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2.三つの河の小譚詩(2)

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 今から約10年前の夏。
「その頃、南欧、特にスペインを中心として手を広げている貿易商で、パブロ・レオニと言う者がおりました。もっとも、それは表向きのこと、裏では『青(アズール)』と呼ばれる古美術売買の裏取引をしていた男でした。大悟様はちょうどその頃、スペインにおける市場を開拓しようとされていましたが、スペインは既にパブロ・レオニの網が行き届いており、大悟様が食い込める余地はないように思われました………」

「ふ…うん」
 軽く唸った大悟は、私室の重厚な木製の机の上に書類を投げ出した。
「難かしゅうございますか」
「そうだな……ああ、すまない」
 高野の置いたコーヒーに気づき、大悟は指を伸ばしてカップの縁を撫でた。考え込んでいる時によくする仕草で、こういう時に余分なことばを交わすのは邪魔になるだけだ。心得ている高野は、黙ってソファの方に座っている周一郎の前に、熱いココアを置いた。
「ありがとう、高野」
 少年が微かに笑って答えるのに、頭を下げる。
 大悟が拾ってきた、どこの馬の骨ともわからないこの少年は、数年で見る見る才能を開花させた。大悟のすば抜けた実行力の裏にはいつも、周一郎の研ぎ澄まされた感覚と水も漏らさぬ計画がある。大人びた口調は不思議と終日サングラスを掛けたままの異様な容姿に似合い、周一郎は今や朝倉家の次代当主として衆目の一致するところとなっている。実際、現時点でも既に周一郎が朝倉家を動かしていると言っても過言ではない。だが、それを知るのは朝倉財閥の中でもごく僅か、大悟に高野、岩淵の数人だけだ。
「何を悩んでいるの、大悟」
 大悟、と呼び捨てるのも、以前は気に障ったが、今はそれほど不自然にも思わない。
「南欧に食い込めたら、と思っている」
 くすっ、と小さく笑った周一郎は、ゆっくりココアを含みながら応じた。
「ぼくにそんな言い方をしなくてもいいのに。ずばり言えば? スペインを征したい、と」
「…」
 きらりと目を光らせる大悟に、たじろぎもせず、ことばを継ぐ。
「それとも……パブロ・レオニを落とす方が好み?」
「出来るのか?」
「どちらを?」 
 ココアから顔を上げた周一郎の目が輝いているのを、高野は見て取った。それは、これまで成功してきた数多くの計画に周一郎が乗り出した際に、何度も出くわしてきた目だった。
「パブロ・レオニ」
「資料を見せてよ」
 周一郎は薄く笑った。大悟が重々しく付け加える。
「スペインだけじゃない、南欧を狙うなら、パブロ・レオニの失墜は大きい」
「言われなくても、そうだと思ってたよ」
「…」
「はい」
 大悟の無言の促しに、高野が書類を周一郎に渡す。怯む様子もなく無造作に受け取って、次々と目を通しながら、周一郎は時々きゅっと幼い顔立ちをしかめた。
「大悟……パブロ・レオニの家族構成は?」
「妻1人、子どもは出来ずに養女を引き取っている。友人の娘だそうだ」
「名前は?」
「妻がローラ・レオニ、娘がイレーネ・レオニ」

「!」
「はい」
 聞いた名前にどきりとした俺に、高野は頷いて見せた。
 車は降り注ぐような陽射しの中、ゆっくりと右折する。かなり大きな広場、中央に影を濃く澱ませた像を配した噴水があり、躍り上がった水が日光に煌めいて降り落ちている。
「ここがシベーレス広場……マドリッドを縦断している通りの交差点です。中央に立っているのは大地の女神(シベーレス)像。近くにプラド美術館もありますよ」
 高野が静かに解説してくれる。
「詳しいんだな」
「…10年前、坊っちゃまがスペインに来られた時に同道いたしましたので」
「9歳の時のスペイン旅行?」
「はい」
 高野は再び話を始めた。

 それは周一郎の初めての海外進出だった。
 相手はパブロ・レオニ、まずくすれば、進出し始めた朝倉財閥など、気配を知られただけで激しい拒否に合うだろう。それでなくとも、スペインは各地方の自治の思想が強く、極端な例はETAと呼ばれるバスク、ナバーラの過激派グループに現れる。1973年の12月にはフランコ首相をダイナマイトで吹き飛ばすなどと言うことをやってのけたほどだ。確立した地方自治の中、外国企業が入り込むのは容易ではない。だが、周一郎はためらうことなく、
「つまり、朝倉財閥でなければいいわけだね」
「どういう意味だ?」
「パブロ・レオニ、だよ。利益に個人の名はつかない」
 にやりと笑って、あっさり続ける。
「表向きはパブロ・レオニで構わない。要はぼくらがそこへ入り込んでしまえばいいわけだ」
「なるほど……その手があったか」
 周一郎と大悟は高野を伴いスペインに飛んだ。大悟はパブロ・レオニと貿易上の親交を深めに行くために、周一郎は大悟の息子として個人的にローラ・レオニとその娘に近づき、パブロ側の情報を得るために。
 幸いにと言うか、当然と言うべきか、ローラ・レオニは異国の聡明な美少年を大いに気に入った。娘のイレーネは、13、4歳下の少年に対し、時には弟のように、時には幼い恋人のように心を寄せ、睦まじく語り合っていた……そう、傍目には。パブロ・レオニと朝倉大悟がいくら虚々実々の取引と化かし合いを繰り返していたところで、誰一人として、この僅か9歳の少年が、朝倉大悟よりも危険な存在と思わなかった。
 眩い日射しの中、ローラやイレーネと笑い合いながらも、周一郎はパブロ・レオニが仕事の範疇を越えて熱中しているものを探り出していた。幻の名画、ピカソの青の時代の一作と思われるもので、『青の光景』と呼ばれる作品だ。それを手に入れようとパブロは全力を尽くしており、商売も最近停滞気味だと言う。
 周一郎はそれを見逃さなかった。どうにも隙の出来ないパブロの意識を外らすべく、朝倉家の総力を挙げて絵の行方を捜させ、次いでパブロ側に朝倉家が手に入れたと言う情報をわざと漏らした。
 パブロが手を組もうと話を持ちかけてくるのに、大した時間はかからなかった。大人しく相手のことばに従った振りで、朝倉大悟がパブロの交易網に食い込む。
 じわじわと朝倉家が自分達の交易範囲を吸収していくのに気づいたパブロが、表向きは友好関係を保ちつつ、防御策を講じ始めた時には全てが遅かった。交易網の70%がパブロの名前を保ったまま朝倉財閥が運営している状態になったことから、ようやく周一郎の存在を疑いだしたが、パブロには再び交易網を取り返す余力は既になく、手に入れた『青の光景』ばかりが救いという有様、パブロ・レオニは緩やかに朝倉財閥の配下に加わるのだろうと思われた。
 だが、予想はいつも人の頭の内側にしかないもの、とんでもない客がパブロに目をつけていた。
 ある日、パブロの屋敷を、突然ETAの一派、RETA(ロッホ・エタ)が襲った。RETAはETAの中でも過激な一派で、常からパブロを地方自治体制を崩壊させる者として狙っていたのだ。
 一陣の嵐のように飛び込んできた男達はパブロを始めとする家族の悉くを葬り去った。知らせに駆けつけた周一郎達が見たのは真紅の血の海、白い壁に血の飛沫が飛び散った中、内庭(パティオ)にまで転がった死体の中には、美しい黒髪を乱して倒れているローラ・レオニの姿もあった。
 当主を失ったパブロの貿易網はあっさり朝倉財閥の手に落ちた。朝倉大悟は名前だけの当主を立て、その実、スペインポルトガルを始めとする南欧貿易網の一大ルートを掌握した。
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