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勤務後、待ち合わせて、北野と大原は小さなフランス料理店で食事をした。簡単なコースメニューがあり、ワインもある。そのくせ、値段は意外に手ごろで、ささやかな骨休めの場所といったところだ。
大原は魚料理の、北野は肉料理のコースを頼み、ロゼのワインが来たところで、二人はようやく会話らしいものを交わした。
「では…とりあえず、乾杯」
北野がグラスをあげて見せると、大原が微笑した。
「何に乾杯します?」
「そうだなあ……私の容疑がめでたく晴れたことに……ああ、そうか…」
北野は声を落とした。
「人が死んだのに、乾杯なんて不謹慎よね」
「…では、不謹慎でうろたえつつ、その日その日を暮らしている二人の看護師に乾杯」
大原が澄まして言い、くすりと笑った。北野も釣られて笑みを返し、ワインをそっと口に流し込んだ。
患者が急変し死を迎えても、周囲の世界は何も変わらない。いつもと同じように、食事をし、眠り、泣き、笑い、悩み続けている。そうしてみると、看護師や医師、およそ人の命を引き止めようとする人間達のすることは、何かひどく大きな空回りのように感じることがある。
北野は小さくため息をついた。
グラスを置き、運ばれて来た料理をゆっくりつつきだしながらつぶやく。
「こんな考え方をすることが、看護師としては失格なのかなあ」
「何がです?」
大原がサラダを探る手を止めた。
「うん……何かね…あれだけごちゃごちゃあった岩見さんが亡くなったのに、何の感慨も残ってないなあって。人一人死んでも、回りは何も変わらないのかなあって。なのに、私達、うろたえて走り回って、一体何をやってるんだろうかなあって」
北野は切った肉をそっと口に入れて噛んだ。肉汁がじんわり染み出て、口の中に広がっていく。
おいしい、と思った瞬間、わけのわからぬ切ないものが、北野の胸にあふれた。
頑張って、頑張って、北野に何が残ったのだろう。
昭吾は去った。岩見は死んだ。明日からも同じような日々が続いていくのだろう。救急カートを押して走って、いろんな患者に笑顔で応えて。入院してくる多くの患者、退院して行く同じ数の患者。患者達の流れの中で、北野に何ができるというのだろう。
「……こんなこと…考えないんだろうなあ……ちゃんとした、看護師なら…」
つぶやいたとたん、北野の頬を涙が伝った。
「北野さん…」
大原がショックを受けた声で呼ぶ。
「何か…あったんですか」
「ううん……プライベートなこと……でも…」
北野はナイフを持ったまま、右手の甲で軽く目を押さえた。それから、心配そうな大原に気づいて、ナイフとフォークを置き、ナプキンで涙をふき取る。
「あの人が危なくなったときね」
話し出して、北野は大原を見た。岩見さんのことですね、と相手が目で確認してくるのに、ゆっくりうなずく。
「ほんの少しためらったんだ。このまま、何もしないでいたら、どうなるだろう、って」
「北野さん」
大原が強ばった顔になった。何度もうなずきながらその目を見返して、
「うん、わかってる。そんなことをするのは最低。でも、一瞬ためらったんだ。いろんなことで頭が一杯になって。亡くなったでしょ? ひょっとして、あの一瞬のせいだったのかも、と思ったり」
「そんなこと…かなり難しかったでしょう? 北野さんの処置の早さでどうにかなったとは思えませんけど」
「うん…だとするとね、あのときに、私がしたことって何だったんだろう。あの一瞬、私がためらったことに何の意味があったんだろう…そう考え出したら、看護師って、何だかわからなくなって」
話すと、胸を責めていた切なさが和らいだ。北野はワインを一口飲むと、再び料理を食べ始めた。
大原は魚料理の、北野は肉料理のコースを頼み、ロゼのワインが来たところで、二人はようやく会話らしいものを交わした。
「では…とりあえず、乾杯」
北野がグラスをあげて見せると、大原が微笑した。
「何に乾杯します?」
「そうだなあ……私の容疑がめでたく晴れたことに……ああ、そうか…」
北野は声を落とした。
「人が死んだのに、乾杯なんて不謹慎よね」
「…では、不謹慎でうろたえつつ、その日その日を暮らしている二人の看護師に乾杯」
大原が澄まして言い、くすりと笑った。北野も釣られて笑みを返し、ワインをそっと口に流し込んだ。
患者が急変し死を迎えても、周囲の世界は何も変わらない。いつもと同じように、食事をし、眠り、泣き、笑い、悩み続けている。そうしてみると、看護師や医師、およそ人の命を引き止めようとする人間達のすることは、何かひどく大きな空回りのように感じることがある。
北野は小さくため息をついた。
グラスを置き、運ばれて来た料理をゆっくりつつきだしながらつぶやく。
「こんな考え方をすることが、看護師としては失格なのかなあ」
「何がです?」
大原がサラダを探る手を止めた。
「うん……何かね…あれだけごちゃごちゃあった岩見さんが亡くなったのに、何の感慨も残ってないなあって。人一人死んでも、回りは何も変わらないのかなあって。なのに、私達、うろたえて走り回って、一体何をやってるんだろうかなあって」
北野は切った肉をそっと口に入れて噛んだ。肉汁がじんわり染み出て、口の中に広がっていく。
おいしい、と思った瞬間、わけのわからぬ切ないものが、北野の胸にあふれた。
頑張って、頑張って、北野に何が残ったのだろう。
昭吾は去った。岩見は死んだ。明日からも同じような日々が続いていくのだろう。救急カートを押して走って、いろんな患者に笑顔で応えて。入院してくる多くの患者、退院して行く同じ数の患者。患者達の流れの中で、北野に何ができるというのだろう。
「……こんなこと…考えないんだろうなあ……ちゃんとした、看護師なら…」
つぶやいたとたん、北野の頬を涙が伝った。
「北野さん…」
大原がショックを受けた声で呼ぶ。
「何か…あったんですか」
「ううん……プライベートなこと……でも…」
北野はナイフを持ったまま、右手の甲で軽く目を押さえた。それから、心配そうな大原に気づいて、ナイフとフォークを置き、ナプキンで涙をふき取る。
「あの人が危なくなったときね」
話し出して、北野は大原を見た。岩見さんのことですね、と相手が目で確認してくるのに、ゆっくりうなずく。
「ほんの少しためらったんだ。このまま、何もしないでいたら、どうなるだろう、って」
「北野さん」
大原が強ばった顔になった。何度もうなずきながらその目を見返して、
「うん、わかってる。そんなことをするのは最低。でも、一瞬ためらったんだ。いろんなことで頭が一杯になって。亡くなったでしょ? ひょっとして、あの一瞬のせいだったのかも、と思ったり」
「そんなこと…かなり難しかったでしょう? 北野さんの処置の早さでどうにかなったとは思えませんけど」
「うん…だとするとね、あのときに、私がしたことって何だったんだろう。あの一瞬、私がためらったことに何の意味があったんだろう…そう考え出したら、看護師って、何だかわからなくなって」
話すと、胸を責めていた切なさが和らいだ。北野はワインを一口飲むと、再び料理を食べ始めた。
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