『指令T.A.K.I.』〜『猫たちの時間』12〜

segakiyui

文字の大きさ
1 / 16

1.指令書 T (Taking)(1)

しおりを挟む
 耳の奥底に、優しい音が響いている。細かい砂、白い指先から零れる細かい、無数の砂の音。
 誰かの声が、ぽつりと呟く。「雨の日は……」。その先が続かない。俺は少し待ち、返事が返ってこないのに苛立って、促す。
 なんだって? 何か言ったか、周一郎? 
「いえ…」と相手は微笑を含んだようだった。ゆっくりと、まるで味わうかのように呟く……「雨の日は……」。その先がふいに空気に乱されたように聞こえなくなり、俺はまたもや、目の前の、年齢から言えば少々華奢で小柄な相手の後ろ姿に促した。
 だから、何だってんだよ、周一郎。言っとくが、俺はエスパーでも何でもないんだ。んな一言で、お前の言いたいことがわかるかよ。
 言ってしまえよ、黙ってる本音を。言ってしまえよ、楽になりたいんだろ? 意地を張るなよ。冷たい表情を一皮剥けば、辛そうに唇を噛んで立ち竦んでいるのはわかってるんだ。知ってるだろ、俺がお前の本音を聞いたからって、すぐに態度を変えられるほど器用な人間じゃないって。わかってるだろ、お前にとっちゃどうかは知らないが、俺にとっちゃ、その……お前は大切な人間だって。
 俺のことばを黙って聞いていた相手は、ようやく俺の方を振り返った。
 が、その顔がいつしか周一郎のものではなくなっている。薄い茶色の猫っ毛、見開いた潤んだような澄んだ茶色の瞳、微かに開いた淡い桜色の唇が、この上もなく嬉しそうに微笑む。
(……え…?)
 10時10分。
「……え…?」
 自分の声で目を覚まし、目の前にあった時計の文字を読んだ。一瞬頭の中が真っ白になり、その中を蝶ネクタイを締めた『とかげ』が、アリスの白うさぎよろしく、片手に8時30分と言う黒い文字を持って走っていく。8時30分。納屋教授の研究室。卒論。
「どわ!!」
 跳ね起きる。時計を叩いて落としてしまう。積んであった本を崩す。ベッドから降りようとして、シーツに足を引っ掛ける。体が浮く。ベッドから転げ落ちる。上から本が降ってくる。払いのけた手がテーブルにぶつかる。テーブルの上にあった飲みかけのコーヒーが零れる。とっさに拭こうと掴んで引っ張ったシーツが足に絡んでいて、再び転ける。支えようと伸ばした手が、コーヒーカップと本と辞書とノートと筆入れと……つまりはテーブルに載っていた全てをなぎ倒しぶち倒し張り倒し……、
「どわあああああっ!!」
「……あの、滝様」
 コーヒーを浴び、辞書にどつかれ、筆入れに殴られ、ついでに持って、シーツに手足をぐるぐる巻きにされて果てた俺に、いつの間に来ていたのか、控えめな、遠慮がちな、高野の声が問いかけた。
「一体……何をされているのですか………?」

「うー…」
 シャワーを浴びて乾ききらない髪を掻き回し、唸りながら食堂のドアを開けた。
 正面に端然と座っていた周一郎は、気難しい表情で何やら高野と話し込んでいたが、俺の姿を見ると鋭い一瞥を高野に投げた。頷いて高野が口を噤み、がらりと調子を変えて挨拶する。
「おはようございます、滝様」
(何だ?)
 かなり白々しい態度の急変に眉を寄せる寸前、巧みに周一郎が口を挟んでくる。
「おはようございます、滝さん。今日は早いんですね?」
「……嫌味な奴だな」
 乗るまいと思っても、ついふてて唸る。
「高野から聞いてるんだろ?」
「ええ」
 にっこり、と周一郎は唇を綻ばせた。心からのにっこり、ではない。俗に言う『業務用』の腹が立つほど鮮やかな笑みだ。
「朝から派手に『運動』したんですね」
「へえへえ」
 俺はむすっとして椅子に腰を下ろした。濡れた髪がどうしても気になったらしい高野が、タオルを渡してきたから、頭から被る。
「どーぜ、俺は阿呆なドジだよ、時計が止まっているのも気づかんほど、な」
 あのクソ時計は、どうやら昨日から止まってしまったらしい。俺は今日のことを考えて、高野に7時に起こしてくれるように頼んでいたのをすっかり忘れ、完全に遅刻したと思って慌てふためき、挙げ句の果てに、コーヒーを浴び、辞書にどつかれ……あ、やめよう。気分が落ち込んで来た。
「本当に、あなたときたら…」
 くすっ、と周一郎は小さく笑った。今度のは『業務用』じゃない、ほんの子どものような、どこか幼い邪気のない笑みで、我ながら単純だとは思うが、気分が浮上してきてしまった。
 ま、いいか。こいつがこんな微笑い方をするなら。
「ふん……」
 それでも、口だけはふてくされて、垂れてきた雫をタオルで拭き取る。
「でも、何だって、そんなに慌てたんです?」
 こくり、と白いコーヒーカップから上品に湯気の立つ液体を飲み込んで、周一郎が尋ねてくる。
「ん……それがさ、この間から卒論を上げるのに手こずってたのは知ってるだろ?」
「はい」
「あの件で、今日、納屋教授から話があるって言われててな……あ、どうも」
 高野がコーヒーを俺の前にも置いてくれた。礼を言って中身を含む。強い香りが鼻をくすぐる。
「そうですか。『今年』は大学を出られそうですか?」
「あ」
 思わず果てた。
 ったく、人が優しくすれば、すぐこれだ。まあ、5歳下とはいえ、実際に社会で事業家として生きている周一郎にしてみりゃ、俺みたいな人間は頼りなくて仕方ないんだろうが。
「まあ、心配するなよ。俺だって、少しは将来のことを考えて…と」
 慌てて口をつぐんだ。これは、周一郎どころか誰にも言ったことがない。それにまだ、その時期でもないだろう。
「ま、遅かれ早かれ、ここを出てくことにもなるだろうし」
「え…」
 どきりとしたように周一郎はカップを置いた。見張った目にはサングラスをかけていない。無防備に晒した黒曜石のような瞳が、俺を凝視する。
「いつ…です?」
「ん?」
「いつ、出て行こうって……」
 頼りなく消した語尾の幼さに、珍しく周一郎は気づいていないようだった。
「いや、いつってのはまだ決めてない。第一、今出てっても、食ってけないしな」
「…でしょうね」
 周一郎は小さく溜息をつき、遅まきながら自分の反応に気づいたようだ。びくっと体を強張らせて、照れ隠しのように眉を寄せ、厳しくカップを持ち上げる。
「だけど、いつまでも居るってわけにもいかんだろ」
 俺は腕時計に目をやった。
「お、時間だ、行ってくる」
「は、い…」
 答えた周一郎の声がどこか虚ろに響いて、ドアの向こうに消えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

君は番じゃ無かったと言われた王宮からの帰り道、本物の番に拾われました

ゆきりん(安室 雪)
恋愛
ココはフラワーテイル王国と言います。確率は少ないけど、番に出会うと匂いで分かると言います。かく言う、私の両親は番だったみたいで、未だに甘い匂いがするって言って、ラブラブです。私もそんな両親みたいになりたいっ!と思っていたのに、私に番宣言した人からは、甘い匂いがしません。しかも、番じゃなかったなんて言い出しました。番婚約破棄?そんなの聞いた事無いわっ!! 打ちひしがれたライムは王宮からの帰り道、本物の番に出会えちゃいます。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

傷痕~想い出に変わるまで~

櫻井音衣
恋愛
あの人との未来を手放したのはもうずっと前。 私たちは確かに愛し合っていたはずなのに いつの頃からか 視線の先にあるものが違い始めた。 だからさよなら。 私の愛した人。 今もまだ私は あなたと過ごした幸せだった日々と あなたを傷付け裏切られた日の 悲しみの狭間でさまよっている。 篠宮 瑞希は32歳バツイチ独身。 勝山 光との 5年間の結婚生活に終止符を打って5年。 同じくバツイチ独身の同期 門倉 凌平 32歳。 3年間の結婚生活に終止符を打って3年。 なぜ離婚したのか。 あの時どうすれば離婚を回避できたのか。 『禊』と称して 後悔と反省を繰り返す二人に 本当の幸せは訪れるのか? ~その傷痕が癒える頃には すべてが想い出に変わっているだろう~

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...