貢がせて、ハニー!

わこ

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134.蝶の羽ばたきⅢ

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 タンタンタンタンッと、階段を上る自分の足音が異様に大きく聞こえてくる。
 三階の廊下に駆け上がり、並んだドアにバッと目をやる。助けを求めるかのように俺の足は瀬名さんの部屋を目指すが、躊躇う。なんだか、だって、見ているかも。電気がつく部屋の場所を、外でまたじっと覗いているかもしれない。

 一瞬後には逃げ込む場所を変えていた。自分の部屋の中に駆け込み、バンッと力任せに扉を閉めた。
 すぐさまガチャリと回した内鍵。ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出し、暗い玄関がそこだけボヤっと。ひとまず僅かな明かりを手に入れ、次にはドアチェーンに頭が行った。
 今できる最大限の防犯はこれくらいだ。チェーンの先端を上の窪みにまで持ち上げた。しかし周りが暗いせいか、他が過敏になっている。
 カタッと、音が。

「っ……」

 手を止め息をつめ、バッと廊下を奥まで見渡す。
 なんだ。どこだ。どこで。音が。今確かに、何か。

「…………」

 玄関のスイッチに手を伸ばし、音を立てないよう静かに押した。パッと明かるくなった玄関ホール。視線の先には閉まっているダイニングのドアがそこにあるだけ。
 三和土を見下ろす。さっきと変わりない。外に出してあるのは古っぽくて安いサンダル。その一組だけが揃って置いてある。
 そっと左側を見る。そこのドアは風呂。そしてトイレ。どっちのドアもきちんと閉まっている。いつも通りだ。大丈夫。さっき出てきた時と同じ。

 同じはずだが、だとするならこの、違和感はなんだ。何かがおかしい。神経が張り詰めているせいだろうか。自分の部屋なのにすべてが急に、気味悪く感じる。おかしい。変だ。
 ダランと垂れているドアチェーンを、今度こそ慎重に、静かに嵌めた。視覚も聴覚も部屋の奥へと向いている。暗いままの室内に足を踏み入れ、ダイニングのドアを、開けた。ガチャッと。

「…………」

 何もない。誰もいない。廊下の電気はぼんやりとダイニングまで届いてくる。寝室との間にある引き戸も開け放ったまま。そっちに目をやる。ここから見たところ、不審なことはないように思える。
 薄暗いダイニングを通り、寝室に足を踏み入れた。異常はない。指先で電気のスイッチを押し、まずは窓を確認した。カーテンの上から鍵に触れる。閉まっている。大丈夫だ。ここにだって何もない。

 ならばどうして。何か、気味が悪い。走って来たからそう感じるだけだろうか。呼吸はまだ、やや落ち着かない。
 窓からは数歩離れた。自分の部屋であるはずのここをグルリと一周見回して、最後にもう一度ベッドに目を向けた。クマ雄がいるだけ。そこにいるクマ雄が、横向きにパタリと倒れている。

「…………」

 クマ雄は壁を背にして座らせてあった。いつもそうだ。今日もそうだった。こいつの視線の先にあるのは、ベッド前のローテーブルだった。
 その視線が今はいくらかずれている。しっかりした作りのテディベアだ。こんなふうに、勝手に倒れるだろうか。

「…………」

 考えすぎか。寝室に隠れられる場所なんてない。死角ができるほど広くもない。部屋の中はシンとしている。ならどうして、クマは倒れた。

 ゆっくり後ろを振り返った。玄関ホールから届く明かりと、ここから明るく漏れる光が、ダイニングの中を照らしている。廊下の明かりを目指して足を踏み出し、途中、目にした。ダイニングテーブル。その上には見覚えのある、開封済みの白い封筒があった。
 何度もしつこく毎日のように届いていたうちの一通だ。それが最近はパタリと止んでいた。だからこの封筒を見ることもなかった。束になったそれを入れてある、引き出しを開けたくなかった。

 さっき俺はこの部屋に、キーケースを取りに来た。それでゴミ袋が目に入った。それを外に持ち出した。それだけだ。他には何もいじっていない。夕べも手紙の束には一切触れていない。
 ここに封筒なんて、俺は置いてない。

「ッ……」

 ゾッと、咄嗟に息を潜め、自分の足音に注意を向けながらゆっくり、しかし逃げるように廊下に一歩踏み出た。
 一瞬にして感覚の弱くなった指先でスマホの画面をタップする。番号の入力。イチイチゼロ。その数字を表示させ、その画面をじっと睨んだ。
 通話さえ押せば警察が来る。そういうシステムに登録した。状況説明をする必要はない。駆けつけてくる。すぐに来るはず。要する時間は付近にいる警察官の誰かから、ここのマンションまでの、距離による。

「っ、……」

 喉がつかえる。どうする。かけるか。だが何もないかもしれない。こんなときでも躊躇はあった。警察を呼んでもし何もなかったら。
 だからダイニングのドアは開けたまま、音を立てないよう玄関に向かった。向かう途中で、スッと、気付いた。違和感の正体。そうか。ドアだ。ドアだった。帰ってきた時このドアは、閉まっていた。

「…………」

 ついさっき、俺はダイニングのドアを開けたまま出ていったはずだ。閉めたか。いいや。閉めていない。開けたままだった。それが、閉まっていた。

 呼吸が浅く、速くなる。心臓の音が聞こえそうだった。
 確信に近い疑惑が確証に替わる。そうだ。間違いない。いる。今この部屋に、いる。状況がはっきりそれを示した。侵入できたとすればゴミを捨てに行ったタイミングだけだ。コンビニに行く時は施錠して部屋を出てきた。たった今入ってきた時は、俺は鍵を、開けてから入った。

 だめだ。いるんだ。今いる。逃げないと。それだけが途端に頭の中を占めた。右側のドアを通り過ぎ、それですぐさま後ろでキィッと、響いたその音を聞く。
 後方に目をやる。トイレだ。トイレのドア。微かに開いている。開いていた。

「…………」

 開けていない。俺は絶対に開けていない。さっきまでは閉まっていた。
 開け広げたまま目を閉じられない。視線の先にあるそのドアがキィッと、さらにまたゆっくりと開いた。少しずつ開いていく。暗い隙間に目が行く。最初に見たのは、黒っぽいコートだ。その裾が揺れ、中から、出てきた。そいつが。

 バダッと、息を呑む暇もなかった。体だけが勝手に動いていた。
 咄嗟に、本当にただ反射的に駆け出し、ドアに向かい伸ばしていたこの手。掴みかかった鍵を回した瞬間にドアを思いっきり押し開こうとするも、ガシャンッと、すぐに引っかかった。
 チェーンだ。後ろの足音が耳に入る。ドアを外に向かって押し開けたままガチャガチャとチェーンを動かしても先端がギリギリ届かない。バンッと力任せに閉め、慌てて掴みかかった冷たい鎖。すぐ後ろに迫る気配を感じながらチェーンを外すのに手間取り、無理やりにジャラッと外し、瞬間、ガッと、腕を引かれた。

 虚しくだらりと垂れたチェーンがドアに擦れてジャラジャラ音を立てていた。グッと腕に掴みかかられ、弾みで手の中から離れていった重み。それはガゴッと、床に落ちた。

「っ……」

 ガンッと、酷い音を聞く。痛い。肩と背に強い感覚。硬いドアに打ち付けられていた。
 衝撃で呼吸も一瞬止まるが視野は途切れず、少しだけブレたすぐ目の前。そいつの顔がある。フードを被っている。でも分かる。見た。男だ。

 ほとんどもう、パニックだった。誰だ。誰だ、こいつ。知らない。誰だ。男を凝視し、しかし思いつかない。
 フードの下は素顔だ。マスクもしていない。目元も隠していない。だから表情ははっきり見える。俺の目の前で、こいつは、笑った。

「ぁ……」

 この、顔。唐突に、じわりと浮かんできた。知らない男。いいや、違う。知っている。そうだ。覚えてる。会ったことがある。喋った。言葉を交わした。
 あの時だ。あの時、ほんの少しだけ。世間話とも言えない、雑談程度の。
 期間限定だったあのメニュー、かなり美味かったですよねって。

「……え……、」

 ただ、顔を見ただけならば、おそらく思い出さなかっただろう。印象にはさほど残っていなくて、けれども確実に面識はある。知っていた。知っているといってもそれは、ほんの二日間顔を合わせただけの、少しばかり言葉を交わした相手。
 イベント会社の真面目そうな。指示役の、男性社員だ。

「なんで……」

 なんで。だって。だって、そうだろ。なんでこの人が。この人と俺とはなんの関わりもないのに。あのバイト以外の接点はないのに。
 ならばどうして。ここにこの人がいるということは、ストーカーは。全部こいつなのか。どうして俺は今この人に、壁に押さえつけられている。

「知ってるよ。隣の奴はまだ帰って来ないよね」

 一瞬にして、ピンと張り詰める。整理の付かない頭の中に、この男の声がはっきり響いてきた。

「あいつ邪魔なんだよ、部屋が隣ってだけで。俺がそこに住んでればよかった。あいつさえいなければ俺が一緒にいてあげられたのに」

 真面目そうな人だった。今も喋り方は、口調だけは、至って普通だ。普通の調子で、普通の会話でもしているかのように、だけど酷く異様な顔つきで、俺を見て、この男は聞かせてくる。

「あんな乱暴な奴と一緒にいちゃダメだよ」
「……、は……」
「だってそうでしょう? 友達は災難だったよね」
「ッ……」

 ゾッと、全身が強張った。
 なんでなんて、知らない。そんなの。だけどこいつだ。今までのことは全部。見られていたんだ。あの時のことも知っている。どこかからこいつは俺たちを見ていた。
 ずっとどこかから俺を見ていたこいつは、目の前でニタリと口角を吊り上げた。

「ようやく会えた……。いつも俺の手紙受け取ってくれた。嬉しかったよ。全部読んでくれたんだね」

 何を言ってる。意味が分からない。体が冷え、脱力でもするかのような、それでも、嫌でも、どうしたって理解せずにいられない。
 普通じゃなかった。まともじゃない。異常者だ。この部屋に忍び込むだけの頭は間違いなく持っていて、すぐにでも顔を隠せる格好をしているのに、こいつは完全に自分の言葉を信じきっている。そういう喋り方だ。
 嫌悪と同等かそれ以上のこれは、恐怖だった。はっきり怖いと感じた。それを自覚した瞬間に後ろのドアノブを掴もうとしたが、寸前にガンッと打ち付けられている。

「ぅっ……」

 肩に受けた痛みに反射で怯む。しかし体は逃げるために動いた。腕を振り上げ、でも叶わなくて、だから叫んだ。そのはずだった。しかしできていない。声を張り上げるよりも早く、バチバチバチッと激しい音を聞く。

「ッ……」

 太ももにきた。強い衝撃を浴びた。悲鳴みたいな声が自分の口から叫び漏れたのは自覚できた。瞬間的な痛みに跳ねた体を、ビリッと鋭く駆け抜けていった。
 バチリとまた、今度は目の前で青と白のスパークを見る。スタンガン。視界の隅に一瞬映った。それを持った男の手をこの目で捉えた時にはすでに、痛みにうずくまるようにしてドサリと崩れ落ちている。

 ビリビリと痛む痺れに覆われても完全に意識はあった。頭は動く。でも訳が分からない。衝撃で体が言うことを聞かない。喉までせき止められたかのように、低い呻き声だけがわずかに零れただけだった。
 強引に顎を取られ、ビッと、口を覆うように張り付けられたそれ。テープだ。よく知った粘着質な溶剤の臭いが鼻を掠めた。

 叫ぼうにももう遅い。くぐもった声以外は出せなくなった。床に倒されたこの体はズルッと廊下に向けて引きずられていく。
 手慣れている。それが分かった。ゾッと再び背筋を走った時にはもう、仰向けに組み敷かれている。

「ごめんね。ちょっと強かったね」

 目の前に男の顔が迫る。笑ってる。重くのしかかってくる。出せもしない声を張り上げたところでこの男は笑うだけ。
 顔だけを必死にそむけてもがくと、カシャッと右手首に何かを感じた。金属の硬い質感。
 こいつが自分の腕を持ち上げ、それに引っ張られて俺の右手も宙に上がったのを見せてくるから、手錠で繋がれたのだと分かった。

「っ……!」
「これでずっと一緒だよ」
「ッ、んんっ……」
「部屋に入れてくれてありがとう」

 狂ってる。普通じゃない。狂っている男が、拘束するための道具を手にして俺のところに来た。

「写真は? 見てくれた?」

 痛みと衝撃の消えない体でもがいた。こいつが左手を動かすと、それに俺の右腕も引っ張られていく。
 指先が自分の髪に触れた。こいつの手は、俺の頬を撫でた。

「いつもキミのこと考えてる。ずっとだよ。初めて会った時から」

 目にぐっと力が入った。恐怖と一緒にせり上がってくるこれは、嫌悪だ。怒りにも似た吐き気がした。
 逃げないと。スマホは。どこだ。ない。持っていたのに。さっきまであったはずだ。どこだ。どこに。

 握っていたはずのスマホは見当たらなかった。動きを制限された中であちこちに必死で目をやり、それで、あった。向こうだ。だめだ。あれじゃ届かない。廊下の端にそれはある。
 さっきの弾みで手から外れたのは、スマホだった。

「…………」

 すぐ目の前に脅威がある。助けを呼ぶ手段はなく、けれども頭だけははっきりとして、鮮明だ。何をすべきかは分かる。
 ガッと左手が動いていた。あれこれ考えるよりも行動の方が先に出ている。こいつの下から抜け出すために、俺を跨いでいるその太腿に自由な片手だけで掴みかかった。

「このッ……」

 途端に声を荒らげた男。一瞬にして形相を変え、上から力任せに押さえつけてきた。腕に力を込め、足をばたつかせ、拮抗した。だがやり返すなら今だ。体格差はほぼない。下から抜け出せさえすれば、取り押さえられる。ぶちのめせる。手錠の鍵を探し、スマホを取り戻し、外に出ないと。それから、警察を。

 揉み合う中でぐるぐると瞬く間に思考が回転していく。下から押し返すよりも上から押さえつける方が圧倒的に有利な位置にある。分かってる。だからこそ懸命にもがく。逃げないと。逃げないと、まずい。
 しかしその時、上からかけられる力がふっと消えた。こいつの手が俺の腕から離れ、その、直後。

「ッ……!」

 ヒクリと、息を呑んだ。見開いたこの両目。廊下の明かりが銀色に反射している。光っている。
 目の前にはカッターがあった。ギギッと、さらに刃を繰り出された。小さいけど、刃先の方向にあるのは俺。ヒタリと頬に当てられた。鋭利な冷たさを肌で感じる。

「おとなしくしてろッ! 暴れるなよ、切るぞ!?」

 ピクッと反射で肩が動いた。この男は慌てたように、顔をこっちに近づけてくる。

「あ……ああ……あぁ……ごめんね。大丈夫。大丈夫だよ、怖がらないで。じっとしててくれれば何もしないから。俺は乱暴なんてしないよ。そういうのはしたくないから、分かるでしょう? ねえ? 大人しくしてて。ね? 大丈夫だよ」
「…………」

 スタンガンを持っていたような奴だ。手錠も、テープも、全部用意していた。コートにカッターを忍ばせるくらい、なんの躊躇いもないだろう。

 視線を下に向け刃先を捉える。呼吸が荒い。吸うばかりでまともに出ていかない。苦しい。全身が痛い。鼻腔に触れる冷たい空気まで突き抜けるように痛かった。
 カッターの薄く尖った面はスルスルと頬を伝い下り、戒めるかのように喉を通る。それを握りしめているこいつの手は、そのまま俺の左腕を硬い床に縫い留めた。

「会いたかったんだ」
「ッ……んんっ……」
「キミもだろう? 気づいてたよ。あの会場でずっと俺のこと見てたでしょう?」
「っ……」
「本当はちゃんと分かってた。でもごめんね、あそこでは俺にも立場があったから。話すなら二人きりの方がいいよね」

 気味の悪い笑みに吐き気が起こる。こいつは狂った顔をして、俺の上で次々に妄想を喚いた。潜めるような大きさの声で、俺にははっきり聞こえるけれど、それでも外には聞こえない。そうやってこいつは俺に聞かせ続けた。
 狂っているが、正常だ。異常者だが、こいつには自覚があるはず。恍惚とした表情を浮かべてはいてもこれが犯罪だと分かっている。だから外に音が漏れないようにしている。

 カッターを見せて俺がおとなしくなったと判断したのだろう。左腕を掴んでいたその手が凶器を持ったまま離れていった。ベッタリと貼り付けられたテープの上から、唇をゆっくり撫でられた。

「ッ……」
「好きなんだ。本当に愛してる。キミだけだよ。本当だ」

 指先がビリビリする。完全に自由なのは左手だけ。派手な動きをすればすぐに知られる。さっきと同じことになったら今度はきっと脅しじゃ済まない。
 こいつの下から抜け出ないと。そうしないことには何もできない。
 手さぐりに触れたベルトの近くを焦りから無造作に握りしめ、その時左手の爪の先にカツッと、何かが擦れた。なんだ。微かな、金属の、質感。

「…………」

 淀んでいた視界が開けるみたいに、スッと頭に血が通う。あった。まだある。これだ。防犯ブザー。いつも持っている。小さいそれを今日もまた、ベルトループに引っかけてある。
 爆音だと、かなりの音量だと言っていた。鳴らしたことはない。でも瀬名さんがそう言った。なら、そうだ。この場所を知らせられる。誰でもいい。気づいてくれさえすればそれで。
 指先にカリッと、力を込めた。

「ッ……!」

 瞬間に鳴り響いた警報音。たたましい音量が成り上がると同時に真上では男が目を剥いた。
 俺からバッと身を引くも、すぐにこの右手首とつながる手錠がこいつをそこに押さえとどめた。床から浮かされた右手に力を込める。両手で男に掴みかかろうとするも、寸前にザッと、左の上腕にカッターの刃先を振り下ろされた。
 ビリっと裂ける。音だけだ。痛みはない。刃は皮膚まで届かず、厚手のジャンパーには縦に深く切れ込みが入った。

「クソがッ、ふざけやがって……ッ!」

 切り裂かれたその箇所をめがけ、狂ったようにガンガンと拳を叩きつけてくる。呻き、痛みと衝撃に一瞬だけ動きが止まった。
 その一瞬でダンッと再び上から押さえつけられている。慌てふためきグルグル動いている男の気味悪い両方の目玉は俺の腰の位置に気づいたようだ。鳴り響くそれをブチッと奪い取っていった。

「くそっ、クソッ……なんだよッ……なんなんだよぉおッ……!!」

 掴み上げた小さなそれをいじくってもこいつに止めることなんてできない。喚き散らし、激高したように怒鳴り上げながら廊下の隅にカシャンッと投げつけていた。
 それでもまだ鳴っている。役目を果たしてる。鳴りやまない爆音に焦りと苛立ちを見せるこの男。真上から俺を見下げ、その瞬間、衝撃が。

「っ、ぐ……」

 横っ面をガッと殴られ、その方向に顔を向けたままガムテープの下で呻きが漏れる。
 目の前ではとんでもない叫び声が響いた。顔の上で怒鳴り散らしている。ほとんど聞き取れない。言葉じゃなかった。おぞましい声で喚かれ、何かを言っていて、それは次第に明らかな憎しみの感情へと替わっていくのを肌で感じた。

「ふざけんなよッ……ふざけんじゃねえっ、お前が自分で言ったんだろうがッ……!!」

 頬をまたガンッと殴られた。口の中に錆びた味が広がる。
 俺の上でこいつが立ち上がったため引っ張られるように右腕が宙に浮いた。片腕を吊るし上げられたまま、ガツッと蹴り上げられたのは左の脇腹。

「っ、ッ……」
「お前が言うから来てやったんだよッ! 俺にここを教えただろっ!? なあッ!? 来てくれって言うから来てやったのになんでだよッ、ふざけんなッ……クソがっ、クソがぁあッ!!」

 むちゃくちゃに脇腹を横から蹴られた。次には上からグッと振り下ろしてくる。硬くて重い靴の感触が食い込んだ。鈍い痛みが腹部に広がる。蹴り込まれた箇所をさらに靴底で踏みつけられ、それでも口は開けないから、絶え間ない痛みに体が吸って吐きたがるのを鼻だけで繰り返した。
 咳込みたくてもできない。なんだこれ。まずい、これ。ガムテープの下ではくぐもった呻きだけが漏れていく。

 男は再び自分のコートを探った。ぼやけた視界でそれを映した。
 取り出されたのは小さな何か。オモチャのような銀色のそれが手錠の鍵だと分かったのは、こいつが自分自身の左手首だけ自由にさせたのを見たからだ。
 片方の輪っかが開くと同時に、手錠ごとガシャリと床に投げ出された右手。

 なぜ、外した。自分が動きやすいようにした。ブザーの音に焦ったか。逃げるつもりか。それとももっと、俺を痛めつけたいのか。
 逃げる気なら追わない。そんな体力はもうない。だけど違うなら、どうすればいい。

 ブザーはけたたましく鳴り響いている。なのに誰かが玄関を叩いてくれる気配はまるでなかった。
 今ここでまたあの電圧を食らったら今度こそ体は動かせなくなる。反撃のための手はきっと出ない。そうなったらこいつは俺をどうする。異常な奴だ。普通じゃない目で、俺を見下ろしているこの男。

「……どいつもこいつもバカにしやがって」

 胸倉を持ち上げられ、床にダッと打ち付けられた。ぶつけられた骨の痛みと、堰き止められた呼吸に歪むこの顔。
 絶え絶えになりそうなのを堪え、鼻から必死で酸素を取り込む。意識だけは手放してはいけない。閉じずになんとか開け続けるこの目に、映り込んでくる狂った表情。
 この男の顔面が再び迫ってきた。最初とは全く違う顔だった。憎らしそうな目で睨みつけてくる。

「前からこうしてやろうと思ってたんだよ」

 脇腹が痛む。全身が痛い。こいつの手は、俺の服をガッと引っ張った。

「犯してやる」

 ドガンッ、と足元で派手な音が上がった。それを認識するよりも先に、目の前にあった男の顔面がガッと弾き飛ばされている。
 すぐ後に響き渡ったのは酷い怒声と喚き声。部屋中に反響している。二つ分の声があった。放せ放せと騒ぎ立て、ふざけんじゃねえ殺してやると言って喚くその言葉はおそらく、俺に向いていた。獣のように唸るその男を制するのは、聞き馴染みのない女性の声だ。

「黙れ、騒ぐなッ……!」

 女の声が叫んだ。かろうじて、ほとんど意識外で、視線だけをその方向へと向けた。
 暴れる男と揉み合い、上から押さえ込み、そいつの腕を捻り上げた女性。俺の上から男を弾き飛ばしたのはその人なのだと、頭が勝手にそう判断した。

「啓介ッ、応援呼んで!!」
「はいっ!」

 暴れるそいつを取り押さえながら叫び上げた女性のすぐそば。もう一人いる。誰か。呼ばれたその人。その男性が、女性の声に応えた。

 この喧噪の中でも冷静に、的確に、どこかの誰かに向かって状況を伝え始める声が聞こえる。続けてこのマンションの大まかな立地も。男性の声がそれを告げている。
 俺のすぐ目の前では女性が完全に男を取り押さえていた。動くな。おとなしくしなさい。暴行の現行犯。小柄なその人は強い口調で男に向けて言い立てていた。

 まばたきさえも、ままならない。ずっと見開いているせいか、涙の膜で視界が滲む。目の前で起きている状況なのに、どうなっているのか認識できない。

 電話で話す男性の声はいつの間にか消えていた。眼前の乱闘から庇うように、俺の前に立ったその声の主。
 ゆっくりと屈み込み、俺の顔を覗き込んでくる。心配そうなその表情だけはこんな頭でも理解できて、そこでようやく、気が付いた。

「…………」
「警察を呼びました。すぐに到着します」

 そう言ったその人を、知っている。あの人だ。どうしてここに。物腰柔らかで、いつも丁寧な。黄色いガーベラの、お客さん。
 その人がなぜか俺の前にいて、この人がたったいま、警察を呼んだ。

「これ剥がしますね。ちょっとだけ我慢してください」

 言いながら手を伸ばしてくる。口元を無造作に覆っていたテープは、労わるように丁寧に剥がされた。
 ほっとするよりも呆然だった。自由に喋れるようにしてもらっても、声がすぐには出てこない。いっそなにも考えたくない。なのに喧噪だけは耐え間なく耳に入ってくる。

「っ放せ……放せよふざけんじゃねえクソが放せぇええッ!!」
「黙りなさいッ……!」

 都会の煩さには慣れたつもりだった。慣れてきたその範囲を超えて今は異様に騒々しい。しかし理解できない。その余裕がない。目の前で今、何が起きている。

 諦め悪く暴れているそいつをガッシリ取り押さえているその女性。狂ったようにいつまでもしつこく喚き上げる犯人の男。一向に鳴りやむことなく、ただひたすらにピーピーピーピーとけたたましい警報音。
 雰囲気はいつものままに、けれども場違いなくらい、あまりにも冷静な、ガーベラを買いに来る常連のこの人。

「もう大丈夫です」
「…………え……」
「大丈夫。心配ありません」
「…………」

 本当に大丈夫そうだが、俺はしばらく喋れなかった。
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