『十分間』

segakiyui

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「片野さんは大路さんのチェックです。かなりおかんむりですよ」
 喜田のことばが途切れるや否や、廊下から上半身を詰め所に突っ込んで、片野がいらいらと晶子を呼んだ。
「何してんの! 体位変換よ、手伝って!」
「あ、はい!」
 晶子は急いで片野の後を追った。
「これ、見てよ」
 部屋に入ったとたん、片野が険しい顔でベッドの上の患者を指さす。
 点滴やモニター、各種のラインが一杯つながった患者の、腰や肩や踵に赤いあざのようなものができている。
「浅川さん、体位変換してなかったのよ」
「まさか…」
「本人に確かめたわよ。状態が安定しなかったから体位変換しなかったんですって。あきれるじゃない、これが大学出の考えることなんだから。頭ぐらい、ましだと思ったけどね」
 ぼやき続けながらも、片野はモニタ-で血圧と心電図を確かめながら、小まめに患者の体をマッサージしている。ところどころに、小さな枕や丸めたタオルをあてて、圧迫される部位を変えるように工夫している。
 血液の循環が悪くなった患者は、ちょっとした圧迫ですぐに床擦れをつくる。筋肉や血管が押さえつけられて循環を悪化させ、栄養がうまく回らなくなって、圧迫された部分が壊死してしまうのだ。
 床擦れをつくったら最後、状態の悪い患者ほど悪化するのが早い。そして、その床擦れから細菌感染を起こして、病気を悪化させる場合もあるのだ。
 だから状態を見ながら少しずつでも体を動かし、同じ部分ばかり圧迫されないように配慮するのが体位変換と言われる方法だが、それが必要な重症患者ほど安易には動かせなくなるという矛盾もある。
 状態が落ち着かない大路を動かしたくないと考えた浅川の気持ちもわからなくはない。誰でも自分の勤務時間中に、患者に致命的な出来事を引き起こしたくはない。
 その晶子の迷いを見抜いたように、
「何も、体をごろごろさせろって言ってるんじゃないのよ。マッサージしたり、タオルを挟んだり、他にも方法があるでしょう。それを、体位変換イコール体ごろごろ、としか思いつかない発想が情けないって言ってんのよ。看護学校で何を習ってきたのかしらねえ」
 片野が決めつけた。
「さ、手を貸して」
 晶子に指示し、片野はベッドに屈み込んだ。
「大路さん、体の向きを変えますよ」
 意識があるとは思えない大路に声をかけながら、手足を少し曲げさせた姿勢で肩と腰を支えてわずかに起こす。晶子は、大路の体がベッドから浮いてできた空間に素早く枕を押し込んだ。
「しわになってる、気をつけて」
「はい」
 片野が指摘し、晶子は枕とシーツに寄ったしわを伸ばした。その間、片野は、患者の顔とモニターを交互に観察している。
 晶子が片野を尊敬し、弁護するのはこういうところだ。
 片野は患者を差別しない。
 意識があろうとなかろうと、老人だろうと若者だろうと、たとえ数分後に死が待ち構えているとされる患者であっても、片野は決して気を抜かない。死に対して油断がないというのではなく、患者の苦痛を和らげることに片野はいつも全力を注いでいる。
「二時の巡回、頼める?」
「はい」
 大路の再度のチェックをし始めた片野に、晶子はふっと弓子のことを思い出した。
 話してみようか。そう思った矢先に、片野が顔を上げる。
「ああ、それから、緊急が来るそうだから、取ってもらえる? 急な腹痛と下痢だって。大学生らしいんだけど、それしか症状を話せないのよ」
「わかりました……当直の先生は…」
「来てから呼んでくれって。それでいいと思うわ。急性腹症かもしれないんだけど……」
 片野は少し眉を寄せて考え、
「救急カートと移送用のストレッチャー、レントゲンと一般採血……手術申し込み用紙もいるかな…」
「用意しておきます。何分ぐらいでくるんでしょうか」
「タクシーで来る、そうよ。十分ほどだって」
 その口調で、なぜ緊急入院患者を片野が晶子に任せることにしたのかわかった。電話での応対とタクシーでの来訪から、それほど問題のある患者ではないと判断したのだ。
「何か手が必要になったら呼んで下さい」
「大丈夫よ」
 そっけなく応じた片野を背に、晶子は部屋を出た。
 時計を確かめ、詰め所に戻って懐中電灯を手に廊下を歩き始める。
 巡回は夜間は二時間おきに行うことになっている。十二時、つまり午前零時の巡回を準夜勤務が行い、次の二時、四時が深夜勤務の受け持ち、朝の六時が検温時間、最終は八時が最後の巡回となる。
 それぞれの部屋の戸締まりと患者の安否、病棟の異常や火の気の有無。ほんのわずかな変化に神経をとがらせて、看護師達は夜中の廊下を歩いていくのだ。    
 小さな明かりがついている部屋があった。
「手塚さん?」
「あ…」
 慌てたようにベッドの中にマンガを引き込んだ相手が苦笑いして晶子を見上げた。
「…ごめんなさい。何か、読み始めたら止まらなくなっちゃって……マンガ、なのにね、何か、どうしても今読みたくて」
 弁解する手塚は三十代の主婦だ。家に二人の子どもを置いて、もう四カ月の入院になる。
 手塚がそろそろと布団の中から出したのは、小学生の間で人気がある少年マンガだった。
「ほら、うちの子がこの間来たでしょ、そんときに持って来てくれたの。今これが好きなんだって。どこがいいのって聞いたら貸してくれたのよ。人のだから明後日返すんだって………読んでたら、あの子達の事が少しでもわかるかなって…」
 手塚はぱちぱちと瞬きした。少しうつむいて、
「入る前にケンカ、してたから……」
 小さな声で、
「帰りたいわ」
「うん…」
 晶子はうなずいた。
 手塚の心臓は、心臓を動かす筋肉に異常が見つかった。放っておけば、いつ何が起こっても不思議ではない。だが、治療方法が見つからない。発作が起きにくくする薬をいろいろ試してはいるのだが、これという決め手になるものがない。手の施しようがないとして外来通院を続けながらフォローしていくか、それとも治療方法が見つかるまで入院するか。
 医師は明日、その説明をするはずだ。
「明日……」
 手塚がつぶやいた。
「明日の説明聞いたら、帰れるかしら」
 うつむいたまま問いかけてくる。
「……明日は今の手塚さんの状態を先生が話してくれるの。……帰れるといいね」
 晶子の苦しい返事を、手塚は否定と取った。
「だめ…なのか……」
「手塚さん…」
「……もう少しで、これ読み終わるのよ。明日、朝からの検査はなかったでしょ? 昼寝して疲れないようにするから、これ読んでもいいかしら」
 見上げた手塚を晶子は拒めなかった。
「わかった…でも、早く寝てね」
「はい」
 にこりと笑う相手にうなずき、ドアを閉める。手塚の部屋が一人部屋で良かった、と晶子は思った。これが大部屋だったら、特別扱いをしたとか何とかでもめている。
 手塚で時間を取られた。
 晶子は早足で残りの部屋を見て回った。
 気になっていた弓子の部屋では、寝ているのか誰も動かない。水野にはライトを動かしてみたが、手を振る様子はなかった。巡回前にカルテを見て来た、準夜で発作を起こした広谷も、今は良く眠っている。
 ほっとして詰め所に戻った晶子と入れ違いに、喜田と浅川が軽く頭を下げて出て行った。
 彼女達には、翌朝八時からの勤務が待っている。
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