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家族の肖像【前編】
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横山明香がその神社を訪ねたのは夜も八時を回っていた。街中にはどこにでもあるような小規模の神社であった。ただ、歴史はかなり古く、本殿の基本構造は古い時代の合掌造りが残っている。
敷地の境界線には背の高い木が一連に植えられている。多くは椎木であった。季節柄、木の実つまりどんぐりがたくさん落ちている。
建物は鳥居の他には手水舎と本殿があるきりで、神社としても簡素極まりない作りであった。札所と社務所は本殿と一つになっているのだが、今はどこも閉ざされている。参道の灯りは点いているが、周りに人気はなかった。
明香はひとつため息をついてから、賽銭箱に硬貨を投げ入れて二回お辞儀をしてから二回柏手を打った。
神社における拝礼は、多くが二拝二拍手一拝である。出雲大社のように二拝四拍手一拝という所もある。明治時代以前には三拝三拍手一拝、三位一体の神様それぞれに拝むという形式もあったという。
しばらくの間、明香は手を合わせて何かを祈っているようであった。その表情は、はっきり言えば、あまり芳しいものではない。ここ一年ばかり続く心労が、まだ二十代前半である彼女をかなり老けさせて見せていた。
「九尾比丘尼様のお客様でいらっしゃいますね」
「ひっ」
本殿の左手の暗闇から声がかかり、明香は思わず声を上げてしまった。
声のした方から、巫女装束をまとった少女が現われた。手には小さな籠を持っており、中には椎木のどんぐりが入っていた。境内に落ちているどんぐりを集めていたようであるが、この夜中に行なうことであろうか。
「失礼しました。驚かせてしまいましたでしょうか」
少女は歳の頃は十四~五というところであろうか。背丈は低い。かなりの美形で美少女と呼んで差し障りはないだろう。物言いは静かで、落ち着いており、年齢より大人びた感じを受ける。それにしてはネックレスのように紐に通したドングリを一つ下げているのは、まるで子供のようだ。
「い、いえ…。神社の方…」
「はい。こちらへどうぞ」
少女が踵を返して、本殿の左手を向くと暗かったその場に灯りが点いた。本殿の左手の壁に入り口があるのだが、普段はほとんど見えないようになっている。通常の催事に用いられるのは、正面の入り口である。
とはいえ、あまり大きいとは言えない本殿である。その横の入り口から入っても、正面入り口から入っても、入る所は同じである。人目につきにくいという配慮があるのかもしれないが、それなら、煌々と灯りを点けては意味がないのでは、と思う。
まあ、それはさておき、案内を受けて明香は中に入る。中央に座布団が二つ用意されており、その一つに座るように促され、少女は奥に消えた。
少し経って灰色の作務衣を着た男性がお茶を持ってきた。明香と同年輩で神事に関わる感じではない。社務所などの事務や雑務を担当している者なのであろう。
出されたお茶は香りが良く、温度もほどほどの美味しいものだった。座布団も固すぎず柔らかすぎず、非常に座り心地の良いものであり、寝不足であった明香は、その心地よさの方に気持ちを奪われそうになった。
「お待たせしたのう」
少女が再び姿を現わし、明香の前の座った。なにやら先程と口調が違う。
「それでは」
「わしが九尾比丘尼じゃ」
少女…九尾比丘尼はさも当たり前の様子で言い放つ。
「ふむ、あまり驚かぬようじゃの。この辺りは聞いておったのか」
「はあ…はい」
明香はあまり表情を変えない。九尾比丘尼は立ち上がって、遠慮をする様子もなく、手を明香の頭に置いた。
「苦しいのう」
「!」
それまで少々放心状態にも見えていた明香の表情が変わる。目が見開かれ、その目は真っ直ぐに九尾比丘尼に向けられていた。
「身内が、好ましく思っておる身内同士がいがみ合う姿を見るのは、さぞ苦しかろう。しかもどちらにも是も非もあるゆえに、激しい争いとなってしまっておる。その者たちは強き争いゆえに、その争いだけにしか目も耳も届かぬこととなっておる。お主の言葉も、苦しみも届いてはおらぬ」
明香の目に涙が溢れる。九尾比丘尼は明香の頭から手を離し、優しく抱きしめる。
「泣くとよい。今まで泣けなんだのであろう。かの者たちの前で泣くことがあらば、争いは一線を超えるのは間違いない事をお主は感じ取っておった。そうなれば全員が傷つく事すらありうる。よう耐えた。よう耐えたのう」
明香は九尾比丘尼にしがみついて、号泣した。この一年間の思いが全て吐き出されてゆく。
「お主がかの者たちを愛しく思うように、かの者たちいずれもが、お主を好いておる。ゆえにお主が悲しむ事あらば、それは悲しませる原因となった者に対する怒りとなる。何事もない時であれば、また、力量の関係に差がある時ならば、お主への愛情そのものか、強弱の関係が緩衝となって、余韻も残さずに消化できていたのであろう。基本的にお互いを信頼しておる、良い家族じゃからな。じゃが、僅かなかけ違いが、お主を除く四人全員で、お互いがその是を主張し、非を非難し合い、力関係までが拮抗したために、崩れる事なく消化される事もなくどんどん積み重ねられた負の感情は、僅かなきっかけで弾け飛ぶ。その先にあるのは破滅のみじゃ」
「そうです。もうみんな、父も母も姉も兄も、限界なのはわかっているんです。でも、でも…」
「始まりが始まりだけに、なあ」
「そこまでご存知なのですか」
「すまぬ。お主が苦しげなあまり、先走って見てしもうた。なれど、案ずることはない。ここで見たこと聞いたことは一切外に漏れることはない」
明香はこの一年、家族のいさかいに悩んでいた。家族構成は、明香の父母と兄、姉がいた。明香は末の妹になるが、上の二人の兄姉とは年が離れている。兄と姉は二つ違いなのだが、その姉と明香は十一歳も違う。
そのため、明香は家族の皆からよく可愛がられていた。もとより、家族仲は良く、家族そろっての旅行も何度も行っている。
事の起こりは明香の成人式だった。
成人式が終わり、予約していた会場近くのレストランで皆で食事をしていたのだが、同じ成人式を終えた一行であろう一団がレストランに入ってきた。成人式に出席していた新成人のみの一行はすでにアルコールが入っている様子で、かなり騒いでいた。
始めは気にかけぬようにしていたのだったが、あまりに騒がしい状況となったため、父親が注意をした。だがその言葉は全く聞き入れられず、最後には兄も含んで暴力沙汰にまで発展してしまう。
母親と姉、明香には暴力が振るわれるには至らなかったが、事は警察が呼ばれるまでになった。
事情聴取の結果、父親と兄は少しやりすぎた点はあるものの、家族を守るために行なった防衛行動と認められた。実際、店側や他の客からも同じ証言が得られたことから、厳重注意ということだけで、犯罪として扱われることなく、家に帰ることができた。
家の中の空気が変わったのは翌朝の朝食からであった。話題は明香の成人式での事件になったのは当然のことであっても、それに対して父親が自慢気な言葉を発したことに、特に姉が過剰な反応をしてしまった。自分自身も怖い思いをしただけでなく、明香もそれ以上に怖がっていたため、それを出して父の暴力沙汰に発展させてしまった事をなじった。父親、兄は自発的な暴力はふるってはいない。だが、あのような状況にさせた原因はないのか問い詰めたのだ。
そこに引き合いに出された兄も参加してきた。
明香を守るために必要なことであった事を強調し、一歩も引くことがなかった。
兄、姉も既に三十歳を超えている。父母とも同列で話をすることに何の不思議もなかった。そのために、この争いは収まるところを知らず、一年もの間、続いたままになっている。四人が四人とも明香を大切に思っていることは間違いないのであるが、それは保護対象としてである。力量的な面から見ると、明香はやや下になり、明香からの意見は聞き入れられなかった。
明香自身がガツンと言うことができればまだ収まる方向へ導くこともできるのであるが、そのことで四人のうち誰か一人でも傷つく者が出はしないかという考えが、それを行なう決断に至らせないでいた。優柔不断と言われれば、そうなのであろうが。
また、明香は自分が塞ぎ込む事があれば、原因が何であるかを追及され、それが収まりを見せぬ家族の争いであると知られれば、崩壊のきっかけとなるのではないかという恐れから、心に反しても努めて明るく振舞っていた。
そんな中で九尾比丘尼の事を知ることができたのは、僥倖と言えるであろう。
明香が落ち着いた頃を見張らかって、九尾比丘尼は話を続ける。
「この手の話は、実は解決方法は簡単なんじゃ」
「え、本当ですか。わたしには何も思いつきませんでした。きっとみんな本当は解決する方法を探していると思いますし…」
「うむ、それは間違いないじゃろうな。先程は簡単とは言ったが、お主の家庭の状況では困難なのでな」
「…どっちなんですか」
明香はむっとして、少し膨れっ面になった。
「ああ、すまん、すまん。そうむくれるでない。答えから先に言えば、簡単であるが、困難であるということも理解できよう。その四人より上の位になる者、四人の誰にとっても言うことを聞かねばならぬと感じさせる者から一言「やめよ」と言えばいいのじゃ。本当は四人共にやめたがっておるのじゃから、効果は覿面じゃな」
「四人誰からも…」
「困難というのはそこじゃ。思いつく者はおろう」
「一人だけ…。一昨年に他界した祖母です」
明香にとっての祖母とは、父親、康平の母親であるテルのみである。母親の八重子は両親をつまり明香にとっての母方の祖父母を早くに亡くしており、明香は祖父母は父方しか知らない。
そのテルというのが、いわゆる女傑と称するに値する人で、豪放磊落を絵に描いたような人柄であった。その大雑把さを埋めてくれるのが細やかな性格の祖父の康一であって、祖父母夫婦はまさに破れ鍋に綴じ蓋。正反対の性格でありながら、ある意味で理想の夫婦であった。テルも大雑把であり熱しやすい性格ではあっても、家人にも他人にも、決して理不尽な要求をすることはない。おおらかで、両親を早くに亡くしていた八重子にも自己流ではあったが、真の母親のように接しており、八重子もまたテルを慕っていた。
祖父の康一は健在であるが、テルが他界してからはめっきりと覇気を失っていた。明香が尋ねてゆくと、非常に嬉しそうに「明香の花嫁姿を見るまでは死ねんな」といった事を言うのであるが、寂しげなことに変わりはない。テルの縁の下の力持ちというべき存在であり、それが生き甲斐とも言えたのだから、その支えるべき者を失った喪失感は計り知れない。元より元気な時であっても、康一では四人に強く出たところで、今の状況を打開するには至らないであろう。テルでなくては…。
「案ずるな」
「…」
「お主らには困難な事であっても、わしには簡単な事じゃ。わしを信じてくれるか」
「でも…どうやって」
「心配いらん。大船に乗ったつもりで、このババにまかせておけ」
その言葉に明香はハッとして、改めて九尾比丘尼を見た。自分よりも若い、幼さすら残るその顔になぜか、頼もしいテルの顔が重なるのだった。明香の目に再び涙が溢れた。だがその顔に悲愴感はなく、喜びが現れていた。
先ほどの九尾比丘尼の言葉は、かつてテルが口癖のように言っていた言葉そのものだったのだ。
「はい」
テルにこたえるように、その声にも嬉しさと希望が満ちていた。
(続く)
敷地の境界線には背の高い木が一連に植えられている。多くは椎木であった。季節柄、木の実つまりどんぐりがたくさん落ちている。
建物は鳥居の他には手水舎と本殿があるきりで、神社としても簡素極まりない作りであった。札所と社務所は本殿と一つになっているのだが、今はどこも閉ざされている。参道の灯りは点いているが、周りに人気はなかった。
明香はひとつため息をついてから、賽銭箱に硬貨を投げ入れて二回お辞儀をしてから二回柏手を打った。
神社における拝礼は、多くが二拝二拍手一拝である。出雲大社のように二拝四拍手一拝という所もある。明治時代以前には三拝三拍手一拝、三位一体の神様それぞれに拝むという形式もあったという。
しばらくの間、明香は手を合わせて何かを祈っているようであった。その表情は、はっきり言えば、あまり芳しいものではない。ここ一年ばかり続く心労が、まだ二十代前半である彼女をかなり老けさせて見せていた。
「九尾比丘尼様のお客様でいらっしゃいますね」
「ひっ」
本殿の左手の暗闇から声がかかり、明香は思わず声を上げてしまった。
声のした方から、巫女装束をまとった少女が現われた。手には小さな籠を持っており、中には椎木のどんぐりが入っていた。境内に落ちているどんぐりを集めていたようであるが、この夜中に行なうことであろうか。
「失礼しました。驚かせてしまいましたでしょうか」
少女は歳の頃は十四~五というところであろうか。背丈は低い。かなりの美形で美少女と呼んで差し障りはないだろう。物言いは静かで、落ち着いており、年齢より大人びた感じを受ける。それにしてはネックレスのように紐に通したドングリを一つ下げているのは、まるで子供のようだ。
「い、いえ…。神社の方…」
「はい。こちらへどうぞ」
少女が踵を返して、本殿の左手を向くと暗かったその場に灯りが点いた。本殿の左手の壁に入り口があるのだが、普段はほとんど見えないようになっている。通常の催事に用いられるのは、正面の入り口である。
とはいえ、あまり大きいとは言えない本殿である。その横の入り口から入っても、正面入り口から入っても、入る所は同じである。人目につきにくいという配慮があるのかもしれないが、それなら、煌々と灯りを点けては意味がないのでは、と思う。
まあ、それはさておき、案内を受けて明香は中に入る。中央に座布団が二つ用意されており、その一つに座るように促され、少女は奥に消えた。
少し経って灰色の作務衣を着た男性がお茶を持ってきた。明香と同年輩で神事に関わる感じではない。社務所などの事務や雑務を担当している者なのであろう。
出されたお茶は香りが良く、温度もほどほどの美味しいものだった。座布団も固すぎず柔らかすぎず、非常に座り心地の良いものであり、寝不足であった明香は、その心地よさの方に気持ちを奪われそうになった。
「お待たせしたのう」
少女が再び姿を現わし、明香の前の座った。なにやら先程と口調が違う。
「それでは」
「わしが九尾比丘尼じゃ」
少女…九尾比丘尼はさも当たり前の様子で言い放つ。
「ふむ、あまり驚かぬようじゃの。この辺りは聞いておったのか」
「はあ…はい」
明香はあまり表情を変えない。九尾比丘尼は立ち上がって、遠慮をする様子もなく、手を明香の頭に置いた。
「苦しいのう」
「!」
それまで少々放心状態にも見えていた明香の表情が変わる。目が見開かれ、その目は真っ直ぐに九尾比丘尼に向けられていた。
「身内が、好ましく思っておる身内同士がいがみ合う姿を見るのは、さぞ苦しかろう。しかもどちらにも是も非もあるゆえに、激しい争いとなってしまっておる。その者たちは強き争いゆえに、その争いだけにしか目も耳も届かぬこととなっておる。お主の言葉も、苦しみも届いてはおらぬ」
明香の目に涙が溢れる。九尾比丘尼は明香の頭から手を離し、優しく抱きしめる。
「泣くとよい。今まで泣けなんだのであろう。かの者たちの前で泣くことがあらば、争いは一線を超えるのは間違いない事をお主は感じ取っておった。そうなれば全員が傷つく事すらありうる。よう耐えた。よう耐えたのう」
明香は九尾比丘尼にしがみついて、号泣した。この一年間の思いが全て吐き出されてゆく。
「お主がかの者たちを愛しく思うように、かの者たちいずれもが、お主を好いておる。ゆえにお主が悲しむ事あらば、それは悲しませる原因となった者に対する怒りとなる。何事もない時であれば、また、力量の関係に差がある時ならば、お主への愛情そのものか、強弱の関係が緩衝となって、余韻も残さずに消化できていたのであろう。基本的にお互いを信頼しておる、良い家族じゃからな。じゃが、僅かなかけ違いが、お主を除く四人全員で、お互いがその是を主張し、非を非難し合い、力関係までが拮抗したために、崩れる事なく消化される事もなくどんどん積み重ねられた負の感情は、僅かなきっかけで弾け飛ぶ。その先にあるのは破滅のみじゃ」
「そうです。もうみんな、父も母も姉も兄も、限界なのはわかっているんです。でも、でも…」
「始まりが始まりだけに、なあ」
「そこまでご存知なのですか」
「すまぬ。お主が苦しげなあまり、先走って見てしもうた。なれど、案ずることはない。ここで見たこと聞いたことは一切外に漏れることはない」
明香はこの一年、家族のいさかいに悩んでいた。家族構成は、明香の父母と兄、姉がいた。明香は末の妹になるが、上の二人の兄姉とは年が離れている。兄と姉は二つ違いなのだが、その姉と明香は十一歳も違う。
そのため、明香は家族の皆からよく可愛がられていた。もとより、家族仲は良く、家族そろっての旅行も何度も行っている。
事の起こりは明香の成人式だった。
成人式が終わり、予約していた会場近くのレストランで皆で食事をしていたのだが、同じ成人式を終えた一行であろう一団がレストランに入ってきた。成人式に出席していた新成人のみの一行はすでにアルコールが入っている様子で、かなり騒いでいた。
始めは気にかけぬようにしていたのだったが、あまりに騒がしい状況となったため、父親が注意をした。だがその言葉は全く聞き入れられず、最後には兄も含んで暴力沙汰にまで発展してしまう。
母親と姉、明香には暴力が振るわれるには至らなかったが、事は警察が呼ばれるまでになった。
事情聴取の結果、父親と兄は少しやりすぎた点はあるものの、家族を守るために行なった防衛行動と認められた。実際、店側や他の客からも同じ証言が得られたことから、厳重注意ということだけで、犯罪として扱われることなく、家に帰ることができた。
家の中の空気が変わったのは翌朝の朝食からであった。話題は明香の成人式での事件になったのは当然のことであっても、それに対して父親が自慢気な言葉を発したことに、特に姉が過剰な反応をしてしまった。自分自身も怖い思いをしただけでなく、明香もそれ以上に怖がっていたため、それを出して父の暴力沙汰に発展させてしまった事をなじった。父親、兄は自発的な暴力はふるってはいない。だが、あのような状況にさせた原因はないのか問い詰めたのだ。
そこに引き合いに出された兄も参加してきた。
明香を守るために必要なことであった事を強調し、一歩も引くことがなかった。
兄、姉も既に三十歳を超えている。父母とも同列で話をすることに何の不思議もなかった。そのために、この争いは収まるところを知らず、一年もの間、続いたままになっている。四人が四人とも明香を大切に思っていることは間違いないのであるが、それは保護対象としてである。力量的な面から見ると、明香はやや下になり、明香からの意見は聞き入れられなかった。
明香自身がガツンと言うことができればまだ収まる方向へ導くこともできるのであるが、そのことで四人のうち誰か一人でも傷つく者が出はしないかという考えが、それを行なう決断に至らせないでいた。優柔不断と言われれば、そうなのであろうが。
また、明香は自分が塞ぎ込む事があれば、原因が何であるかを追及され、それが収まりを見せぬ家族の争いであると知られれば、崩壊のきっかけとなるのではないかという恐れから、心に反しても努めて明るく振舞っていた。
そんな中で九尾比丘尼の事を知ることができたのは、僥倖と言えるであろう。
明香が落ち着いた頃を見張らかって、九尾比丘尼は話を続ける。
「この手の話は、実は解決方法は簡単なんじゃ」
「え、本当ですか。わたしには何も思いつきませんでした。きっとみんな本当は解決する方法を探していると思いますし…」
「うむ、それは間違いないじゃろうな。先程は簡単とは言ったが、お主の家庭の状況では困難なのでな」
「…どっちなんですか」
明香はむっとして、少し膨れっ面になった。
「ああ、すまん、すまん。そうむくれるでない。答えから先に言えば、簡単であるが、困難であるということも理解できよう。その四人より上の位になる者、四人の誰にとっても言うことを聞かねばならぬと感じさせる者から一言「やめよ」と言えばいいのじゃ。本当は四人共にやめたがっておるのじゃから、効果は覿面じゃな」
「四人誰からも…」
「困難というのはそこじゃ。思いつく者はおろう」
「一人だけ…。一昨年に他界した祖母です」
明香にとっての祖母とは、父親、康平の母親であるテルのみである。母親の八重子は両親をつまり明香にとっての母方の祖父母を早くに亡くしており、明香は祖父母は父方しか知らない。
そのテルというのが、いわゆる女傑と称するに値する人で、豪放磊落を絵に描いたような人柄であった。その大雑把さを埋めてくれるのが細やかな性格の祖父の康一であって、祖父母夫婦はまさに破れ鍋に綴じ蓋。正反対の性格でありながら、ある意味で理想の夫婦であった。テルも大雑把であり熱しやすい性格ではあっても、家人にも他人にも、決して理不尽な要求をすることはない。おおらかで、両親を早くに亡くしていた八重子にも自己流ではあったが、真の母親のように接しており、八重子もまたテルを慕っていた。
祖父の康一は健在であるが、テルが他界してからはめっきりと覇気を失っていた。明香が尋ねてゆくと、非常に嬉しそうに「明香の花嫁姿を見るまでは死ねんな」といった事を言うのであるが、寂しげなことに変わりはない。テルの縁の下の力持ちというべき存在であり、それが生き甲斐とも言えたのだから、その支えるべき者を失った喪失感は計り知れない。元より元気な時であっても、康一では四人に強く出たところで、今の状況を打開するには至らないであろう。テルでなくては…。
「案ずるな」
「…」
「お主らには困難な事であっても、わしには簡単な事じゃ。わしを信じてくれるか」
「でも…どうやって」
「心配いらん。大船に乗ったつもりで、このババにまかせておけ」
その言葉に明香はハッとして、改めて九尾比丘尼を見た。自分よりも若い、幼さすら残るその顔になぜか、頼もしいテルの顔が重なるのだった。明香の目に再び涙が溢れた。だがその顔に悲愴感はなく、喜びが現れていた。
先ほどの九尾比丘尼の言葉は、かつてテルが口癖のように言っていた言葉そのものだったのだ。
「はい」
テルにこたえるように、その声にも嬉しさと希望が満ちていた。
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