天使の一般論

わこ

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天使の羽が生える場所

 その人はとてもおかしな人だ。


「晴れた日に外を歩いてきた猫からは太陽の匂いがする」
「はい?」
「雨の日の湿った匂いは嫌いでな。雨宿りしてる猫を見かけるとこっちまで悲しくなってくる」
「はぁ……それは、なんというか……」

 彼がキャンバスを見つめる時の、眼差しは繊細でとても優しい。そしていつも真剣だ。
 時折その目は俺に向き、逸らすことなく全身を隈なく探られる。俺をじっくり観察しては真っ白な世界へと写し出し、手を動かしながら一言二言喋って再び俺を見る。

 意味をなしているのかどうかは定かでない。彼が紡ぐ言葉に対してそれなりの返事を差し出しているが、会話とは到底言えないレベルのやり取りが出来上がるだけ。だから彼は俺の返事を、そもそも期待していないのかもしれない。
 どちらかと言うと、ひとりごと。飴を舐める代わり、煙草を吸う代わり、右手ばかりが動かされていて暇になってしまった口を、どうにか使ってやるためだけに適当に喋っているに過ぎない。

「寒くて膨らんでるスズメは可愛い」
「そうですか……?」
「羽毛がこう、バフッとしてて」
「あー」
「ハトでもいいけどな。あいつらもスゲエ膨らむ。この前ベランダの手すりでパンパンになってた。二羽」
「きっとツガイですね」
「ハトってのはどうしてああもアホみてえな鳴き方なんだか」
「さあ。あれがハトにとってしっくり来る鳴き方なんじゃないんですか」

 スズメは小鳥の代表のように高い声でかわいく鳴くし、ハトの鳴き声は気の抜けた炭酸みたいでむしろ安定感がある。
 鳴き声の美しさを競わせるのであれば、日本なら第一にウグイスの名が上がるのだろうが、俺の個人的な好みで言うなら美声の王者は絶対にオオルリだ。これだけは譲れない。
 ここまで思って、しかし言いはしない。彼は俺の答えも感想も個人的意見も求めてはいない。
 太陽の下を歩いてきた猫についての感想にはピンとこなくて、雨の日の湿った匂いは俺もこの人と同様に嫌いで、鳥の姿形や鳴き声なんて心からどうでもいいような話が実は自分も好きだったとしても、俺の主観を求めていない彼にそれを言ったところでどうにもならない。それくらい良く分かっている。

 彼にとって俺と言う存在はただそこに在ればいいだけの物。一つの物体にすぎず、無機物よりかは温かみのある、単なる観察対象だ。
 画用紙に当てる鉛筆の先に丁寧な線を描かせるため、モデルとしてのこの姿を何度も何度も目に映すだけ。人間は物体に感情を求めない。彼と俺の関係は明白。
 俺はただ、動かずにいればいい。





***





 彼のことはしばしば見かけた。人の目を惹く容姿をしていながら本人にその自覚はないようで、駅前にある公園の中を不審者のようにさ迷い歩く。歩き回っていない時でも、呆然と佇んでいる姿はどうにもこうにも目立っていた。
 ここ一週間ほどは毎日ここをフラフラしている。雰囲気的な清潔感と見目の良さが幸いしてか、辛うじて通報される事態になったことはないようだったが、二人組の女子高生はクスクスと遠巻きに笑い合ながら彼の様子を窺っている。子連れの女性は興味深げにその目をチラチラ彼に向けつつも、まだまだ小さい我が子の手を引くとそそくさ足を動かしていった。

 いつもどこを見ているのか謎。そこで何をしているのか謎。何を目的に公園内をフラフラと散策し続けるのか謎。今もまたどういう意味があって、中央の噴水を凝視しているのか全くもって謎だった。
 平日の日暮れ前から仕事もせずに不審行動を取っている彼は、どこもかしこも正体不明のおかしな人物でしかなかった。彼が通報されたことがないと言うのも、それはただ単に俺がその現場に遭遇した事がないというだけで、実際がどうなのかは定かではない。一度くらいはあるのかもしれない。

 広い公園の中を通るたびに見かける彼を俺はそれまで、無職でやる事のない人か、もしくは相当ヤバイ人か、そのどちらかだろうと予想はしていたが結局他人事でしかなかった。
 みすぼらしくはないが派手でもなく、かと言って汚い訳でもない。まともな身形をした成人男性が公園内の池の前に立ち、水の中で泳いでいる小魚か何かを見つめていたのだろう。公園の外周りを歩くよりもその中を突っ切ってしまった方が歩く距離を短縮できるため俺はここを使っていたが、その日もまたいつものように彼の近くを通り過ぎようとした。

 何をしているのか。何がしたいのか。関係はないが気にもなる。
 するとその時、突風と言うには弱いが、木の葉をザザッと鳴らせる程度には強めの風が吹き抜けた。思わずそこで立ち止まり、そしてハラリと、舞ったそれ。視界の隅にさっと映った。
 彼の首元を巻くでもなく、やる気なく引っ掛けられていただけの軽そうなマフラーが空に浮かんだ。
 軽そうではあっても風にそのまま乗っていけるほど軽くない布は、すぐに重力に負けたようだ。パサリとそれが落ちていった先は、彼がいまだに凝視している池の中。彼のマフラーは水面に浮かんだ。

「…………」

 さて、これは日本人の性質なのか。それとも俺の性格なのか。
 電車で座っていた時に、自分よりはるかに年配ではあるが背筋はピンと伸びていて元気そうな初老の人が目の前に立った場合。そういうときの感覚とほとんど同じだ。
 近くにいた人がうっかり何かを落としたときも同じことが言える。一目で重要と分かる財布やらスマホであれば行動しやすいが、ちょっとした紙切れ程度を落とされたときは判断に迷う。わざと捨てたのか、はたまた本当に知らずうちうっかり落ちてしまったのか。落としましたよと声をかけ、嫌な顔はされないかどうか。

「……あの……大丈夫ですか?」

 マフラー。そう控えめに声をかけながら、彼のすぐそばに近付いた。
 なぜならこれは紙切れではなく衣服の一部とも言えるマフラー。巻いてはいなかったが身に着けていたのだから防寒具であることに間違いはない。目の前でそれを落とした人がそれを拾おうともしないならば、何かお困りごとですかなどと声をかけても不審ではない。
 そう思って呼びかけた。マフラーを落としたのがそんなにもショックだったのか、隣に立って覗きこむ彼の顔からは一切の表情が抜け落ちている。
 ぼんやりと水面を目に映し、しかしどこを見ているのかは謎。濡れて色味の濃くなったマフラーを見ているような気もするが、そっちは見ていないような気もする。

「あの……」

 もう一度小さく声をかけるも無反応。どうしたものかと対処に困るが、声をかけてしまったからには今さら無視するのもはばかられる。
 持ち主が動かないのならばやむを得ない。水面へと手を伸ばし、水を吸って重くなったマフラーを持ち上げた。
 ジョロジョロと水が落ちていく。指先がヒンヤリとした。水浸しのマフラーを軽く絞って、隣の彼に差しだした。

「結構濡れちゃってますけど……あの……」

 反応がない。彼の視線はいまだ水面に。
 凝視するそこに何があるのか。数回まばたきを繰り返したのち、彼の隣から同じ方向へ俺も一緒に目を向けた。
 小魚がいる。それは知っている。

「……大丈夫ですか?」

 もう一度、最初と同じ言葉を掛けた。今度はとんとんと軽く肩に触れながら。
 すると彼はようやく、と言うよりそこではじめて気付いたかのような表情をして、隣から顔を覗きこむ俺をはっきりとその目に映した。

「……え?」
「いや……これ、落として……」
「あ?……ああ……」

 まさか。いや、まさか。
 気づくだろう。気づくはずだ、普通なら。風が吹いた時点で、マフラーが飛んだ時点で、飛ばされたマフラーが噴水に落ちた時点で。それを見ていた人間から大丈夫かと声をかけられた時点で、声をかけてきた人間が代わりにマフラーを拾い上げた時点で。
 肩を叩くよりも前に気づくべきタイミングはこんなにもあったはず。

「あの……」
「ん? ああ、ごめん。ありがとう」
「いえ……。池に何か……?」
「うん?」
「いやその……何か見て……?」
「ああ、サカナ。泳いでるから」
「…………」

 この瞬間、俺の中の彼の認識がまとまった。
 変な人だ。無職かもしくはヤバい人かとずっと思っていたけれど、実際はただの変な人だった。

 彼はようやくマフラーを受け取り、さすがにこれは巻かないだろうと内心でヒヤヒヤしながら見守っていたが、変な人も馬鹿ではなかったようだ。
 濡れたマフラーを不快そうに見下げると、いささか体から離して持った。そして今度は俺をじっと凝視し始めた。池にいた小魚を見ていた時と、同じような顔をして。

「……えっとじゃあ、俺はこれで」
「キミ学生?」
「え?」

 マフラーを持っていない手が、こっちにスッと伸ばされる。濡れていない温かなその手は、俺の手首をガシッと掴んだ。

「バイトしないか」
「……は?」
「バイト。モデルの」
「もでる……え?」
「とりあえず一緒に来て」

 変な人は絵描きだった。
 それがきっかけで俺の時間は、彼に買われることとなった。






***






 いかにもな不審人物でしかなかったはずの男の前で、指示された椅子に腰かけ、丁寧に観察されながらモデルの仕事を引き受けている。
 そんなつもりは毛頭なかった。けれど現に今、こうなっている。




「じゃあ、お疲れ様です」
「ああ。ありがとう。また明日も同じ時間に」
「はい」

 座ったまま動かず前を見る。時々彼の指示通り、顔の向きとか手の位置とかを変える。
 服は着たまま。服装の指示はない。無理なポーズを取らされる事もない。
 ただじっと動かずに、時々彼の独り言に自己満足で言葉を返すだけ。それが俺のバイト内容だ。

 絵とか芸術とかそういうものにとんと縁のない人生だから、彼が画家としてどんな評価を受けているのかは知らない。生活環境を見る限り、売れない画家ではないようだけど。

 どこにでもいるような絵描き。彼は自分のことをそう言った。好きだから描いている、とも。
 しかしこれまで人間だけは描いた事がなかったそうだ。人物を対象とした絵を描かなければならない仕事が入ったため、どうしたものかと悩んでいたらしい。
 数日かけてぼんやりと思いめぐらせてみたその結果、気分転換でもしていればなんとなく描けるような気がすると、そんな途方もないあてずっぽうでフラフラさ迷っていたのがあの公園だったそうだ。結局は変人でしかない。

「これ今日の分な」
「ああ、はい。ありがとうございます」

 手渡されたのは味もそっけもない茶封筒。中には今日のバイト代。
 絵に興味のない俺が、モデルバイトの相場というものを知らないのは当然のこと。けれども俺が毎回受け取るこの茶封筒の中身が、少なくない金額なのは分かる。
 むしろ多いのではないだろうか。ただ座っているだけなのに。そう思って初日に返そうとしたところ、受け取っておけと押し返された。

 その時は大学が冬季期間中だった。バイトを増やそうかと考えていた矢先、彼と出会ってこの仕事にありついた。コンビニバイトやなんかと比べると破格と言えるほど金になる。
 時間も彼が俺の都合に合わせてくれるから、私生活に影響が出ることもない。冬休みが明けた今でも、他のバイトが入っていない時に彼の元へ通う事ができている。ここまで条件のいいバイトと出会える学生は滅多にいない。

「大学の春休みはいつから?」

 玄関まで毎回見送りに来てくれる彼は、律儀なのだかなんなのだか。ドアを開ける寸前に問いかけられて、年間スケジュールを思い起こす。

「まだもう少し先ですけど……なにか?」
「完成したヤツ、それまでには見せてやれるかと」
「そんなにかかるもんなんですか……?」

 彼は俺がここに来る度に新しい絵を描きはじめる。デッサン用紙に、キャンバスに。これは練習用だと言って。
 人を描いたことがないと言う彼は、人を描くために鉛筆や木炭に撫でさせていった下絵の枚数を、日々着々と増やしていった。

「練習うまくいってます?」
「うん?」
「……モデルは本当に俺で大丈夫ですか?」
「あんたじゃなかったらきっと一枚も描けてないけど」

 なんでもない事のように言われ、あやふやに目を逸らした。
 彼のアトリエには大小さまざまに、色がついていたり線画だけだったり完成していたり未完成だったり、それはもう多種多様にあらゆる絵が散らばっている。

 きちんと飾られているのではない。投げ置かれるのとも違う。
 ただ単に、散らばっている。扱いが乱雑な訳ではないし微かな傷もついてはいないが、時間をかけて仕上げた作品を保管するにしては少々手荒い。
 依頼を受けて着手したという作品だけは、辛うじてきちんと他とは分けて机の上に置いてある。それらも含めて彼の絵の中に、人物の描写は見当たらない。
 多いのは風景画。その次に多いのが自然の生き物。近所をウロついていたのだろうと推測できる犬猫に至るまで対象は様々であるものの、人間らしき姿はどこにも、ちょっとした影ですら存在していなかった。

 彼曰く、描かないと言うよりも、描けない。彼に人間は描けないそうだ。人間というものの意味が分からないからと。
 彼にとって描くと言うのは楽しい行いそのものらしいが、唯一人を描くと言うのは、もはや苦行の域にあるそう。
 だったら彼にとって俺はなんなんだと思わなかったと言えば嘘になるが、公園で人目も気にせずふらふらできる男の思考は凡人にはそうそう理解できない。

 受け取った封筒を握りしめ、この金額に値するだけの働きはどんな事かと考える。けれど俺が考えたところでまともな答えは出てこない。
 彼の目の前で大人しく椅子に座ってじっとしている事こそが、絵のモデルとして何よりも求められる事だろう。
 行き着いたのはそんな結論。彼の仕事のために少しでも、置き物になりきろうと決意した。

「明日も頼むな」
「はい……。また明日」

 俺は彼に、雇われている身だ。






***






 彼のマンションは駅から徒歩十分圏内。近くには買い物のできる場所もある。病院も近くてドラッグストアもあり少々歩けば飲食店もちらほら。非常に良好な立地に加え、シンプルな2LDKの間取りは動線もしっかり確保されている。
 好条件のマンションの一室。二つある居室のうち一つについては、完全に丸ごとアトリエとして彼の仕事部屋になっていた。

 足の踏み場もない、時もある。たまに。時々。ほんとは、割かし。
 どこをどう片づけるかはその時々の彼の気分によるもので、売りに出すために部屋から持ち出されていく絵もあれば、部屋の片隅にいつまでも居座り続けている絵もあった。
 とても変な人である彼は、とても不思議な人でもある。何をどう考え、いつ何をどう思い、行動や言葉に至るまでのプロセスがどのようにして成り立つのか。それを俺が理解するのは、一生をかけても不可能だろう。

 彼には彼自身の中だけで完結できる世界があった。
 彼の世界はいつでも自由だ。人や物事に囚われず、自由に左右の羽を伸ばせばいつでも高く飛び立てる。彼のアトリエは狭いようで広い。どこにだって行けそうだ。





「…………」

 目を開けて、白い眩しさが視界を覆う。無意識のうちに動かした手には、コツンと何か固いものが当たった。
 目にしたのは自分の指先に触れるキャンバスの角。床の上に散らばったうちの一つ。
 彼のアトリエは天井が高い。他の部屋と高さは同じなのに、どうしてかこの中は広く感じる。あちこちに絵が落っこちている部屋は、ぐちゃぐちゃしていても自由だった。

「起きた?」
「……すみません。寝てましたね俺」
「それはいいけど……ああ、ダメだ動くな。そのまま」
「はい……。すみません」

 彼のための置き物になりきろうと、この前決意したばかりなのに。
 約束の時間になって彼の家を訪れた。彼は俺を部屋に招き入れると、足の踏み場に困る状態になっていたアトリエの床に、バサリと白いシーツを広げた。
 適当に皺を伸ばし、俺を振り返ると一言、ここに寝ろと。
 いつもは椅子や一人掛けのソファーに大人しく座っているのが仕事だった。床の上に敷いたシーツの上に、寝転べと言う指示は初めてだった。

 他人の部屋で腹を上にして寝転がるのは緊張する。しかしそれが雇い主の指示であれば従うのが当然のこと。
 そうして少し硬くなりつつも、指示に従い仰向けになった。時々は彼に言われて、横を向いたり前を見たり。
 うつ伏せ気味に、顎は腕の上に乗せて、窓の外を見るように。そう言われた辺りまでははっきりとした記憶がある。床から見ると高い位置にある腰窓から外の景色を眺め、壁に阻まれたその向こうには青い空が広がっているのだとぼんやり感じた。
 ここでもまた彼のひとり言はいつものように繰り広げられた。シーツの上に身を投げ出しながら耳にする声は心地よい。
 それがいつの間にか子守歌代わりになってしまっていたようだ。どれだけ意識を飛ばしていたかは時計がないので分からないが、人の家で、しかも雇い主の部屋で、寝落ちていたのはすぐに理解した。

「手に顔乗っけって。そう……もうちょっとだけ傾けて。ほっぺたくっ付ける感じ……うん、そう。そのまま」

 今度はしっかりまぶたを上げておく。手の甲の上にぺたんと頬をくっつけ、指示されて再び窓の外を見た。
 男の俺をモデルにさせるより、公園を通るちゃんとした美人くらいならいくらでもいただろうに。見返りとして渡される、少々大きすぎる金額と、彼自身の見た目を使えばモデルの獲得も難しくはないはず。
 なのに彼は俺を描く。まともな会話をする気もないし、俺の意見を求めることもない。けれど俺でなかったら、一枚も描けていないと言う。

 鉛筆の先がキャンバスをなぞる音は耳を静かに刺激して、俺達はしばらく黙っていた。日はまだまだ沈まない。夏とは違う高めの空はどこまでも澄んで青いから、絵の散らばった部屋の中から広い空間をぼんやり見つめた。

「なあ」
「はい、えっ、ぁ……」

 気づけば、彼はすぐそばにいた。はっと飛び起きた俺の前で床の上に両ひざをつき、広げたシーツの端を掴んでこの体に巻き付けてくる。
 彼の手によってシーツをまとう。俺をシーツで包み込みながら、この人の視線は俺の顔に向いていた。だから俺もチラリと窺った。
 池にいる小魚を眺めるのとは、少し違う。たぶん、ちがう。今は静かに、目が合った。

「天使の羽はどこから生えてると思う?」
「え……?」
「俺はこの辺だと思うんだけど」

 ぱさっと、頬を掠めた彼の髪。肩口に感じた重みと、正面から背中に回された腕。
 服の上から肩甲骨をゆっくりと撫でられる。動けなくなった俺の耳元で、彼は静かに呟いた。

「お前、飛べそうだよな」
「…………」
「ここから羽が生えててもたぶん驚かない」

 これはいつもの、ひとり言か。それとも会話を求められているのか。
 固まる俺から少しだけ身を離し、じっと視線を合わせてくる。そのままスッと、頬には手を添えられた。

「あの……」
「待て。そのまま」
「え……?」
「ちょっと、待ってて。動くな」
「……はい」

 言うなり彼は腰を立たせ、今まで描いていたのとは別のスケッチブックを持って戻ってきた。俺のすぐ前に胡坐をかいて座り込むと、じっとこの姿を観察してくる。

 さっきだってそうだった。はじめて、あんなに近くで触れた。
 いつもの彼は俺を描くとき、いくらかばかり離れた位置からこちらを眺めて手を動かす。けれども今はすぐ目の前。サラサラと鉛筆を動かす音が、普段よりもだいぶ、耳に近い。

「こっち見て。逸らすな」

 彼を見る。まっすぐ、彼だけを見る。
 静かに出される指示に沿ってほんの少し体勢を変えつつ、視線だけは逸らさない。わずかに目元をやわらげた彼は、囁くように呟いた。

「そう。いい子」

 散歩中の犬や猫を描く時も、彼はこうやって呟くのだろう。生き物を真っ白な紙の中で生かす。置き物になりきる必要はなかった。
 自分の世界で、自分の意思で、自分の思う通りに彼は俺を見る。

「……綺麗だ」

 彼を見つめる俺の頭を、彼は一度だけ、やんわりと撫でた。
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