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288.何も見てなかった
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適当に歩くというにはだいぶ早足だったと思う。瀬名さんは俺を止めるでもなく、ただ同じペースで隣を歩いてくれる。次第に俺の歩調が遅くなればそれに合わせた。
トボトボしたペースのまま行き先を定めずに歩き、しかしとうとうそれも止まる。
何か、涼しげな秋の虫が鳴いている。真夏のセミのような全力の叫びではなく、冬の静けさとも違う。あれは誰の声だろう。知らない。見えない。なんだかもう、もう。いやだ。
「……遥希」
気づけば完全に俯いていた。視線が足元に落ちていると、ここにきてようやく気づいた。とうとう隣から呼びかけてきた瀬名さんの声は穏やかだ。
俺はとても、穏やかではいられない。冷静になるのは無理だった。少しでも考えればすぐ蘇る。さっき、何が起こったか。
「……あんなのって……」
「お前の家族は何も悪くない。いきなり切り出した俺が悪かった」
「あなたこそ何も悪くないっ……うちのっ……だって、俺の家族なのにっ……家族があんな……なんで、あんな……ッ」
「…………」
母さんの顔を思い出す。必死だった。必死な様子で俺に、今だけかと聞いた。
今だけ。そんなことを。そういう言い方をされるくらいなら、反対された方がまだ良かった。今だけだと、俺に言わせたかったんだ。俺がそう言わなきゃ、母さんは。困るんだ。
消したくてもはっきり浮かぶ。思い出す。あんな目を、生まれて初めて向けられた。
「…………ごめんなさい……」
反対されるだろうという当然の想定の一方、母さんならばもしかしたらと、どこかでは期待していた。
甘かった。そんなはずがなかった。瀬名さんに、酷い言葉を聞かせた。
「ごめんなさい……っ……ごめんなさい……」
声が震え、無様に自分の靴を見下ろしたまま、情けない顔を片手で覆った。思い知った。現実を見た。分かっていたつもりだったが、本当はきっと分かっていなかった。
これが現実だ。実際にはこうなる。母さんのあの顔を見た。
見て、それで、ああ、そうかって。やはりこれは、許されない事なんだ。
バカみたいに半べそかいて謝る俺に、瀬名さんは答えを返してこなかった。どんなときだって俺に必ず選択肢をくれるこの人は、この時もまたいつものように、静かに、隣にいてくれる。
「この辺、案内してくれるか」
「……え?」
「少し歩こう」
案内してくれと言いつつ、俺の背を押したのは瀬名さんだった。そのまま少し二人で歩いて、通りかかったのは神社。
変わらずそこにある石段をのぼる。意味もなく時間をかけて、ゆっくり。
今年の夏は暑かったけれど、さすがにいよいよ秋の空気だ。朝晩なんかはひんやりしている。それでも日中はまだ歩いていれば体もすぐ温まるくらいで、お願いもないのにお参りしたあと、表面上の挨拶と引き換えに背の高い木々の下の陰で少しばかり休ませてもらうことにした。
場所がいいのか、静かだからか。次第に落ち着きを取り戻す。瀬名さんはやはり何も言わなかった。ただ隣にいてくれた。
陰になったそこで立ち尽くし、瀬名さんをそばに感じる。何をするでもなくお互い黙っていれば、ジリリッと、セミが鳴き始めた。
秋の虫に入れ替わったと思っていたが、どこかに生き残りがいるのを聞いた。九月ももう終わるというのに、最後に振り絞る命だろうか。死にそうな鳴き声を響かせたところで、対になるメスはまだどこかにいるのか。それともそもそも、気候もおかしいし、何かを勘違いしているのだろうか。
しぶとく響かせていたセミがジジリッと、そこで一度鳴くのをやめた。
「……ここによくじいちゃんとお参りに来ました」
「そうか」
「……近所だし、しょっちゅう来てたくせに、なんの神様がいるのかもつい最近まで知らなかったんです。この前帰省した時ようやく、ショウくんが教えてくれて分かった」
はは、と。虚しく零れた。瀬名さんは静かにそれを聞いていた。
「書いてあんのに。気づきました? 階段の横んとこにだってちゃんと書いてあるんですよ」
学問の神様。そう称される人の姓がはっきりと刻んである。石段からほんの少し視線を横にずらせば簡単に気づけたはずのそれに、気づかないまま二十年も過ぎた。
「……俺は何も見てなかった」
神社の名前も、十月間近にセミが鳴くことも、何もかも。
落ち着いて少々見渡せばすぐに見つかるものさえ見つけられない。しっかり見なければ気づけないものに、気づけるはずなんて最初からなかった。
***
案内、というほど案内できるような場所がそもそもないのだが、幼かったただのクソガキが遊び回った辺りを順々に巡った。
お互い持っているのはスマホだけ。田んぼと畑ばっかりのここいらじゃ自販機すら今なお現金に限る。しかもその自販機すらなかなか見当たらないときた。
街の方に出ればそれなりの店も並ぶが、ここはまだやはりド田舎だ。広い通りへ出るバスも一時間から二時間に一本。乗車にスマホ決済は、果たして対応していただろうか。
時代に取り残された村。一言で片づけるのは容易い。現実はそこまで簡単ではない。
戻れなくなる。母さんの言った意味は、俺にも分かる。たぶん瀬名さんも分かっている。
おとぎ話みたいに強力な結界が張り巡らされるわけではもちろんないし、昭和の自警団みたいな人達に入村を拒まれるわけでもない。火事と葬式を除いて。そんな昔ながらの分かりやすい村八分も今どき起きない。そこまで陰湿な集落ではないから、いたらいたで普通に話しかけられる。
だが確かに、戻れなくなるだろう。知られたらきっと、ここでは生きていけない。
安全地帯は途端にリスクへと変わる。逃げ出したくなる空気感は、結界よりもよっぽど頑強だ。
始発とともに家を出てきた。だからまだ日は高い。それでも真夏はもう過ぎたから、高く昇ったそれが落ちるのも早く、あと数時間もすれば太陽は夕日にかわるだろう。
長い夏の終わりの青臭さに紛れ、秋の草木の甘い香りが弱い風に乗って鼻を掠めた。
「戻ろう」
「…………」
「きっと心配してる」
一言も何も言わなかった人が、ここにきて静かに提案をした。俺は首を弱く左右に振って、すでに決めている事を言った。
「……荷物だけ取ってきてあの家出ましょう。すぐには電車来ないけど、大きい方の駅近くまで行けば暇潰せる店くらいはあるので」
借りた車の返却が予定よりも丸一日早まった。記録に残るのはたったそれだけ。あとはもう全部なかったことにすれば、俺達はこれまで通りに戻る。
それがいい。それで全部解決。それで問題ないはずなのに、瀬名さんは首を縦に振っては返さない。
「まだお前の家族と話が終わってない」
「いいですよ。もういいんです。見たでしょ、あの顔。分かってもらえません」
「それでも話したい。遥希の家族だ」
「…………」
そういえばばあちゃんだけは、ずっと座ったまま動かなかった。一言も発しなかった。いいともダメとも言わなかったが、ビックリはさせただろう。
思った通りだ。思った通りだが、半分はただの強がりだ。俺の中に確かに存在していた期待は隠せない。その期待はあの一瞬で、俺の中だけの都合のいい妄想だったと証明された。
「……あなたのご両親とは違うんです。うちの親は認めない」
「ああ。だから認めてもらえるように話す」
「無駄ですよ……」
ずっと避けてきた親子喧嘩に付き合わせている。こんなつまらない場所に連れてきて、あんなつまらないものを見せた。あの家に戻って同じ話をしても、どうせまた同じものを見せる。
「……認めてもらう必要なんてない」
これは家族のいざこざだ。瀬名さんが巻き込まれる必要もない。
俺が目を背けていただけで本当は元からあった。それが一気に、露呈した。
「最初から俺が間違ってた……許可取る必要なんてありません。いいんです。そうです。俺ずっと甘えてた。小さいガキとは違うのに、家族に甘えようとしてたんです。でもこんなとこもう……どうだっていい」
いずれにせよ俺達はどうにもなれない。限界を知っていながら家族には認めてほしかった。二条さんの言葉を借りれば、ここは俺にとっての内側だから。その考えが甘かった。
「俺がここに帰ってこなければ済む話です。どうせなんもねえようなド田舎です。そうですよこんなとこもう二度と、」
「ダメだ」
鋭く、俺を遮った。ここまではずっと俺に合わせた瀬名さんが、ここで初めて言葉を強くさせた。その目は俺に、逸らすなと。
「それを言ったら、本当に二度と帰れなくなるぞ」
「…………」
その時ジジッと、何かが鳴いた。しぶといセミがここにもまだいる。どこの木にとまっているのかは見えないが、中途半端に鳴き止んだそいつは、死んだのかな。分からない。
「お前はここが好きなんだろ。いつもそう言ってるよな」
「…………」
「だったらそんなこと言うのだけは駄目だ」
戻れない。帰れない。物理的な意味以上の、重さをこの人もたぶん知っている。
「分かってもらえるように二人でちゃんと話そう。遥希には何も捨てさせない。捨てる必要がねえからな」
「……無理ですよ。きっとダメです」
瀬名さんだって見た。あの目を、俺の家族から向けられたのはこの人だ。それをされて傷つかないわけがないのに、瀬名さんは首を横に振る。
「ダメじゃねえよ」
「…………」
「ちゃんと話したい。分かってもらえるように」
「……それでも……分かってもらえなかったら……」
そんな事になるくらいならうやむやにしてしまえばいい。話したところでどうせ無駄なら、そもそも話なんてしなければいい。無理に認めてもらおうとして、反対されるだけならまだしも、別れさせられるようなことになったら。
そんなことに、なるくらいなら。
「一緒にいるのも、駄目になるかもしれない……」
それだけは嫌だった。知られるのがずっと怖い。その最初は二条さんだった。人間不信の野良猫以上に勝手にピリついてあの日この人を散々に困惑させたのは、俺の根底の恐怖だった。
ここまでは運が良かった。瀬名さんの繫がりはあったかいから。この人だから周りはああなる。けどここは、そうじゃない。
「こういう田舎はまだ……家が強いんです。今どきって思うかもしれないけど、守るのは個人じゃない。家なんです。村です。だからここはずっと平和にやってこられた。そうじゃなきゃ成立しないんです。もし俺の家族が認めてくれたって……親族は他にもいる。あの人たちは……」
じいちゃんとは全然違う。考え方も何もかも。子供の頃からそれを見てきた。だからじいちゃんは俺を、外に行かせた。
ここには確立された秩序がある。中にいることを許される人はその秩序を守る人。だから村はいつも平穏で、村の中にいる限り、その秩序によって自分も守られる。
自分の親がどういう経緯でここでこの暮らしを守ってきたのか、聞いたことはない。聞いてはいけないのだろうと子供心に思っていた。
酷く反対されたはずだ。されなかったはずがない。なぜなら田舎の家の一人娘だ。それが大学に行き、妊娠して戻ってきた。相手はずっと年上の男。それを許されるはずがないが、俺の両親は今ここにいる。
いくつもの苦しいが至る所にあっただろう。それくらいはガキにも分かっていた。物心ついた頃に察して、だから何も聞かないことを選んだ。聞けばきっと、今度は俺が苦しめる。
「……あなたと、離されるかも……」
母さんと父さんだってそうなっていてもおかしくなかった。でもそうはならなかった。母さん達の時には、じいちゃんがいた。
今はもういない。俺の味方はいない。だからもう、どうにもならない事はある。
もしかすると今がそうかもしれない。だって、本当に駄目で、どうにもならなくて、分かってもらえないことが確実になったとき。そのときは、そうなったら、どうすれば。
「そうだな、じゃあ……そのときは……」
外に二年半出てみたくらいで凝り固まった価値観は変わらない。俺とは違うものも見えるこの人は、少々の間を置き、静かに言った。
「一緒に逃げるか」
秋の入り口の空気の中で、静かな声だけがこの耳に届いた。思わず、顔を上げていた。
家族は俺を外に行かせてくれた。外に出て俺が見たのは、中にいた時には見えなかったもの。
「……え?」
「俺達には最後の手段がある。二人で遠くに逃げちまえばいい。この国に生まれたからってこの国にい続けなきゃならねえ決まりはない。自分の居場所は自分で選べる時代だ」
そこが好きな場所ではないなら、好きな場所を探しに行けばいい。そこが嫌いな場所ではなくてもどこにだって自由に行ける。言うのは簡単だが実行は難しい。相手が瀬名さんでなければそう言って返せる。
でもこの人の周りには、いる。故郷ではない場所で暮らす人たちが。知らない場所で知らないルールで全部を一から、まっさらに新しく始めた人たち。
「俺たちを知ってる人間が誰もいないところに行こう」
「…………」
瀬名さんの言葉には軽さがない。重苦しくはないのに、夢物語とも違う。
気休めでは決してないそれを静かに、けれどもはっきりと言い切ったこの人は、そこで少し表情を和らげた。
「そうならねえように今日ここに来た。遥希が大事にしてるもんなら、俺にとっても大事なものだ」
「…………」
「戻ろう」
最初と同じことをもう一度だけ言われて、頷くまではいかず、ただ再び視線を落とした。けれどもダメとは、言えなかった。瀬名さんが見せてくれるものを、ダメの一言が蔑ろにする。それだけは俺にはできない。
この人の言葉はやっぱり、軽くなかった。
「……ガーくんのこと無視しちゃった」
「許してくれる。思った通り立派なアヒルだ。あんなに賢そうな子は見たことがない」
「…………母さんにも、酷いこと……」
言ってはいけない事を言った。何があっても絶対に、言いたくなかった事を言った。
自分の言ったことに傷ついている俺は身勝手なうえに滑稽だ。バカみたいなこんな奴でも、この人は隣で受け入れる。
「許してくれる」
こういう断言をする時の、瀬名さんはいつも、必ず優しい。
トボトボしたペースのまま行き先を定めずに歩き、しかしとうとうそれも止まる。
何か、涼しげな秋の虫が鳴いている。真夏のセミのような全力の叫びではなく、冬の静けさとも違う。あれは誰の声だろう。知らない。見えない。なんだかもう、もう。いやだ。
「……遥希」
気づけば完全に俯いていた。視線が足元に落ちていると、ここにきてようやく気づいた。とうとう隣から呼びかけてきた瀬名さんの声は穏やかだ。
俺はとても、穏やかではいられない。冷静になるのは無理だった。少しでも考えればすぐ蘇る。さっき、何が起こったか。
「……あんなのって……」
「お前の家族は何も悪くない。いきなり切り出した俺が悪かった」
「あなたこそ何も悪くないっ……うちのっ……だって、俺の家族なのにっ……家族があんな……なんで、あんな……ッ」
「…………」
母さんの顔を思い出す。必死だった。必死な様子で俺に、今だけかと聞いた。
今だけ。そんなことを。そういう言い方をされるくらいなら、反対された方がまだ良かった。今だけだと、俺に言わせたかったんだ。俺がそう言わなきゃ、母さんは。困るんだ。
消したくてもはっきり浮かぶ。思い出す。あんな目を、生まれて初めて向けられた。
「…………ごめんなさい……」
反対されるだろうという当然の想定の一方、母さんならばもしかしたらと、どこかでは期待していた。
甘かった。そんなはずがなかった。瀬名さんに、酷い言葉を聞かせた。
「ごめんなさい……っ……ごめんなさい……」
声が震え、無様に自分の靴を見下ろしたまま、情けない顔を片手で覆った。思い知った。現実を見た。分かっていたつもりだったが、本当はきっと分かっていなかった。
これが現実だ。実際にはこうなる。母さんのあの顔を見た。
見て、それで、ああ、そうかって。やはりこれは、許されない事なんだ。
バカみたいに半べそかいて謝る俺に、瀬名さんは答えを返してこなかった。どんなときだって俺に必ず選択肢をくれるこの人は、この時もまたいつものように、静かに、隣にいてくれる。
「この辺、案内してくれるか」
「……え?」
「少し歩こう」
案内してくれと言いつつ、俺の背を押したのは瀬名さんだった。そのまま少し二人で歩いて、通りかかったのは神社。
変わらずそこにある石段をのぼる。意味もなく時間をかけて、ゆっくり。
今年の夏は暑かったけれど、さすがにいよいよ秋の空気だ。朝晩なんかはひんやりしている。それでも日中はまだ歩いていれば体もすぐ温まるくらいで、お願いもないのにお参りしたあと、表面上の挨拶と引き換えに背の高い木々の下の陰で少しばかり休ませてもらうことにした。
場所がいいのか、静かだからか。次第に落ち着きを取り戻す。瀬名さんはやはり何も言わなかった。ただ隣にいてくれた。
陰になったそこで立ち尽くし、瀬名さんをそばに感じる。何をするでもなくお互い黙っていれば、ジリリッと、セミが鳴き始めた。
秋の虫に入れ替わったと思っていたが、どこかに生き残りがいるのを聞いた。九月ももう終わるというのに、最後に振り絞る命だろうか。死にそうな鳴き声を響かせたところで、対になるメスはまだどこかにいるのか。それともそもそも、気候もおかしいし、何かを勘違いしているのだろうか。
しぶとく響かせていたセミがジジリッと、そこで一度鳴くのをやめた。
「……ここによくじいちゃんとお参りに来ました」
「そうか」
「……近所だし、しょっちゅう来てたくせに、なんの神様がいるのかもつい最近まで知らなかったんです。この前帰省した時ようやく、ショウくんが教えてくれて分かった」
はは、と。虚しく零れた。瀬名さんは静かにそれを聞いていた。
「書いてあんのに。気づきました? 階段の横んとこにだってちゃんと書いてあるんですよ」
学問の神様。そう称される人の姓がはっきりと刻んである。石段からほんの少し視線を横にずらせば簡単に気づけたはずのそれに、気づかないまま二十年も過ぎた。
「……俺は何も見てなかった」
神社の名前も、十月間近にセミが鳴くことも、何もかも。
落ち着いて少々見渡せばすぐに見つかるものさえ見つけられない。しっかり見なければ気づけないものに、気づけるはずなんて最初からなかった。
***
案内、というほど案内できるような場所がそもそもないのだが、幼かったただのクソガキが遊び回った辺りを順々に巡った。
お互い持っているのはスマホだけ。田んぼと畑ばっかりのここいらじゃ自販機すら今なお現金に限る。しかもその自販機すらなかなか見当たらないときた。
街の方に出ればそれなりの店も並ぶが、ここはまだやはりド田舎だ。広い通りへ出るバスも一時間から二時間に一本。乗車にスマホ決済は、果たして対応していただろうか。
時代に取り残された村。一言で片づけるのは容易い。現実はそこまで簡単ではない。
戻れなくなる。母さんの言った意味は、俺にも分かる。たぶん瀬名さんも分かっている。
おとぎ話みたいに強力な結界が張り巡らされるわけではもちろんないし、昭和の自警団みたいな人達に入村を拒まれるわけでもない。火事と葬式を除いて。そんな昔ながらの分かりやすい村八分も今どき起きない。そこまで陰湿な集落ではないから、いたらいたで普通に話しかけられる。
だが確かに、戻れなくなるだろう。知られたらきっと、ここでは生きていけない。
安全地帯は途端にリスクへと変わる。逃げ出したくなる空気感は、結界よりもよっぽど頑強だ。
始発とともに家を出てきた。だからまだ日は高い。それでも真夏はもう過ぎたから、高く昇ったそれが落ちるのも早く、あと数時間もすれば太陽は夕日にかわるだろう。
長い夏の終わりの青臭さに紛れ、秋の草木の甘い香りが弱い風に乗って鼻を掠めた。
「戻ろう」
「…………」
「きっと心配してる」
一言も何も言わなかった人が、ここにきて静かに提案をした。俺は首を弱く左右に振って、すでに決めている事を言った。
「……荷物だけ取ってきてあの家出ましょう。すぐには電車来ないけど、大きい方の駅近くまで行けば暇潰せる店くらいはあるので」
借りた車の返却が予定よりも丸一日早まった。記録に残るのはたったそれだけ。あとはもう全部なかったことにすれば、俺達はこれまで通りに戻る。
それがいい。それで全部解決。それで問題ないはずなのに、瀬名さんは首を縦に振っては返さない。
「まだお前の家族と話が終わってない」
「いいですよ。もういいんです。見たでしょ、あの顔。分かってもらえません」
「それでも話したい。遥希の家族だ」
「…………」
そういえばばあちゃんだけは、ずっと座ったまま動かなかった。一言も発しなかった。いいともダメとも言わなかったが、ビックリはさせただろう。
思った通りだ。思った通りだが、半分はただの強がりだ。俺の中に確かに存在していた期待は隠せない。その期待はあの一瞬で、俺の中だけの都合のいい妄想だったと証明された。
「……あなたのご両親とは違うんです。うちの親は認めない」
「ああ。だから認めてもらえるように話す」
「無駄ですよ……」
ずっと避けてきた親子喧嘩に付き合わせている。こんなつまらない場所に連れてきて、あんなつまらないものを見せた。あの家に戻って同じ話をしても、どうせまた同じものを見せる。
「……認めてもらう必要なんてない」
これは家族のいざこざだ。瀬名さんが巻き込まれる必要もない。
俺が目を背けていただけで本当は元からあった。それが一気に、露呈した。
「最初から俺が間違ってた……許可取る必要なんてありません。いいんです。そうです。俺ずっと甘えてた。小さいガキとは違うのに、家族に甘えようとしてたんです。でもこんなとこもう……どうだっていい」
いずれにせよ俺達はどうにもなれない。限界を知っていながら家族には認めてほしかった。二条さんの言葉を借りれば、ここは俺にとっての内側だから。その考えが甘かった。
「俺がここに帰ってこなければ済む話です。どうせなんもねえようなド田舎です。そうですよこんなとこもう二度と、」
「ダメだ」
鋭く、俺を遮った。ここまではずっと俺に合わせた瀬名さんが、ここで初めて言葉を強くさせた。その目は俺に、逸らすなと。
「それを言ったら、本当に二度と帰れなくなるぞ」
「…………」
その時ジジッと、何かが鳴いた。しぶといセミがここにもまだいる。どこの木にとまっているのかは見えないが、中途半端に鳴き止んだそいつは、死んだのかな。分からない。
「お前はここが好きなんだろ。いつもそう言ってるよな」
「…………」
「だったらそんなこと言うのだけは駄目だ」
戻れない。帰れない。物理的な意味以上の、重さをこの人もたぶん知っている。
「分かってもらえるように二人でちゃんと話そう。遥希には何も捨てさせない。捨てる必要がねえからな」
「……無理ですよ。きっとダメです」
瀬名さんだって見た。あの目を、俺の家族から向けられたのはこの人だ。それをされて傷つかないわけがないのに、瀬名さんは首を横に振る。
「ダメじゃねえよ」
「…………」
「ちゃんと話したい。分かってもらえるように」
「……それでも……分かってもらえなかったら……」
そんな事になるくらいならうやむやにしてしまえばいい。話したところでどうせ無駄なら、そもそも話なんてしなければいい。無理に認めてもらおうとして、反対されるだけならまだしも、別れさせられるようなことになったら。
そんなことに、なるくらいなら。
「一緒にいるのも、駄目になるかもしれない……」
それだけは嫌だった。知られるのがずっと怖い。その最初は二条さんだった。人間不信の野良猫以上に勝手にピリついてあの日この人を散々に困惑させたのは、俺の根底の恐怖だった。
ここまでは運が良かった。瀬名さんの繫がりはあったかいから。この人だから周りはああなる。けどここは、そうじゃない。
「こういう田舎はまだ……家が強いんです。今どきって思うかもしれないけど、守るのは個人じゃない。家なんです。村です。だからここはずっと平和にやってこられた。そうじゃなきゃ成立しないんです。もし俺の家族が認めてくれたって……親族は他にもいる。あの人たちは……」
じいちゃんとは全然違う。考え方も何もかも。子供の頃からそれを見てきた。だからじいちゃんは俺を、外に行かせた。
ここには確立された秩序がある。中にいることを許される人はその秩序を守る人。だから村はいつも平穏で、村の中にいる限り、その秩序によって自分も守られる。
自分の親がどういう経緯でここでこの暮らしを守ってきたのか、聞いたことはない。聞いてはいけないのだろうと子供心に思っていた。
酷く反対されたはずだ。されなかったはずがない。なぜなら田舎の家の一人娘だ。それが大学に行き、妊娠して戻ってきた。相手はずっと年上の男。それを許されるはずがないが、俺の両親は今ここにいる。
いくつもの苦しいが至る所にあっただろう。それくらいはガキにも分かっていた。物心ついた頃に察して、だから何も聞かないことを選んだ。聞けばきっと、今度は俺が苦しめる。
「……あなたと、離されるかも……」
母さんと父さんだってそうなっていてもおかしくなかった。でもそうはならなかった。母さん達の時には、じいちゃんがいた。
今はもういない。俺の味方はいない。だからもう、どうにもならない事はある。
もしかすると今がそうかもしれない。だって、本当に駄目で、どうにもならなくて、分かってもらえないことが確実になったとき。そのときは、そうなったら、どうすれば。
「そうだな、じゃあ……そのときは……」
外に二年半出てみたくらいで凝り固まった価値観は変わらない。俺とは違うものも見えるこの人は、少々の間を置き、静かに言った。
「一緒に逃げるか」
秋の入り口の空気の中で、静かな声だけがこの耳に届いた。思わず、顔を上げていた。
家族は俺を外に行かせてくれた。外に出て俺が見たのは、中にいた時には見えなかったもの。
「……え?」
「俺達には最後の手段がある。二人で遠くに逃げちまえばいい。この国に生まれたからってこの国にい続けなきゃならねえ決まりはない。自分の居場所は自分で選べる時代だ」
そこが好きな場所ではないなら、好きな場所を探しに行けばいい。そこが嫌いな場所ではなくてもどこにだって自由に行ける。言うのは簡単だが実行は難しい。相手が瀬名さんでなければそう言って返せる。
でもこの人の周りには、いる。故郷ではない場所で暮らす人たちが。知らない場所で知らないルールで全部を一から、まっさらに新しく始めた人たち。
「俺たちを知ってる人間が誰もいないところに行こう」
「…………」
瀬名さんの言葉には軽さがない。重苦しくはないのに、夢物語とも違う。
気休めでは決してないそれを静かに、けれどもはっきりと言い切ったこの人は、そこで少し表情を和らげた。
「そうならねえように今日ここに来た。遥希が大事にしてるもんなら、俺にとっても大事なものだ」
「…………」
「戻ろう」
最初と同じことをもう一度だけ言われて、頷くまではいかず、ただ再び視線を落とした。けれどもダメとは、言えなかった。瀬名さんが見せてくれるものを、ダメの一言が蔑ろにする。それだけは俺にはできない。
この人の言葉はやっぱり、軽くなかった。
「……ガーくんのこと無視しちゃった」
「許してくれる。思った通り立派なアヒルだ。あんなに賢そうな子は見たことがない」
「…………母さんにも、酷いこと……」
言ってはいけない事を言った。何があっても絶対に、言いたくなかった事を言った。
自分の言ったことに傷ついている俺は身勝手なうえに滑稽だ。バカみたいなこんな奴でも、この人は隣で受け入れる。
「許してくれる」
こういう断言をする時の、瀬名さんはいつも、必ず優しい。
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