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第4章
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「これ」
食事が終わってコーヒーを頼んだ後で、ハルはスラックスのポケットに入れていたらしい一枚のタイルを取り出した。
「これ……オープン・イベントのタイル?」
「美並」
「私?」
タイルは鮮やかな紅に塗られている。いや、紅というより、僅かにピンクが入っているのだろうか。それでもくっきりとタイルそのものを輝かせるような色で、それこそどこからどう見ても100円均一のショップで売られているような平凡なタイルなのに、まるで宝石のように目を奪う。
「思い出した」
「あの時の?」
「側に居た、美並」
優しい柔らかな声で続けられてはっとした。
側に居た。
今もここに居るのに、ハルには美並がここに居ないことがわかっている。自分と映画を見、食事を楽しんでいるはずの相手が、ここには居ない誰かと一緒に居ることが。
「ハルくん」
「不愉快」
言い返しながら、ハルはくすりと笑った。
「ガキ」
「……京介?」
「……」
無言で唇の端で笑い返してくる。
高校生にガキと言われてしまっては救いようがないかもしれないが、確かに今のハルにすれば、京介は自分の気持ちを持て余している子どもにしか見えないだろう。
「私も、でしょ」
「いい」
美並は。
「見る」
ぽつぽつことばを並べたハルが、すっと視線を逸らせて、
「きつい」
穏やかに言った声にいたわりがあった。
「あ…ああ、うん、でも、あの、それは」
見る間に視界が滲んでしまったのは、ハルのことばがまっすぐすぎるからだろうか。
見えることを負担にしている、見えることを背負っている、見えることで苦しんでいる、見えることで悩んでいる。
幾つものことばを重ねあわせても、どこかで緩んでしまうその意味を、たった一言で表すとすれば、そうなるだろう、そうとしか言えないだろう。
なぜそれをハルがわかる。なぜそれをハルが表現できるのか、美並の代わりに。
「そっか…」
芸術の力。
ハルは、その才能でもって、一つの世界の高いところに辿りついている。同じ高さで見ると、違う分野であっても、同じ高みは見えるに違いない。別の高みを表現する術は拙くても、伝えるべき事柄の真髄は確かに掴んでいる。
だからこそ、ハルのことばは真実を貫いてしまう、幼い簡単なことばだけで。
そしてそれを「きつい」と言えたのは、ハルもまた、同じ傷みを経過した時間があったからだ。同じ重荷を背負い、同じ苦しみを抱え、同じ悩みに潰されそうになったからだ。
それを通り過ぎて今がある、だからこそ、美並の今居る場所が的確に見えるのだ。
「うん……」
きつい。
きついよ、ハルくん。
俯いて、曝けてしまった。
「どうしたら…いい…?」
どうすれば、生きていける。
「京介の、側で」
「ばか」
罵倒もまた、甘く。
「ごめん」
「……ばか」
今度は自分に向けてだとわかった。
「………ばかばっか」
京介も追加されたらしい。
「でも」
綺麗。
「え?」
「許す」
綺麗だから。
「ハルくん…」
「それ、あげるよ、美並」
芸術家は綺麗なものには全敗するんだ。
大人びたことばを紡ぐと、ハルは微笑み、ふいに顔を引き締めた。
「さっきの赤」
「うん」
「見た」
「………えっ」
一瞬ぐしゃ、と頭のどこかで何かが壊された気がした。
「見た?」
ハルが? 『羽鳥』の赤を? どこで? いつ? どうやって?
立て続けの疑問が吹き上がる頭がくらりとして、美並はタイルを握り締めたまま、コーヒーを一口飲んだ。
「待って、ハルくん、さっきの赤って」
私の中にあった赤、だよね?
「あそこのカーテン、右前のスカート、左後の皿のピーマン」
「は?」
ハルが指先を素早く動かして指し示したのは数種類の赤。
「52%、33%、15%」
「え…?」
「近い」
「……えーと…その…」
どうやらハルはその『赤』を手近のものをパレットに見立て、その配色をある比率で混合するとできる、そう言っているらしい。
「わかりにくい、んだけど」
「『腐った血の色』」
「ぶ」
思わずコーヒーを吹きかけた。
ハルは平然としたものだ。以前やりあった評論家が同系色の似た色を、そう表現したと言い添えた。
「その、色を見たことがある?」
「見た」
「それは…」
ごくりと唾を呑む。
「人、に?」
「人」
つまり、ハルはそれと知らずに『羽鳥』に会ったことがあるのだ。
「どこで?」
「土手」
「土手って…あの土手?」
「絵」
「うん、赤い空の?」
「破いた」
「え…っ」
あそこにあった破かれた絵は一枚ではなかった、のか。
「じゃ、じゃあ、それって」
10年ほど前、まさにコンビニ事件のただ中だ。
「顔、覚えてる?」
「覚えてる」
「今見てもわかる?」
「わかる」
ハルはきっぱり言い切った。
「でも、10年もたったら変わるんじゃない?」
「変わってない」
ハルは静かに首を振った。
「同じ色」
10年前も、今も。
食事が終わってコーヒーを頼んだ後で、ハルはスラックスのポケットに入れていたらしい一枚のタイルを取り出した。
「これ……オープン・イベントのタイル?」
「美並」
「私?」
タイルは鮮やかな紅に塗られている。いや、紅というより、僅かにピンクが入っているのだろうか。それでもくっきりとタイルそのものを輝かせるような色で、それこそどこからどう見ても100円均一のショップで売られているような平凡なタイルなのに、まるで宝石のように目を奪う。
「思い出した」
「あの時の?」
「側に居た、美並」
優しい柔らかな声で続けられてはっとした。
側に居た。
今もここに居るのに、ハルには美並がここに居ないことがわかっている。自分と映画を見、食事を楽しんでいるはずの相手が、ここには居ない誰かと一緒に居ることが。
「ハルくん」
「不愉快」
言い返しながら、ハルはくすりと笑った。
「ガキ」
「……京介?」
「……」
無言で唇の端で笑い返してくる。
高校生にガキと言われてしまっては救いようがないかもしれないが、確かに今のハルにすれば、京介は自分の気持ちを持て余している子どもにしか見えないだろう。
「私も、でしょ」
「いい」
美並は。
「見る」
ぽつぽつことばを並べたハルが、すっと視線を逸らせて、
「きつい」
穏やかに言った声にいたわりがあった。
「あ…ああ、うん、でも、あの、それは」
見る間に視界が滲んでしまったのは、ハルのことばがまっすぐすぎるからだろうか。
見えることを負担にしている、見えることを背負っている、見えることで苦しんでいる、見えることで悩んでいる。
幾つものことばを重ねあわせても、どこかで緩んでしまうその意味を、たった一言で表すとすれば、そうなるだろう、そうとしか言えないだろう。
なぜそれをハルがわかる。なぜそれをハルが表現できるのか、美並の代わりに。
「そっか…」
芸術の力。
ハルは、その才能でもって、一つの世界の高いところに辿りついている。同じ高さで見ると、違う分野であっても、同じ高みは見えるに違いない。別の高みを表現する術は拙くても、伝えるべき事柄の真髄は確かに掴んでいる。
だからこそ、ハルのことばは真実を貫いてしまう、幼い簡単なことばだけで。
そしてそれを「きつい」と言えたのは、ハルもまた、同じ傷みを経過した時間があったからだ。同じ重荷を背負い、同じ苦しみを抱え、同じ悩みに潰されそうになったからだ。
それを通り過ぎて今がある、だからこそ、美並の今居る場所が的確に見えるのだ。
「うん……」
きつい。
きついよ、ハルくん。
俯いて、曝けてしまった。
「どうしたら…いい…?」
どうすれば、生きていける。
「京介の、側で」
「ばか」
罵倒もまた、甘く。
「ごめん」
「……ばか」
今度は自分に向けてだとわかった。
「………ばかばっか」
京介も追加されたらしい。
「でも」
綺麗。
「え?」
「許す」
綺麗だから。
「ハルくん…」
「それ、あげるよ、美並」
芸術家は綺麗なものには全敗するんだ。
大人びたことばを紡ぐと、ハルは微笑み、ふいに顔を引き締めた。
「さっきの赤」
「うん」
「見た」
「………えっ」
一瞬ぐしゃ、と頭のどこかで何かが壊された気がした。
「見た?」
ハルが? 『羽鳥』の赤を? どこで? いつ? どうやって?
立て続けの疑問が吹き上がる頭がくらりとして、美並はタイルを握り締めたまま、コーヒーを一口飲んだ。
「待って、ハルくん、さっきの赤って」
私の中にあった赤、だよね?
「あそこのカーテン、右前のスカート、左後の皿のピーマン」
「は?」
ハルが指先を素早く動かして指し示したのは数種類の赤。
「52%、33%、15%」
「え…?」
「近い」
「……えーと…その…」
どうやらハルはその『赤』を手近のものをパレットに見立て、その配色をある比率で混合するとできる、そう言っているらしい。
「わかりにくい、んだけど」
「『腐った血の色』」
「ぶ」
思わずコーヒーを吹きかけた。
ハルは平然としたものだ。以前やりあった評論家が同系色の似た色を、そう表現したと言い添えた。
「その、色を見たことがある?」
「見た」
「それは…」
ごくりと唾を呑む。
「人、に?」
「人」
つまり、ハルはそれと知らずに『羽鳥』に会ったことがあるのだ。
「どこで?」
「土手」
「土手って…あの土手?」
「絵」
「うん、赤い空の?」
「破いた」
「え…っ」
あそこにあった破かれた絵は一枚ではなかった、のか。
「じゃ、じゃあ、それって」
10年ほど前、まさにコンビニ事件のただ中だ。
「顔、覚えてる?」
「覚えてる」
「今見てもわかる?」
「わかる」
ハルはきっぱり言い切った。
「でも、10年もたったら変わるんじゃない?」
「変わってない」
ハルは静かに首を振った。
「同じ色」
10年前も、今も。
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