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157.にゃーにゃーにゃー!! Ⅰ
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頬に何かがふわりと触れた。くすぐったい。どことなく、こそばゆい。髪の上から額に触れたようなその気配は目元へと落ちて、ふわりと、ちゅっと、優しく感じた。
夢と現実のちょうど間くらい。そんな心地で体が機能を取り戻していく。無意識か、意識的か、どうにも判断がつかないような中で、まぶたを上げた。
薄ぼんやりした淡い光が、ゆっくりと差し込んでくる。同時にその人の、姿を捉えた。
「悪い。起こしたな」
頭を撫でられ、言われたことを理解し、ふるふるとゆるく首を横に振った。
明るさの発信源は朝日ではない。暗がりを照らしているのは、橙色の常夜灯だった。
「おはよう」
口にされた、その感触。ついさっき目元に感じたのと同じ。ついばまれるのをしっとりと受け入れ、それからまた目を開けた。
そこでふと思い出す。去年もこの人のこんな顔を見た。瀬名さんは昨日からずっと、嬉しそうな顔をしている。
「ハタチになって初めて迎える朝の感想は?」
「……ねむい」
短く答えたら瀬名さんは笑った。
「まだ日も昇ってねえからな」
「全然暗いもん……」
「もう一回寝ちまってもいい」
「うーん……」
眠いのも当然だ。昨夜はベッドを一つしか使わなかった。左側のベッドで起こったことを、隅々まで全部覚えている。
この人に抱かれながら日付をまたいだ。この人の腕の中でハタチになった。おめでとうと言われた。俺はなんて答えたっけ。覚えていない。それどころじゃなかった。
体を包む滑らかなシーツの感触は心地いい。外はまだまだ寒いだろうけど、ベッドの中はぬくぬくで快適。
どうしよう。どちらの道を行くか。怠惰に過ごすか。それともシャキッと服を着込むか。
「……起きます」
「ん。了解」
怠惰な道は選ばないことにした。シャツを着よう。パンツを履こう。今は起きるのがベストだと思う。
なぜならば俺に待ち構えているのは、トゥエンティーイヤーズスペシャルミッション。ヤドカリを探しに行かねば。
***
夜明け前の暗い頃から贅沢なひとっ風呂を浴び、それから静かな海に出てきた。
波の音だけが穏やかに聞こえる。俺たち以外に人気はない。こうも空気の冷たい海なら当然とも言うべきだろう。半年後の海水浴シーズンであればもう少し活気づいているはずだ。
人が固めたアスファルトの感触とは全く違う。砂浜を一歩ずつ踏みしめて歩く。小さな波がギリギリ届かない海辺を北の方角に向かって進んでいくと、空が少しずつ明るくなっていくのを視覚が自然と感じ取る。
「あ……見て、瀬名さん」
俺が顔を向けた方に瀬名さんも目をやった。海に接している空が、そこだけ徐々にオレンジに染まりだす。周りはまだいくらか紫がかった夜の色で、それがどんどん明るさに紛れ、次第に丸みを帯びた橙色がじんわりと強くなっていく。
雲はなかった。何もない空だ。そこに朝日が昇っていく。
昨夜はクロワッサンを一緒に見た。今朝は日の出を一緒に見ている。冬の早朝に海へと繰り出す物好きはやっぱり俺達だけのようで、砂浜に誰かが来る気配は今のところまだなかった。
二人で歩くには広すぎる砂浜をゆっくりと踏みしめていると、左手をやんわりと取られる。温かく繋ながったこの人の手を、握り返すのは簡単だ。
散歩と言うには遅すぎるペースで波の線に沿って歩いているうち、辺りはいつの間にかちゃんと明るい。
目を凝らさずとも足元が見渡せる。波に濡らされ、いくらか濃くなった砂浜の色も鮮明に区別できた。けれども目的のアイツだけは、さっきからなかなか発見できない。
「ヤドカリいませんねえ」
「人すらいねえよ」
「つーかマジ寒っ。二月の海さっっっむ!」
「テメエはヤドカリ探してねえでそろそろ情緒拾ってこい」
「青くない海。ザラついた砂浜。」
「こんな奴に可愛い反応を期待した俺がバカだった」
だって青くない。砂浜も白くない。
美味しいお魚が獲れる一方でさほど美しいとは言い難いのが日本から見える海辺の大半。人間の目にどう見えていようとも、魚やらプランクトンやらにとっては母なる海という場所だ。
海辺を気ままにテクテク行きながら、広大な景色を眺めがてら時折足元にも注意を払う。
海は青くなくても汚れてはいない。砂浜には空きビンや空きカンどころか小さなゴミクズも見当たらなかった。ボランティアの人がいるのかもしれない。地元住民の方々の意識がとしてもしっかりしている可能性も。ゴミ一つないということは、おそらく誰かが守っている。
何も知らずに恩恵を受けるからには存分に楽しむのがせめてもの礼儀。余計な障害物に阻まれることなく、ザラッとした砂浜に足跡を残した。
「やっぱヤドカリいないっぽい?」
「こう寒くちゃな」
「そもそもここヤドカリ生息してるエリア?」
「知らない。ヤドカリが歩いていそうな青い海と白い砂浜ではねえな」
ヤドカリ住んでいなさそうだ。ちっちゃいカニなら出会えるかもしれない。
ヤドカリを追いかけて遊ぶのを期待したが残念ながらどこにも見当たらない。追うべき獲物はいなかったけれど、宛てもなく砂浜を歩くのは楽しい。
小波が打ち寄せるギリギリの所をしばらくフラフラしていたら、明るく見渡せる前方には何やら黒いのが打ち上がっている。
思わずトトッと駆け寄った。瀬名さんも俺の後をゆっくりした歩調でついてくる。
一足先に到着した先で、目にしたのはモゾッとした謎の物体。
「……あ、ワカメだ。マジか。瀬名さんッ、ワカメ落ちてた!」
「お前ワカメではしゃぐのか」
砂浜にワカメが落ちていたらブンブン手を振って示したくもなる。
甲殻類の相撲を楽しむ代わりに野生のワカメと出会った。素晴らしい。
「立派なワカメです」
「食うなよ」
「食いませんよ」
いくらなんでもそこまで意地汚くない。
デカいワカメがモサッとしている横を少し避けて通りながら、後方で小さくなっていくのを微妙にチラチラ見つめつつも歩く。
「食いに戻るなよ」
「食いませんってば」
あれを食いに戻らなくても俺はもっと文明的な食事ができる。旅館に行けば人間用のちゃんとしたワカメの味噌汁だってあるだろう。
「人に捕獲される前のワカメは誰に食われるんですかね?」
「分からねえ……ウニとか?」
「ああ、ウニかぁ」
ならば波によって浜へと打ち上げられたあの海藻はこの後どうなるのだろう。砂浜に潜む生き物の誰かが美味しく平らげるのだろうか。もしかするとまた波にさらわれ、海の深い所に戻って、海藻を好む奴らにつつかれたり齧られたりするのかもしれない。ワカメを食ったその生き物はきっと、自分よりももっと大きな誰かに殻を砕かれたり、丸飲みにされたり。
こいつらは誰も破壊を知らない。循環を止めることもしない。この海で生まれ育った奴らは、みんな死んだ後も誰かの一部だ。
生まれて死んでは還っていく。それを繰り返す。何億年も。気が遠くなるほどに。
海はとても死に近い。同じくらい生にも近い。そういう場所を、瀬名さんと二人で歩いた。
「もう太陽あんなとこだ」
地平線を明るく照らしながら少しずつ頭を出していた朝日は、その全形をあらわにさせて空のやや低い位置にいる。
時間が経つにつれてそれは高くに昇る。今日も一日よく晴れるだろう。
また少し歩いて行った先で穏やかな波の前でしゃがみ込んだら、瀬名さんも隣で同じようにした。カニは目の前を横切りそうにない。だから代わりに、波の淵に指先で触れた。
澄んだ冷たさが伝わり、すぐに引いていき、また再び爪を濡らしに来る。サッと深く引いた波が、今度はザザザッと強く音を立てた。今までより大きく打ち寄せてくる。ヤバい。二人で慌てて後ろに避難。
お互い辛うじて濡れずに済んだ。顔を見合わせる。笑っちまう。しょうもないことが、こんなに楽しい。
たまに小波の襲撃を受けながら途中で方向を折り返し、元来た道を波の跡に沿って戻った。
向こうの方でようやく見え始めた人影は、どうやら気合の入ったサーファーのよう。目視できる限り数人。もっと正確に言うなら二人だけ。ウェットスーツを着てサーフボードを持っているから間違いなくサーファーだ。
真冬の、なおかつ早朝だろうと構わず、勇猛果敢に海に挑んでいく。
「……あれ寒くねえんかな」
「あのスーツ見た目よりあったかいんじゃねえのか?」
「そうなの?」
「知らねえが」
「知らねえんじゃん」
「スーツの機能性は分かんねえが冬の海は波が小さくてサーファー人口もずいぶん減るから初心者が挑戦しやすいらしいってのは聞いたことある」
「なるほど」
メリットあった。寒さにさえ耐えられれば良好な環境っぽい。今まさに視界に入っている小さな波への挑戦者たちが初心者の人かどうかは知らないけれど、夏にはライバルたちと差がついているといい。
午後になるとウェットスーツを着た戦士がもっとやって来るのだろうか。ネッシーに乗りたいという俺の積年の夢は生きている間にはたぶん叶わない。けれどもあれなら手が届くかも。
「瀬名さんはサーフィンやったことある?」
「ない」
「じゃあ今度一緒にやりましょう」
「やった事あるのか?」
「ないです」
「ないのかよ」
「だからこそですよ。お互い初心者なら互角に張り合える。トランプもバスケもボルダリングも負けっぱなしですがサーフィンでは負けませんよ。勝負です」
「……ハッ」
物凄くバカにしたように笑われた。母さんの冷笑をも上回る凄まじい嘲笑だった。
「……なんすか」
「いいや、別に」
「元水泳部だからってサーフィンも得意とは限りませんからね」
「そうだな」
「……打ち負かしてやるからな。俺が勝ったら土下座して謝ってください」
「分かった。なら俺が勝ったらお前の身柄は好きにさせてもらう」
「は?」
「俺らはもうちょっとあったかくなってからやろうな」
「…………身柄?」
俺が勝ったら瀬名さんに土下座をさせる。反対に瀬名さんが勝ったら、俺の身柄が好きなようにされるらしい。
瀬名さんの顔を見る。なんだろう。やった事ないはずなのに、なぜなのか自信がみなぎっているような気がする。しかもすごく意欲的だ。
「初心者でもやりやすいスポット探そう。勝負の内容はどうする。波に乗った回数か。秒数か」
「え、あの……待って。ほんとに一回もやった事ない?」
「ない」
「……本当?」
「お前に比べればちょっとばっかし体幹に自信があるってだけだ」
「…………」
ズルくねえか。それサーフィンやるうえで一番のハンデだろ。賭けるものの重みも土下座と身柄とじゃ不公平なように思えてならない。
早まった。これはやめておくべきだった。こんな体幹お化けの男にサーフィン対決なんて挑んだところでなんもいいことないに決まってる。しかし一度挑んでしまった勝負を、撤回することは許されない模様。
「さて。そろそろ戻るか。朝メシ食いに行くぞ」
「……へい」
心なしかルンルンしている瀬名さんに背中を押された。早くも負かされたような気分で、トボトボと旅館までの道を戻った。
夢と現実のちょうど間くらい。そんな心地で体が機能を取り戻していく。無意識か、意識的か、どうにも判断がつかないような中で、まぶたを上げた。
薄ぼんやりした淡い光が、ゆっくりと差し込んでくる。同時にその人の、姿を捉えた。
「悪い。起こしたな」
頭を撫でられ、言われたことを理解し、ふるふるとゆるく首を横に振った。
明るさの発信源は朝日ではない。暗がりを照らしているのは、橙色の常夜灯だった。
「おはよう」
口にされた、その感触。ついさっき目元に感じたのと同じ。ついばまれるのをしっとりと受け入れ、それからまた目を開けた。
そこでふと思い出す。去年もこの人のこんな顔を見た。瀬名さんは昨日からずっと、嬉しそうな顔をしている。
「ハタチになって初めて迎える朝の感想は?」
「……ねむい」
短く答えたら瀬名さんは笑った。
「まだ日も昇ってねえからな」
「全然暗いもん……」
「もう一回寝ちまってもいい」
「うーん……」
眠いのも当然だ。昨夜はベッドを一つしか使わなかった。左側のベッドで起こったことを、隅々まで全部覚えている。
この人に抱かれながら日付をまたいだ。この人の腕の中でハタチになった。おめでとうと言われた。俺はなんて答えたっけ。覚えていない。それどころじゃなかった。
体を包む滑らかなシーツの感触は心地いい。外はまだまだ寒いだろうけど、ベッドの中はぬくぬくで快適。
どうしよう。どちらの道を行くか。怠惰に過ごすか。それともシャキッと服を着込むか。
「……起きます」
「ん。了解」
怠惰な道は選ばないことにした。シャツを着よう。パンツを履こう。今は起きるのがベストだと思う。
なぜならば俺に待ち構えているのは、トゥエンティーイヤーズスペシャルミッション。ヤドカリを探しに行かねば。
***
夜明け前の暗い頃から贅沢なひとっ風呂を浴び、それから静かな海に出てきた。
波の音だけが穏やかに聞こえる。俺たち以外に人気はない。こうも空気の冷たい海なら当然とも言うべきだろう。半年後の海水浴シーズンであればもう少し活気づいているはずだ。
人が固めたアスファルトの感触とは全く違う。砂浜を一歩ずつ踏みしめて歩く。小さな波がギリギリ届かない海辺を北の方角に向かって進んでいくと、空が少しずつ明るくなっていくのを視覚が自然と感じ取る。
「あ……見て、瀬名さん」
俺が顔を向けた方に瀬名さんも目をやった。海に接している空が、そこだけ徐々にオレンジに染まりだす。周りはまだいくらか紫がかった夜の色で、それがどんどん明るさに紛れ、次第に丸みを帯びた橙色がじんわりと強くなっていく。
雲はなかった。何もない空だ。そこに朝日が昇っていく。
昨夜はクロワッサンを一緒に見た。今朝は日の出を一緒に見ている。冬の早朝に海へと繰り出す物好きはやっぱり俺達だけのようで、砂浜に誰かが来る気配は今のところまだなかった。
二人で歩くには広すぎる砂浜をゆっくりと踏みしめていると、左手をやんわりと取られる。温かく繋ながったこの人の手を、握り返すのは簡単だ。
散歩と言うには遅すぎるペースで波の線に沿って歩いているうち、辺りはいつの間にかちゃんと明るい。
目を凝らさずとも足元が見渡せる。波に濡らされ、いくらか濃くなった砂浜の色も鮮明に区別できた。けれども目的のアイツだけは、さっきからなかなか発見できない。
「ヤドカリいませんねえ」
「人すらいねえよ」
「つーかマジ寒っ。二月の海さっっっむ!」
「テメエはヤドカリ探してねえでそろそろ情緒拾ってこい」
「青くない海。ザラついた砂浜。」
「こんな奴に可愛い反応を期待した俺がバカだった」
だって青くない。砂浜も白くない。
美味しいお魚が獲れる一方でさほど美しいとは言い難いのが日本から見える海辺の大半。人間の目にどう見えていようとも、魚やらプランクトンやらにとっては母なる海という場所だ。
海辺を気ままにテクテク行きながら、広大な景色を眺めがてら時折足元にも注意を払う。
海は青くなくても汚れてはいない。砂浜には空きビンや空きカンどころか小さなゴミクズも見当たらなかった。ボランティアの人がいるのかもしれない。地元住民の方々の意識がとしてもしっかりしている可能性も。ゴミ一つないということは、おそらく誰かが守っている。
何も知らずに恩恵を受けるからには存分に楽しむのがせめてもの礼儀。余計な障害物に阻まれることなく、ザラッとした砂浜に足跡を残した。
「やっぱヤドカリいないっぽい?」
「こう寒くちゃな」
「そもそもここヤドカリ生息してるエリア?」
「知らない。ヤドカリが歩いていそうな青い海と白い砂浜ではねえな」
ヤドカリ住んでいなさそうだ。ちっちゃいカニなら出会えるかもしれない。
ヤドカリを追いかけて遊ぶのを期待したが残念ながらどこにも見当たらない。追うべき獲物はいなかったけれど、宛てもなく砂浜を歩くのは楽しい。
小波が打ち寄せるギリギリの所をしばらくフラフラしていたら、明るく見渡せる前方には何やら黒いのが打ち上がっている。
思わずトトッと駆け寄った。瀬名さんも俺の後をゆっくりした歩調でついてくる。
一足先に到着した先で、目にしたのはモゾッとした謎の物体。
「……あ、ワカメだ。マジか。瀬名さんッ、ワカメ落ちてた!」
「お前ワカメではしゃぐのか」
砂浜にワカメが落ちていたらブンブン手を振って示したくもなる。
甲殻類の相撲を楽しむ代わりに野生のワカメと出会った。素晴らしい。
「立派なワカメです」
「食うなよ」
「食いませんよ」
いくらなんでもそこまで意地汚くない。
デカいワカメがモサッとしている横を少し避けて通りながら、後方で小さくなっていくのを微妙にチラチラ見つめつつも歩く。
「食いに戻るなよ」
「食いませんってば」
あれを食いに戻らなくても俺はもっと文明的な食事ができる。旅館に行けば人間用のちゃんとしたワカメの味噌汁だってあるだろう。
「人に捕獲される前のワカメは誰に食われるんですかね?」
「分からねえ……ウニとか?」
「ああ、ウニかぁ」
ならば波によって浜へと打ち上げられたあの海藻はこの後どうなるのだろう。砂浜に潜む生き物の誰かが美味しく平らげるのだろうか。もしかするとまた波にさらわれ、海の深い所に戻って、海藻を好む奴らにつつかれたり齧られたりするのかもしれない。ワカメを食ったその生き物はきっと、自分よりももっと大きな誰かに殻を砕かれたり、丸飲みにされたり。
こいつらは誰も破壊を知らない。循環を止めることもしない。この海で生まれ育った奴らは、みんな死んだ後も誰かの一部だ。
生まれて死んでは還っていく。それを繰り返す。何億年も。気が遠くなるほどに。
海はとても死に近い。同じくらい生にも近い。そういう場所を、瀬名さんと二人で歩いた。
「もう太陽あんなとこだ」
地平線を明るく照らしながら少しずつ頭を出していた朝日は、その全形をあらわにさせて空のやや低い位置にいる。
時間が経つにつれてそれは高くに昇る。今日も一日よく晴れるだろう。
また少し歩いて行った先で穏やかな波の前でしゃがみ込んだら、瀬名さんも隣で同じようにした。カニは目の前を横切りそうにない。だから代わりに、波の淵に指先で触れた。
澄んだ冷たさが伝わり、すぐに引いていき、また再び爪を濡らしに来る。サッと深く引いた波が、今度はザザザッと強く音を立てた。今までより大きく打ち寄せてくる。ヤバい。二人で慌てて後ろに避難。
お互い辛うじて濡れずに済んだ。顔を見合わせる。笑っちまう。しょうもないことが、こんなに楽しい。
たまに小波の襲撃を受けながら途中で方向を折り返し、元来た道を波の跡に沿って戻った。
向こうの方でようやく見え始めた人影は、どうやら気合の入ったサーファーのよう。目視できる限り数人。もっと正確に言うなら二人だけ。ウェットスーツを着てサーフボードを持っているから間違いなくサーファーだ。
真冬の、なおかつ早朝だろうと構わず、勇猛果敢に海に挑んでいく。
「……あれ寒くねえんかな」
「あのスーツ見た目よりあったかいんじゃねえのか?」
「そうなの?」
「知らねえが」
「知らねえんじゃん」
「スーツの機能性は分かんねえが冬の海は波が小さくてサーファー人口もずいぶん減るから初心者が挑戦しやすいらしいってのは聞いたことある」
「なるほど」
メリットあった。寒さにさえ耐えられれば良好な環境っぽい。今まさに視界に入っている小さな波への挑戦者たちが初心者の人かどうかは知らないけれど、夏にはライバルたちと差がついているといい。
午後になるとウェットスーツを着た戦士がもっとやって来るのだろうか。ネッシーに乗りたいという俺の積年の夢は生きている間にはたぶん叶わない。けれどもあれなら手が届くかも。
「瀬名さんはサーフィンやったことある?」
「ない」
「じゃあ今度一緒にやりましょう」
「やった事あるのか?」
「ないです」
「ないのかよ」
「だからこそですよ。お互い初心者なら互角に張り合える。トランプもバスケもボルダリングも負けっぱなしですがサーフィンでは負けませんよ。勝負です」
「……ハッ」
物凄くバカにしたように笑われた。母さんの冷笑をも上回る凄まじい嘲笑だった。
「……なんすか」
「いいや、別に」
「元水泳部だからってサーフィンも得意とは限りませんからね」
「そうだな」
「……打ち負かしてやるからな。俺が勝ったら土下座して謝ってください」
「分かった。なら俺が勝ったらお前の身柄は好きにさせてもらう」
「は?」
「俺らはもうちょっとあったかくなってからやろうな」
「…………身柄?」
俺が勝ったら瀬名さんに土下座をさせる。反対に瀬名さんが勝ったら、俺の身柄が好きなようにされるらしい。
瀬名さんの顔を見る。なんだろう。やった事ないはずなのに、なぜなのか自信がみなぎっているような気がする。しかもすごく意欲的だ。
「初心者でもやりやすいスポット探そう。勝負の内容はどうする。波に乗った回数か。秒数か」
「え、あの……待って。ほんとに一回もやった事ない?」
「ない」
「……本当?」
「お前に比べればちょっとばっかし体幹に自信があるってだけだ」
「…………」
ズルくねえか。それサーフィンやるうえで一番のハンデだろ。賭けるものの重みも土下座と身柄とじゃ不公平なように思えてならない。
早まった。これはやめておくべきだった。こんな体幹お化けの男にサーフィン対決なんて挑んだところでなんもいいことないに決まってる。しかし一度挑んでしまった勝負を、撤回することは許されない模様。
「さて。そろそろ戻るか。朝メシ食いに行くぞ」
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