貢がせて、ハニー!

わこ

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280.桃色夜空Ⅱ

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 猫二匹と人間二人の和やかな晩ご飯が終わった。
 美味そうな匂いでミッチリしている部屋のドアを開放し、テラスに接する掃き出し窓もカラカラとゆっくり開く。サラッと、心地よく乾いた風が、部屋の中に吹き込んできた。

「お。外結構涼しいです」
「朝晩はだいぶ楽になってきたよな」

 新鮮な空気が広い室内をスルリと通り抜けていく。夕方に比べてまた一段と涼しくなってきただろうか。肌に触れるささやかな風は、いくらか冷たいくらいに感じる。
 庭の虫たちの気を引かないようリビングの照明を暗色に落とした。室内の空気を入れ替えたいので風はそのまま通しておいて、人間グループは後片付けのためにキッチンにてしばし横並び。手元でワシャワシャカチャカチャしながら、暗い橙の明かりを映し出すリビングの大窓の前を見やれば、網戸越しに二匹の猫がゆったり外を眺め寛いでいた。

「これ終わったら桃切ろう」
「やった」
「せっかくだからテラスでどうだ」
「風も気持ちよさそうですからね」




 食事の区切りとしての皿洗いを終え、デザートのための白い皿を用意した。程よく冷えた桃を二つ持ってくる。ひと口大にカットしたそれを、シンプルな皿の上でこんもりさせた。
 ハチミツと沢山のベリーを入れた涼し気なソーダのグラスに、いくつかポコポコ落とした四角い氷。二つ分のそれも一緒に持って、もふもふグループが寛ぐリビングに戻った。

 室内から外に目をやる。テラスに設置してあるライトは去年も見たのと同じ仕様だ。先に外に出た瀬名さんが、小ぶりな照明をポッポッと二ヶ所灯した。
 ガーデンテーブルに桃とソーダーを並べたところで、テーブルと同系色のスッキリした椅子を瀬名さんが引いてくれたので遠慮なく腰を下ろした。隣同士並んで座りながら、自然と視線は上に向く。いい夜だ。空気は軽く、澄んでいる。

「まん丸い月じゃないけど、半月見も悪くないですね」
「三日月をクロワッサンと呼ぶ奴にはあれがクリーム挟まってるオムレットに見えるんだろ」
「ウマそうで腹減ってきましたよ」

 人がせっかく風流という名の心意気を持ったのになんだ。
 むくれる俺に横からスッと差し出してくるのは芳しい桃。ちっさいフルーツフォークに刺された果実を口元に寄越されて、パクッとひとくちで頬張った。

 ふんわりと口の中で広がる。幸福感はきっと顔に出ている。それを横から静かに見られる。
 穏やかに暗い、橙色のライトが、瀬名さんの横顔をそっと照らした。

「好きか」
「…………好き」

 好きですとも。文句あるか。

 瀬名さんからフォークをぶん取り、一番上の一切れをぶっ刺した。それは仕返しに瀬名さんの口元へ。瑞々しい果肉はパクリと素直にその口の中へと消えて、俺も止まらずもう一切れを自分の口に放り込む。

「この桃うま」
「だな」
「見た目通りの味するもん。あとでお礼言っとかなきゃ」
「勝手にやってんだからなんも言わなくていい」
「人のご親切を当然と思っていいという躾は受けてません」

 ふっと、穏やかに笑った声を聞く。その笑い方に似合う表情を浮かべたのを横目に、もう一切れをパクリと。
 俺の言うこと、俺のすること、瀬名さんはこうやって見て聞いてくれる。なんだか急に照れくさいから、贅沢にもう一切れ頬張った。



 サラサラと通り抜ける風が気持ちいい。解放した後ろの窓と一緒に網戸も五センチ程度を開けてある。
 そこでカリカリ微かな音がして、ほぼ同時に振り返った。俺も瀬名さんも視線は下に行く。ほんの僅かしかない隙間を軟体動物のごとくニュルッと、通り抜けてきたその小獣。

「にゃーん」
「やめてなんでそんな可愛いの」

 こっちを見て高い声で鳴きながらしっぽを立てて寄ってくるココ。その後ろを気高くスマートに、トコトコ歩いてくるキキの姿も。
 二匹ともまとめて抱っこしたいけど行きたい場所がありそうだから見守る。俺達のそばで各々辺りを見渡してから、同じタイミングでテーブルの下にススススっと潜り込できた。

「……何もかもが可愛い」
「決まってんだろ、ウチの猫だぞ」

 親馬鹿を発揮する男と一緒になってそれとなく下を覗き込む。キキはシュッとお座りをして、ココはゴロンとその場で寝そべる。
 姿勢を戻し、お互いの顔を見合わせ、耐えきれずふふっと同時に零れた。足元が幸せなことになっている。風が涼やかに通るから、上等な毛並みをまとった猫姉妹もサラサラとして過ごしやすそうだ。

 昼間はまだまだ暑いからついつい見落としてしまうけれど、日に日に空は高くなる。それに合わせて屋内に入り込む、日差しの角度も変わっていく。
 日が落ちた今もやはり感じる。夜の草むらに身を隠しながらも、リンリンと自分の生命力をアピールする虫たちの声はずいぶんと秋めいてきた。

 夏が過ぎる音に、涼しい匂いに、秋の空気だ。夕焼けの色が似合う季節。
 きっとまだまだ残暑は続くが、瑞々しい桃に今またひと噛みした時、スッと夜風が頬を掠めて、思い出す。本番の秋がやって来る。

 今年もとうとうやって来た。オレンジがかった赤を眺め、そしたら次には冬が来て。その次には、春が来て。それで。

「…………瀬名さん」

 巡る四季を、何度数えた。数えるたびに焦りが芽生えた。
 そうやって俺は数えるばかり。この人の隣にいるようになって、それからずっと、数えてる。

「……話してなかったことがあります」
「うん?」
「…………」

 皿に置いたフォークが、カチャッと擦れた。
 綺麗な音に、黄色い月に、足元には猫。これを俺に見せてくれる人は、いつも俺の隣にいてくれる。今の俺は、そこから目をそらしてる。

「今月の、最後の週の土日……実家帰ろうと思って」
「あぁ……あれか。ハゴロモ?」
「……はい」

 一緒に住んでいるわけだから、お互いの予定はある程度話す。だがこれは話していない。
 突然の連絡事項にも、瀬名さんは迷いなくうなずいた。

「前にも言ったが俺に気兼ねする事ねえよ。行ってこい。たまには顔見せてやれ」
「いえ、あの……」

 俺達の同居ルールは緩い。決まりなんてあってないようなもので、それでもなお俺は快適に暮らせる。それがなぜなのか知っている。だってこの人は、いつも。

「……あなたも……」
「ん?」
「…………」

 優しすぎるくらいの人だ。膝の上で頼りなく握りしめていた手に、さらにぎゅっと力を込めた。
 数えるだけで、それを見ているだけで、変えられるものは何もない。

「瀬名さんを招待したいって、母さんが……電話で……」

 横を向けない。シンと、少しの沈黙が起こる。生きるのに懸命な虫たちの声は、相変わらず聞こえているのに。

 伝えるタイミングならいくらでもあった。でもしなかった。言わなくてもいいかななんて。思ってしまった。逃げてしまおうかと。
 瀬名さんには何も言わずに、俺も帰省せず、母さんにはただ、予定が合わないとでも。

「ごめんなさい……俺ずっと、黙って……」

 言わなければいい。それがいい。そうするだけでこれまで通りの毎日が手に入る。ただの元お隣さん。親切な現同居人。そういうことにしておけば全部、今まで通りだ。何も変わらない。
 けれども実家に連れて行ったら、これ以上この人に嘘をつかせ続けるなんて。できない。

「……こんな、卑怯なことばっか……」
「…………」

 招待された。二人で一緒に来いと。俺の家族は瀬名さんをもてなしたがっている。
 それを長いこと黙っていた。それではこれまでと全く同じだ。黙っているということは、嘘をついているということだ。

 俺は実家に嘘をついている。瀬名さんにも嘘をつかせている。それを受け入れているこの人は、いつもと変わらない声を俺に返した。

「その電話はいつの話だ」
「……もう結構……半月くらい、前に」

 二週間以上も黙っていた。瀬名さんにまで嘘を、ついた。

「……ごめんなさい」

 隠してしまって、隠したままでいいかと思って、そのくせ今になって結局言うのは、自分のためだ。一番卑怯で、小ズルいやり方。最低だ。

 テラスにはまた沈黙が流れた。ほんの一瞬だったはずだが、俺にはずいぶん長く感じた。その空気を不意に破ったのは、俺の声でも瀬名さんの声でもなかった。

 モフッと、感じた。はっきりとしたその感覚に、咄嗟に下を見る。俺達の間にいたキキココが、二匹揃ってモフモフ激しくこの足に頭突きしていた。
 かと思えばキキは黒いしっぽで、右のふくらはぎの一点を狙って執拗にビシバシ引っぱたいてくる。その横でバッと両前足を広げたココは、ヒシッと左足にしがみついた。

 隣でその光景を眺め下ろしていた瀬名さんが、ふっと、そこで満足そうに笑った。

「見ろ。こいつらはとびきり賢い猫だ。お気に入りの人間が沈んでるとすぐ気づく」

 二匹による強めの攻撃は止まない。明確に獲物を狙い撃つ飼い猫の雄姿を称えながら、瀬名さんの目は再び俺に向いた。

「褒めてやれ。それでできれば沈むな。俺がイジメたと誤解されるだろうが」
「…………」
「それにな、俺は謝られるような事は何もされてない」

 猫を驚かせないようにゆっくり、瀬名さんが腰を上げた。身をかがめ、俺の足にまとわりついている二匹をそれぞれ優しく撫でたその手が、まずはココを抱き上げていく。
 丁寧に下ろされた先は俺の膝の上。同じようにして大人しく抱っこされたキキが、やっぱり俺の膝に乗っけられた。大人の猫二匹が膝の上に乗ると完全にここは満席だ。

 俺の膝の上でもっふりくっ付いた綺麗なハチワレと茶トラの頭を、瀬名さんは交互に撫でながら、物静かなのに良く通る声を俺に向けた。

「いつも悩ませるだけ悩ませて申し訳ねえんだが、悪い気は全くしねえよ。お前は半月もの間ずっと俺の事だけ考えてたって事だろ?」

 猫を見下ろしていたその目が、すっと上がって、パチリと絡む。

「遥希の頭は俺でいっぱいだ。今後もその調子で俺色に染まれ」

 二匹も乗ってしまえば狭いだろうに、キキもココも降りる素振りは見せない。その背や顎をフワフワ撫でる瀬名さんも、怒る素振りや呆れる素振りを言葉通り見せはしなかった。

 せいぜい悩め。いつだったかそう言われたのが、もうずっと昔のように感じる。
 焦って先を数えるばかりで振り返って数えるのは忘れていた。数えてみればまだそんなに経っていないはずなのに、俺達はいろんなことを二人で、してきた。

 俺達にはある。二人で一緒にいた思い出がたくさん。それはこれからも消えないし、いつまでも残る。だって一緒にいたのは、全部が全部、本当のことだ。

「あの……」
「ああ」
「……瀬名さんのこと以外も考えてました」
「そこ訂正する必要あったか」

 寸前まで心が広かった大人の顔が、急にピキッと険しくなった。キキの頭の上でその手もモコっと止まる。そうは言っても事実誤認はよろしくない。

「割合で言ったら瀬名さんカラーは全体の一割四分くらいのもんかと」
「思った以上に少なかった。せめてあと九厘くらいは寄越せ」
「無理です」
「ただの九厘だぞ。九分九厘とも言ってねえ」
「マコトくんがそういうの苦手なんですよ。百分率とか割合とか歩合とかの概念。十分率ベースの四字熟語まで出てきちゃうと遠い目をしだします」
「今のこれを例にして教えてやればいい。俺が謙虚に求めてんのはたったのイチパーセント未満だ」
「たとえ琵琶湖におけるピコプランクトン一個分の割合だとしても俺の頭に余白はないです」
「そんなわけあるか。猫の爪の先の一兆分の一くらいはあるだろ」
「ないんです。他にも色々考える事あるので」
「たとえば」
「ガーくん元気かなとか」
「そりゃ敵わねえな仕方ねえ」

 瀬名さんの中でガーくんの地位はだいぶ上の方にある。
 俺の頭を占める瀬名さん色は、だいたい十四パーセントということで決まった。
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