『十分間』

segakiyui

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 いくら病棟が落ち着いているとは言え、急な発作でも起こす患者がいれば、片野一人では手が回らない。できる限り急いで薬を受け取り、病棟にとって返す。
 処置室のベッドに、『緊急入院』の男が寝かされ診察を受けていた。
「近所に知り合いでもいないのか、薬をくれるような……」
「はあ…コンビニ…なら…」
「コンビニ…じゃ……難しいか…」
 医師は診察しながらぶつぶつ言っている。
「先生、薬もらってきました」
「お、わかった。……じゃあ、君ね、この薬飲んで……飲めるな? それから、この点滴するから、終わったら薬もらって帰りなさい。大丈夫、飲み過ぎただけだ」
 医師が説明を始めるのをしり目に、晶子は詰め所に戻った。
 片野は大路のチェックからまだ帰っていない。詰め所の中を整理し、記入しなくてはならないカルテを取り出そうとした瞬間、モニターの警戒音が響いた。
 カン!カン!カン!
「広谷さん!」
 モニターを確認して声を上げた。モニターの波形は一直線、心停止を示している。
 晶子は救急カートを押して詰め所から走りだした。処置室の前を走り過ぎながら当直医に叫ぶ。
「広谷さん! 三百十八号、アレストです!」「わかった!」
 大路の部屋から出ようとしていた片野にも同じことを伝えて、晶子は広谷の部屋に飛び込んだ。閉めてあるベッド回りのカーテンを引き開けると、広谷がベッドの上でぐったりしている。呼びかけに答えず、胸のモニターも外れていない。
「ごめんなさい! 広谷さん!」
 明かりを点けて同室者へ声をかけ、晶子は手を振り上げた。心臓の上へどん、と広谷の体にめり込むほど強くこぶしを振り下ろし、すぐにベッドに上がって胸骨圧迫を開始したが、下に固い支えがないので効果が上がらない。
「どいて!」
 駆けつけてきた片野が、医師とともに広谷の体の下に救急カートに備えられた板を差し込んだ。ベッドを降りた晶子に変わって片野が胸骨圧迫を開始、当直医が口をこじ開けて器具を差し込み、空気の通り道を確保して、人工呼吸を始める。晶子は血圧と脈拍のチェックだ。
「プルスは!」「出ません!」「バージョン、行くぞ!」
 さっと片野と晶子は身を引いた。
 脈拍がないのは心臓が止まっている場合と、ぶるぶる細かく震えてうまく血液を拍出できない場合とがある。後者の場合に心臓に電気ショックを与えて一旦停止させ、心臓に鼓動を再開させるのだ。カルディオ・バージョンを構えた医師が広谷の胸に器械を当てボタンを押す。
 ぼん、と広谷の体が人形のように揺れた。
「出たか!」「出ました! 血圧、触知! ライン取れてます! 自発(呼吸)開始!」
 医師が薬剤を広谷の腕の点滴ラインから入れ始める。モニターだけでなく、手動で測る晶子に耳に聞こえるぐらいに、血圧が戻ってきた。
「血圧、五十…二十」「モニターは?」「レギュラーです」
「小峰さん!」
 片野が状態をメモする晶子を呼んだ。
「はい!」
「大路さんのチェックなの、お願い。ここは見ます!」
「わかりました!」
「救急の方もね!」
「はい!」
 晶子は部屋を出た。気がつくと、時計は四時を回っている。巡回もしておかなくてはならない。
 詰め所に戻ると、晶子は処置室をのぞいた。
 例の『緊急入院』患者は、ベッドですやすやと寝ている。薬が効いたのだろう。点滴は問題なく落ちている。うなずいて、晶子は大路の部屋に入った。部屋に置かれたチェックリストを元に、点滴や血圧、脈拍、尿量、患者の状態を確認し、記入する。何も異変はなさそうだ。続けて巡回を始める。気にはなっているが、そこで今時間をとるわけにはいかない水野と弓子の部屋を後回しにし、もう一度、広谷の部屋に戻る。
「巡回問題なし。大路さんもOKです」
「ありがとう」
 手早く次々と緊急処置をこなしながら、片野が答えた。
「水野さんのところにいます」
「はい」
 所在を告げ、晶子は水野の部屋に向かった。
 もし、今、水野が、眠れないので話したいと言い出したらどうしよう、と晶子は思った。他の患者に手が取られていると言っても、ごまかされたと思われるだろう。不信感から、この後ずっと『眠れない』コールをされるかもしれない。
 晶子はドアの前で少し息を吸った。
 できるだけ、相手をしよう。それでにっちもさっちもいかなくなったら、一所懸命弁解するしかない。何とかわかってもらって、片野が動けない分、彼女の受け持ち患者の世話に回らなくてはならないのだ。
「水野さん?」
 部屋の中は静まり返っていた。
 晶子はためらった。このまま知らぬ顔で、次の弓子の部屋に行きたかった。そうすれば、この場は何とかしのげる。
 だが、万が一、水野が『たぬき寝入り』をしていて、晶子を試していたならどうするのか、と思った。晶子が決めたことをしなかったことから、水野は看護師全部を責めるだろう。そして、それは、水野の療養生活をより追い詰められたものにするだろう。
 晶子は病室に踏み込んだ。ベッドに近づき、ライトを直接当てないようにしてのぞき込む。
「水野、さん?」
 水野は眠っていた。
 一気に晶子の体中の力が抜けた。
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