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乙の巻 失われた奇書を求めて
弐ノ弐 見つけにくいものですか
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せっかく早起きして、ここまで来たと言うのに。
老人の勝手な物言いに、カチンときた椿珠(ちんじゅ)。
「家を突き止めて、交代で見張るぞ。あの爺さんが明日の朝に家を出たところを突撃してやる。バカにしやがって」
自分の周りにもっと短気な人間、具体的に言うと麗央那(れおな)と翔霏(しょうひ)がいたため、椿珠は今まで世知に長けた年長者として突っ込み役、調整役に回ることが多かった。
しかし根っこの部分では生意気な金持ちのいたずら小僧である。
鷹揚で一期一会が染み付いている軽螢(けいけい)や、純朴で生真面目な想雲(そううん)と違い、他人が嫌がることをするのが、そもそも好きなのだ。
「ヒマなんだなあ、椿珠兄ちゃん」
「うるせえ。舐められっぱなしで黙ってられるか」
軽螢がジト目で突っ込んだが、椿珠の頭は冷えなかった。
そのまま老人の行く先を尾行し、家を突き止めた三人とヤギ。
近所にあった廃屋らしき空き家に勝手に侵入して、老人の家を窺う。
それはいいとして、椿珠は床に飲食物を広げ、酒盛りを始めてしまった。
「しばらく河旭(かきょく)ともお別れだからな。都の美味いモンをたらふく食い溜めしておかねえと」
「椿珠さんは、毎日楽しそうですね」
皮肉でもなんでもなく、想雲は素直な感想としてそう述べた。
「なんだそりゃ、どういう意味だ」
「いえ、他意はありません……」
好きなことを、思いついたときに好きにできるというのが自由の本質であるならば、椿珠以上に自由な人間はそうそういない。
軽螢や想雲は若いながらもこの先の運命、やるべきことが半ば決まっているような立場である。
神台邑(じんだいむら)の復興であったり、司午家(しごけ)の栄誉を一層高めるため、立派な人間になることであったり、と。
なにものでもないという椿珠の属性は、想雲の価値感からすると奇妙ですらあるが、同時にそれを羨ましいと思う気持ちもあった。
もちろん想雲は、なにものにもなり切れないという椿珠の心底にあるコンプレックスを知らないのだが。
「爺ちゃんの家、もう灯りが消えたぜ。さすがに寝るの早いな」
「メエ……」
気まぐれに窓の外を見ていた軽螢が、ヤギの毛玉を取りながら報告した。
ヤギは気持ちよさそうに船を漕いでいる。
時間的には夕食後と言った具合であり、用がなければ寝ていてもおかしくはない。
「あのジジイ、明日もクソみたいに早い時間に出発するつもりだな」
椿珠は徹夜を決意し、自分で見張るために窓側に移る。
軽螢は椿珠の食べ散らかした酒の肴をもぐもぐとつまみつつ。
「坊ちゃんは酒は飲まないンか?」
ひょうたんの口を、想雲に差し向けた。
「十六になるまでは、父に止められています。あと、坊ちゃんと呼ぶのはやめてください」
「親の言いなりで酒の一つも飲めないなら、まだまだ坊ちゃんじゃんか」
アルハラとパワハラの合わせ技のような軽螢の発言。
「ぐぬぬ」
挑発され、文字通りに歯噛みし唸った想雲は、キッと決意した顔で自分の荷物袋から陶器の杯を取り出す。
「分かりました、そこまで言うなら杯(さかずき)、お受けいたします」
「そう来なくっちゃ。飲んでみて合わねえなら、やめりゃいいんだよ。それは親じゃなくて自分で決めるこったからな」
なにげに含蓄のあるようなことを言い、笑って軽螢は想雲の杯になみなみと酒を注ぐ。
果物、水菓子のような爽やかな香りが漂った。
意外と抵抗なく飲めるかもしれない、と少し安心した想雲。
こくりと一口、含んで味わいかたもわからないままに飲み下した。
「うっ?」
多少、喉の奥に跳ね返るような感触があるが、なんとか胃には収まった。
ふわあ、と心なしか胸から顔まで火照るような気がした。
「お、美味しいですね……」
未知の体験に想雲は目を輝かせた。
壁際に座ってその様子を横目で見ていた椿珠が口を挟む。
「この俺が不味い酒なんざ飲むわけがねえだろう」
「飲み食いするモンのことにかけて、椿珠兄ちゃんに間違いはねえよ」
軽螢も素直にそれを認め、称賛する。
環(かん)兄妹の嗅覚、聴覚、味覚は恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。
妹の玉楊(ぎょくよう)と違って盲人でない椿珠も、常人の比較にならないほどそれらの感覚器官が鋭いのだ。
おそらくは先天的な長所が、高い文化資本を誇る富豪の家庭に育ったことで、更に伸ばされたのだろう。
並べられている酒のつまみも、想雲が今まで食べたこともないような、複雑で独特な味わいである。
それらすべてが不愉快ではなく、新鮮な驚きと楽しさを伴って喉の奥へと自然に入って行くのだ。
「世の美味しいものは、角州(かくしゅう)の海の幸だけではないのですね」
正直、食べ物に関して想雲は、自身の故郷に自惚れる気持ちがあった。
八州のどこよりも新鮮で多彩な海産物を楽しめるのが角州で、天下の美味は角州から全土に出荷されていると思っていたからだ。
しかし、山には山の、里には里の、皇都には皇都の美味がある。
河旭で学んだことは多々あるが、今日の晩餐も想雲にとってかけがえのない経験値になったに違いない。
「お酒というのは、食べ物に合わせるとこんなに美味しいんですか」
かぱかぱっと二杯目三杯目を立て続けに呷り、想雲は銀杏やワサビなど、今まで苦手だった強い香りの山の幸を口に放り込む。
「なんだ、行けるクチじゃんかよ。もう坊ちゃんなんて呼べねえな」
機嫌を良くした軽螢が、想雲の杯に連続して酌をした。
「どうもどうも。いやあ、本当に美味しい。こんな美味しいものを禁じていたなんて、父を恨みそうです」
若者らしい食欲で酒肴をどんどんと、胃の中に放り込む想雲であったが。
「……」
宴が深まったとき、不意に無口になった。
「どした? 具合悪いんか? 吐きに行くか?」
心配して傍らに寄った軽螢。
その肩にガッと腕を回し、想雲は据わった眼の顔を近付けて、凄んで言った。
「おいおい、軽螢の兄さんよお」
「え」
「いったいぜんたい、てめえはいつもナメクジみてえにのらりくらりとしやがってよお。てめえの好きなもん、嫌いなもんってえのが、きっちりあるのかよぉ?」
想雲は、酔っていた。
もちろん飲ませれば酔うのは道理であり、煽って飲ませたのは軽螢である。
椿珠は助け舟を出すこともなく、にやけながら様子を見ることにした。
想雲を酔わせた責任を取るべきは、軽螢なのだ。
「そ、そりゃあ、好き嫌いくらいは、俺にだってあるよ、普通に」
理屈もへったくれもない酔っ払いに、軽螢はびくびくして対応する。
「じゃあてめえはいったいぜんたい、なんの花が好きなんだよぉ!?」
想雲の、独特な酔い方。
それは、ただ酔っているのではなく。
「あちゃあ、酒乱か」
楽しげに傍観している椿珠が、的確な言葉で示した。
そう、酒が入ると、想雲は人が変わるのだった。
ひょっとすると、父の玄霧(げんむ)はこれを心配して、想雲に飲酒を禁じていたのかもしれない。
それは親である玄霧もまた、酒乱の可能性があるということだ。
「は、花?」
グイグイと迫られて、若干怯えるような情けない顔になった軽螢が、質問の意味を問い返す。
両者の体格に差はほとんどないが、酔ってタガが外れている分、想雲の方がこの状況では有利であるのかもしれなかった。
「おうよ、春や夏に咲き誇る、あの花だよぉ。てめえの好きな花はなんだって、聞いてんじゃねえか」
さすがに高名な武家の子弟だけはある。
酔ってクダを巻く内容にもどこか風流な品があるなと、椿珠は他人事のように感心した。
「も、桃の花が好きかな」
軽螢がやっとの思いで口にした、その回答。
不満でもあるのか、廃屋の床にぺっと唾を吐き飛ばして、想雲は言い捨てる。
「ちぇっ、だからてめえはよお」
そして、ヤギの背を枕にするように、コテンと倒れた。
酔いが極限まで回り、気を失ったのだろう。
投げっぱなしの置き去りにされた軽螢は、ほぼ半泣きの状態で弱音を吐いた。
「もう、こいつに酒は飲まさんどこ……」
麗央那も面倒臭い酔っ払い方をするが、想雲も別方向で、厄介な酒癖であった。
軽螢は想雲から離れて部屋の端っこに陣取り。
「なんだよ、桃が好きじゃ悪いのかよぅ」
泣き言をブツブツ漏らしながら、いつの間にか寝息を立てた。
「ブゴッ、ブゴゴッ」
ヤギの寝言なのかイビキなのか分からない声をBGMにして、椿珠は窓の外を眺め続けた。
こんなバカバカしいことに時間と手間を費やして、いったい、なにになるのだろうか。
物心ついたときから、この歳になるまでずっと。
椿珠の心を苛み続けるその絶望の囁きが、今夜も途切れることはなかった。
北方で死に損ねた椿珠は、まだ自分自身を、強く確立できていなかったのである。
「お、爺さんが起きたみたいだぞ」
夜が明けるか明けないかという頃合い。
老人の家の窓にかけられていた簾(すだれ)が除けられるのを、椿珠は確認した。
椿珠が軽螢と想雲の肩を軽く揺すり、知らせる。
むにゃむにゃと半覚醒の若者二人は目をこすり、外の様子を見る。
「婆さんと二人暮らしなんかな」
この中で最も視力の良い軽螢が、開け放たれた窓の奥に老婆もいることを知らせた。
家の規模から見て使用人ということもなさそうだから、夫婦なのだろう。
「この際どうでもいい。爺さんが家を出るのを、扉の前で待ち構えるぞ。仰天する顔が見ものだぜ」
徹夜で若干のハイテンションになっている椿珠が、作戦とも言えぬ方針を告げる。
こんな益体もないことに、これだけ熱中できる大人がいるのか。
横にいた想雲は呆れと驚きの混じる気持ちで付き従った。
もちろん、夜に自分が乱れた記憶などまるっきり消え失せている。
軽螢が自分と目を合わさないのを不思議に思いながら、想雲は廃屋から外へ出た。
「うわあ! なんじゃお前ら、いつからそこにおった!」
扉の外で待っていた三人を見て、家から出て来た老爺は腰を抜かした。
「おかげさまでヒマなもんでな。さ、秘められた書だかなんだかのことを、教えてもらおうじゃねえか」
「にしても、限度ってもんがあるじゃろう……わざわざワシを尾(つ)けて来たんか……」
根負けして諦めたのか。
老人は椿珠たちを家に招き入れた。
「婆さん、すまんがお茶を用意してくれるかのう」
「あらあら、お出かけはどうしたんです?」
「それがな、約束してた相手が、わざわざ家まで来てくれたんじゃ」
「まあ、よういらしてくれましたねえ」
部屋の中は綺麗に片付いており、この老夫婦が慎ましくも健やかに幸せに、ここで暮らしている雰囲気が伝わって来た。
「ぞろぞろと、約束もなくお邪魔してすまんね、お婆さん」
椿珠は、少しだけ。
胸が痛むのを感じるのだった。
老人の勝手な物言いに、カチンときた椿珠(ちんじゅ)。
「家を突き止めて、交代で見張るぞ。あの爺さんが明日の朝に家を出たところを突撃してやる。バカにしやがって」
自分の周りにもっと短気な人間、具体的に言うと麗央那(れおな)と翔霏(しょうひ)がいたため、椿珠は今まで世知に長けた年長者として突っ込み役、調整役に回ることが多かった。
しかし根っこの部分では生意気な金持ちのいたずら小僧である。
鷹揚で一期一会が染み付いている軽螢(けいけい)や、純朴で生真面目な想雲(そううん)と違い、他人が嫌がることをするのが、そもそも好きなのだ。
「ヒマなんだなあ、椿珠兄ちゃん」
「うるせえ。舐められっぱなしで黙ってられるか」
軽螢がジト目で突っ込んだが、椿珠の頭は冷えなかった。
そのまま老人の行く先を尾行し、家を突き止めた三人とヤギ。
近所にあった廃屋らしき空き家に勝手に侵入して、老人の家を窺う。
それはいいとして、椿珠は床に飲食物を広げ、酒盛りを始めてしまった。
「しばらく河旭(かきょく)ともお別れだからな。都の美味いモンをたらふく食い溜めしておかねえと」
「椿珠さんは、毎日楽しそうですね」
皮肉でもなんでもなく、想雲は素直な感想としてそう述べた。
「なんだそりゃ、どういう意味だ」
「いえ、他意はありません……」
好きなことを、思いついたときに好きにできるというのが自由の本質であるならば、椿珠以上に自由な人間はそうそういない。
軽螢や想雲は若いながらもこの先の運命、やるべきことが半ば決まっているような立場である。
神台邑(じんだいむら)の復興であったり、司午家(しごけ)の栄誉を一層高めるため、立派な人間になることであったり、と。
なにものでもないという椿珠の属性は、想雲の価値感からすると奇妙ですらあるが、同時にそれを羨ましいと思う気持ちもあった。
もちろん想雲は、なにものにもなり切れないという椿珠の心底にあるコンプレックスを知らないのだが。
「爺ちゃんの家、もう灯りが消えたぜ。さすがに寝るの早いな」
「メエ……」
気まぐれに窓の外を見ていた軽螢が、ヤギの毛玉を取りながら報告した。
ヤギは気持ちよさそうに船を漕いでいる。
時間的には夕食後と言った具合であり、用がなければ寝ていてもおかしくはない。
「あのジジイ、明日もクソみたいに早い時間に出発するつもりだな」
椿珠は徹夜を決意し、自分で見張るために窓側に移る。
軽螢は椿珠の食べ散らかした酒の肴をもぐもぐとつまみつつ。
「坊ちゃんは酒は飲まないンか?」
ひょうたんの口を、想雲に差し向けた。
「十六になるまでは、父に止められています。あと、坊ちゃんと呼ぶのはやめてください」
「親の言いなりで酒の一つも飲めないなら、まだまだ坊ちゃんじゃんか」
アルハラとパワハラの合わせ技のような軽螢の発言。
「ぐぬぬ」
挑発され、文字通りに歯噛みし唸った想雲は、キッと決意した顔で自分の荷物袋から陶器の杯を取り出す。
「分かりました、そこまで言うなら杯(さかずき)、お受けいたします」
「そう来なくっちゃ。飲んでみて合わねえなら、やめりゃいいんだよ。それは親じゃなくて自分で決めるこったからな」
なにげに含蓄のあるようなことを言い、笑って軽螢は想雲の杯になみなみと酒を注ぐ。
果物、水菓子のような爽やかな香りが漂った。
意外と抵抗なく飲めるかもしれない、と少し安心した想雲。
こくりと一口、含んで味わいかたもわからないままに飲み下した。
「うっ?」
多少、喉の奥に跳ね返るような感触があるが、なんとか胃には収まった。
ふわあ、と心なしか胸から顔まで火照るような気がした。
「お、美味しいですね……」
未知の体験に想雲は目を輝かせた。
壁際に座ってその様子を横目で見ていた椿珠が口を挟む。
「この俺が不味い酒なんざ飲むわけがねえだろう」
「飲み食いするモンのことにかけて、椿珠兄ちゃんに間違いはねえよ」
軽螢も素直にそれを認め、称賛する。
環(かん)兄妹の嗅覚、聴覚、味覚は恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。
妹の玉楊(ぎょくよう)と違って盲人でない椿珠も、常人の比較にならないほどそれらの感覚器官が鋭いのだ。
おそらくは先天的な長所が、高い文化資本を誇る富豪の家庭に育ったことで、更に伸ばされたのだろう。
並べられている酒のつまみも、想雲が今まで食べたこともないような、複雑で独特な味わいである。
それらすべてが不愉快ではなく、新鮮な驚きと楽しさを伴って喉の奥へと自然に入って行くのだ。
「世の美味しいものは、角州(かくしゅう)の海の幸だけではないのですね」
正直、食べ物に関して想雲は、自身の故郷に自惚れる気持ちがあった。
八州のどこよりも新鮮で多彩な海産物を楽しめるのが角州で、天下の美味は角州から全土に出荷されていると思っていたからだ。
しかし、山には山の、里には里の、皇都には皇都の美味がある。
河旭で学んだことは多々あるが、今日の晩餐も想雲にとってかけがえのない経験値になったに違いない。
「お酒というのは、食べ物に合わせるとこんなに美味しいんですか」
かぱかぱっと二杯目三杯目を立て続けに呷り、想雲は銀杏やワサビなど、今まで苦手だった強い香りの山の幸を口に放り込む。
「なんだ、行けるクチじゃんかよ。もう坊ちゃんなんて呼べねえな」
機嫌を良くした軽螢が、想雲の杯に連続して酌をした。
「どうもどうも。いやあ、本当に美味しい。こんな美味しいものを禁じていたなんて、父を恨みそうです」
若者らしい食欲で酒肴をどんどんと、胃の中に放り込む想雲であったが。
「……」
宴が深まったとき、不意に無口になった。
「どした? 具合悪いんか? 吐きに行くか?」
心配して傍らに寄った軽螢。
その肩にガッと腕を回し、想雲は据わった眼の顔を近付けて、凄んで言った。
「おいおい、軽螢の兄さんよお」
「え」
「いったいぜんたい、てめえはいつもナメクジみてえにのらりくらりとしやがってよお。てめえの好きなもん、嫌いなもんってえのが、きっちりあるのかよぉ?」
想雲は、酔っていた。
もちろん飲ませれば酔うのは道理であり、煽って飲ませたのは軽螢である。
椿珠は助け舟を出すこともなく、にやけながら様子を見ることにした。
想雲を酔わせた責任を取るべきは、軽螢なのだ。
「そ、そりゃあ、好き嫌いくらいは、俺にだってあるよ、普通に」
理屈もへったくれもない酔っ払いに、軽螢はびくびくして対応する。
「じゃあてめえはいったいぜんたい、なんの花が好きなんだよぉ!?」
想雲の、独特な酔い方。
それは、ただ酔っているのではなく。
「あちゃあ、酒乱か」
楽しげに傍観している椿珠が、的確な言葉で示した。
そう、酒が入ると、想雲は人が変わるのだった。
ひょっとすると、父の玄霧(げんむ)はこれを心配して、想雲に飲酒を禁じていたのかもしれない。
それは親である玄霧もまた、酒乱の可能性があるということだ。
「は、花?」
グイグイと迫られて、若干怯えるような情けない顔になった軽螢が、質問の意味を問い返す。
両者の体格に差はほとんどないが、酔ってタガが外れている分、想雲の方がこの状況では有利であるのかもしれなかった。
「おうよ、春や夏に咲き誇る、あの花だよぉ。てめえの好きな花はなんだって、聞いてんじゃねえか」
さすがに高名な武家の子弟だけはある。
酔ってクダを巻く内容にもどこか風流な品があるなと、椿珠は他人事のように感心した。
「も、桃の花が好きかな」
軽螢がやっとの思いで口にした、その回答。
不満でもあるのか、廃屋の床にぺっと唾を吐き飛ばして、想雲は言い捨てる。
「ちぇっ、だからてめえはよお」
そして、ヤギの背を枕にするように、コテンと倒れた。
酔いが極限まで回り、気を失ったのだろう。
投げっぱなしの置き去りにされた軽螢は、ほぼ半泣きの状態で弱音を吐いた。
「もう、こいつに酒は飲まさんどこ……」
麗央那も面倒臭い酔っ払い方をするが、想雲も別方向で、厄介な酒癖であった。
軽螢は想雲から離れて部屋の端っこに陣取り。
「なんだよ、桃が好きじゃ悪いのかよぅ」
泣き言をブツブツ漏らしながら、いつの間にか寝息を立てた。
「ブゴッ、ブゴゴッ」
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物心ついたときから、この歳になるまでずっと。
椿珠の心を苛み続けるその絶望の囁きが、今夜も途切れることはなかった。
北方で死に損ねた椿珠は、まだ自分自身を、強く確立できていなかったのである。
「お、爺さんが起きたみたいだぞ」
夜が明けるか明けないかという頃合い。
老人の家の窓にかけられていた簾(すだれ)が除けられるのを、椿珠は確認した。
椿珠が軽螢と想雲の肩を軽く揺すり、知らせる。
むにゃむにゃと半覚醒の若者二人は目をこすり、外の様子を見る。
「婆さんと二人暮らしなんかな」
この中で最も視力の良い軽螢が、開け放たれた窓の奥に老婆もいることを知らせた。
家の規模から見て使用人ということもなさそうだから、夫婦なのだろう。
「この際どうでもいい。爺さんが家を出るのを、扉の前で待ち構えるぞ。仰天する顔が見ものだぜ」
徹夜で若干のハイテンションになっている椿珠が、作戦とも言えぬ方針を告げる。
こんな益体もないことに、これだけ熱中できる大人がいるのか。
横にいた想雲は呆れと驚きの混じる気持ちで付き従った。
もちろん、夜に自分が乱れた記憶などまるっきり消え失せている。
軽螢が自分と目を合わさないのを不思議に思いながら、想雲は廃屋から外へ出た。
「うわあ! なんじゃお前ら、いつからそこにおった!」
扉の外で待っていた三人を見て、家から出て来た老爺は腰を抜かした。
「おかげさまでヒマなもんでな。さ、秘められた書だかなんだかのことを、教えてもらおうじゃねえか」
「にしても、限度ってもんがあるじゃろう……わざわざワシを尾(つ)けて来たんか……」
根負けして諦めたのか。
老人は椿珠たちを家に招き入れた。
「婆さん、すまんがお茶を用意してくれるかのう」
「あらあら、お出かけはどうしたんです?」
「それがな、約束してた相手が、わざわざ家まで来てくれたんじゃ」
「まあ、よういらしてくれましたねえ」
部屋の中は綺麗に片付いており、この老夫婦が慎ましくも健やかに幸せに、ここで暮らしている雰囲気が伝わって来た。
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