No morals

わこ

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第一部

2.1-Ⅱ

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 最初に感じたのは鈍い痛みだ。全身が痛かった。特に腹が酷い。
 頭が冴えてくるのと並行して痛みも徐々にはっきりしてくる。あそこまで一方的な暴力を受けるのは久々だった。あれくらいどうにでもできるなどと、たかをくくっていたツケが回った。

「…………」

 ここはどこか。見当もつかない。覚えているのはオチる寸前で俺に手を貸したあの男の声。
 この部屋はあいつの寝室だろうか。今こうして寝かされているこの古いベッド以外には小さなソファーがあるのみの室内。人が住むにしてはいくらなんでも殺風景すぎる部屋だった。
 生活感の欠片もない。ノロッと起き上がってぐるりと一周見回してみても、薄明るいライト一つしか照らすものもないようだ。

「あ、起きた?」

 ガチャリと開かれた部屋のドア。同時に響いた男の声。
 疼く腹に顔をしかめつつその方向に目をやれば、脱脂綿やら消毒液やらを両手いっぱいに抱えた男がこのベッドに近付いてくる。

「大丈夫か。腹すげえ色してたけど」

 反射的にその場所を押さえた。ズキリとした鈍い痛みはあるが、服の下の、何かの感触。
 包帯だ。いま気づいた。腹部の怪我はすでに手当てされている。

「よかったな。骨に異常はないってさ」
「……ここは……?」
「飲み屋だよ。ミオっていうバー。の、二階」

 男はベッドの端に救急道具をバサッと散らかした。透明な消毒液が白い脱脂綿に染み込んでいく。その様子をぼおっと眺める俺の顔を見下ろしながら、こいつは微かに口角を上げた。

「寄ってたかってエゲつねえよなあ? せっかく綺麗な顔してんのに」

 思わずクッと眉間に力が入る。なんとなく募った不快感。
 脱脂綿を持ったその手を口の端に当てられそうになり、切った箇所に触れる前にパッと身を引いていた。
 なんだかムカつく。なんでこいつ笑ってんだ。苛立ちに近い気分を隠さずにその顔を睨むように見上げた。

「いい。自分でやる」

 男から脱脂綿を奪い取り、切れた口角にそれを当てた。傷口が染みる。だがこの程度なら幸運だ。腹にされたのと同じように顔面までボコボコにされていたら日中のバイトをクビになりかねない。
 顔をしかめる俺をこの男は面白そうに見下ろしていた。その目つきは不快でしかない。目つきが気に食わねえとか態度が気に入らねえとか飽き飽きするほど何度も何度も俺も他人から言われてきたが、この男はなんかやだ。

 こいつ。竜崎と、呼ばれていたか。その名前が出た瞬間に、暇そうなあの五人組は血相を変えて逃げていった。
 年は俺と同じくらいだろうか。若いと思う。ゴツい訳でもない。人気のない深夜の通りでリンチ中の集団を蹴散らすような危険人物には見えないが。

「…………」

 盗み見るように観察すれば、些細な視線さえすぐに気づかれる。ニコリと返されサッと逸らした。
 危険人物には見えない。ただしどことなく、普通とは違う。得体の知れなさがそこにはあった。笑顔が胡散臭いというか。仄暗さが、あるというか。

「あ」

 凝視されているのが不愉快でさり気なく顔を俯かせたら、その時こいつが口を開いた。

「ピアスつけてた?」
「あ?」
「耳んとこ。血が出てる。さっき飛んだんだろ」

 耳にかかっている髪をこの男がスッと指で払って、触れられた。耳たぶに。
 そこには小さなピアスをつけている。はずだった。その感触はなかったが。代わりにピリッとした痛みが走る。

「っ……」

 バッと、男の手を払いのけた。その目から逃れるためだけに顔を背け、脱脂綿を耳たぶに押し当てた。
 言いようのない居心地の悪さだ。目の前にいるこの男が原因なのも明らかだった。使用済みの脱脂綿を捨てるよう、ゴミ箱を持ち上げてこっちに向けてくる。

「……ここはお前の店なのか」

 投げ入れながら聞くとこいつは首を左右に振った。

「俺はただの客。普段は使ってねえけどこの部屋もここのマスターのだよ」
「……竜崎?」
「うん? ああうん、そう。俺のこと。竜崎恭介。この店の常連。怪しいもんじゃねえから心配すんな。バラして売っぱらったりしねえから」
「…………」

 初対面の人間にそんな冗談をかましてくる男に安心はできない。フルネームまで聞かされたものの不信感以外の何も抱けなかった。
 床に目をやれば履いていた靴もきちんとそこに並べて置いてある。ベッドから降ろした足をスニーカーにそのまま突っ込んだ。
 よく分からない人間には関わらないのが一番いい。早々に腰を上げたら、この男が再び口を開いた。

「あんたは。名前」
「あ……?」
「こういうのも縁だろ?」
「…………」

 立って向かい合ってみると幾分か視線が上に行くもののそれほど身長は変わらない。それなのに威圧感というのか、なんとも言えない類の雰囲気を身に纏っているような気がした。
 一応は助けてもらった身だ。この男も俺が名乗るまで、そこをどくとも思えない。

「……宮瀬」
「宮瀬くん。よろしく。下は?」
「………………裕也」

 口元の笑みを深めた男。なんだか非常に腹が立つ。

「ユウヤな。歩けるなら下来いよ。飲めば痛みも忘れるだろ」
「いらない。帰る」
「まあそう言うなって」
「ぁっ、おい……」

 腕をつかまれたかと思うと有無を言わさず引っ張られていた。連れ出された廊下の天井にはまともな照明がついていたため室内よりもむしろ明るい。出てきたドアはこの廊下の中央辺りに位置していた。
 廊下を挟んだ向かい側には閉まっているドアが一つだけある。この部屋の両隣のドアも同じように閉じられている。グイグイ腕を引っ張られながら、階段に向かいつつ横目に見やった。

「……放せ。帰る」
「少しくらい飲んでけって。んな顔して歩いてると家に着く前にまた絡まれるぞ」
「テメエに関係ねえだろ」

 ただでさえ立っているのもやっとだというのに、この男は見た目よりも力が強い。強引に腕を引かれて階段をおりていくと酒場の雰囲気が漂ってきた。
 ひどい騒音という程ではない。心地よく酔った人間達の声だ。
 一階にはいくつかのテーブル席とカウンターが設置されていた。盛況とまではいかないものの、和気あいあいとしたこの雰囲気には、やや気後れ。

 カウンター内には当然のように煙草をふかしている男がいた。あれがここの店主だろうか。三十か四十代くらいの男だ。やる気のないそのオッサンの目がこっちに向いて、つい顔を背けた。

「……やっぱ帰る」
「だから飲んでけよ強情だな。それとも何。そのツラしてて酒飲めない感じ?」
「うるせえ、いいから放せっつって……っ放せコラ……ッ」

 振り払おうとしたが予想外に全然振り払えなかった。力の差にイラっと来た俺をこいつは押さえつけてくる。

「おいっ……」
「いいからいいから」
「この……クソが、放せよッ」

 言い合いながらカウンターに連れていかれた。その内側にいる店主らしき男は呆れたような顔をして言った。

「おいおいおい、何やってんだよ穏やかじゃねえな」
「だって暴れんだもん。大人しくしろって」
「ッんなんだテメエは!?」

 イライラするし腹の痣もさっきからズキズキして仕方ない。それを分かっているのだろう男は強引に着席を促してくる。カウンターの椅子へと背を押され、抗い切れずに渋々座った。

「……クソが」

 疲労感がひどい。余計にダメージを受けた俺を満足気に見下ろしてくる。そして隣に腰を下ろした。
 煙草を手放す様子のない店主は相変わらずの呆れ顔だ。男の前に置かれていたグラスにトポトポと酒を注ぎ足し、それから俺にもグラスを差し出して同じビンの中身を適量注いだ。

「ワリィなこんな奴で。怪我は平気か? 外が騒がしいっつって出てったコイツがお前のこと抱えて帰ってくるからよ。何事かと思ったけどまあ、その様子じゃ大丈夫そうだな」
「……あんたは」
「見ての通りここの店主だ。ゆっくりしてけよ」

 穏やかな雰囲気とともに人当たりの良さそうな笑顔を向けられた。紛れもなく純粋な厚意だと分かる。慣れない温かさに視線を下げた。

「……騒がせて悪かった。せっかくだけど酒はいいよ。もう帰るから」

 それだけ言って席を立とうとした。ところがその前に俺の行く手を阻んだのはこの男。

「だから待てって。少し休んでけよ。つーか俺と昭仁さんとで態度違すぎ」
「…………」

 腕はしっかり掴まれている。昭仁さんというのはこの店主のことだろう。
 店主とこいつを見比べてから、人の腕を掴んで放さない不躾な男を睨みつけた。

「助けてくれなんて誰が頼んだ」

 不躾な男以上に無礼な物言いで返してやるとこいつからはハッと楽し気な笑い声。気を悪くした様子もない。それで余計に腹が立った。危ないところだったのは事実だが、これはあまりにも情けない。

「可愛くねえの。金盗られてんだろ? どうやって帰るんだよ?」
「歩いて帰れる。もう放っとけ」
「家近いんだ?」
「っ……」

 頬がひきつる。噛み合わない。この男とは何が起きても仲良くなれるとは思えない。

「やめとけ恭介。それじゃナンパだ」

 呆れ顔で止めに入った店主。続けてその目はこっちに向けられた。

「お前もちょっと落ち着けよ。急いでるわけじゃねえんだろ? 一杯くらい飲んでったらどうだ。もう注いじまったしな」
「…………」
「今日は特別に俺の奢りだ。人の親切は受け取っとくもんだぞ」

 穏やかな笑顔に口をつぐんだ。親切なんてものには馴染みがない。酒を奢られたのも初めてのことで、隣の男をチラリと睨み、それからカウンターに肘をついた。
 警戒対象は隣の男だけ。やれやれといった感じにわざとらしく肩をすくめたこいつは、手元にあるのだろう灰皿に煙草の灰を落とす店主に向かって明るく和やかに言った。

「昭仁さん、俺にもついでに奢ってよ」
「何がついでだ。お前はまずツケ払え」
「いいじゃん毎日来てやってんだから。これ以上客減ったらこの店の寂れ具合マジでヤバイよ」
「寂れてて悪かったな。そのうち本気で閉め出すぞ」

 酒の肴はこの二人の会話。隣の男がどういう人間か今のやり取りで大体把握した。
 ツケを払わないクズみてえな客。その上かなり図々しい。関わるのは賢明ではないと改めて実感できたが、得体のしれない、近寄りがたい、そんな雰囲気もひしひしと感じる
 接客しながら煙草をふかすこの店主も店主だが。それ以上に、この男だ。人付き合いとか人間関係とかそんな言葉を聞くだけでも常々うんざりさせられるけれど、この男ほど関わりたくないと思った奴は他にいない。

 いくらか顔を背けながら少量ずつ酒を口にした。切れた口角がピリピリ染みる。とは言え厚意で出された酒だし、この場からさっさと立ち去るためにもこれくらいは飲むのが礼儀だろう。
 目を合わせないようにしていた隣のこいつはテーブルの上に何かを置いた。黒っぽいそれが視界に入り、つられてそっちに顔を向けている。スッと手元に差し出されたのは、見覚えのある色形の財布。

「これお前のだろ? さっきのとこに落ちてた」
「…………」

 盗られたとばかり思っていたが。中身を覗けば実際に盗られている。紙幣だけ抜いて捨てられてしまった用済みの安っぽいこの入れ物をこの男があの時拾ったようだ。
 ほぼ無価値になった財布を手に取る。決まり悪くポケットに突っ込んだ。

「なんならピアスも探すか?」
「……別に大したもんじゃない。こんな暗くちゃ見つかんねえし」
「明るくなってから探せばいい」
「は?」

 男のその一言に、嫌な表情を隠せない。明るい時とはどういう事だ。こいつと明日も会うなんてごめんだ。

「いいっての。もうここには来ねえよ」
「なんで」
「なんでって……」

 頭おかしいのかこの男。

「昭仁さんもなんか言ってやれよ。せっかくの客が逃げてくぞ」
「ツケてばっかのお前が言うな」

 口ではそう言いつつも、早くもカラに程近くなった男のグラスに店主は酒を注ぎ足した。次には俺の前でカウンターに手をつき、落ち着いた笑みを向けてくる。

「お前、ユウヤってのか? こいつじゃねえけどまたいつでも来いよ。ここは俺が趣味でやってるようなもんでな。定休日は特にねえんだ」
「…………」

 こういうときにどうしたらいいのか、分からない。だから答えずにいたが、店主は気を悪くするでもなかった。
 短くなった煙草が灰皿にこすりつけられたのだろう。ジジッとくすぶった煙が舞った。この人の口調は穏やかなままだ。

「気が向いたらでいい。ただし次は奢らねえぞ」

 笑いかけてくる店主にはまたしてもまともな反応ができない。尻込みする俺の隣では、男が冗談めいた態度で落胆したふりをしていた。

「なんか俺の扱いだけ散々じゃねえ?」
「ウチの収益下げてる奴にこれ以上どう優しくしろってんだ」
「出世払いで」
「まったくよぉ。期待しねえで待っててやる」

 俺に口を挟む余地はない。この二人の関係は薄らとだけ見えてきた。付き合いは長いのだろうか、バカらしいやり取りを聞いていると腹の痛みも忘れそうになる。
 とは言え起きているのも正直辛い。すぐにでも帰って家で寝たいから気力だけで酒を飲んだ。そもそも怪我人に酒を勧めるこの二人はなんなのだろう。
 まだまともそうな店主はともかく、この男とは二度と会いたくない。隣に目を向けないようにしながら真剣にそう思った。
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