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151.潔白の男Ⅱ
大学生の春休みは長い。しかしこの国の社会人に長期休みはあまりない。
自営業の人も同様どころかむしろ休業は怖いくらいのはずだが、陽子さんというスペシャルなサポーターがついている二条さんは例外なのだろう。瀬名さんを存分にいじくり倒しながらのほほんと飯を食っている。
「そういや大学のテストはどうだった?」
「はい、そっちもおかげさまで。差し入れほんとにありがとうございました。あの特製弁当すっげえ美味かったです」
「よかったー、恭吾だと料理方面じゃまっっったく役に立たないからね。勉強がんばるにも栄養は付けとかないと」
春休みに入るよりも前のことだった。試験期間中の水曜日。ひょっこりやって来た二条さんは、紙袋に入った二人分の手作り弁当を置いていってくれた。
これから陽子ちゃんとデートなんだ。そう言ってすぐに帰ってしまったが、瀬名さんが帰宅してから開けてみた弁当はどれもこれも美しくてウマい。バランスが整ったそれは健康的で味も抜群だ。おかげで俺は翌日のための試験対策に専念できて、瀬名さんはブツクサ言いつつも毎度のごとく完食していた。
「白身のやつとか一瞬で食い終わりました」
「あーあれはねえ、市販の冷食とはスパイスが違うんだよ。あと揚げ方」
「しっかり味ついてんのにパクパク食えます。冷めても全然サクサクでしたし」
「あとでレシピ教えるね」
「え? いいんですか?」
「もちろん。恭吾の弁当にぶち込んでやりな」
「あの弁当も瀬名さん秒で平らげてましたよ」
「やーい、恭吾。相変わらず俺のゴハン大好きかよー」
ピクッと、瀬名さんの眉と頬が不機嫌に動いた。その視線がジロリと左横に向く。
「帰れ。それとミートボール食うな」
「食うよ美味いもん。お代わりもしてくもん。ハルくんどんどん腕上げてくねえ」
「遥希が作ったもんは全部俺のと決まってんだよ帰れ」
「そうやって暴君やってると大事な子に嫌われるよ。ハルくんに向ける優しさの一億分の一でもいいからたまには俺におすそ分けしてみろってもんだ」
「テメエにくれてやるものは何一つとして持ってねえ帰れ」
「あーそう。じゃあお前から何ももらえない俺はハルくんが作ったこのスープを頂くよ」
「早く言えバカそれも俺のだ。お前は食うな。帰れ」
今度はスープの取り合いが始まった。
「だいたい水曜の度に人んち来てんじゃねえよ」
「度にってほど来てねえじゃん。ハルくんとちゃんと会ったの先月末以来だし、一緒に飯食うのなんか久々じゃない?」
「なんでもいいからさっさと帰れ。また蹴られるぞ」
「おひとりさまが長かった奴はこれだから分かってないんだ。俺と陽子ちゃんは毎日一緒にいるんだよ? 定休日くらい一人の時間をつくらせてあげようっていう夫としての優しさじゃんか。ねえハルくん?」
「遥希に変な話を振るなっつってんだろ」
二条さんご夫妻が休みの度にしょっちゅうデートしている事実を俺は本人たちから聞いて知っているのだが言わないでおこう。
瀬名さんはミートボールのトマト煮の大皿とスープ皿だけは確保している。二条さんの作った料理には意地でも手を付けようとしない。ひたすら青虫化していく男を、打ちのめしてやるチャンスは今だ。
「俺も二条さんが正しいと思いますけど」
「おい、お前までよせ。こいつの味方につく気か」
「味方も何も事実なんですよ。瀬名さんと毎日一緒にいるとダルいなってこと多々ありますもん」
「なんてこと言うんだ。傷ついただろうが」
「こんなのでいちいち傷つかれるこっちの身にもなってみてください。たまには一人にもなりたくなるってもんでしょ」
「俺が女ならお前はたった今俺に刺されたからな」
「あーはいはい」
「ちょっとは心を込めて返事しろ」
ところでさっきから瀬名さんが食いまくっている葉っぱだらけの緑色サラダには二条さんお手製の激旨ドレッシングがかかっているのだがこれも食い終わるまで黙っておこう。
俺が作った普通のスープと俺が作った普通のミートボールを、瀬名さんに見せつけるようにして食いながら二条さんも口を挟んでくる。
「そういう恭吾こそ街中歩いててブスッとやられないように気をつけたほうがいいんじゃないの?」
「あぁ?」
「お前を恨んでる女は相当数いるはずだからな」
「いねえよ」
「嘘つけよ」
「見てきたような口きいてんじゃねえ」
「事実俺はお前の中高時代をこの目でばっちり見てきた証人だ」
これが二十年来の瀬名さんのダチだ。とても素敵なご友人をお持ちだ。モグモグとメシを頬張りながら面白おかしく小突き回している。
瀬名さんをイライラさせるためだけに適当に言っていたような二条さんだったが、しかしそこでふと何かを思い出したようにモグッと顔の動きを一瞬止めた。悪だくみでも考え付いた子供みたいなその様子。さらにどんどんニヤついていく。
「そういやさあ、昔いたよな。恭吾に妊娠させられたって喚いて家まで押しかけてきた子」
瞬間、ミシッと空気が凍り付いた。主に凍りついたのは俺。
「にん…………は?」
顔面がピシリと張り付いている。妊娠。なんだそれ。妊娠ってなんだ。顔と一緒にフリーズした思考がすぐには戻ってきてくれない。
俺の恋人は腐ってもイケメンだ。これだけのいい男だ。最上級と言っても過言ではない。それを恨んでる女の一人や二人いたとしてもおかしくはないだろうと前々から思ってはいたが、妊娠。その単語は想定外だ。
瞬きも忘れて瀬名さんを凝視していた。うんざりした顔が目に映っている。ムカつくほど端正なその顔は二条さんに向けられて、そして心底鬱陶しそうに睨んだ。
「唐突な話を微妙なとこだけ切り取って喋るのはやめろ。遥希がすげえ顔して見てんだろうが」
「…………」
「ほんとになんて顔してんだお前」
彼氏の衝撃の過去が判明したら大体の人間はこういう顔になる。
どんな顔だか自分じゃ分んないけどそんな顔なのだろう俺に向かって、二条さんはにこやかなまま語り出すための態勢に入った。
「あの頃は俺たちも若かったんだよ」
「やめろお前は何も喋るな」
「だいたい想像はつくと思うんだけどね、高校時代の恭吾も女の子から大層モテまくってた。それはそれはもうアホみたいに」
「アホとはなんだ」
「バレンタインにはアホみたいにチョコもらいまくるし体育祭ではアホみたいにキャーキャー言われるし部活の応援はワーワーとアホみたいだし告白も毎月アホかってほどされるし」
「ここぞとばかりにアホアホ言ってんじゃねえ」
中学以来のダチを貶しながら、そうやって始められたのは二条さんの過去回想。
当時二人は高校二年生。季節が秋へと移り変わり気温も徐々に落ち着いてきたとある日のこと。
瀬名恭吾はいつものように学校の女子から告られた。そしてこれもまた毎度のごとく、即答。悪い。付き合えない。
ちょっと考えさせてくれなどという優しさを込めたワンクッションを挟めるような男ではなかった。
事件が起きたのはその二ヶ月後。告られて即刻フッたはずの女子が自宅に突如やってきた。学年が同じというだけでたいして接点のなかったその女子は、喚きながら母親ともども瀬名家に乗り込んできたという。
その時のその女、なんと妊娠二ヵ月。
瀬名恭吾のせいでこうなった。子供の父親は瀬名恭吾だ。瀬名恭吾に無理やり乱暴された。責任取れ。訴えてやる。そういう主張だったらしい。
いくら若かりし頃とはいえども、もちろん瀬名さんに身に覚えはない。ところが当該言いがかり女子は迫真の被害者演技の真っただ中。娘の証言を鵜呑みにした母親はヒステリー気味にキンキンと吠え立てていたそう。
しかし瀬名家のお父さんもそんな母娘に負けていなかった。たとえ相手がどれだけ無礼だろうとも常識のある応対を忘れず、ひとまずは向こうの話を黙って聞いて、それから自分の隣に腰かける息子へと簡潔に問いかけた。
これは事実か、それとも否か。瀬名さんの答えは当然に後者一択。そうして二条さんが言うところによれば、その後の相手方に対するお父さんの態度はこう。
「仮にあなた方のおっしゃる通りだとするならこちらとしても出来得る限りの対応をいたします。ただしそうでなかった場合にはそちらも十分に覚悟していただきたい。あなた方のなさっていることは息子を貶める行為です」
お父さんは淡々と言った。責め立てられている側の口振りでは少なくともなかったそうだ。声も顔つきも堂々として、委縮する気配は全くない。
母親まで連れて突撃してきた言いがかり娘は思わず息を呑んだ。そこまでは宥めようもないほどすごい剣幕だった母親も、その反応についつい怯んだのかどうにもいささか不安げになって娘の顔をチラリと窺い見た。
テーブルを挟んで目の前にいる母娘のそんな様子を捉えつつ、お父さんは二人に尋ねた。
「もう一度お伺いしますが、妊娠二ヶ月でお間違いないですね」
聞かれた母親は明らかにムッとした。そう言ってるでしょ、何度言わせる気。
キャンキャン吠えられようとも動じず、お父さんはさらに言った。
「母体の血液中には胎児のDNAが含まれていることをご存じですか」
突然のそんな問いかけ。訝る母親と、少々様子のおかしい娘を前にしながら、至極冷静なまま言葉は続く。
「お嬢さんの血液を調べればお腹の子のDNAを検査できます。それはつまり生まれてくる前であっても胎児との父子鑑定が可能であるということです」
その言葉を聞いた途端に、ビキッと硬直した娘。誰の目から見てもあからさまな娘の変化にいきなり不安が募ってくる母親。そこへ強気に攻め込んでいくお父さん。
「近年の出生前DNA鑑定は昔に比べて精度も高い。もちろんお嬢さんにもお腹の子にも危険はありません。お嬢さんに採血していただくだけです」
ただただひたすら、恐ろしいほど淡々と話していたそうだ。きちんと片付いたリビングの空気は完全に氷点下を示していた。
「うちの息子がその子の父親だとおっしゃるなら喜んでサンプルを提出させましょう。毛髪でも技術上は可能ですがより高い精度を求めるのであれば粘膜の方が確実です。あなた方お二人の目の前で息子は頬の内側の細胞を綿棒で少量採取すればいい。それを父子鑑定に回せばすぐに白黒はっきりします」
途中から様子のおかしかった娘はもはや完全に青くなっていた。それを見ていよいよ狼狽えだしたのは母親だ。なんでうちの子はこんな顔をしているのとでも言いたげな表情だったそうだ。
娘の様子に焦った母親はあたふたと口を開きかけた。ちょっと待って。そうとでも言いたかったのだろう。けれどもそれは許されなかった。
「この場で息子への疑いが晴れず鑑定をご希望なさるのであれば費用は全面こちらで持ちます。しかしその結果として息子の名誉が傷つけられたと判明すれば、法的な手段も含めてそれ相応の対応に出させていただく心づもりも当然にあります。あなた方がもしこの件によって私どもに何らかの要求をなさるおつもりだったとするなら詐欺行為に該当する可能性もあるでしょう」
あまりにも事務的に、ひどく堅苦しく、冷たく、静かに、けれども目だけは一切逸らすこともなく。お父さんはその母娘に言葉一つで詰め寄った。
しばし押し黙り、そしてついに口を開いたのは娘の母親。お父さんにではない。隣の娘に向けてだ。ちょっと。どうなの。本当にこの男なんでしょ。焦る母親にコソコソと問いただされて青い顔を俯かせていく娘。
そんな二人に慈悲もなく、お父さんは切り込んでいく。温かみを消し去ったその視線は、カタカタ震え出した娘に向いた。
「撤回したい発言があるなら今ここで正直に言いなさい」
顔面蒼白でブルブルしていた娘は、その瞬間にワッと泣き出したそうだ。
自営業の人も同様どころかむしろ休業は怖いくらいのはずだが、陽子さんというスペシャルなサポーターがついている二条さんは例外なのだろう。瀬名さんを存分にいじくり倒しながらのほほんと飯を食っている。
「そういや大学のテストはどうだった?」
「はい、そっちもおかげさまで。差し入れほんとにありがとうございました。あの特製弁当すっげえ美味かったです」
「よかったー、恭吾だと料理方面じゃまっっったく役に立たないからね。勉強がんばるにも栄養は付けとかないと」
春休みに入るよりも前のことだった。試験期間中の水曜日。ひょっこりやって来た二条さんは、紙袋に入った二人分の手作り弁当を置いていってくれた。
これから陽子ちゃんとデートなんだ。そう言ってすぐに帰ってしまったが、瀬名さんが帰宅してから開けてみた弁当はどれもこれも美しくてウマい。バランスが整ったそれは健康的で味も抜群だ。おかげで俺は翌日のための試験対策に専念できて、瀬名さんはブツクサ言いつつも毎度のごとく完食していた。
「白身のやつとか一瞬で食い終わりました」
「あーあれはねえ、市販の冷食とはスパイスが違うんだよ。あと揚げ方」
「しっかり味ついてんのにパクパク食えます。冷めても全然サクサクでしたし」
「あとでレシピ教えるね」
「え? いいんですか?」
「もちろん。恭吾の弁当にぶち込んでやりな」
「あの弁当も瀬名さん秒で平らげてましたよ」
「やーい、恭吾。相変わらず俺のゴハン大好きかよー」
ピクッと、瀬名さんの眉と頬が不機嫌に動いた。その視線がジロリと左横に向く。
「帰れ。それとミートボール食うな」
「食うよ美味いもん。お代わりもしてくもん。ハルくんどんどん腕上げてくねえ」
「遥希が作ったもんは全部俺のと決まってんだよ帰れ」
「そうやって暴君やってると大事な子に嫌われるよ。ハルくんに向ける優しさの一億分の一でもいいからたまには俺におすそ分けしてみろってもんだ」
「テメエにくれてやるものは何一つとして持ってねえ帰れ」
「あーそう。じゃあお前から何ももらえない俺はハルくんが作ったこのスープを頂くよ」
「早く言えバカそれも俺のだ。お前は食うな。帰れ」
今度はスープの取り合いが始まった。
「だいたい水曜の度に人んち来てんじゃねえよ」
「度にってほど来てねえじゃん。ハルくんとちゃんと会ったの先月末以来だし、一緒に飯食うのなんか久々じゃない?」
「なんでもいいからさっさと帰れ。また蹴られるぞ」
「おひとりさまが長かった奴はこれだから分かってないんだ。俺と陽子ちゃんは毎日一緒にいるんだよ? 定休日くらい一人の時間をつくらせてあげようっていう夫としての優しさじゃんか。ねえハルくん?」
「遥希に変な話を振るなっつってんだろ」
二条さんご夫妻が休みの度にしょっちゅうデートしている事実を俺は本人たちから聞いて知っているのだが言わないでおこう。
瀬名さんはミートボールのトマト煮の大皿とスープ皿だけは確保している。二条さんの作った料理には意地でも手を付けようとしない。ひたすら青虫化していく男を、打ちのめしてやるチャンスは今だ。
「俺も二条さんが正しいと思いますけど」
「おい、お前までよせ。こいつの味方につく気か」
「味方も何も事実なんですよ。瀬名さんと毎日一緒にいるとダルいなってこと多々ありますもん」
「なんてこと言うんだ。傷ついただろうが」
「こんなのでいちいち傷つかれるこっちの身にもなってみてください。たまには一人にもなりたくなるってもんでしょ」
「俺が女ならお前はたった今俺に刺されたからな」
「あーはいはい」
「ちょっとは心を込めて返事しろ」
ところでさっきから瀬名さんが食いまくっている葉っぱだらけの緑色サラダには二条さんお手製の激旨ドレッシングがかかっているのだがこれも食い終わるまで黙っておこう。
俺が作った普通のスープと俺が作った普通のミートボールを、瀬名さんに見せつけるようにして食いながら二条さんも口を挟んでくる。
「そういう恭吾こそ街中歩いててブスッとやられないように気をつけたほうがいいんじゃないの?」
「あぁ?」
「お前を恨んでる女は相当数いるはずだからな」
「いねえよ」
「嘘つけよ」
「見てきたような口きいてんじゃねえ」
「事実俺はお前の中高時代をこの目でばっちり見てきた証人だ」
これが二十年来の瀬名さんのダチだ。とても素敵なご友人をお持ちだ。モグモグとメシを頬張りながら面白おかしく小突き回している。
瀬名さんをイライラさせるためだけに適当に言っていたような二条さんだったが、しかしそこでふと何かを思い出したようにモグッと顔の動きを一瞬止めた。悪だくみでも考え付いた子供みたいなその様子。さらにどんどんニヤついていく。
「そういやさあ、昔いたよな。恭吾に妊娠させられたって喚いて家まで押しかけてきた子」
瞬間、ミシッと空気が凍り付いた。主に凍りついたのは俺。
「にん…………は?」
顔面がピシリと張り付いている。妊娠。なんだそれ。妊娠ってなんだ。顔と一緒にフリーズした思考がすぐには戻ってきてくれない。
俺の恋人は腐ってもイケメンだ。これだけのいい男だ。最上級と言っても過言ではない。それを恨んでる女の一人や二人いたとしてもおかしくはないだろうと前々から思ってはいたが、妊娠。その単語は想定外だ。
瞬きも忘れて瀬名さんを凝視していた。うんざりした顔が目に映っている。ムカつくほど端正なその顔は二条さんに向けられて、そして心底鬱陶しそうに睨んだ。
「唐突な話を微妙なとこだけ切り取って喋るのはやめろ。遥希がすげえ顔して見てんだろうが」
「…………」
「ほんとになんて顔してんだお前」
彼氏の衝撃の過去が判明したら大体の人間はこういう顔になる。
どんな顔だか自分じゃ分んないけどそんな顔なのだろう俺に向かって、二条さんはにこやかなまま語り出すための態勢に入った。
「あの頃は俺たちも若かったんだよ」
「やめろお前は何も喋るな」
「だいたい想像はつくと思うんだけどね、高校時代の恭吾も女の子から大層モテまくってた。それはそれはもうアホみたいに」
「アホとはなんだ」
「バレンタインにはアホみたいにチョコもらいまくるし体育祭ではアホみたいにキャーキャー言われるし部活の応援はワーワーとアホみたいだし告白も毎月アホかってほどされるし」
「ここぞとばかりにアホアホ言ってんじゃねえ」
中学以来のダチを貶しながら、そうやって始められたのは二条さんの過去回想。
当時二人は高校二年生。季節が秋へと移り変わり気温も徐々に落ち着いてきたとある日のこと。
瀬名恭吾はいつものように学校の女子から告られた。そしてこれもまた毎度のごとく、即答。悪い。付き合えない。
ちょっと考えさせてくれなどという優しさを込めたワンクッションを挟めるような男ではなかった。
事件が起きたのはその二ヶ月後。告られて即刻フッたはずの女子が自宅に突如やってきた。学年が同じというだけでたいして接点のなかったその女子は、喚きながら母親ともども瀬名家に乗り込んできたという。
その時のその女、なんと妊娠二ヵ月。
瀬名恭吾のせいでこうなった。子供の父親は瀬名恭吾だ。瀬名恭吾に無理やり乱暴された。責任取れ。訴えてやる。そういう主張だったらしい。
いくら若かりし頃とはいえども、もちろん瀬名さんに身に覚えはない。ところが当該言いがかり女子は迫真の被害者演技の真っただ中。娘の証言を鵜呑みにした母親はヒステリー気味にキンキンと吠え立てていたそう。
しかし瀬名家のお父さんもそんな母娘に負けていなかった。たとえ相手がどれだけ無礼だろうとも常識のある応対を忘れず、ひとまずは向こうの話を黙って聞いて、それから自分の隣に腰かける息子へと簡潔に問いかけた。
これは事実か、それとも否か。瀬名さんの答えは当然に後者一択。そうして二条さんが言うところによれば、その後の相手方に対するお父さんの態度はこう。
「仮にあなた方のおっしゃる通りだとするならこちらとしても出来得る限りの対応をいたします。ただしそうでなかった場合にはそちらも十分に覚悟していただきたい。あなた方のなさっていることは息子を貶める行為です」
お父さんは淡々と言った。責め立てられている側の口振りでは少なくともなかったそうだ。声も顔つきも堂々として、委縮する気配は全くない。
母親まで連れて突撃してきた言いがかり娘は思わず息を呑んだ。そこまでは宥めようもないほどすごい剣幕だった母親も、その反応についつい怯んだのかどうにもいささか不安げになって娘の顔をチラリと窺い見た。
テーブルを挟んで目の前にいる母娘のそんな様子を捉えつつ、お父さんは二人に尋ねた。
「もう一度お伺いしますが、妊娠二ヶ月でお間違いないですね」
聞かれた母親は明らかにムッとした。そう言ってるでしょ、何度言わせる気。
キャンキャン吠えられようとも動じず、お父さんはさらに言った。
「母体の血液中には胎児のDNAが含まれていることをご存じですか」
突然のそんな問いかけ。訝る母親と、少々様子のおかしい娘を前にしながら、至極冷静なまま言葉は続く。
「お嬢さんの血液を調べればお腹の子のDNAを検査できます。それはつまり生まれてくる前であっても胎児との父子鑑定が可能であるということです」
その言葉を聞いた途端に、ビキッと硬直した娘。誰の目から見てもあからさまな娘の変化にいきなり不安が募ってくる母親。そこへ強気に攻め込んでいくお父さん。
「近年の出生前DNA鑑定は昔に比べて精度も高い。もちろんお嬢さんにもお腹の子にも危険はありません。お嬢さんに採血していただくだけです」
ただただひたすら、恐ろしいほど淡々と話していたそうだ。きちんと片付いたリビングの空気は完全に氷点下を示していた。
「うちの息子がその子の父親だとおっしゃるなら喜んでサンプルを提出させましょう。毛髪でも技術上は可能ですがより高い精度を求めるのであれば粘膜の方が確実です。あなた方お二人の目の前で息子は頬の内側の細胞を綿棒で少量採取すればいい。それを父子鑑定に回せばすぐに白黒はっきりします」
途中から様子のおかしかった娘はもはや完全に青くなっていた。それを見ていよいよ狼狽えだしたのは母親だ。なんでうちの子はこんな顔をしているのとでも言いたげな表情だったそうだ。
娘の様子に焦った母親はあたふたと口を開きかけた。ちょっと待って。そうとでも言いたかったのだろう。けれどもそれは許されなかった。
「この場で息子への疑いが晴れず鑑定をご希望なさるのであれば費用は全面こちらで持ちます。しかしその結果として息子の名誉が傷つけられたと判明すれば、法的な手段も含めてそれ相応の対応に出させていただく心づもりも当然にあります。あなた方がもしこの件によって私どもに何らかの要求をなさるおつもりだったとするなら詐欺行為に該当する可能性もあるでしょう」
あまりにも事務的に、ひどく堅苦しく、冷たく、静かに、けれども目だけは一切逸らすこともなく。お父さんはその母娘に言葉一つで詰め寄った。
しばし押し黙り、そしてついに口を開いたのは娘の母親。お父さんにではない。隣の娘に向けてだ。ちょっと。どうなの。本当にこの男なんでしょ。焦る母親にコソコソと問いただされて青い顔を俯かせていく娘。
そんな二人に慈悲もなく、お父さんは切り込んでいく。温かみを消し去ったその視線は、カタカタ震え出した娘に向いた。
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