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1.その熱を、まだ魔女は知らない

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 こんなはずじゃなかった。
 こんなつもりじゃなかったのに。
 なのに……!










 ギシッとスプリングの軋む音。


 季節は秋。
 秋といえども冬の始まりも目前というこの時期は、森深くに建つこの家の中も外と同じく温度が下がる。寝室は、普段この時間は使っていないから暖房の類は入れておらず、ひやりとした空気に満たされているはずだった。
「はっ……!」
 なのに今、部屋の中には熱気が籠っている。
 リリアンヌの喉からは荒い呼気が漏れ、日の光を好まない白い肌には玉のような汗が浮かんでいる。頭は熱に浮かされたようにぼうっとしており、それとは別に外には吐き出しきれないもどかしさが身体中を巡って彼女を苛む。
 経験したことのない獰猛なまでのその熱量に、彼女は完全に弄ばれていた。


 魔性のものが住まう、空間の捻じれた惑いの森。
 その森の中でも異彩を放つ、“巡りの魔女”・リリアンヌ。


 ――――――――そう、魔女。


 誰からも敬遠され疎まれ恐れられる存在が、魔女だ。
 けれど人々は魔女を異端と弾きながらも、時にその絶大な力に擦り寄らざるを得ない。普段、目を伏せ避けて通りまるで気付かぬフリをしながらも、困ったことがあれば頭を垂れ助力を乞うこととなる。彼女らの機嫌を損ねないように、ヘマをして自分の方が呪われないように、慎重に慎重に、言葉と態度を選びながら。


 魔女とは、恐るべき存在なのである。


 その、魔女が。


「っぁ……」
 良いように弄ばれている。まるで抵抗などできずに、荒々しく盲目的な情熱に押さえ付けられている。
「アンヌ……」
 耳元で口付けるように囁かれた名前は、ぎょっとするほど甘く蕩けていた。頭の中で反響して、まるで何かの毒薬のように彼女の正気を蝕んでいく。
 いつも身に着けている黒衣は既に強引に引き裂かれ、ベッドの下で何の用もなさなくなっていた。服の代わりに男の肌がリリアンヌの肌に触れ、包み込む。


 熱い。
 彼女に触れる男の肌もまた汗ばんでいて、部屋の熱気を強めている。


 その昔、棒切れみたいにガリガリに痩せ細っていた身体は立派に筋肉の付いた精悍なものとなっており、掴めば簡単に折れてしまう小枝みたいだった腕は、リリアンヌの手首を抑え込みビクともしない。むしろ、今やリリアンヌの手首の方が小枝のように細く見えた。


 あの頃の、世界の全てから見放されたような、惨めで可哀想でボロボロの子どもは、もうどこにもいない。


 至近距離で目が合って、リリアンヌは怯んでしまった。
 黒い髪は、あの頃とは違う。リリアンヌの影響で、はしばみ色から彼女と同じ真っ黒な色へ変わってしまったから。
 でも、瞳の色は同じだった。どこまでも澄み渡る、深いサファイアの瞳。よく知っている、それこそ見飽きたくらいの瞳の色。


 でも、違う。
 同じ色のはずなのに、そこに宿る光は今まで一度も目にしたことのないものだった。
 溢れ出る情熱、陶酔の色、酔いそうなほどの色香。それらが複雑に混ざり合って、リリアンヌを捕えて離さない。


 ほんの子どもだと思っていたのに。いや、今でも自分と比べれば実際子どもでしかないのに、でもそこにいるのは確かに一人の男だった。欲情した、男。


 その男が噛み付くように、彼女の喉元に食らい付いた。
「ひっ」
 実際に歯は立てられない。けれど強く強く吸い付かれる。チリッとした痛みに身を強張らせると、横腹を下から上へと撫で上げられ、ぐにゅりと乳房を揉みしだかれた。
「やめ……」
 拒絶の声を上げると、それを咎めるように更に愛撫が激しくなる。
「やめろと、言ってるのが……!」
 それでも怒気を込めて口を開くと、反抗的なその手は頂きを摘み上げ捻ってみせた。
「――――っ!!」
 その刺激に腰が浮く。喉を突いて出かけた嬌声は、気力で抑え込んだ。あられもない声を上げるなど、リリアンヌの山より高い矜持が許さなかった。
「アンヌ、どうして我慢しちゃうの?」
 その、彼女の高い高い矜持をよく知っているはずの男が、白々しくそう訊ねてくる。
「リリアンヌ、ねぇ、その甘い声をオレにちょうだい?」
「ふざ、けるな……! 今ならまだ戯れと許してやる。良いからさっさとどけ……!」
「――――戯れ?」
 リリアンヌが呼吸の合間にそう叫ぶと、男の纏う空気が一変した。
「戯れな訳がないでしょ。アンヌに戯れなんかでこんなこと、できる訳がない」
 そんなことは彼女にだって分かっていた。
 だが、本気なら、なお性質が悪い。



 人がせっかく見逃してやると言っているのに……!



 怒りは、けれど正気を飛ばしかけている男の視線に射抜かれ、声にはならなかった。


「アンヌ、リリアンヌ、オレにはアンヌだけ。アンヌが拾ってくれたあの日から、オレにはアンヌしかいない」


 それはそうだ。
 こんな深い森の中。それも魔性のものがうようよいるような場所で、他に人間などいない。魔女同士は互いの縄張りが被らないように生きるものだから、本当にここにはリリアンヌとこの男しかいなかった。


 でも、それは“今まで”の話だ。
 これからは、違う。別に選ぼうと思えば、男は外の世界を選べる。他の人間をいくらでも選べる。リリアンヌは、それを許可していると言うのに。


「オレはアンヌのものだから。だからちゃんと、オレを所有していて?」
 それなのに何をとち狂ったのか、そんなふざけたセリフを吐いて男は深く深く彼女に口付けた。
「んんっ!」
 舌を絡め取られ、唾液を移され、自分のものと捏ね合わされ飲み込まされる。口腔を肉厚な舌に、もう蹂躙されていないところなどないと思えるほど縦横無尽に嬲られた。


 十二年前、森の片隅で気まぐれに拾った子ども。
 死にかけの、捨て子。


「アンヌ、アンヌ」
 拾ったのは、情が生まれたからではなかった。リリアンヌの興をほんの少し引き、そして魔性に対する贄にするのに役に立つかもしれないと、そう思わせたからだった。
 結局今日まで贄に出さなかったのは、特にそこまで切迫した事態が訪れなかったのと、小間使いとしてこき使うのになかなか便利だったというだけで。


 情など、別に湧いていない。況してや、愛など。


 魔女はそんなものを必要としない。
 魔女が必要とするのは、己自身それだけだ。それ以外の持ち物など、要らないのだ。


 なのに。


「アンヌ、オレの魔女。オレは全部全部アンヌのものだ。だから、余すことなく味わって?」



 ――――どうしてこんなことになっているのか、リリアンヌには本当に訳が分かっていなかった。








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