17 / 19
第十七章
空洞
しおりを挟む
山田は今日も、6時半に起きる。
起きたはずだった。
いや、”起きる”という行為が、何を意味していたのか、曖昧だった。
時間は“6:30”と表示されていたが、それが朝なのか夜なのか、数字としてしか認識できなかった。
(なにかが……剥がれている)
そう思いながら、いつものように顔を洗い、ケトルに水を入れる。
水は、手の中で“重さのある透明”という記号になっていた。温度の感覚も、湿り気も、遠くから眺める映像のようだった。
パンを焼く。
トースターが「ピッ」と音を立てた。けれどその音は、**音というより“衝撃の記号”**のように聞こえた。
コーヒーを口に含む。
(……これは?)
液体。黒。苦味。――のはずだった。
しかし今、口に広がったものは**「味の概念」そのものが抜け落ちた液体**だった。
苦味でも、酸味でもない。むしろ、味があったという“記憶の断片”すら溶けていく。
妻の姿はなかった。
いや、最初から存在していたかどうかも定かではない。靴も、食器も、声も、思い出も、霧のように薄れていく。
着替えた――はずだが、着ている服の色が分からない。
青だったか?白だったか?それとも、”色”という概念が消えているのかもしれない。
(……俺は何色だった?)
玄関を出る。空が広がっている。
けれどそれは空ではなく、”大きな空白”のようだった。青くも白くもない。ただの無。
通勤路に立つ人々は、無言だった。
すれ違う人の顔は、形を保っていない。目も鼻も、歪んだ線と影のようにしか見えなかった。
声がする。話し声――のはずだった。
「グ……ク…ャ……ル……」
(……何?)
文字化けのような音が耳を叩く。意味がつかめない。
音ではあるのに、言葉ではない。会話が、意味のない記号に変わっていた。
山田は歩き続ける。足音が、空間に染み込んでいくような感触だった。
誰も彼を見ない。
何も彼に触れない。
工場に着く。そこにはいつもの設備が並んでいた。
はずだった。
染色機――のような機械。メーターが並ぶ制御盤。だが、すべてが“仮設の模型”のように見える。質量も、存在感も、異様に薄い。
染め上がったはずの布を手に取る。
色がない。
いや、あるのかもしれない。だが、その“色”が思い出せない。
(これは……藍色?カーキ?)
山田は頭を振った。
脳が、抵抗している。崩壊しかけた言語と概念の中で、どうにか「これまでの現実」にしがみつこうとしている。
「……佐藤……さん?」
声をかける。目の前に、誰かが立っていた。
だがその顔は、歪んだパズルのように形を持たなかった。
その“人影”は、ぐにゃりと山田を通り抜けていった。
(俺は、まだ、ここにいる……)
心の中で、誰かにすがるように、言葉を投げる。
(まだ、いる……よな?)
返事はなかった。
昼休み、休憩室に向かったはずだった。
けれどそこは、空間の継ぎ目のように歪み、出口も入口も分からなかった。
山田は、自分の手を見る。
輪郭が曖昧だった。指が5本あるかどうかも、もう判断できなかった。
(これが……終わり、なのか?)
そのとき、どこか遠くで音がした。
“ピ――――――――――――――――”
それは、目覚ましの音だったかもしれない。あるいは、機械の警告音。
いや、「音」すらも意味を失った何かだった。
全てが、沈黙の空洞へと崩れていった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
起きたはずだった。
いや、”起きる”という行為が、何を意味していたのか、曖昧だった。
時間は“6:30”と表示されていたが、それが朝なのか夜なのか、数字としてしか認識できなかった。
(なにかが……剥がれている)
そう思いながら、いつものように顔を洗い、ケトルに水を入れる。
水は、手の中で“重さのある透明”という記号になっていた。温度の感覚も、湿り気も、遠くから眺める映像のようだった。
パンを焼く。
トースターが「ピッ」と音を立てた。けれどその音は、**音というより“衝撃の記号”**のように聞こえた。
コーヒーを口に含む。
(……これは?)
液体。黒。苦味。――のはずだった。
しかし今、口に広がったものは**「味の概念」そのものが抜け落ちた液体**だった。
苦味でも、酸味でもない。むしろ、味があったという“記憶の断片”すら溶けていく。
妻の姿はなかった。
いや、最初から存在していたかどうかも定かではない。靴も、食器も、声も、思い出も、霧のように薄れていく。
着替えた――はずだが、着ている服の色が分からない。
青だったか?白だったか?それとも、”色”という概念が消えているのかもしれない。
(……俺は何色だった?)
玄関を出る。空が広がっている。
けれどそれは空ではなく、”大きな空白”のようだった。青くも白くもない。ただの無。
通勤路に立つ人々は、無言だった。
すれ違う人の顔は、形を保っていない。目も鼻も、歪んだ線と影のようにしか見えなかった。
声がする。話し声――のはずだった。
「グ……ク…ャ……ル……」
(……何?)
文字化けのような音が耳を叩く。意味がつかめない。
音ではあるのに、言葉ではない。会話が、意味のない記号に変わっていた。
山田は歩き続ける。足音が、空間に染み込んでいくような感触だった。
誰も彼を見ない。
何も彼に触れない。
工場に着く。そこにはいつもの設備が並んでいた。
はずだった。
染色機――のような機械。メーターが並ぶ制御盤。だが、すべてが“仮設の模型”のように見える。質量も、存在感も、異様に薄い。
染め上がったはずの布を手に取る。
色がない。
いや、あるのかもしれない。だが、その“色”が思い出せない。
(これは……藍色?カーキ?)
山田は頭を振った。
脳が、抵抗している。崩壊しかけた言語と概念の中で、どうにか「これまでの現実」にしがみつこうとしている。
「……佐藤……さん?」
声をかける。目の前に、誰かが立っていた。
だがその顔は、歪んだパズルのように形を持たなかった。
その“人影”は、ぐにゃりと山田を通り抜けていった。
(俺は、まだ、ここにいる……)
心の中で、誰かにすがるように、言葉を投げる。
(まだ、いる……よな?)
返事はなかった。
昼休み、休憩室に向かったはずだった。
けれどそこは、空間の継ぎ目のように歪み、出口も入口も分からなかった。
山田は、自分の手を見る。
輪郭が曖昧だった。指が5本あるかどうかも、もう判断できなかった。
(これが……終わり、なのか?)
そのとき、どこか遠くで音がした。
“ピ――――――――――――――――”
それは、目覚ましの音だったかもしれない。あるいは、機械の警告音。
いや、「音」すらも意味を失った何かだった。
全てが、沈黙の空洞へと崩れていった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
2
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる