上 下
32 / 36

「1986年 岡崎恭介」act-5 <妻と来た海>

しおりを挟む
それから三日後。有給休暇をとった岡崎は、レンタカーの助手席にユウを乗せ、平日の首都高を千葉方面に向かって走っていた。
“だったら海に連れてってよ” それがユウのリクエストだった。

 三時間ほどのドライブで、九十九里の海岸に着いた。
夏の間混雑していた駐車場には一台の車もなく、放り出されたようにだだっ広いスペースは砂浜のすぐ近くまで突き出していた。
 岡崎がエンジンを切ると、ユウは車から飛び出し、砂浜に向かって歩き出した。その後ろ姿を目で追いながら、岡崎は淡い懐かしさに包まれていた。

この海には別れた妻と一度来たことがある。
あの時も、こんなシーズンオフの寒い時期だった‥離婚する二年ほど前の冬だから、妻は妊娠していたはずだ。

 ふと気付くと、かすかに自分を呼ぶ声がする。波打ち際で、ユウが大きく手招きしていた。岡崎はエンジンキーを抜き、車から降りゆっくりと歩き出した。
渇いた砂の上にユウの足跡が海に向かって真っ直ぐ伸びている。小さな痕跡と同じ歩幅で歩いてみると、妙にその存在が儚く弱々しいものに思えてくる。
 ユウは、少し強い海風になびく髪を気にもせず佇んでいた。岡崎はユウの隣に立ち、そして二人は長い時間無言で海を見つめていた。

 駐車場から少し歩いたところに、岡崎は一軒だけ開いている海の家を見つけた。
 潮で錆び付いたドアを開け声をかけると、奥から赤ん坊を背負った中年の女性が出てきて、二人を座敷へと案内した。
 岡崎とユウは潮の匂いのする畳に上がり、窓際の席に向かい合って座った。
岡崎は焼き蛤を注文し、誰もいないガランとした店内を見回しながら煙草を咥え火を付けた。

テーブルの上にはすぐに卓上コンロがセットされ、かなりの量の蛤が入った銀のボールが置かれた。岡崎はコンロのスイッチをひねると、網の上に菜箸で数個の蛤を並べた。
「もう少しすると貝が口を開ける。そこに醤油をたらして食べるんだ」
 ユウは岡崎の言葉に頷くと、興味深そうに網の上に並んだ貝を見ている。
岡崎は、煙草を灰皿でもみ消しながら言った。
「何で海に来たかったんだい?」
 ユウは網の上に視線を置いたまましばらく考え、そして小さく答えた。
「何か‥ふっ切りたかったのかな」
 岡崎は、彼女の手首に刻まれた薄赤い線を思い出した。
 その時、ジュっという音がして一つの蛤が口を開けた。岡崎が数滴の醤油をたらすと、すぐに香ばしい匂いがたちこめた。
「食べてごらん。熱いから気をつけて」
 湯気を吐く蛤を小皿に乗せ、割り箸を添え手渡すと、ユウはふうふうと息を吹きかけながら蛤を口にした。
「美味しい」
 ユウの率直な反応が何故か可笑しく、岡崎は笑いながら、次々と口を開ける蛤に醤油をたらした。
「だろう?今の時期だからこんなに量があるんだ。夏だったら同じ値段でこの半分かな」
 岡崎の言葉にユウは「じゃあ、今日で良かったね」と言って笑った。
しおりを挟む

処理中です...