世界の死骸に立っている

丹羽邦記

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世界の死骸に立っている

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 西暦はたぶん、2056年。日にちは不明。
 世界の崩壊から、すでに10年が経ったらしい。
 17年前、16歳だった頃に病を患ったぼくは、未来の医療技術に望みを委ね、20年間の眠りについた――はずだった。どうやら、病院の非常電源が尽きたようだ。
 例えるなら、目覚まし時計よりも、ずいぶんと早く起きてしまった時の感覚。
 それなのに。
 とっくに目覚めているはずなのに。
 未だ、長くて永い、とびきりの悪夢を見ているようだ。
 お父さんも、お母さんも。
 妹も、お爺ちゃんも。
 友達も、先生も――みんな、死んだ。
 何しろ眠っていたのだから、10年前になにが起こり、なぜ人々が死んだのか、ぼくには微塵も解らない。けれど、だからって、知ろうとも思わなかった。コンピューターの類が使えなくなっていたせいもあったけど、それ以上に、ぼくにはやることがあった。
 死なないこと。生き残ること。
 もちろん、健常だったはずの世界が死んだ理由も、本来死ぬはずだったぼくが生きている理由も、知りたくてたまらなかったのだけれど。
 本能が、生存を優先した。
 それから半年以上。だからこうして、この幼く小さな少女――ユウという、その名前以外に何も知らない謎の少女と2人、旅をしているのだった。
 廃れた都市を点々としている。
 食料と道具と、いるのかもわからない生き残りを探して。
 遊牧民族のごとく、移動を繰り返している。
 ぼくらに残された、日本の残骸を。世界の亡骸を。
「……お兄ちゃん、水」
「ん? ああ、わかったよ、ユウ」
 小さく袖を引っ張られて、ぼくは我に返る。かつて教会だったらしい建物の窓から覗く碧い海と、そこに沈みゆく朱い太陽に、気がつけば見入っていたらしい。
 ぼくは背負っていたリュックサックを下ろすと、白い肌と青い瞳、それから不揃いなツインテール(ツインテールが不揃いなのは、手先の不器用なぼくのせいだ)が目立つユウに、水の半分入ったペットボトルを手渡した。
「ありがと」
 ユウは自分でフタを開けて口をつけると、両手でペットボトルを持ち上げ喉を鳴らした。
「……さて」
 ぼくは小さく折りたたまれていた地図を開き、現在地と、次の目的地である都市の位置関係を確認する。ぼくがまだ普通の生活を送っていた頃は、いつも携帯していた小型の電子機器に搭載されたナビゲーション機能のおかげで、道に迷うことなんてほとんどなかったのだけれど。
 建物は風化し、草木は生い茂り――地図の作られた当時とは地形もずいぶん変わっているから、こうして頻繁にルートを確認したところで、間違えることは多い。伊能忠敬よろしく、ぼくが現在の日本地図を描いてもいいのだが、描き上がる頃にはきっと、地形はさらに変わっていることだろう。
 それに、ぼくが地図を作ったところで、それで喜ぶのはぼくたちだけだ。
「お兄ちゃん、おなかへった」
 また、ユウがぼくの袖を引っ張る。
 ぼくは起き上がると、ぐっと伸びをした。
「よし、じゃあ夕飯にしようか」
「うん」
「けどその前に、火を起こさなきゃだ。薪集め、手伝ってくれるか?」
 ぼくが手を伸ばすと、ユウは頷き、ぼくの手のひらをぎゅっと握った。
 建物を出てそばにある森へ入ると、薪を集めつつ、食べられそうなものを探す。一通りの散策を終えると、建物に戻って薪に火をつけ、それから夕食の準備に取りかかった。
 その頃にはすっかり、世界は夜になっていた。
 夕食――とは言っても、浅瀬で獲れた貝なんかを水と塩だけで煮たものと、粉っぽくて美味しくない乾パン数個、それから森で見つけた果実をつまむくらいの、とても貧相なものだけれど――ひとまず、栄養の摂取を終えた。
 それから。
「……ねむい」
 そう言って目をこするユウを、すこし早いが寝かすつけることにした。「昼間に水浴びさせるのをすっかり忘れていたな」なんて思いつつ、ユウの小さな乳歯を歯ブラシでこすり、固い床に柔らかいマットを敷いて、寝る支度を済ませた。
「いっしょに寝よ」
 と、再度地図を開いたぼくに、ユウは上目づかいに言った。
 いつものように、何度か何かと理由をこじつけてはみたものの、今夜のユウはどうにもしぶとい。こうしているうちにユウの目が冴えて眠れなくなり、明日の旅に支障をきたしてもまずいと、結局はぼくの方が折れることになった。
 先にぼくがマットへ横になり、次にユウがぼくの胸元に丸くなる。上から一緒に毛布を被ると、いわゆる腕枕をしたままの状態で、1分も経たずに寝息をたて出した。
 ぼくは起こさないよう、そのままの状態で待った。
 そしてやがて、右の手に痺れを感じ始めた頃、ぼくは満を持して口を開く。
「なあトモ、起きてるか?」
 ぼくの声に、隣で眠るユウ――否、トモは、むくりと起き上がった。
「……ああ、起きてるさ」
 立ち上がり、ぐっと伸びをしながら、トモは言う。
 姿形はもちろん、声帯も間違いなくユウのものではあるものの、しかし発声の方法や声音なんかは、明確にユウのそれとは異なる――それが彼、トモがユウと同一人物でありながら、同一人格でないことを示していた。
「それなら、起きた時点でそれを教えてくれよ。ユウならいいけど、野郎のお前相手に腕枕だなんて、本当なら一瞬だってしたくないんだ」
 ぼくのため息交じりの言葉に、トモは心底楽しそうに笑う。
「かっはっは、いいじゃねえの。おれとお前の仲じゃねえか」
「どんな仲なんだよ、ぼくたちは」
「親友」
「ほざけ」
 ぼくが吐き捨てると、トモはまた笑った。
「親友が言い過ぎだとしても、ダチであることにゃ変わりねえだろ?」
「友達ですらないと思ってるよ。この際だから言っておくけど、ぼくにとっての君は、ただの友人の兄でしかない。それ以上でもそれ以下でもなく、ね」
「うん、そうさ。そのとおりさ。けど、ユウはお前にとっての大切な存在であるように、おれにとっての大切な存在でもある。つまり、おれたちはユウを介して、固いキズナで結ばれていると言っても過言じゃねえわけさ」
「過言だよ。出過ぎた言葉さ」
 はあ、とため息をこぼすと、ぼくはペットボトルの水を口に含んだ。
 口内を存分に潤わせてから、再び口を開く。
「それで。今夜はずいぶんと早いお出ましな気がするけど、どういうつもりだい? もしかして、ようやくユウのことについて話す気になったとか?」
「いいや、違う。だから何度も言うけど、おれも憶えてねえんだって……なんでユウが生き残ったかも、なんでおれがユウの中にいるのかも」
 そして。
「なんで世界が滅んだのかも、な」
 そう言って、トモは窓の外へ視線を送った。
 ぼくもその隣に立ち、窓の外の景色を眺めた――けれど地上に見えるのは、森の木々の影と、月明かりに揺れる波の動きだけだ。
 かつて見えたはずの煌びやかな光は、どこを探しても見つからない。
 その代わりに、空には黒いキャンバスを埋め尽くさんばかりの星々が瞬いていた。
「……なあ、お前はなぜ生きるんだ?」
 ぼくはトモにそう訊ねる。
「そりゃ、ユウがそう望むからさ。そしておれ自身もそれを望んでる」
 トモはぼくにそう答えた。
「じゃあ、お前はなんで生きてるんだよ」
 今度はトモがぼくに訊ねる。
 すこし考えてから、ぼくは答えた。
「……死にたくないからだよ」
「嘘だね」
「ああ、嘘だよ」
「じゃあ、本当は?」
「わからないよ……ぼくは今、それを探して旅をしているんだから」
 それがぼくの目的だ。
 トモは「そうかい」と言って、小さく笑った。
「……じゃあ、ぼくは寝るよ。明日も早いし」
「ああ、おれはもうすこし星を見る。そうしたい気分なんだ」
 ぼくは「そうかい。じゃあ、おやすみ」とだけ告げて、マットに横になり、目を瞑った。
 パチパチと、薪のはじける音がする。
 徐々に薄らぐ意識の中、ぼくはすこしだけ目を開けた。
 そこに映った幼い少女の姿をした少年が、いったいどんな想いでそんな表情をしていたのか――それはぼくにもまだ、よくわからなかった。
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