山田の記憶

とある、山田

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第十七章

空洞

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山田は今日も、6時半に起きる。

起きたはずだった。
いや、”起きる”という行為が、何を意味していたのか、曖昧だった。
時間は“6:30”と表示されていたが、それが朝なのか夜なのか、数字としてしか認識できなかった。

(なにかが……剥がれている)

そう思いながら、いつものように顔を洗い、ケトルに水を入れる。
水は、手の中で“重さのある透明”という記号になっていた。温度の感覚も、湿り気も、遠くから眺める映像のようだった。

パンを焼く。
トースターが「ピッ」と音を立てた。けれどその音は、**音というより“衝撃の記号”**のように聞こえた。

コーヒーを口に含む。

(……これは?)

液体。黒。苦味。――のはずだった。

しかし今、口に広がったものは**「味の概念」そのものが抜け落ちた液体**だった。
苦味でも、酸味でもない。むしろ、味があったという“記憶の断片”すら溶けていく。

妻の姿はなかった。
いや、最初から存在していたかどうかも定かではない。靴も、食器も、声も、思い出も、霧のように薄れていく。

着替えた――はずだが、着ている服の色が分からない。
青だったか?白だったか?それとも、”色”という概念が消えているのかもしれない。

(……俺は何色だった?)

玄関を出る。空が広がっている。
けれどそれは空ではなく、”大きな空白”のようだった。青くも白くもない。ただの無。

通勤路に立つ人々は、無言だった。

すれ違う人の顔は、形を保っていない。目も鼻も、歪んだ線と影のようにしか見えなかった。
声がする。話し声――のはずだった。

「グ……ク…ャ……ル……」

(……何?)

文字化けのような音が耳を叩く。意味がつかめない。
音ではあるのに、言葉ではない。会話が、意味のない記号に変わっていた。

山田は歩き続ける。足音が、空間に染み込んでいくような感触だった。
誰も彼を見ない。
何も彼に触れない。

工場に着く。そこにはいつもの設備が並んでいた。

はずだった。

染色機――のような機械。メーターが並ぶ制御盤。だが、すべてが“仮設の模型”のように見える。質量も、存在感も、異様に薄い。

染め上がったはずの布を手に取る。
色がない。
いや、あるのかもしれない。だが、その“色”が思い出せない。

(これは……藍色?カーキ?)

山田は頭を振った。
脳が、抵抗している。崩壊しかけた言語と概念の中で、どうにか「これまでの現実」にしがみつこうとしている。

「……佐藤……さん?」

声をかける。目の前に、誰かが立っていた。
だがその顔は、歪んだパズルのように形を持たなかった。

その“人影”は、ぐにゃりと山田を通り抜けていった。

(俺は、まだ、ここにいる……)

心の中で、誰かにすがるように、言葉を投げる。

(まだ、いる……よな?)

返事はなかった。

昼休み、休憩室に向かったはずだった。
けれどそこは、空間の継ぎ目のように歪み、出口も入口も分からなかった。

山田は、自分の手を見る。
輪郭が曖昧だった。指が5本あるかどうかも、もう判断できなかった。

(これが……終わり、なのか?)

そのとき、どこか遠くで音がした。

“ピ――――――――――――――――”

それは、目覚ましの音だったかもしれない。あるいは、機械の警告音。
いや、「音」すらも意味を失った何かだった。

全てが、沈黙の空洞へと崩れていった。



最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
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