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番外編

3 氷の城の夢を見た

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「この国はの隣だったな」とカノンが呟いた。かの国とは言うまでもなく、私が氷漬けにして滅ぼした国であり、全ての元凶の国である。

 かの国に同情する声はほとんどない。そもそも、魔族そのものが人間よりも力の強い種族であるのだから、団結さえしてしまえば人間が敵う道理はない。
 そんな魔族をまとめ上げ、さらには人間に敵対せぬよう牽制していたカノンに手を出したのだ。全ては眠れる獅子を叩き起こしたかの国の自業自得。
 かの国の王都は今でも氷漬けになっているという。けれど誰もその氷を溶かそうとする者はいない。魔族を刺激したくないのだろう。
 いわば、かの国は見せしめである。友好的に接するのであれば、我ら魔族が人間に害を及ぼすことは決してない。けれど、我らに牙を剥くのならば話は別だ。それを何より雄弁に物語っているのが氷の城である。

「ええ……ですが、それが何か」
「今から見に行こう」

 カノンの言葉の意味を測りかねて私は黙った。今はこの国で何日か滞在し、次の国へ移ろうとしているところなのだが、わざわざ行く理由が分からない。
 ちなみにこの国の人間は皆とても友好的で、貿易や交流などに関する条約を締結したのち、改めて同盟を結んだ。「ただの旅行のつもりだったのにな」とカノンは苦笑していたが、その実満足げでもあった。
 怪訝な顔をしている私に気づいたのか、カノンはこう答えた。

「私にはヒューイのしたことをきちんと知る責任がある」
「……申し訳ありません」
「いや、責めるつもりはない。お前の、そして魔族たちの気持ちはよく理解しているし、仕方がなかったのも分かっている。だが、かの国の無辜の民には責任がないのも確かだ。戦争とはそういうものだがな。だからせめて……私が全て理解して背負わねばならん」

 強い、と私は思った。傷ついた民の気持ちに寄り添い可哀想だと嘆くだけなら誰でもできる。けれど、見たくないものを直視し、それを理解し背負うことはなかなかできることではない。
 もちろん、もともと敵国であった国の民に寄り添うことができるほどの優しさ、慈悲深さは言うまでもない。カノンがあまりにも素晴らしい人物だから、時々自分のことが嫌になる。
 私は「かしこまりました」と頷いた。







「そうか、ここが……」

 カノンはそう囁くと、言葉を失った。
 眼前に広がるのは、全てが凍り命という命が生き絶えた死の街。多くの人間たちが驚き、逃げ出そうとしている格好でそのまま凍りついている。
 きっとこの頃に戻ることができたとしても、私は同じことをするだろう。かの国を許せるはずがない。
 けれど、ああ、冷静になった頭でこの街を見ると、自分が何をしたのかよく分かる。何も、王都の民を巻き込むことはなかったのでは、とも思えてくる。

 カノンは黙ったまま、一歩一歩足を運んでいく。
 私は後悔するつもりは全くない。けれど、忘れてはならないと思う。自分がこの国に何をしたのかは。

「……私のせいだと、私が悪いのだとそう言うつもりはない。私を慕う魔族たちの気持ちを踏みにじってはならないからな」

 カノンは、拳を固く握る。そして、絞り出すように吐いた。

「だが、ああ……私は一体どうすればよかったのだろうな。かの国を許さず、早いうちに手を打っていた方がむしろよかったのか。いや、私が勇者という存在に興味を持たず、あの人と話さずにさっさと殺してしまうのが最善だったのだろう」
「カノン、それは……」
「私とて、多くの人間を殺してきた。逆らう同胞をも殺した。犠牲がなくては守れぬ平和もある。だが……できればもう二度と、このようなことは起こしたくないな」

 悲しそうに顔を歪めたのが、カノンの本心だろう。平和を愛するカノンがこのようなことを好まぬことくらい、考えずとも分かるはずだった。
 私は唇を噛むと同時に、よかったとも思った。カノンが目覚めるのがもう少し遅ければ、私は復讐に囚われ、確実に人間そのものを虐殺していた。
 全ての人間を殺し尽くした後にカノンが目覚めていたら、一体カノンはどういう反応をしていただろう。それは考えたくもない。

 カノンはさらに足を進めながら、私に言った。

「ヒューイ。私はもう二度と、誰にも負けぬと誓おう。そして全ての魔族は私が必ず守る。だからお前はもう、人間に敵対しないと誓ってくれないか」
「……人間があなたに害を及ぼさぬ限り、必ずや敵対しないと誓いましょう」

 カノンは安堵したように頷き、こう囁いた。

「殺してしまった命が戻ることはない。ならばせめて、安らかな眠りを」

 そうしてカノンはしばらく目を瞑ると、不意に指を弾いた。瞬間、視界に映る全ての人間の氷像が粉々に砕ける。

「氷漬けになり魂がそこに留まったままでは、安らかに眠ることも叶わぬだろう。とりあえず、王都の民の氷は皆砕いた」

 相変わらず、恐ろしいほどの魔法の精度だ。カノンは全ての氷ではなく、を砕いた。それも恐らく、視界には入らない者も全て。
 カノンはその後「城へ行くか」と呟いて転移魔法を使った。私はそれに追従し、カノンに少し遅れて王城に降り立った。

 カノンはただ黙って王城の中へ足を踏み入れ、静かに進んでいった。氷像と化した侍女や下級官吏、雑兵たちを砕きながら。
 やがて辿り着いたのは、元は権力者だった者たちが転がる謁見の間だった。そこにいる王や聖職者などの顔を見ていると、あの時の筆舌に尽くしがたい絶望がまざまざと蘇る。
 カノンは口を開かずにその氷像を見つめると、私にぽつりと問いかけてきた。

「ヒューイ。お前はどうしたい?」
「どうしたい、とは……」
「この者たちの氷を砕きたいか、それともこのまま晒しておきたいか、どちらだ」

 戸惑ってカノンの顔を見るが、カノンはこちらをまっすぐと見据えるだけ。私は戸惑いつつも恐る恐る言った。

「私の……個人的な思いとしては、このまま晒しておきたいです。この者たちがいなければ、あなたが傷つけられることもなく、また私も含めた魔族皆があのような絶望の底に叩き落とされることはありませんでした。到底許すことはできません。ですが……カノンが氷を砕きたいというのなら、それもまた良いかと」

 カノンは、そうか、と呟いて少し考えに耽った。それからややあって、静かに言葉を紡ぎ始めた。

「そうだな……私は、恐らく、とんでもなく甘いのだろうな。この国の人間たちを許せないとは思わないし、私の存在が教義とぶつかってしまったのだと考えれば、勇者を送り込んできたことも仕方ないと言えるのだろう。私は、本当に悪いのはあの人だけだと思っている。
 だが同時に、私は魔族の――そしてお前のことが何よりも大切だ。かつてのその苦しみ、絶望をむげに扱いたくはない。だから、お前がそうしたいというのならそうしよう」
「ですが、カノン――」
「良い。それに見せしめが必要なのもよく分かっている。今生きている人間たちが魔族に手を出すことはなくとも、二代先、三代先ともなればそれも確かとはいえん。だがそういったときに分かりやすい見せしめがあれば、不必要な悲しみを生むことはなくなるだろう」

 しばらく氷像らに黙祷を捧げたカノンは、戻ろう、と私に手を差し出す。私は頷いて、その手を取った。








 ――カノンは、私の全てだった。

「カノン、もうすぐ春が訪れそうですよ。ほら、あなたのお好きな桜の蕾が膨らみ始めています」
「カノン様、もう桜が満開ですよ。薄紅の花弁が雨のように舞い散っています」
「カノン様、桜ももう散ってしまいましたよ。……来年は、また共に見られるでしょうか」

「カノン様、もう夏が訪れてしまいました。あなたは夏の空がお好きですよね。ほら、あなたのお好きな青空がとても綺麗です」
「カノン様、そろそろ夏が終わってしまいそうですよ。……いつか、共に海に行こうと交わした約束、覚えてらっしゃいますか」

「カノン様、もう秋になりました。あなたはとても繊細な感性をしてらっしゃるから、ずっと昔、秋に葉が散るのが何だか物悲しいと仰っていましたね。今でもよく覚えています」

「カノン様、もうすっかり冷え込んできて、冬が訪れそうです。お体は冷えませんか。大丈夫ですか」
「カノン様、今日は雪が降っていますよ。子供のようだからと隠そうとなさっていましたが、あなたは雪がお好きですよね」

「カノン様、もうすぐ一年が終わってしまいますよ。……いつになったら、また、あなたのお声を聞けるのでしょうか」

「カノン様」
「カノン様……」
「……」
「……寂しい」
「……寂しくて、気が狂いそうです」
「私が狂ってしまう前に、早く、お目覚めになってください」
「愛しています、カノン様」
「この世で何よりも、愛しています」
「一度でいいから、また、あなたのお声をお聞かせください」
「……一度で、いいから……」

 眠りにつくたびに、明日は何事もなかったかのように目覚めているのではと期待しては、ぴくりとも動かないカノンの姿にまた絶望して、それでも淡い期待を抱いて隣で眠りについて――そんな日々を、もう数え切れないほどに繰り返した。
 多くは望まない。もう一度だけでいいから、私はただ、カノンの低く甘い声で「ヒューイ」と呼んで欲しいだけなのだ。ただそれだけでいい。
 けれどもしもカノンがこのまま目覚めなくても、私は最期の日までカノンの隣に寄り添い、何かを語り続けるだろう。その姿が容易に想像できた。


「――カノン様、あなたの敵は私が皆殺しにします。大丈夫です。もうすぐあなたに害をなす人間はこの世から皆いなくなります」

 私は、元はかの国の中心部であった氷の城の真ん中に立ちながら、そう呟いた。
 カノンのいない世界に心が折れそうになったとき、もう死んでしまいたいと願ったとき、私はこの氷の城を訪れる。そうしてあのときの怒りを思い出し、カノンに仇なす者を全て殺さなくてはならないと思い直す。
 そうでもしないと、生きていられなくて。恨みに身を焦がし絶望を糧にしなければ、とてもではないがカノンのいない世界に耐えられないのだ。
 きっと、カノンの敵を皆殺しにした頃に、カノンは目覚めてくれるから。何の根拠もないのに、私はいつしかそう思いこむようになっていた。

「だから、カノン様――」

 ――早く、お目覚めになってください。
 また昔のように微笑んで、ヒューイと甘く私の名を呼んで、愛してるとからかうように囁いてほしい。あなたさえいれば、あなたの瞳にもう一度私を映してさえくれるのなら、他に何もいらないから。
 このままでは、私の心は冷え切ってしまう。カノンのいない寂しさと絶望は、この氷の城のように、私の感情の何もかもを凍らせてしまう。
 だから、お願いだから、早く――



 遠くで、私の名を呼んでいるあなたの声が聞こえる。何よりも愛しいその響きが。私はしばらくその響きに身を委ねていたけれど、はたと気づいて目を開いた。

「――よかった。ヒューイ、大丈夫か? 随分とうなされながら泣いていたが」

 そこには、この世で一番美しい顔があった。その顔は心配げに眉を寄せて、その赤い瞳を案じるように揺らしていた。
 私は呆然としてその顔を見つめ返した。そうしたらややあって、不安げな声がする。

「ヒューイ?」

 私はそろそろとその頰に手を伸ばす。温かい。冷え切っていて命の鼓動を感じないあの体とは違う。生きている。カノンが、私の目の前で、息をしている。
 頰に伸ばした私の手を握り込み、カノンは首を傾げた。

「……どうした?」
「カノン?」
「何だ?」
「本当に、カノン?」
「そうだが、どうした?」
「カノン……よかった、カノン……愛してます……」
「急にどうしたのか分からないが……私もだ」

 宝石にも空にも、何にも喩えられないくらいに美しい瞳が、私だけを映して優しく蕩ける。その温かさに耐え切れなくなって、私は涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。
 カノンは少し困ったように微笑んで、私の頬を拭った。しかしそれでは私の涙が拭い切れないとなると、今度は私を柔く抱きしめて、優しく私の頭を撫でた。

「そんなに泣くな。どうした? 何か怖い夢でも見たか?」

 私は、カノンの肩口に顔を埋めながら頷いた。
 寝起きの頭が働き始め、だんだんと思い出せてくる。そうだ。私は昨日カノンと共に再びあの氷の城を訪れた。それできっと、カノンが昏睡している頃の夢を見てしまったのだ。

「……夢を見ました。あなたが、意識を失って、目覚めない頃の夢を」

 カノンはそれを聞いて「……そうか」と小さく囁いた。それから、私のことを一層強く抱きしめる。まるで、自分はちゃんとここにいるのだと示すように。

「もう、あの頃のような思いはさせないから」
「……はい」
「私は何があっても、お前の隣にあり続けるから」
「……絶対、ですよ」
「ああ。絶対だ」

 カノンは私のことを離して、私の顔を覗き込むと困ったように笑い、それから不意に唇を重ねてきた。

「愛しているよ、ヒューイ。お前がそこまで私のことを思ってくれるのは嬉しいが、お前の泣き顔は見たくない。だから、もう泣き止んでくれないか」

 カノンは私の頰に手を伸ばす。そのまま滑るように私の顎を持ち上げ、再び唇を重ねてきた。今度は深く、蕩けるような接吻だった。
 絡ませあった舌を離し、カノンはまた私の顔を覗き込む。そして今度は、安堵したように笑った。

「よかった、表情が変わった」
「さすがに、こんな接吻をされたら……嫌でも意識が切り替わりますよ……」
「そうか」

 カノンは悪戯っぽい表情になると、ぐっと私の耳元に口を寄せ、甘く囁いた。

「なら、今からするか?」

 その言葉の意味を理解して私が一瞬固まると、カノンは楽しげにからからと笑い出した。そして軽く私の肩を叩くと、「そろそろ起きようか」と言う。
 その言動で、ああいつもの通りからかわれたのだと私は察した。いつもはそのまま流すのだが、今日はそうしたくない気分だった。
 既に立ち上がって着替えようとするカノンの手を強く引き、今まで寝ていたベッドに押し倒す。そして今度は私がカノンの顎を軽く持ち上げ、貪るように唇を重ねた。

「しましょうか、今から」

 私に口内を貪られた後のカノンはとろりと瞳を蕩けさせていて、先ほどまでとは質の違う、期待に満ちた笑みを浮かべた。

「……ああ」

 カノンが期待を多分に含んだ声で答える。私はその声を皮切りに、カノンの肌に手を這わせた。
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