No morals

わこ

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第一部

9.2-Ⅱ

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 イライラする。何をしていても四六時中あのヘラヘラした顔が頭から離れない。
 竜崎恭介。不審者かつ変質者。付け足して言うなら最悪の外道。そいつのことが頭からどうしても離れないのには理由がある。すぐそこに本人がいるからだ。

 来ているのは知っている。ここのところしょっちゅう迎えに来る。
 バイト先の休憩室兼ロッカールームを後にして、向かったのは従業員用の裏口。外に近付いていくにつれて自然と眉間が寄っていく。
 しかし出入り口のすぐそばにある品揃えの悪い自販機前で、ここの社員の森田さんがコーヒーを開けたところに出くわした。

「お疲れーっす。お先しまーす」
「おー、おつかれー。……あ、宮瀬」

 特に親しいわけでもないから交わすのは最低限の挨拶のみ。ところが直後に呼び止められ、進むのをやめて振り返った。

「あのさ、最近よくここの外に来てる男がいるだろ。あれってお前のダチ?」
「……あー、っと……」

 竜崎だ。俺がバイトを終える時間に合わせてマメに迎えに来るようになった。
 あいつにも自分の生活があるだろうから毎回という訳ではないけれど。それでも迷惑でしかないからやめろと散々詰め寄ったのだが、その度にあの条件を持ち出してくる。
 オチるまでキス。最低的に悪趣味な嫌がらせが、どうやらあいつは気に入ったらしい。

「すみません、ダチっていうか……。邪魔だったら警察でもなんでも呼んでもらって全然いいんで」

 これは決してジョークじゃない。心からのお願いだ。
 だが森田さんは冗談として受け取ったのだろう。軽快に笑い飛ばされた。

「いやいや、邪魔とかじゃなくてな。しょっちゅう来てるから最初のうちは彼女の迎えかと思ってたんだけど、この前宮瀬と歩いてったの見たからさ。たまに女の子達も話してるんだよ。男前だもんな」
「そうですかね……。ただのバカですよ」

 奴の存在が俺のバイト先で軽く評判になっている。嫌な事実を知ってしまって怒りと落胆が同時に押し寄せてきた。

「宮瀬でもそういうこと言うんだな?」
「あいつはバカとか通り越して狂ってるんで」
「どんなだよ。その友達ウチで働かないかなって声かけたかったんだけど」
「や、マジ勘弁してください」
「なんだ、仲悪いの?」
「最悪です。あいつも他の仕事ありますし」

 世の中は仕事のない奴で溢れているはずなのにここの店は常に人手不足だ。それを分かったうえで即断った俺を森田さんは面白そうに笑った。

 気まずい思いで一杯になりながらも、仕事場に戻る森田さんと別れて一人でげんなりと外に出てきた。
 従業員用の駐車スペースと外の道路との間には、敷地をぐるっと囲うようにしてレンガ造りの花壇ができている。生垣代わりの小さな樹木が均等な幅で植わっているそこ。
 竜崎がいるのはそんな場所だ。腰の辺りまで高さのある花壇に寄りかかって俺を待っていた。

「お帰り裕也」

 俺を見るなり姿勢を正してにっこりと笑顔を向けてきたこいつ。能天気なその表情に、怒りは早くも突き抜ける。ズカズカと竜崎のそばまで歩き、バッと腕をとって引っ張った。

「お帰りじゃねえよバカ野郎。とっとと歩けグズ」
「なに、今日はやけに積極的。あ、もしかして惚れてきた?」
「黙れアホが。お前がここにいると俺がいろいろ言われんだよ」

 店の前の道を早足で歩き、一つ目の角を曲がったところで竜崎の腕を放り捨てるようにして離した。
 辺りはもうすでに薄くオレンジ色が射している。行く場所はミオと決まっているが、この男も一緒だと気が重い。
 狭い道の端っこギリギリ。できる限り距離をとって歩いた。竜崎は何かとくだらない話題ばかりを次々にポンポン投げかけてきて、その都度俺の機嫌を損ねて自分だけ満足そうに笑う。

「あ……なあ裕也、ヤバイ。大変なことに気づいちゃった」
「ああそうかよ良かったな」

 ミオに着くまであとほんの少。そんな時に竜崎が言った
 どうせまたしょうもない事だ。俺をおちょくるような話の一つでも思いついたのだろう。ほとんど聞き流して適当に返し、すたすたと先を歩いた。それを止めたのは竜崎の手だ。

「お、っと……なんだよ」

 後ろからガクッと腕を引かれ、やむを得ず足を止めて振り返る。珍しく神妙そうに思えたその顔。しかしやはりこいつは、竜崎だ。

「俺達最近キスしてない」
「……は?」

 俺達最近キスしていない。当然だ。それの何がいけない。俺はこいつと頻繁にそんな事をするような仲になった覚えはない。
 真面目ぶった顔をしたかと思えばこれだ。ニッと底意地悪く笑ってこっちににじり寄ってくる。

「お、おい……」
「しよう。久々に」
「っ……来んなッ」

 叫んだところでもう遅い。捕えられた腕はガッチリ固定。肩もグイッと引き寄せられた。目の前でその視線にさらされ、ゾクっとした寒気が背筋を伝った。
 ささやかな抵抗はなんの意味もなさない。勝てないのは嫌というほど理解させられていたが、暴れるだけ無駄と知りつつ意地だけで反撃を試みる。が、やっぱり無駄ですぐに封じ込まれた。
 俺の背後に足を踏み出し、前から押さえつけるようにしてダンッと、肩を壁に打ち付けられている。

「っ……」

 痛い。いや痛くない。痛みがないのが不思議なほどの衝撃音を耳にした。その反動で抵抗の手も緩み、直後、重なっていた唇。
 あれ以来だ。強要はしないと言いつつ、キスしなきゃ放さねえとクソ過ぎる脅迫をされたあの日。
 でも今日はあの時とは違う。唇は触れただけだった。一度離れそうになるも、またすぐにチュッと小さく口づけられる。啄ばむような子供染みた行為が、そこから何度か繰り返された。

 なんだか妙に、甘ったるい。眉間が寄る。これは正直、恥ずかしい。
 徐々に強張っていく肩を竜崎が宥めるように抱いた。俯き加減に縮こまる俺の顔を、そっと覗き込んでくる。

「真っ赤」
「……夕陽だろ」

 くすっと笑った竜崎から苦々しく視線を逸らした。
 今ならたぶん逃げられる。体と顔の距離は近くても、拘束はもうされていない。逃げられる状態にされた中で、やわらかく髪に触れてきた。
 指先をスッと絡めて、梳くようにして撫でてくる。普通じゃない。こんなのおかしい。俺がいくら目を背けても、この視線にさらされていると気が狂いそうになる。

「さわん、な……」
「手は空いてんだろ。嫌なら抵抗したらどうだ」
「…………」

 挑発に乗ってもいい事はない。それも十分よく分かっている。それでも大人しくはしたくないから、無意味に疲れる道を選んだ。
 こいつの服に掴みかかって、胸板をぐっと押し返す。ビクともしない。それくらい知ってる。見かけよりずっと、胸板は厚い。
 俺の反抗を見て笑うこいつはクズで末期のイカレ野郎だ。こんなことをする目的も意図も、俺にはどうしたって理解できない。

「やっぱおもしれえなお前」
「…………ふざけやがって」
「ふざけてねえよ」

 バカな事しないで逃げればよかった。今更思ってももう遅い。
 あやすように撫でていた手で俺の頭を強引に引き寄せ、むぐっと唇が再度重なる。今度は触れるだけではなくて、無遠慮に舌が入り込んでくる。

「……っ」

 右手でドンドンと胸板を叩きつけた。すぐあとには呆気なく捕まっている。捕らえられた俺の右手を竜崎の指先が撫で、互い違いにきゅっと握られた。それだけは頼むから、やめてくれ。
 片手を繋ぎながらキス。はたから見たらまるで合意だ。外観とは程遠く、現実は決戦の真っただ中だが。

 振り解こうとしてもできない。だからギリギリと最大限まで握り潰す心意気で力を込めた。
 ところが竜崎は手を離すどころか張り合って握力を強めてきた。ぎゅうっと痛いくらいに繋がり、同時にくちゅっと、舌で舌を撫でられる。

「っン……」

 肩が揺れた。腹が立った。唇に思いっきり噛みついてやろうとしたのがさらにいけなかった。
 勢いで口を開けたその途端、クイッととらえられた顎。噛みつくはずだった唇がピタリと隙間なく重なっている。唇も口の中もねっとりしゃぶりつくされる感覚に、情けなく眉根が寄った。
 竜崎の服を握りしめたのは攻撃の意図とは違う。縋るように、キュッと握った。繋がった右手は親指の腹で、焦らすようにゆっくり撫でられた。

「ん、ぅ……ン……」

 手を撫でられて、唇もこすれて、口の中は犯される。二人分の混ざった唾液を飲み込む音がやけにリアルで、せめてこの現実から逃げるために目を閉じて感覚を一つ消した。
 唇と唇の間には僅かな隙間が作られて、表面をゆっくり舐めてくる。閉じるに閉じられず半開きの口からスルッと舌が入ってきたが、ぴたりとは唇が重ならない。微かな距離を保ったまま舌だけで触れ合った。

 はふっと、互いの呼吸が漏れる。何度もしつこく焦らすように、舌先で撫でられる。その度にいやらしく音が立った。
 触れては、出て行き、吸いつくような仕草を見せても、思わせ振りなだけで不発に終わる。遊んでいるかのような気まぐれな触れ方。それを絶え間なく繰り返されて、完全にペースを持っていかれる。

「っ、ん……」

 深いけど、中途半端だ。くるならもっと、ちゃんとこい。

「りゅ、う……」

 竜崎を呼ぶ自分の声を聞いた。それを自覚するよりも早く、竜崎がスッと目を細めた。しっとりと唇が合わさり、求めた通りに、深く重なる。
 求めていた。途中で焦らされ、それに気づいた。自分から顔を傾けて、噛みつくみたいにキスしてる。
 舌が触れるのが気持ちよかった。舐められたら、しゃぶって返した。耳元まで覆うように手のひらで包まれて、髪には指先を差し込まれた。耳に入る。擦れる音が。それで余計に、煽られた。

 この男を抱き寄せたのは、どうしてか分からない。そうした方が気持ちいいって、感覚的に知っているからかもしれない。
 嫌いな男を抱きしめて、たまらなく気持ちいいキスをする。何かを考えられる状態じゃなかった。勢いとか、本能とか、ただこのまま続けていたい。離したいとは思わない。やめて欲しいとも、思わない。
 さっきまでオレンジだった空はだいぶ薄暗くなっていた。日も沈みかけているこの道を、通る人間は誰もいない。俺達二人だけ。そのはずだった。

「お」

 パチッと、弾かれたように両目を開いた。声がした。第三者の声。
 別世界に吹っ飛んでいた意識はコンマ一秒もかからずに戻る。竜崎からバッと顔と手を離し、そこで目にした。その人物を。

 ピシリと、体が固まった。違う意味で意識が飛びそう。一瞬で口がきけなくなった俺の代わりに、竜崎がやや不満げに言った。

「んだよ昭仁さん、邪魔すんなよ。こういうときは黙って通り過ぎるもんだろ」

 昭仁さんだった。こんな道を通りかかったのは。そしてこの男は気づいていた模様。
 気づいていたならなぜ止めなかった。いや、そんなことはどうでもいい。俺は今、何をしていた。

「やー、わりぃ。まさかと思ったらホントにお前らだったからつい。うっかり心の声が漏れた」
「しまっとけよ心に一生。昭仁さんが声出さなけりゃ裕也だって気付かなかったのに」

 立ち直れていない俺をよそに二人は普段通り話している。昭仁さんは目にしたはずの光景に関して特に言及するわけでもない。

「煙草切れたから買ってくるわ。お前ら店番してて。勝手に酒飲んでていいから」
「んー、分かった。高いヤツ出していい?」
「良くねえよ。一番上の棚に触ったらツケなしで金とるぞ」

 一番上の棚はあの店で一番高い酒が置いてありオーダーが一番出ない商品がそれだ。
 竜崎に釘を刺すと昭仁さんはまた歩いていった。残された俺は一体どうすれば。分からない。いっそ死にたい。
 固まって動けない俺の顔の前で竜崎はひらひらと手をかざした。ついでに頭をポンポンと叩かれ、しかしそれでもまばたき以外の反応が何もできない。

「おーい。平気か。意識飛んでんぞ」
「……見られた」
「なんだそんな事かよ。大丈夫だって、気にすんな」

 竜崎に手を引かれて店に向かって歩き出す。俺はまだ半ば放心状態。竜崎は通常運転。

「お前があそこまでノッてくるとはさすがに思ってなかった」
「喋るな。何も言うな」
「もう一回しとく?」
「しねえ。さっきのは忘れろ」
「忘れられねえよ、あんなの。あーあ、勃ちそう。つーかキてる」

 目を見開いた。放心も解ける。身の危険を感じとって竜崎の手をバッと振り払った。

「……バカがっ」
「仕方ねえだろ生理現象だもん」

 何がもんだ。
 今日は帰ろう。こいつとこれ以上話したくない。昭仁さんと顔を合わせるのも気まずい。
 しかしそれをこの男が簡単に許すはずもなく、回れ右しようとした俺の腕をガシッと掴んで引きずられた。

「やめろっ、放せっ、死ねっ、帰るっ、帰らせろ!」

 ズルズルと引っ張っていかれて店はすぐ目の前に。こんな精神状態のまま呑気に酒なんて飲んでいられない。

「帰るっ」
「まあまあまあま。昭仁さんだって気にしてねえよ。俺がお前に本気だって知ってんだし」
「そういう問題じゃねえッ!」

 竜崎は構わず店のドアを開けた。騒ぎながら入っていく俺達は常連客達のいい見世物だ。
 ここまで来てしまってはもう遅い。とうとう押し負け、ガックリと肩を落としながらいつものカウンター席に座った。

 昭仁さんに言われた通り、竜崎は勝手にカウンターの中に入っていってボトルを出した。俺の前とその隣の席にコトリと置かれたグラスとその酒。カウンターから出て来た竜崎も自分の定位置に腰を下ろした。
 営業中に店を空けて煙草を買いに行く店主なんて日本中を探してもあの人だけだ。竜崎といい昭仁さんといい俺の周りには奇妙な人間ばかりが勢揃い。というよりここに集まる連中は大体みんなどこかしらおかしい。俺と竜崎がここでしょうもない言い合いを始めると、もっとやれと言って盛り上げてくる奴らも最近はなんだか増えてきた。

 竜崎が出してきた酒をゆっくり飲みつつ、こいつの横顔を盗み見る。
 怪しさ満点のこの男の正体はあれからも結局分からないままで、そのくせ関係性だけは濃くなる。毎日会って、毎日この場所で同じ酒を飲み、言い合って、たまにキスする。最悪だ。

「どうした。俺に見惚れてる?」

 俺の視線に気づいた竜崎はこの調子で軽口をたたく。露骨に嫌な顔をしてやった。

「バカが。いちいちくだらねえこと言うなっつってんだろ」
「さっきはすげえ見惚れてたくせに。もっとシてって顔してた」
「はぁっ? 目まで馬鹿んなったんじゃねえのか」
「じゃあもう一回試す?」
「死ねよ」

 挑戦的に笑いかけられたくらいで短時間に二度も乗ってたまるか。このネタでしばらくからかわれそうだがさっきの自分を恨むしかない。
 調子が狂う。竜崎といる時はいつもそうだ。人を小馬鹿にした言動とか、余裕綽綽なこの表情とか、見ているだけでも声を聞いているだけでも必ず腹が立ってくるのに、当の本人は気遣いもなくズカズカこっちの領域に踏み入る。迷惑の一言ではとても済まない。疫病よりも厄介だ。

 それに何より、この目。この、視線。へらへらしていて馬鹿を全面に押し出しているかと思えば、ふとした瞬間に捕らえられている。鋭く。少し、怖いくらいに。
 どんなに笑顔を装っていても内側にはいつもそれが潜んでいる。残酷なまでに冷ややかで、前に一度見せられた、凍り付くような眼光を思い出す。

「んー。なに? そんなに俺の顔が好き?」
「……うぜえ」

 その横顔に目を向けたままじっと視線を止めていたら、わざとらしい笑顔と問いかけですかさず俺をからかってくる。ふざけた表情に眉間を寄せてふいっと顔を前に向けたが、視線だけ外しても竜崎の目がまだこっちに向いているのは分かった。
 舐め回すような。それを肌で感じる。こいつの場合は、視線だけじゃ済まない。

「俺はお前の顔も大好き」
「キモいんだよテメエ」

 ふざけやがって。
 前を見たまま暴言で返したが竜崎は何も言わない。ただじっと俺の顔を見ている。

「……んだっつーの」

 普段から無駄に良く喋る男に急に黙られると気になる。チラリと竜崎に顔を向け、そこで目に入ってきた表情。
 どこか険しく、厳しく思えた。急な変化に内心で戸惑う。つられて黙り込んだ俺に、竜崎はやや低い声で呼びかけてきた。

「なあ」
「だからなんだよ」
「……最近何か変わったことないか」
「は?」
「…………いや、いい。なんでもない」
「…………」

 この男が意味不明なのは今に始まった事ではないが。
 イタズラ紛いの着信やメッセージが竜崎から入る事ならある。しかし今こいつが俺に聞きたいのは、そういう事ではないだろう。

「……今度は何を企んでやがる」

 変わったこと。そんなものはない。普通に生活している人間の日常に変化が起きることは稀だ。
 疑い深く俺が聞き返すとそこで竜崎の顔つきが戻った。寸前までの真剣な表情を一瞬で見事に消し去って、陽気で掴みどころのない笑顔をいつも通りヘラッと見せてくる。

「なんも企んでなんかいねえよ。ただほら、裕也は綺麗だから。他の野郎にかっ攫われないようにちゃんとガードしておかねえと」
「お前それシラフで言ってんのか。くだらねえこと言うんじゃねえって何度言わせりゃ気が済むんだよ」
「何度言われても俺だって本気だし。惚れた相手が気の強い美人だとこっちも気が気じゃねえんだよ。男だろうが女だろうがお前に近づくやヤツはみんっな敵。このままだと心労が祟って俺もうすぐ死んじゃうかも」
「ちょうどいいじゃねえか、死んじまえ。すぐにでも死んだらいい」

 雰囲気はすっかり普段の通り。竜崎がふざけだしたから、モヤモヤしたものを感じながらも俺もいつも通りに返した。
 他人から心配される必要なんて俺にはない。高校を出てから今日までずっと、自分一人で生きてきた。こいつが何を案じているのか、それは俺の知る所ではないが、こんな男に心配されなくても自分の身くらい自分で守れる。
 カウンターに右肘をついて俺の方に体を向けてくる。ヘラヘラと笑う。ヘラヘラ、だろうか。上辺は完全に繕っているが、どことなく、違和感もある。

「冷てえのな」
「……知らねえよ」
「俺の冷えた心あっためて」
「キモい。ウザい。近寄んなヘンタイ」

 似合いもしないのに可愛子ぶる男を片手でシッシと追いやった。根っからの変態野郎は邪険にされるのが嬉しいのだろう。更にヘラッと笑みを深めた。
 そういうところも扱いに困る。このツラをこれ以上拝んでいたくなくて視線をふいっと下げたその時、目に入る。グラスを持った竜崎の右手。
 人差し指から、薬指くらいまで。第二間接の辺りを中心に擦りむいたような傷が指の背にあった。真新しいそれは痛々しく赤みを帯びて腫れあがっている。
 こんなところに、怪我なんてしていたか。指に傷なんてなかった気がする。

「……おい」

 思い当たるのは、一つだけ。酒を口にする竜崎に、負けた気分で問いかけた。

「その傷どうした」
「うん?……あ、ほんとだ」
「……さっきのか」
「うーん。だろうな」
「…………」

 鋭いのだか鈍いのだか。酒注いだ時に気づくだろ普通。それ以前に負傷した時点で分かるだろ。痛覚がないのかこいつには。

「……どういうつもりだよ」

 流血には本人も気づいていなかったようだが、その傷をどこで作ったか俺は知っている。さっきだ。ついさっき。そこの通りで揉み合った時。
 壁に肩を打ち付けられて結構すごい音がした。それに見合う衝撃も体にかかった。にもかかわらず痛みという痛みがなくて不思議には思ったが、こういうことだ。こいつだ。こいつの手。俺の肩と固い壁との間で竜崎の手がクッションになっていた。

「俺がお前に怪我させるわけねえだろ」

 当然のようにサラリと言われた。

「…………クソが」

 ムカつく。ボコボコにしてくれた方が精神的にはまだ優しい。
 吐き捨てた俺を見て、竜崎は楽し気に笑った。
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