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145.ジェントルⅣ
ジリジリと自分の中にあった罪悪感を吐き出し、あっさりと受け止められて、流れでそのまま一緒にお茶をしていたら時間が経つのはあっという間だった。
榊さんは俺に話をさせた。外には出さずにいた数々のことだ。ここまで色々あった間の言葉にならないような感情を、時折うなずいて返しながらただ黙って聞いてくれた。
興味のない相手の話ならこうはならなかったと思うが、俺もこの人には聞きたくなる。榊さん自身のこととか、その仕事についてとか。
榊さんは俺が質問すれば丁寧にニコニコと答えてくれた。けれども聞いた以上のことは語らない。それはかえって信頼できて、自慢話なんて論外の人で、しかし一つだけ存在した例外にも辿り着いた。
工藤さんの話だ。
「彼女ほどあの仕事に向いている人はいません。勘が働いたときほどまずは自分を疑ってみる人です。だからどんなに小さなことでも真紀さんなら見逃さない」
工藤さんの話をしている時の榊さんは誇らしそうな顔になる。それを見ていると二条さんご夫妻を自然と思い出すことになった。大事だし、尊敬もしている。そんな気持ちが伝わってきた。
「警察全体として女性はまだまだ少ないですから、大変なことも多いでしょうけど」
「俺も女性の刑事さんに実際お会いしたのは初めてでした」
男の警察官を見ればただ単に警察だと思うだろう。女性の警察官を見ると、無意識のうちに女性警察官だと区別して認識する自分に気がつく。
弁護士さんでもなんでもそうだ。女性刑事。女性弁護士。男性刑事とか男性弁護士とか、相手が男ならわざわざ職業の前に性別の区分をくっつけないなのに。
男性比率が小さい職業なら逆の現象が起こるのだろうが、刑事は圧倒的に男社会だ。そのうえ厳格な縦社会。希望した課に行き着くだけでも、大変な努力が必要なはずだ。
「工藤さんはどうして今のお仕事に……?」
「刑事は子供の頃からの真紀さんの夢だったんです。ですが彼女はあの通りの体格ですから、小柄なのを武器にするために小四からずっと柔道をやっていたとかで」
「カッコイイ……だからあんなに強いんですね」
素直な感想を思わず零すと、榊さんは嬉しそうに笑った。
こんな顔もするんだな。自分のことだととにかく謙虚で腰が低いのに。
「すでに退職なされていますが、彼女のお父さんも刑事一筋だそうです。その仕事ぶりに憧れたと聞きました」
「お父さんはどんな方なんですか?」
「え? あ……いえ、その……」
驕らないし偉ぶらないし慎ましやかな榊さんは、恋人の話になるととても生き生きと喋りだす。工藤さんがいかに素晴らしい人物かここまでスラスラ語っていたはずが、なぜなのかそこで突如、打って変わって歯切れが悪くなった。
しっかり合っていた榊さんの視線は、徐々に下へと落っこちていく。
「あの……直接、お会いしたことはまだ……折を見て近いうちにはと、思って、いるんですが……」
なんだろうな。カクカクしてるな。急にしどろもどろだ。別人みたい。初めて花を買ってくれたあの日のことをふわっと思い出す。
俺が首をかしげると、榊さんはさらにまた照れくさそうな顔をした。
「……実は僕たち今……婚約中というか……」
「あ、ご結婚されるんですか?」
「けッこ、ん、あの、いえ……いえあの、はい……こん、婚約、してて……入籍も、その……」
大丈夫か。さっきまでの落ち着きはどこに。婚約って言うだけでも恥ずかしそうだ。
今まさに事件が起こっている現場にて至極冷静で状況判断も的確だったあの男性と同一人物とは思えない。
でもそういえば、花屋でもそうだった。たった今頭をよぎったばかりだ。初来店の時なんか特にそうだったと思う。
店先でそわそわしていて、通り過ぎてまた戻ってきたかと思えばまたしてもそわそわと。落ち着きのない様子を見せていた理由が、今まさに分かってしまったかもしれない。
これはなんだろう。こっちまでふわふわする。ふわふわするっていうか、ポカポカする。
しどろもどろになっている榊さんを見ている俺がなぜだか高揚してきて、ほっぺたが緩む。止められない。そんな俺を前にしながら、榊さんは観念したように絞り出した。
「……できれば、近々……」
近々入籍したいそうだ。だから折を見て近いうち、元刑事のお父さんにご挨拶しに行くそうだ。
頬が緩むのを隠せない。口角が上がる。それ見て榊さんも照れたように笑った。
こういう話が好きなのは女子だけかと思っていた。他人の幸せなんて見聞きしたところで嬉しくもなんともないだろうに。なんだってあいつらは誰かと誰かがくっつくのを見ていちいち喜ぶんだ。
ずっとそう思って生きてきたが、間違っていた。俺は知らなかっただけだ。だってなんだか今すごく、嬉しい。
「おめでとうございます」
自分でも分かるくらいに隠しようのない笑顔で言ったら、いささかモゴモゴしつつもありがとうございますと嬉しそうに返ってくる。
それは幸せなときに人が浮かべる表情だ。恥ずかしそうに首の後ろへと落ち着きなく手を当てながら、榊さんはまた小さく笑った。
「真紀さんにプロポーズできたのは……実を言うとあなたのおかげなんです」
「え?」
結婚の話になったらそわそわと落ち着きをなくしたこの人は、コーヒーカップをソーサーごと手に取りクイッとやや深めに仰いだ。
「僕は去年まで関西の方にいまして」
「あ、そうなんですか」
「ええ……。その間も連絡は取り合っていましたけど、やっぱりちょっと距離的に……」
当然厳しいことが多いだろう。たとえ小さな島国だとしてもだ。東と西とにそれぞれがいれば、会いたいと思ってもすぐに会える距離ではない。
「けど春からこっちに配属が決まって……言うんだったら今しかないなと……思ってはいたんですが、これがなかなか……。いえでももう、ずっと長いこと付き合ってるんです。そろそろプロポーズしていい頃かなとこれまでに何度も考えていて、それでもタイミングがどうしても掴めず……」
榊さんは落ち着きなくカップの取っ手を掴んだり放したりしている。
世の中の男性は瀬名恭吾みたいなのばっかりじゃないだろうからな。直球勝負ではなくともこれだけ裏表のない人なのだから、感情は駄々洩れだったと思うが。
「初めてガーベラを買ったあの日は、彼女と食事の約束していた日だったんです。あの花屋さんの前を通ったら赤川さんが声をかけてくれました」
言われてまた思い出す。良かったら中でご覧になってください。奥にもいろいろありますよ。
押し売っちゃったかなと思った最初の日だ。それから何度も来てくれたから、押し売りではなかったと胸を撫で下ろした。それに花を買うこの人はいつもどこか嬉しそうで、それがこちらにまで伝わってきた。
「誰かに花をプレゼントしたのも初めてです。昔からそういうの苦手というか……恥ずかしいというか……。ですが真紀さんが嬉しそうな顔してくれたのを見て、思わず…………」
「……思わず……?」
「これから会うときは毎回花を贈るから……嫌じゃなかったら、僕と、その……」
恥ずかしいが伝染してきそう。それくらいに顔を真っ赤にさせている。
「……結婚、してくださいって……こう、はずみで……」
ほとんどもう俯いていた。頭からは架空の蒸気が見える。
「そんなつもりはなかったんです。その時いた店も居酒屋でしたし全くそういうムードではなかったと思うんですが……なんて言うか、完全に勢いだったかと……」
こんな真っ赤な顔をして状況を振り返るような人だ。軽はずみでそんな事を言うだろうか。いいや、まさか。どちらかというと好きが募って口を突いて出たが正解だろう。
プロポーズした彼女さんを前にして、あたふたする榊さんが簡単に思い浮かんだ。
「彼女は呆れて笑ってました。でも……考えとくって」
「考えとく……?」
「考えてる間は自分で言ったとおり花を贈り続けろと……」
「あ、それで……」
「はい……」
週に一度は必ず花屋にやって来る。黄色いガーベラをクリームのリボンでラッピングした一本巻きを、大事そうに抱えて帰る。
そこにはとても大切な意味があった。気持ちが溢れて口をついて出たひとつの約束を形にさせた、とても大事な贈り物だ。
「お互いこういう職業ですし、僕の場合は全国転勤もあったのでいつまでも切り出せずにいたんですけど……」
想ってくれるから直球で投げてくる瀬名さんみたいな人もいる。想っているからタイミングを計り切れない榊さんのような人だっている。
「彼女は受け入れてくれました。最初から嫌なはずがないって……言ってもらえて……」
工藤さんはその気持ちをガーベラと一緒に受け入れた。考える期間も本当は、そもそも必要なかったのではないだろうか。つまらない駆け引きなどではない。花をくれるのがただ嬉しかった。最初から嫌なはずがないと言う、それこそがその表明だろう。
あの日から榊さんは約束通り花を贈り続けた。そうして今は婚約中だ。
その時期。期間。ああそうか、ならばひょっとすると。あの時、店で言いかけていたのは。
「あの……お返事もらえたのってもしかして……去年の十一月ごろですか?」
「え? ええ、はい。そうです」
「……店で俺に、そのこと言おうとしてくれました?」
「え、あ……あぁ……ははっ……はい……。すみません。ホント怪しかったな」
気恥ずかしそうに笑った榊さん。その右手をまた首の後ろに当てた。
「あなたの顔を見たら咄嗟に報告したくなってしまって。名前も知らない客からそんなこと言われても困らせるでしょうから、寸前で思いとどまりましたが」
それはささやかな疑問だった。師走に入る前の頃の出来事。その答えに今、辿り着いた
実は。あの日のカウンター越しに、榊さんはそこまで何かを言いかけた。けれど途中でやめて、恥ずかしそうに、この人はただ笑った。
花屋でのあの出来事だ。今みたいにはにかんだ笑顔だった。はにかんだと思ったのも、ひとつも勘違いなどではなかった。
「今日聞けて良かったです」
「いずれにせよすみません……こんなときに」
「いいえ」
数ヵ月越しにプロポーズの了承をもらった。その報告をただのバイトに一瞬でもしようとしてくれたのは、単純に嬉しい。だってそんなあったかいお知らせ、俺は人生で初めて受けた。
「俺も嬉しいです。本当におめでとうございます」
榊さんはまたはにかんだ笑みを浮かべた。
この表情を疑いたくないと思った、俺の直感は正しかった。
そこからしばらく話し込み、帰り際、一緒に席を立った。
次に榊さんが工藤さんと会う予定は未定だと言う。今日はささやかな機会だったのだろう。せっかくのデートのチャンスに割って入ってしまった身としては、せめて最低限の礼くらいは尽くしたい。
「工藤さんはああおっしゃってましたが元々お礼のつもりだったので、ご迷惑でなければここはやっぱり俺が……」
「すみません。お気持ちは嬉しいのですが、一応僕も身分上は公務員なので」
「あっ、ぁ、そっか、そうですよね……ごめんなさい」
トリ頭を披露しただけだった。そのうえ本当にデートをぶち壊しに来ただけになってしまった。
俺さえいなければ二人の時間を過ごせた。榊さんの口振りからして、いつでもいくらでも好きなだけ会って話せる状況ではなさそうに思える。慌ただしい仕事であればあるほど、会える時間は一秒でも惜しいはずだ。
それを台無しにした。最低じゃないか。結婚前のお二人になんてことを。空気を読まねえ田舎者の返報意欲はこれだから。
俺が犬だったら耳と尻尾を垂らしている自信が大いにある。
おバカなワンコの心境で椅子をゴゴッと戻した俺を、もしかすると哀れに思ったのかもしれない。榊さんはそこで思いついたように言った。
「あの、それじゃあ……また花屋さんに伺ってもいいですか?」
ぴょこっと視線を上げる。そこで見たのはやわらかな笑み。
「一輪挿し用のちゃんとした花瓶がほしいと真紀さんが言っていたんです。僕はそういうのも疎いので、選ぶの手伝ってもらえると助かります」
それはお礼というにはほど遠い。けれども榊さんは穏やかに言った。
「またオススメ教えてください」
お願いのようなそれだけれど、こんなにも優しいお願いは生まれて初めてされたかもしれない。
一輪からでも大丈夫ですよ。あの日の榊さんにそう言ったのは、大きな花束よりもずいぶんと気軽で、なおかつ誰からも好まれやすいから。すすめたのが黄色いガーベラだったのは、店長がその寸前に別のお客さんを相手にしながら人気なんですよニコニコと言って勧めていたのを見たからだ。
あの時のあれは花屋で雇われたバイトとしての接客だった。今度は自分でちゃんと選ぼう。俺もセンスには自信がないが、命の恩人の頼みともあれば。
「いいですか?」
「はいっ……もちろんです。お待ちしてます」
俺にできる限りのお返しをしたい。工藤さんが気に入る花瓶を、榊さんにおすすめしよう。
榊さんは俺に話をさせた。外には出さずにいた数々のことだ。ここまで色々あった間の言葉にならないような感情を、時折うなずいて返しながらただ黙って聞いてくれた。
興味のない相手の話ならこうはならなかったと思うが、俺もこの人には聞きたくなる。榊さん自身のこととか、その仕事についてとか。
榊さんは俺が質問すれば丁寧にニコニコと答えてくれた。けれども聞いた以上のことは語らない。それはかえって信頼できて、自慢話なんて論外の人で、しかし一つだけ存在した例外にも辿り着いた。
工藤さんの話だ。
「彼女ほどあの仕事に向いている人はいません。勘が働いたときほどまずは自分を疑ってみる人です。だからどんなに小さなことでも真紀さんなら見逃さない」
工藤さんの話をしている時の榊さんは誇らしそうな顔になる。それを見ていると二条さんご夫妻を自然と思い出すことになった。大事だし、尊敬もしている。そんな気持ちが伝わってきた。
「警察全体として女性はまだまだ少ないですから、大変なことも多いでしょうけど」
「俺も女性の刑事さんに実際お会いしたのは初めてでした」
男の警察官を見ればただ単に警察だと思うだろう。女性の警察官を見ると、無意識のうちに女性警察官だと区別して認識する自分に気がつく。
弁護士さんでもなんでもそうだ。女性刑事。女性弁護士。男性刑事とか男性弁護士とか、相手が男ならわざわざ職業の前に性別の区分をくっつけないなのに。
男性比率が小さい職業なら逆の現象が起こるのだろうが、刑事は圧倒的に男社会だ。そのうえ厳格な縦社会。希望した課に行き着くだけでも、大変な努力が必要なはずだ。
「工藤さんはどうして今のお仕事に……?」
「刑事は子供の頃からの真紀さんの夢だったんです。ですが彼女はあの通りの体格ですから、小柄なのを武器にするために小四からずっと柔道をやっていたとかで」
「カッコイイ……だからあんなに強いんですね」
素直な感想を思わず零すと、榊さんは嬉しそうに笑った。
こんな顔もするんだな。自分のことだととにかく謙虚で腰が低いのに。
「すでに退職なされていますが、彼女のお父さんも刑事一筋だそうです。その仕事ぶりに憧れたと聞きました」
「お父さんはどんな方なんですか?」
「え? あ……いえ、その……」
驕らないし偉ぶらないし慎ましやかな榊さんは、恋人の話になるととても生き生きと喋りだす。工藤さんがいかに素晴らしい人物かここまでスラスラ語っていたはずが、なぜなのかそこで突如、打って変わって歯切れが悪くなった。
しっかり合っていた榊さんの視線は、徐々に下へと落っこちていく。
「あの……直接、お会いしたことはまだ……折を見て近いうちにはと、思って、いるんですが……」
なんだろうな。カクカクしてるな。急にしどろもどろだ。別人みたい。初めて花を買ってくれたあの日のことをふわっと思い出す。
俺が首をかしげると、榊さんはさらにまた照れくさそうな顔をした。
「……実は僕たち今……婚約中というか……」
「あ、ご結婚されるんですか?」
「けッこ、ん、あの、いえ……いえあの、はい……こん、婚約、してて……入籍も、その……」
大丈夫か。さっきまでの落ち着きはどこに。婚約って言うだけでも恥ずかしそうだ。
今まさに事件が起こっている現場にて至極冷静で状況判断も的確だったあの男性と同一人物とは思えない。
でもそういえば、花屋でもそうだった。たった今頭をよぎったばかりだ。初来店の時なんか特にそうだったと思う。
店先でそわそわしていて、通り過ぎてまた戻ってきたかと思えばまたしてもそわそわと。落ち着きのない様子を見せていた理由が、今まさに分かってしまったかもしれない。
これはなんだろう。こっちまでふわふわする。ふわふわするっていうか、ポカポカする。
しどろもどろになっている榊さんを見ている俺がなぜだか高揚してきて、ほっぺたが緩む。止められない。そんな俺を前にしながら、榊さんは観念したように絞り出した。
「……できれば、近々……」
近々入籍したいそうだ。だから折を見て近いうち、元刑事のお父さんにご挨拶しに行くそうだ。
頬が緩むのを隠せない。口角が上がる。それ見て榊さんも照れたように笑った。
こういう話が好きなのは女子だけかと思っていた。他人の幸せなんて見聞きしたところで嬉しくもなんともないだろうに。なんだってあいつらは誰かと誰かがくっつくのを見ていちいち喜ぶんだ。
ずっとそう思って生きてきたが、間違っていた。俺は知らなかっただけだ。だってなんだか今すごく、嬉しい。
「おめでとうございます」
自分でも分かるくらいに隠しようのない笑顔で言ったら、いささかモゴモゴしつつもありがとうございますと嬉しそうに返ってくる。
それは幸せなときに人が浮かべる表情だ。恥ずかしそうに首の後ろへと落ち着きなく手を当てながら、榊さんはまた小さく笑った。
「真紀さんにプロポーズできたのは……実を言うとあなたのおかげなんです」
「え?」
結婚の話になったらそわそわと落ち着きをなくしたこの人は、コーヒーカップをソーサーごと手に取りクイッとやや深めに仰いだ。
「僕は去年まで関西の方にいまして」
「あ、そうなんですか」
「ええ……。その間も連絡は取り合っていましたけど、やっぱりちょっと距離的に……」
当然厳しいことが多いだろう。たとえ小さな島国だとしてもだ。東と西とにそれぞれがいれば、会いたいと思ってもすぐに会える距離ではない。
「けど春からこっちに配属が決まって……言うんだったら今しかないなと……思ってはいたんですが、これがなかなか……。いえでももう、ずっと長いこと付き合ってるんです。そろそろプロポーズしていい頃かなとこれまでに何度も考えていて、それでもタイミングがどうしても掴めず……」
榊さんは落ち着きなくカップの取っ手を掴んだり放したりしている。
世の中の男性は瀬名恭吾みたいなのばっかりじゃないだろうからな。直球勝負ではなくともこれだけ裏表のない人なのだから、感情は駄々洩れだったと思うが。
「初めてガーベラを買ったあの日は、彼女と食事の約束していた日だったんです。あの花屋さんの前を通ったら赤川さんが声をかけてくれました」
言われてまた思い出す。良かったら中でご覧になってください。奥にもいろいろありますよ。
押し売っちゃったかなと思った最初の日だ。それから何度も来てくれたから、押し売りではなかったと胸を撫で下ろした。それに花を買うこの人はいつもどこか嬉しそうで、それがこちらにまで伝わってきた。
「誰かに花をプレゼントしたのも初めてです。昔からそういうの苦手というか……恥ずかしいというか……。ですが真紀さんが嬉しそうな顔してくれたのを見て、思わず…………」
「……思わず……?」
「これから会うときは毎回花を贈るから……嫌じゃなかったら、僕と、その……」
恥ずかしいが伝染してきそう。それくらいに顔を真っ赤にさせている。
「……結婚、してくださいって……こう、はずみで……」
ほとんどもう俯いていた。頭からは架空の蒸気が見える。
「そんなつもりはなかったんです。その時いた店も居酒屋でしたし全くそういうムードではなかったと思うんですが……なんて言うか、完全に勢いだったかと……」
こんな真っ赤な顔をして状況を振り返るような人だ。軽はずみでそんな事を言うだろうか。いいや、まさか。どちらかというと好きが募って口を突いて出たが正解だろう。
プロポーズした彼女さんを前にして、あたふたする榊さんが簡単に思い浮かんだ。
「彼女は呆れて笑ってました。でも……考えとくって」
「考えとく……?」
「考えてる間は自分で言ったとおり花を贈り続けろと……」
「あ、それで……」
「はい……」
週に一度は必ず花屋にやって来る。黄色いガーベラをクリームのリボンでラッピングした一本巻きを、大事そうに抱えて帰る。
そこにはとても大切な意味があった。気持ちが溢れて口をついて出たひとつの約束を形にさせた、とても大事な贈り物だ。
「お互いこういう職業ですし、僕の場合は全国転勤もあったのでいつまでも切り出せずにいたんですけど……」
想ってくれるから直球で投げてくる瀬名さんみたいな人もいる。想っているからタイミングを計り切れない榊さんのような人だっている。
「彼女は受け入れてくれました。最初から嫌なはずがないって……言ってもらえて……」
工藤さんはその気持ちをガーベラと一緒に受け入れた。考える期間も本当は、そもそも必要なかったのではないだろうか。つまらない駆け引きなどではない。花をくれるのがただ嬉しかった。最初から嫌なはずがないと言う、それこそがその表明だろう。
あの日から榊さんは約束通り花を贈り続けた。そうして今は婚約中だ。
その時期。期間。ああそうか、ならばひょっとすると。あの時、店で言いかけていたのは。
「あの……お返事もらえたのってもしかして……去年の十一月ごろですか?」
「え? ええ、はい。そうです」
「……店で俺に、そのこと言おうとしてくれました?」
「え、あ……あぁ……ははっ……はい……。すみません。ホント怪しかったな」
気恥ずかしそうに笑った榊さん。その右手をまた首の後ろに当てた。
「あなたの顔を見たら咄嗟に報告したくなってしまって。名前も知らない客からそんなこと言われても困らせるでしょうから、寸前で思いとどまりましたが」
それはささやかな疑問だった。師走に入る前の頃の出来事。その答えに今、辿り着いた
実は。あの日のカウンター越しに、榊さんはそこまで何かを言いかけた。けれど途中でやめて、恥ずかしそうに、この人はただ笑った。
花屋でのあの出来事だ。今みたいにはにかんだ笑顔だった。はにかんだと思ったのも、ひとつも勘違いなどではなかった。
「今日聞けて良かったです」
「いずれにせよすみません……こんなときに」
「いいえ」
数ヵ月越しにプロポーズの了承をもらった。その報告をただのバイトに一瞬でもしようとしてくれたのは、単純に嬉しい。だってそんなあったかいお知らせ、俺は人生で初めて受けた。
「俺も嬉しいです。本当におめでとうございます」
榊さんはまたはにかんだ笑みを浮かべた。
この表情を疑いたくないと思った、俺の直感は正しかった。
そこからしばらく話し込み、帰り際、一緒に席を立った。
次に榊さんが工藤さんと会う予定は未定だと言う。今日はささやかな機会だったのだろう。せっかくのデートのチャンスに割って入ってしまった身としては、せめて最低限の礼くらいは尽くしたい。
「工藤さんはああおっしゃってましたが元々お礼のつもりだったので、ご迷惑でなければここはやっぱり俺が……」
「すみません。お気持ちは嬉しいのですが、一応僕も身分上は公務員なので」
「あっ、ぁ、そっか、そうですよね……ごめんなさい」
トリ頭を披露しただけだった。そのうえ本当にデートをぶち壊しに来ただけになってしまった。
俺さえいなければ二人の時間を過ごせた。榊さんの口振りからして、いつでもいくらでも好きなだけ会って話せる状況ではなさそうに思える。慌ただしい仕事であればあるほど、会える時間は一秒でも惜しいはずだ。
それを台無しにした。最低じゃないか。結婚前のお二人になんてことを。空気を読まねえ田舎者の返報意欲はこれだから。
俺が犬だったら耳と尻尾を垂らしている自信が大いにある。
おバカなワンコの心境で椅子をゴゴッと戻した俺を、もしかすると哀れに思ったのかもしれない。榊さんはそこで思いついたように言った。
「あの、それじゃあ……また花屋さんに伺ってもいいですか?」
ぴょこっと視線を上げる。そこで見たのはやわらかな笑み。
「一輪挿し用のちゃんとした花瓶がほしいと真紀さんが言っていたんです。僕はそういうのも疎いので、選ぶの手伝ってもらえると助かります」
それはお礼というにはほど遠い。けれども榊さんは穏やかに言った。
「またオススメ教えてください」
お願いのようなそれだけれど、こんなにも優しいお願いは生まれて初めてされたかもしれない。
一輪からでも大丈夫ですよ。あの日の榊さんにそう言ったのは、大きな花束よりもずいぶんと気軽で、なおかつ誰からも好まれやすいから。すすめたのが黄色いガーベラだったのは、店長がその寸前に別のお客さんを相手にしながら人気なんですよニコニコと言って勧めていたのを見たからだ。
あの時のあれは花屋で雇われたバイトとしての接客だった。今度は自分でちゃんと選ぼう。俺もセンスには自信がないが、命の恩人の頼みともあれば。
「いいですか?」
「はいっ……もちろんです。お待ちしてます」
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