No morals

わこ

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第一部

34.8-Ⅰ

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「嫌だ」
「なんで」
「当たり前だろ」
「俺のこと好きなくせに」
「はあッ!?」

 驚愕の叫びは本心から出た。隣を歩く竜崎は満足そうに笑っている。




 激昂してこの男の家を飛び出してきたのは今朝。もう当分顔を合わせたくない。前々から幾度となくして思っていたことを強く願った。
 ところがその半日後。量販店でのバイトを終えた俺を竜崎は出迎えていた。いつもの場所でいつものように立って待っている男を目にし、これ以上ないくらいに顔をしかめた。

 その時の竜崎は満面の笑みだった。それが余計に頭に来たため素通りを決め込んだのだが、めげずにまとわりついてきたこいつ。
 そうして最初に放たれた第一声は、責任を取れ。笑って言われた。ニコニコと機嫌よさげな顔つきからは程遠い脅し文句だった。

「…………何を」

 聞くだけは一応聞いてやった。すると竜崎は口角を吊り上げた。歩きだす俺の前に回り込み、悪魔顔負けの笑顔を見せてきた。

「俺がもし使い物にならなくなってたら確実に今朝のアレが原因だ。ってことはつまり、男の尊厳を容赦なく蹴りつけたお前にその責任がある」
「は?」
「そういう訳だからヤラせろよ。同じ男としてきっちり責任取れ」
「…………」

 本気で言葉が出なかった。




 それがついさっき。そこからミオに行くまでの道のりは言い争いの場と化していた。低レベルかつ不毛な争いから自主的に下りてしまえば、この男は自分の勝ちだとみなして何を仕出かすか分らない。
 こうも物騒なクソ男だ。冗談抜きで役立たずにしてやろうか。竜崎という男が近くにいる限り俺に平安は訪れない。

「なんで俺がテメエにヤられなきゃなんねえんだよっ」
「俺がシたいから」
「くたばれッ」

 まだまだ終わりそうにない。引いたら俺の人生が終わるし、この男が引き下がるはずもないし。堂々巡りのくだらない口論に精神は崩壊寸前だ。

「そんなに嫌?」

 そんなにもクソもへったくれもない。

「何度もそう言ってんだろうが。トチ狂うのも大概にしろ」
「なんか全力で拒否されるほど死ぬ気で追いかけたくなるって言うか」
「もう喋んなお前」

 話にならない。
 俺が歩調を速めると、それを追いかけるようにして竜崎が横に並んだ。ついでに腰に手を回された。

「うぜえッ」
「好きな子に触ってたいって思うのは当然のことだろ」
「誰が子だっ!」

 ただ回っていただけだった腕にグイッと腰を引き寄せられた。思わず足を止めている。睨みつけると反対に見つめ返された。

「裕也は?」
「なに……放せって……」
「好きだろ。俺が」
「…………」

 直視できない。暗がりでも、なお。その目から逃れるように視線を落とした。

「……知るかよ」

 吐き捨てるように小さく呟き、その体をドンっと押した。振り返らずに歩き出す。どれだけこの男に翻弄されて、何度同じ手に引っ掛かれば気が済むのだろう。
 再び隣にくっついてきた竜崎をチラリとうかがい、できる限り気にしないよう真っすぐ前に足を進めた。ところがそこでまた横からふっと手を伸ばしてきたこの男。足を止めて手首を掴まれたため、ぐっと引っ張られるように俺も止まった。
 僅かに振り返る。顔をしかめた俺とは真逆の、穏やかな表情とぶつかった。

「自覚なしってのは罪が重いぞ」
「は……?」

 貶すとも、からかうとも取れない。反応に困って眉をひそめた。

「……何が言いたい」
「結局お前は優しいんだよ」
「どういう意味だ」
「まんまかな」

 くすっと微かに笑われた。

「半端な拒否ってのは一番逆効果だ。俺に処女奪われたくねえなら本気で抵抗できるようになっとけ」
「…………」

 どういうつもりでなんの意味がありどの立場からのアドバイスなのだか。こんな奴の助言など受けたくない。

「……自惚れてんじゃねえよバカが」
「好きかどうか聞かれたくらいではぐらかそうとするお前が悪い」
「…………」

 分が悪い。相手も悪い。見なくていい所をこの男は見る。

「なあ裕也……」

 聞き慣れたその声は、大声でなくとも俺をとらえる。
 掴まれた手首に力がこもるのを感じた。グイッと今度こそ強く引っ張られ、元来た道に進路を戻された。

「おいっ。なんだよ」

 ほとんど引きずられる勢いで歩かされる。その顔はこっちを見ない。

「やっぱ戻ろう」
「は?」

 ミオまではほんの少しだった。そこからどんどん遠ざかる。

「待てって……おいっ。ここまで来たんだから店行きゃいいだろ。なんで引き返すんだよ、っつーかどこ行く気だ」
「分かんねえことを分かんねえままにしておくのは絶対に良くない」

 無視かよ。しかも意味が分からない。
 くるっと、竜崎はそこで振り返った。笑顔だ。とてもいい笑顔だ。ただでさえ強制連行に近い状況で、それは俺の不安をひどく煽った。

「俺のこと好きかどうか分かんねえんだろ? だったら分かるようにさせてやる」
「……は……?」

 この男は本当に日本語を喋っているのか。それ以前にそれは間違いなく人語か。
 意思疎通ができていない会話であっても竜崎はまったく気にも留めない。

「つー訳で、うち行くぞ」
「ッなんでだ! お前の結論は意味が分からねえ!」

 デカい声が出た。仕方がない。竜崎はやはり気にも留めない。

「ミオだと絶対に邪魔入る。昭仁さんとか。あとは昭仁さんとか。それにあれだよ。昭仁さんとか。ウチでならじっくり話せんだろ」
「お前どんだけ昭仁さん邪魔なんだ!? そもそも話す事なんかなんもねえッ」
「遠慮すんなって」
「してねえよッ!」

 無理やりに足を止めた。しかしまた歩かされている。
 踏みとどまりたい俺と歩かせたい竜崎。ここにもし第三者がいたら滑稽な絵面に見えただろう。

「昨日のツケ払い行くんだよっ、お前は一人で帰ってろッ」
「昭仁さんはちょっとしたツケに利子付けて請求なんかしてこねえから明日でも全く問題ない」
「俺をテメエと一緒にすんな!」

 毎晩ツケてばかりの野郎が言っていいセリフではない。
 渾身の叫びも虚しくズルズルと引っ張られていく。夜道をぎゃあぎゃあ喚きながら通った。だいたい叫んでいるのは俺だが、あまりにも間抜けな攻防はそこから数分間にも及んだ。

 ところがピタリと、なぜか止まった竜崎。急な停止にガクッと足がよろけた。人に無駄な体力を使わせたばかりの男は、俺を振り返って溜め息をついた。

「……分かった。そんなに嫌なら俺も無理にとは言わねえよ」
「あ……?」
「裕也はミオ行きな。フラれた俺はおとなしく帰るから」
「…………」

 言葉の通り腕も放された。

「嫌だってんなら仕方ねえ。たとえどんなに寂しくたってこれ以上嫌われたくねえからな。今晩はこれで我慢しとく」

 芝居がかったわざとらしい口調で何事かを聞かせながら、竜崎は上着のポケットからゴソゴソとスマホを取り出した。
 これで我慢する。スマホのことか。何が言いたいのか見当もつかない。
 怪訝にうかがっているとスマホは再びポケットの中に戻された。

「実は夕べいいもの撮っちゃってさ」
「いいもの……?」
「うん、そう。超レアな映像」

 にっこり。超絶笑顔。
 得体の知れない寒気を感じ、嫌な予感は的中した。

「裕也のヌード」
「……っは!?」
「脱がすトコから一部始終。動画で」

 あっけらかんと言い放たれたそれ。開いた口が塞がらない。
 ニコニコしていた男の顔には邪悪な要素が浮き彫りになった。

「撮っといてよかった。お前何しても全然起きねえし、どうせだから記念の一つでも残しとくかと思って」
「…………」

 めまいがする。どうしてこうなる。ヤケ酒による失態が、翌日にまで降りかかってきた。

「仕方ねえからコレで存分に楽しむよ。裕也のせいで使い物になんなくなってないか確かめねえとな」
「ふ……ふざっけんじゃねえぞテメエおいスマホ出せッ、今すぐ消せっ!!」
「消す訳ねえだろ。今晩のおかずだぞ」
「ッんの変態!」

 体当たりする勢いで掴みかかった。ポケットに手を伸ばすもあっさりこの手は捕まっている。しかし俺も負けてはいられない。
 右手が駄目なら左手で。バッと伸ばし、あえなく失敗。両腕を捉えられたところでギッと竜崎を睨みつけた。

「っこのクズが……ッ!!」
「いいだろ別にズリネタにするくらい」
「くたばれッ」

 正気じゃない。

「いいからスマホ出せッ」
「どうすんの?」
「叩き潰す!」
「壊すなよ」

 呆れたような半笑い。怒りを込めてその足を蹴りつけた。
 ゲシゲシと脛を蹴りつけ足の甲を踏みつけて、捕えられた両腕の代わりに現時点で可能である最大限の攻撃を加えた。

「痛い痛い痛い。そんな暴れんなよ、写真バラ撒くぞ」
「なっ……」

 こいつ。

「っクソ野郎! テメエそれが目的かよこの外道ッ!!」
「はいはい、うそうそ、冗談だってば。落ちつけっての、バカだなもう。お前のあんなスゲエ映像を俺が他人に見せてやるわけねえじゃん」
「あんな……テメエふざけんじゃねえッ」

 何をどう撮られた。想像するだけでも戦慄が走る。あまりのおぞましさに泣きたくなってきた。
 動じもしなければ反省の色もない竜崎は、俺の体を簡単に押しのけて宥めるように顔を覗き込んでくる。

「まあまあ落ち着け。お前の態度によっちゃ消してやらねえこともねえよ」
「上から物言ってんじゃねえッ、今すぐ消せ!!」

 目の前のこの憎たらしい笑顔。グシャグシャになるまで踏みつけてやりたい。
 わなわなと震える俺を嘲笑うかのように竜崎は満面の笑みで言った。

「今からウチに来い。消去してほしいならな」
「調子づいてんじゃねえぞコラ……ッ」
「ガラわる」

 ピキッと引きつる。その時には右手をグーにしていた。みぞおち目がけてガッと突き出し、それは確かに、パシッと真っ直ぐ当たったはずだ。
 しかし手に伝わる感触は微妙。腹に食い込むにしては軽すぎる。拳はみぞおちを殴っておらず、みぞおちの前を寸前でガードした竜崎の手のひらに捕まっていた。

「…………」
「来る気になった?」

 屈辱だ。竜崎は口角を吊り上げた。

「来ねえんならまあ仕方ねえ。コレで毎晩ヌかせてもらおうかな」
「ぁあッ!?」
「てのはさすがに冗談だけど……たまに使うかも」
「っ……テメエ覚えてろッ……マジ殺す、ゼッテーぶち殺す……ッ」

 腹の底から唸り上げた。バッと右腕を振り払って竜崎の手から逃れる。
 一歩分の距離を保って歩いた。向かうはミオ。ではなく、この男の部屋だ。

「行ったら消せよ。つーか寄るなっ」

 保ちたい距離はすぐに詰められ、顔は見ずに吐き捨てた。
 片手でその腕を突っぱねる。反対に手を引っ張られ、ガバッと肩に腕を乗せられた。

「うぜえ!」
「固いこと言うな」
「重いんだよクソがッ」

 怒鳴って腕を引っぺがし、デカいゴミを放り捨てるようにしてガッと強く押しやった。たった一度の、生まれて初めての、酒による無様な失敗のせいでこんな弱みを握られるなんて。
 歩く速度はそのままに、ちらりと隣を窺い見た。すぐに目が合い、サッと逸らす。小さく笑ったのには気づいたが、何も言われないというのもそれはそれで居心地が悪い。
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