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吸血鬼ミレイの憂鬱

終わり

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 湖畔に佇むミレイの姿は、静寂に満ちた夜の中でひときわ孤独だった。湖面に映る彼女の姿は、月の光に浮かび上がる陶磁器のような白い肌と薄っすらと掛かる血、紅の瞳が、彼女の内に秘めた絶望を映し出していた。

 水面に触れる指は震え、その波紋が彼女の心の乱れを表していた。彼女は自らの存在を呪い、自分が持つ力がもたらす孤独と誤解に心を痛めていた。レオナルドを救ったことで、彼にも恐れられるようになったと感じ、その事実が彼女をさらに深い絶望へと押し込んでいた。

「なぜ、私は…」

 彼女の声は湖に吸い込まれ、静かな夜空に消えていった。

 ミレイは自分の姿を湖に映しては、その美しさがかえって彼女の孤独を際立たせると感じていた。吸血鬼としての呪いは、彼女が人として求める暖かい繋がりを常に遮る壁となっていた。

 人間として見てくれたレオナルドの目にも、今や恐怖が映る。それは彼女の心を引き裂き、自分自身への信頼さえも揺るがせた。湖は彼女の孤独な魂を映し続ける唯一の友であり、その深い静けさがミレイの悲痛な気持ちをより一層強調していた。

 月明かりの下、ミレイは自らの運命を嘆きながら、静かに涙を湖に落とした。その涙は、彼女の抱える無限の悲しみを湖に託して、静かに広がっていった。

 ミレイは湖畔に膝を抱え、過去の辛い記憶に思いを馳せた。月光が湖面に揺らめく中、彼女の心は遠く昔へとさまよっていた。

 あの時、彼女には愛する人がいた。共に過ごした日々は、彼女の永遠に続く命の中で最も温かい光だった。しかし、その光は恋人が彼女の秘密を知った瞬間に消えてしまった。

「化け物だ!」

 恋人の叫び声が、今でもミレイの耳に響いていた。彼の目に映る恐怖と怒り、愛していた人が見せた拒絶の表情は、ミレイの心に深い傷を残していた。

 街を去るとき、彼女は一人だった。恋人の言葉は、彼女が避けて通れない運命を再認識させるものだった。彼女の吸血鬼としての本性が、いかに愛する人々を遠ざけるのかを痛感したのだ。

 自らの姿を湖に映しながら、ミレイはその時のことを思い出しては、心を引き裂かれるような痛みを感じていた。愛情が恐怖に変わり、信頼が裏切りに変わる瞬間が彼女の中で何度も繰り返された。

 ひとり湖畔で、ミレイは過去の辛い思い出と向き合い、その絶望の中で自分自身を見つめ直していた。光の中でさえ、彼女は常に影の中にいることを受け入れざるを得なかった。それが彼女の宿命であり、彼女の孤独な戦いだった。

 物陰から、人影が静かに現れた。レオナルドだ。彼は戦いの傷跡を癒やすためではなく、心配からミレイを探しに来ていた。彼女の横顔は月光に浮かび上がり、その涙を見て、彼は静かに近づいた。

 ミレイはレオナルドの姿を認めると、心の奥底から湧き上がる感情を抑えきれずに、彼女の胸の内を打ち明けた。

「私は…化け物よ」

 自分の存在を断罪するように、彼女は自嘲した。「こんな私と一緒にいるべきではないわ。私の側にいることで、あなたも傷つくだけ。会わないで…」

 涙が彼女の頬を伝い落ち、湖面に静かな波紋を作った。レオナルドはその姿を見て、言葉を失った。彼女の痛み、彼女の孤独が痛いほどに伝わってきた。

 彼はゆっくりとミレイの前にしゃがみ、彼女の涙をそっと拭った。

「ミレイ、君は化け物じゃない。君は君だ。そして…僕は君が誰であろうと、君のそばにいたい」

 レオナルドの言葉は、ミレイの心に柔らかく響いた。彼の目には彼女を受け入れる温かさがあった。それでもミレイは自分の運命に苦しみながら、彼に背を向けることを選んだ。彼女は彼の安全と幸福を願い、自分の存在がそれを脅かすと感じていたのだ。

 レオナルドはミレイの涙に心を痛めながら、突然の決意を明かした。

「ならば、僕も吸血鬼にしてくれ。君と同じ運命を歩みたい」

 ミレイはその言葉に衝撃を受けた。彼女の顔には驚きと恐れが浮かんでいた。

「いいえ、それはできないわ。あなたは理解していない。永遠の命がどれほどの重荷か…」

 しかし、レオナルドは揺るがなかった。

「僕はもう決めたんだ。ルイス兄さんには国を捨てると伝えた。王子としての義務より、君と共にいることの方が僕にとっては大切なんだ」

 ミレイは苦悩の表情を隠せずにいた。彼女はレオナルドの誠実さと犠牲を知り、彼の決断に深い罪責感を感じていた。彼の提案が愛の行為であることは理解していたが、同時に彼が吸血鬼としての苦悩を共有することになるのを望んでいなかった。

 二人は湖畔で、それぞれの感情と選択の重さに押しつぶされそうになりながら、互いの決意を静かに確かめ合った。レオナルドは彼女を愛するが故に、彼女の世界に入りたいと望んだ。しかし、ミレイは彼を守りたいという一心から、彼の願いを拒絶せざるを得なかったのだった。



 数十年の時が流れ、広場には人々が集まり、英雄と讃えられたレオナルドの葬式が執り行われていた。彼の功績は王国中に伝わり、多くの人々がその死を悼んでいた。

 その光景を、遠くからミレイが静かに見つめていた。彼女の姿は変わらず若々しく、時の流れを感じさせない。しかし、その瞳には深い悲しみと、過ぎ去った時を思い出す哀愁が宿っていた。

 レオナルドが生きていた時代と共に、彼女の心の中にも一つの章が閉じられた。彼女は人々が見せる悲哀を共有しながらも、自らは永遠にその感情を抱え続ける運命にあった。

「さようなら、レオナルド…」ミレイは心の中でささやいた。彼女の声は誰にも届かないが、その言葉には彼への愛と感謝が溢れていた。

 彼女は一人、彼との思い出を胸に、静かにその場を後にした。レオナルドと過ごした時は、彼女の長い命の中で最も輝かしい星座となって、永遠に彼女の夜空を照らし続けるだろう。

 人々の記憶から英雄はいつか色褪せるかもしれない。しかし、ミレイの記憶の中では、レオナルドはいつまでも生き続け、彼女の孤独な永遠の旅の中で、唯一無二の存在として輝き続けるのだった。
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