はじゃあこの辺でと腰を上げた。
終電がないのはさすがに分かっている。だからどっか適当に、漫喫なりどこなり寝床になる場所でも探そうと思っていた。ところがそこはやはりセンパイだった。例え相手が男だろうと、夜道に一人放り出すなんて真似はしないらしい。

俺が立ち上がると当然のように自分も立ち上がり、車のキーを持って送っていくと一言。すげえ紳士だ、びっくりする。大丈夫ですと慌てて断ると、いいからと言って腕を掴まれ一緒に外へ出た。
そして今。俺のボロいアパート。シケた駐車場で別れ際の挨拶を交わしていると、最後の最後まで面倒見の良さを発揮された。

「センパイも明日出勤?」
「休み」
「……ほんとスンマセン」
「もう慣れた」

自分が休みの日だろうと、アホな後輩の為に早起きしてくれる。朝一だろうと、電話の向こうの声はきっと優しいんだろうな。
そんなやり取りを経て、車からは俺一人が出た。この時間に茶でも一杯どうっすかと誘うのもむしろ迷惑だから、軽く頭を下げてドアを閉める。
車から少し離れ、見送ろうとその場に止まった。だけどヘッドライトが照射方向を変える気配はなかなかやって来ない。どうしたのかと車内のセンパイの様子を窺っていると、少しして俺の位置とは反対側のドアが開いた。

なぜかセンパイも車から降りて、バタンと静かにドアが閉められた。ライトの前を通ってこっちに歩いてくるけど、少し俯き加減だから光に照らされるその表情を読み取れることはできない。
なにか言い忘れた事でもあったのかな。モーニングコールを切った直後に二度寝するなとか、朝飯食い過ぎるなとか。何にせよ話があるなら聞かなければと、すぐ近くに来たセンパイに俺も歩み寄った。

「センパ…」

言いかけて、言葉が止まる。射程距離に入った俺の体は、先輩によってグイッと引き寄せられた。そのまま腕の中に閉じ込められ、驚く暇もなく次の瞬間には顎を捉えられている。

「んッ……」

いきなりのキス。きつく抱きしめられたまま、ライトの前で堂々と男二人がくっついている。
この時間なら周りには誰もいない。人の目がどうという心配はない。だけど重要なのはそんな事ではなくて、センパイにしては珍しく強行に及んでいると言う事実。

割と激しめに貪られる。髪に指を差し入れて強引に頭を引き寄せられ、それでも別段逃げる理由もないからされるがままに舌を絡めた。
気持ちいい。こういうのって絶対に相性があるけど、俺とセンパイは間違いなくピッタリ当てはまった。だからここまで関係を続けてきた。
いつもだったら迷わず俺も手を伸ばす。もっと欲しいから。この人が俺に与えてくれるものは、いつだってイイモノでしかない。
だけど今日はできなかった。なんと言ってもあんな事があった後。そんな資格が俺にはない。

ただただ、センパイのしたいように。その思いだけで身を任せていると、名残惜しくもキスはあっさりと終わりを迎えた。
しっとりとお互いの唇が離れる。辺り一面は真っ暗。俺達のいるこの場所だけが、車のライトによって浮き出ていた。

「スズ………」

センパイの声が響き、それにつられて目線を上げた。同時に抱きしめられていた腕も解かれる。
その表情を目にして、反射的に息をつめた。迷いを捨てたかのような顔をして、俺の目の前で先輩が呟いたのはたった一言。

「これで最後だ」
「……え?」

最後。その意味がすぐには理解できない。ポカンとしてセンパイを見上げていると、クスッと小さく笑われた。

「何もなかった。そうだろ?」

穏やかな声と優しい表情を向けられる。次いでポンと、手に頭を置かれて撫でられた。
いくら俺が馬鹿だって、それだけあれば十分解る。そこには寸前まであった欲情めいた感情なんて微塵もない。カラダの関係を持つ前の、俺とセンパイと同じ。先輩後輩の間柄と言う意味合いを、この人は全て掌に込めていた。

自惚れだったらいいと思った。そんな事、あるはずないって。それでもこの前のあの一件で、俺が悟ったセンパイの気持ちはきっと勘違いじゃない。
だけどこの人はこうやってまた、何も言わずに俺を許してくれる。やっぱり、センパイはセンパイだった。俺が提示されたのは、たった一つの逃げ道。

「来週の試験、約束通り俺が必ず受からせる。乙四ごときだろうと手は抜かねえから覚悟して付いて来いよ」

はぐらかすでも何でもなく、センパイのその言葉は純粋な宣言だ。この関係は終わる。だけど俺を突き放すことはしない。ただ単純に、昔のように楽しくやればいい。
これは俺の都合のいい解釈なんかじゃなくて、センパイの目が確かにそう語っていた。

「センパイ……」
「つまんねえ顔してんなよ。ヘラヘラしとけ。お前の特技だろ」
「特技ってワケじゃ……」

ないんですが。そう思われているなら仕方がない。

複雑な心境の中、センパイの返しでお互いの間に流れる雰囲気も軽くなる。高校時代と全く同じ。そこまでサッパリ関係をリセットする事はできないだろうけど、宣言したからにはこの人は俺を見捨てない。俺がバカをやり、センパイが呆れつつも傍にいてくれる。あの頃から俺達はそうだった。
また戻るだけだ。結局最後の最後まで俺に甘いセンパイは、俺に失うものを作らせなかった。


そのまましばらく時間は流れた。会話の中身はいつものように他愛のない物。だけどこの時間が終わった瞬間、俺達の関係は真っ白に戻る。

「じゃあな」

どっちが悪いとか何がいけなかったとか、そんな話は一言も出なかった。センパイは俺を責めないし、潔さで埋め尽くされたその顔に未練や後悔の念は浮かんでいない。けれど何よりも安堵したのは、これまでの経緯を律儀に謝られる事なく済んだ事だろう。
俺の誘いに、センパイは乗った。もしもそのことを少しでも謝られていたら、俺はきっと立ち直れなくなる。謝罪はある意味自己防衛の一種だけど、センパイはそれをせず、最後まで俺を甘やかした。
この人のこの笑顔は、何パーセントが心からのモノだろうか。俺なんかには到底理解できない。ただ一つ言えるのは、センパイが俺に向ける目はいつだって優しいという事だけ。

「腹出して寝るなよ」
「そんな、子供じゃないんですから」
「ほう」
「……ヌかしました。俺はガキです」

観念して認めてみる。先輩は満足げに笑った。




そうして馬鹿げた言葉を交わし、俺達は今度こそ別れた。先輩の車が敷地から出て行くのを見送り、なんとなくさびしい感情は残るけど蟠ったものはようやく薄れていく。
これで良かったのか、良くなかったのか。そんなこと考えたって始まりがそもそもマズかったんだから所詮は言い訳にしかならない。残ったのはこれからもセンパイには世話をかけ続けるんだろうと言う未来予測と、俺はどうしようもなくダメな奴だと言う事実。

でもま、いっか。死ぬワケじゃない。とりあえず明日はセンパイに起こして貰おう。スマホで。多分、この辺がダメ人間を助長しているのかな。
そんな事を思いつつ、部屋に向かって足を向ける。ところが暗闇の中から響いたガチャっという音で、俺の心臓は一気に冷えた。
ここから三台分くらい離れたスペース。音のした方向へと目をやれば、すでにエンジンが止まっている車から人が降りてきた。

「…………」

うっわー最悪。人いたよ。アパートの住人にキス現場見られた。
暗いから車内に人がいても外からだと判別がつかない。
参ったな。いるならいるでさっさと出てくれば良かったじゃん。いや違うか。俺達が急に抱き合い始めたから出るタイミングがなかったのか。
あれ。でもそういや、あのスペースって誰か使ってた人いたっけ。

脳内で一気に巡らせた、この間一秒弱。そこに人がいるのは分かるが顔までは見えない。でも見えないのはこっちからのみ。少し前まで先輩の車によってヘッドライトの光を浴びていた俺の顔は、そこにいる奴にバッチリ見られていたに違いない。

あーあ、やだなあ。ご近所付き合いとか皆無だけど、知らない人からあいつホモなんだって思われた。
気落ちしながらも知らんふりを決め込んで、俺はそそくさ部屋へと足を進めた。ドアの前まで来てポケットから取り出すは鍵。
名前も知らないようなご近所さんに、どう思われようと知った事か。自分を騙し騙し、そう言い聞かせて開錠した。ところがご近所さんらしきその人も、俺のすぐ近くに迫っているのが気配で分かって余計に気落ちする。

なにそれ。もしかしてお隣の人?
これから先ドアの前でばったり会う事があったら嫌だな。

と、思っていた矢先。聞き知った声がすぐ近く、斜め後ろから耳に入った。

「そういう事かよ」

えっと振り返った時には手首を掴まれていた。そして次の瞬間には背中に衝撃が。
ガンッと肩と背中をドアへと押し付けられ、すぐ目の前にある顔を見て俺はようやく状況のヤバさに気が付いた。

「……みかみ、さん……?」
「…………」

暗くても、ここまで顔の位置が近ければ嫌でも分かる。そこにいたのは三上で、という事はさっき車から降りてきた隣人らしき人の正体は三上だった。
…………隣人の方がよかった。

「なんで……」

ここにいらっしゃる?

聞きたくても、鬼気迫るその雰囲気を感じ取って言葉なんて吐けそうにもなかった。痛いくらいに手首を掴んでドアに縫い留められ、肩も同じようにドアに押し付けられている。
逃げるのは完全にムリだし、これ以上一言でも発したら殺されそう。やばいな。俺の命はここまでか。
今し方思った、死ぬ訳じゃないんだからまあいっか。アレは駄目人間発想でも何でもなくて、この世の重要な真理だったとこの瞬間判明した。
俺、死ぬよ。これは殺される勢いだ。ていうかなんでこの人はこんなに怒ってるんだ。

「……誰だよ」
「え?」
「今の」

短く言葉を投げつけられたかと思えば、不機嫌全開の質問をされる。答えなかったら即お陀仏。

「……前に言ってた……センパイ、だけど」

俺弱い!すごく弱い!!これでセンパイに危害が行ったらマジどうしよう!?
泣きそうな気分になりながら小声で答えると、握られた手首にギリッと力が加えられた。ただでさえ強く掴まれていたのに痛みが加算され、思わず俺の顔も歪む。

「寝たのか」
「は……?」
「さっきの奴と。……寝てきたのかよ」

もうやめて、そういう話。今さっき関係が清算された所なんだから蒸し返さないでくれ。
けどやっぱ、それを聞くって事は確実だよな。さっきのキス現場は三上のこの目にはっきり映っていた事だろう。しかも怒っているという事は、その光景が気に食わなかったという証拠。

「……なに。ヤキモチ?」
「…………」

ちょっと、どうしたよ。なに言っちゃってんの俺。こんな場面でチャレンジャー精神なんて要らない。
余りの恐怖に耐えられなかったのか、俺はなぜだか三上を挑発。若干の馬鹿にした感を出しつつ、鼻で笑って三上に問いかけた。

ああ、こりゃキレられるな。なんで死に急いじゃったんだろうな俺。でもジワジワ来る恐怖に耐えるより、一発でサクッと殺られた方がまだいいか。
ここまで最悪な状況に直面すると腹も決まり、三上としっかり目を合わせて俺も負けん気で挑んでいた。手首は痛いし、三上は怖いけど、最後くらい潔く散ってやる。

「センパイに嫉妬してんだ?」

馬鹿じゃねえのって雰囲気を醸し、更なる挑発行為に及ぶ。短い人生だったなと心の中ではシクシク泣いていたけど、そんな俺に対して三上が返したのは意外な反応だった。

「……悪いかよ」

ボソッと、ぶっきらぼうを通り越して怒り滲みだすその声。吐き捨てられた一言に、俺は自分の耳を疑った。
嫉妬したのか聞いてみて、その答えが、悪いかよ。つまりは肯定でいいのか。その意味は「嫉妬してました」とイコール関係にある?

………うっそん。明日ヤリ降るじゃん。

「……冗談?」
「そう思うのか?」
「……だって」

三上が嫉妬。俺とキスしてたセンパイに妬いている。ちょっと可愛いなんて思った俺は終わってるんだろうな。
言葉の返しがレアすぎてまともな思考回路が保てなくなったようだ。お子様三上ならしばしば目にしてきたけど、素直三上は初体験。
でもそっか。妬いたんだ。俺が他の男に抱きしめられてるのが嫌だったんだ。

「あ、の……」

うん。あれだ。困ったね。マズイ流れになってきている。
願わくは次の行動は天邪鬼で来てくれますように、ホント頼む。ここで素直にモノを言われたら俺は、

「伊織」

久っ々に呼ばれた名前。直前までの思考はチリとなって消えた。掴まれた手首の痛みも忘れそうな気分に陥りながら、三上のその目で射抜かれる。ドアに押し付けられていた背中は、三上に腕を引っ張られたことによって少し離れた。
 
「みか…」
「戻ってこい」
「え……ぉっ……」

短く発せられた後、聞き返す間もなく体が窮屈にされた。強引に腕の中に閉じ込められて、腰に回された手がぎゅうぎゅうと俺を抱き寄せる。

横暴。確かに、高慢さを感じさせる行為。ところが俺の体をヒシっと抱き留めるその腕が、縋ってくると言うのかなんと言うのか。少なくとも邪険に振りほどく事は躊躇わせてきた。
俺の肩に顔を埋めるその姿は何とも言えない。本人の口から聞いたわけじゃないけど、なんとなく必死さを感じ取れた。それがどうにも心にグサッと来て、そんな必要もないだろうに物凄い罪悪感を負うハメに。少しして、こんな事を言われれば尚更。

「……会いたかった」
「…………」
 
やめてくれ。

「伊織……」
「ちょっと待っ…」
「他の奴の所になんか行くな」

ああ……。なんだよその切ない感満載の声。あんたのキャラじゃないだろ。
逆らいたいのに逆らえない。いつもの恐怖が付き纏うからじゃなくて、むしろその真逆の作用で。
なんつーかな。動物愛護的なヤツに似てるんじゃないかな。捨てられてる仔犬を目撃し、心の中ではゴメン超ごめん!とか思いながらも素通りしなければならないあの感覚に似ている。

「俺といろよ」
「…………」

聞き間違いかもしれない。でも、少し泣きそうな声に聞こえた。いっぱいいっぱいになって抱きしめられ、俺の眉も情けなく下がっていく。

「伊織……」

あー。もうこうなりゃ仕方ねえ。野良犬の一匹くらい引き取ってやるよ。

「三上さん」

宥めるようにイイ子イイ子と、頭を撫でたら怒られるかと思ったけど怒られなかった。なんだか可愛いから調子に乗って背中をポンポンと軽めに叩いてやると、余計に強く抱きしめられて本格的にキュンときた。
誰この人。それて俺は何してんの。

「……とりあえずさ、中入る?」

捨て犬保護。色々恥ずかしい自分は見なかった事にしよう。


しおりを挟む

処理中です...