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88.ボーダーライン
比内さんはたまにリビングで仕事をしている。資料を読み込むときなんかは特にそう。もしかすると俺という居候が転がり込んでくる前は、ここを仕事場にする頻度が高かったのではないだろうか。
ソファーに背を預け、黙々と情報を頭に入れているその姿。俺がバイトを始めて以降はここでこの態勢をよく見かけるので、居候のガキが職場のガキにもなったためにこれができるという事だろう。どこでどんな仕事をしようとも、この大人の気は張りつめているが。
息をついて目を閉じて、そのまま少し上に顔を向けた。その様子をこっそり見ていた。
疲れているのは一目瞭然。口には出さない比内さんに、俺ができるのは一つだけ。
「どうぞ」
ローテーブルに置いたマグカップ。そこに一度視線を落とし、比内さんはこちらに顔を向けた。
「ああ。ありがとう」
すっきりとした柔らかい香りが、室内に満ちる。コーヒーではない。今夜はハーブティーを淹れた。眉間の険しさからしてそっちの方がいいと思って。
口をつけたのをそれとなく目にする。集中している人の邪魔はできないが、小休憩のときは無駄話にも付き合ってくれる。そして今は、短い休憩時間だ。
「そういえばちょっと前に、中川さんからお聞きしたんですけど」
「だったらロクなことじゃねえな」
休憩中も中川さんの名前は光の速さで跳ねのける。この物言いに怯えていた俺はもういない。
「朝日奈先生と比内さんって、従兄弟なんですか?」
再びチラリと、こっちに向いた。視線だけのそれはすぐにフイッと外され、比内さんはもう一度カップに口をつけてから言う。
「ああ」
そう一言、素っ気ない答えが。
比内さんが素っ気ないのはいつものこと。比内さんがあからさまにミソクソ言い立てる相手は、信頼できる人なのも知っている。
「あんまり似てないですよね」
軽口のつもりだった。調子に乗った。これができるくらいには打ち解けたつもりだった。
悪かったなガキ。うるせえぞクソガキ。どういう意味だテメエコラ。そんなような返答を期待していた。そうなるとしか思っていなかった。
だからそこで俺に向けられたその目は、その顔つきは、少し。いや。かなり。
「似てなくて当然だ。血縁関係はない」
想定外だ。
「……え?」
「何をどこまで聞いたか知らねえが、血の繫がりはねえんだよ。俺はあいつの叔父の養子だ」
「…………」
朝日奈先生のお父さんの弟さん。中川さんはそう言っていた。それが比内さんの、お父さんだと。
「……養子……?」
だがそれはまだ、聞いていなかった。俺の知らない事を比内さんは言った。
マグカップをコトリとテーブルに置いて、しかしその目はどこを見るでもなく。
「あのクソ親父は……俺の養父は、呆れるほどのお人好しなんだよ。得体の知れねえ小汚いガキを拾い上げるのも躊躇しねえ」
どういう意味か。考えてしまって、何も言えない。思わず黙り込んだ俺を待たずに、比内さんは淡々と付け足した。
「命を救われた。あの家族に。文字通り、ゴミ溜めの中から」
「…………」
「そうでなかったらおそらく俺は、今この世に存在してない」
口調や表情と話の中身は驚くほど一致しない。昨日は酷く暑かっただとか、この湿気さえなければまだ多少は過ごしやすいのにとか、そんな何気ないことを話すような口振りだった。
言いつつその手はまた資料を取って、その顔はやはりこちらを向かない。
養子というのも色々ある。婿養子なんかは今でも良くあるし、昔だったら子供のいない家が子沢山の親戚から末っ子を引き取るなんてこともしばしば。
そうなる経緯も状況も、理由も。色々だ。ドラマチックな話ばかりではない。けれども比内さんの場合、命を左右する何かが過去に、あった。
「そろそろ寝ろ。夏休みだからって夜更かしすんなよクソガキ」
「…………はい」
比内さんの休憩はもう終わっている。資料を手に取った時点でそれが示されていた。ささやかな休憩時間の無駄話には付き合ってくれるが、これ以上の邪魔は許されない。
短い挨拶だけを交わし、ひっそりと部屋に戻ってきた。
パタンと閉めた寝室のドア。与えられた上等な一部屋。次にこの部屋のドアノブを回すのは明日の朝に日が昇った後だ。一晩挟んだその翌朝に、同じ話をする勇気はもうない。
その先を聞いたら、答えてくれたと思う。それが分かった。どこまで話してくれるかは分からないけど、比内さんはきっと答えた。なぜ。どうして。何があって。どういう経緯で。本当の、親は。
答えさせていいのだろうか。言わせていいのか。聞いていいのか。だって、俺はあの顔を見た。
怒っていない。呆れてもいない。かと言って悲しそうなわけでもない。何も見ず、何かを期待することもなく、ましてや返答など求めるはずもなく、ただ淡々と、それを言った。
この世に存在していない。過去の自分の、そんな未来があり得た。
それを短く言った比内さんは、本当にただ、無表情だった。
「…………」
ほとんど息を止めていたことに、気づくまで少し、時間がかかった。
ソファーに背を預け、黙々と情報を頭に入れているその姿。俺がバイトを始めて以降はここでこの態勢をよく見かけるので、居候のガキが職場のガキにもなったためにこれができるという事だろう。どこでどんな仕事をしようとも、この大人の気は張りつめているが。
息をついて目を閉じて、そのまま少し上に顔を向けた。その様子をこっそり見ていた。
疲れているのは一目瞭然。口には出さない比内さんに、俺ができるのは一つだけ。
「どうぞ」
ローテーブルに置いたマグカップ。そこに一度視線を落とし、比内さんはこちらに顔を向けた。
「ああ。ありがとう」
すっきりとした柔らかい香りが、室内に満ちる。コーヒーではない。今夜はハーブティーを淹れた。眉間の険しさからしてそっちの方がいいと思って。
口をつけたのをそれとなく目にする。集中している人の邪魔はできないが、小休憩のときは無駄話にも付き合ってくれる。そして今は、短い休憩時間だ。
「そういえばちょっと前に、中川さんからお聞きしたんですけど」
「だったらロクなことじゃねえな」
休憩中も中川さんの名前は光の速さで跳ねのける。この物言いに怯えていた俺はもういない。
「朝日奈先生と比内さんって、従兄弟なんですか?」
再びチラリと、こっちに向いた。視線だけのそれはすぐにフイッと外され、比内さんはもう一度カップに口をつけてから言う。
「ああ」
そう一言、素っ気ない答えが。
比内さんが素っ気ないのはいつものこと。比内さんがあからさまにミソクソ言い立てる相手は、信頼できる人なのも知っている。
「あんまり似てないですよね」
軽口のつもりだった。調子に乗った。これができるくらいには打ち解けたつもりだった。
悪かったなガキ。うるせえぞクソガキ。どういう意味だテメエコラ。そんなような返答を期待していた。そうなるとしか思っていなかった。
だからそこで俺に向けられたその目は、その顔つきは、少し。いや。かなり。
「似てなくて当然だ。血縁関係はない」
想定外だ。
「……え?」
「何をどこまで聞いたか知らねえが、血の繫がりはねえんだよ。俺はあいつの叔父の養子だ」
「…………」
朝日奈先生のお父さんの弟さん。中川さんはそう言っていた。それが比内さんの、お父さんだと。
「……養子……?」
だがそれはまだ、聞いていなかった。俺の知らない事を比内さんは言った。
マグカップをコトリとテーブルに置いて、しかしその目はどこを見るでもなく。
「あのクソ親父は……俺の養父は、呆れるほどのお人好しなんだよ。得体の知れねえ小汚いガキを拾い上げるのも躊躇しねえ」
どういう意味か。考えてしまって、何も言えない。思わず黙り込んだ俺を待たずに、比内さんは淡々と付け足した。
「命を救われた。あの家族に。文字通り、ゴミ溜めの中から」
「…………」
「そうでなかったらおそらく俺は、今この世に存在してない」
口調や表情と話の中身は驚くほど一致しない。昨日は酷く暑かっただとか、この湿気さえなければまだ多少は過ごしやすいのにとか、そんな何気ないことを話すような口振りだった。
言いつつその手はまた資料を取って、その顔はやはりこちらを向かない。
養子というのも色々ある。婿養子なんかは今でも良くあるし、昔だったら子供のいない家が子沢山の親戚から末っ子を引き取るなんてこともしばしば。
そうなる経緯も状況も、理由も。色々だ。ドラマチックな話ばかりではない。けれども比内さんの場合、命を左右する何かが過去に、あった。
「そろそろ寝ろ。夏休みだからって夜更かしすんなよクソガキ」
「…………はい」
比内さんの休憩はもう終わっている。資料を手に取った時点でそれが示されていた。ささやかな休憩時間の無駄話には付き合ってくれるが、これ以上の邪魔は許されない。
短い挨拶だけを交わし、ひっそりと部屋に戻ってきた。
パタンと閉めた寝室のドア。与えられた上等な一部屋。次にこの部屋のドアノブを回すのは明日の朝に日が昇った後だ。一晩挟んだその翌朝に、同じ話をする勇気はもうない。
その先を聞いたら、答えてくれたと思う。それが分かった。どこまで話してくれるかは分からないけど、比内さんはきっと答えた。なぜ。どうして。何があって。どういう経緯で。本当の、親は。
答えさせていいのだろうか。言わせていいのか。聞いていいのか。だって、俺はあの顔を見た。
怒っていない。呆れてもいない。かと言って悲しそうなわけでもない。何も見ず、何かを期待することもなく、ましてや返答など求めるはずもなく、ただ淡々と、それを言った。
この世に存在していない。過去の自分の、そんな未来があり得た。
それを短く言った比内さんは、本当にただ、無表情だった。
「…………」
ほとんど息を止めていたことに、気づくまで少し、時間がかかった。
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