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第4章
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「これが最後でしょ」
「ううん、もう一台あるわよ、でも」
美並が電車を降りて改札を通り過ぎるとき、入れ違いに入ってきた女性達がくすくすと笑いながら背後を振り返る。
「恵子は乗れないわよね」
恵子。
思わず振り向く美並に気づかず、華やかな色のスーツ姿の、どこかで気楽な会合を楽しんできた奥樣方と言った気配の彼女達が笑い声を上げる。
「旦那も旦那だろうけど」
恵子も恵子よねえ。
「昔からあちこち騒がれるのが好きだけど、今度はちょっとやりすぎよぉ」
笑い声に苦笑まじりの溜め息。
「義弟となんて小説の読みすぎ」
「ああ私、一度見かけたことがあるわよ」
得意げな声が響いた。
「『ハイウィンド・リール』のロビーで。恵子のマフラーを首に蝶結びされて」
そりゃ可愛いらしいったら、憎らしいほど。
まさか、それは、真崎のことか。
背筋を冷たい怒りが走った。
偶然にしてはできすぎた合致、似ている出来事と考える方が不自然だ。
あの時だろうか、真崎が恵子に孝のことをネタに連れ込まれた日。戻った真崎は疲弊していて今にも死にそうだったけれど、恵子のマフラーの蝶結びなんて。
「そんなことされて大人しくしてたって?」
呟いた自分の声がうっとうしいほど暗い。
嫌々だと訴えた、男の性もある、仕方がないのだろうと思っていた部分をぐさりと貫かれて美並は唇を噛む。
本当にそうか?
それは美並の都合のいい妄想、自分が好かれていると思いたい気持ちが先走っただけであって、実は真崎も恵子との逢瀬を楽しんでいたのではないのか、心の底で。
「兄弟二人を相手になんて、ねえ」
嘲る声は低められて見る見る遠ざかっていく。
その集団に無理に背中を向けて、美並はアスファルトを蹴りつけて歩く。
ハルと別れた後感じた不愉快な感覚、真崎が誰かと今一緒に居る、お互いを貪り合って過ごしている、そう想像してしまった自分と、今しがた聞いた会話が噛み合って、ぎちぎちと心臓を鈍くすりあわせている。
細かい雨が降っていたのが、少しずつまばらになり止んでいった。
真崎のマンションの入り口を擦り抜けるようにして入っていく時に、ふと視界の端に濡れた床が掠める。
まるでずぶ濡れの誰かがそこに立って誰かを待っていたような。
瞬間、耳の奥に微かな吐き気を伴った声が響く。
盗らないで。
盗らないで。
私からその人を盗らないで。
「んっ」
思わず口を押さえて襲っためまいを堪えた。
「なに?」
もう一度濡れた床に視線を向ける。何も聞こえない。何も感じない。けれど、その声には覚えがあり、この感覚にはくっきりとした映像が伴っている。
冴え冴えとした月光。
静まり返った山の、澄み渡った空気の中に沈む墓標の群れ。
まさか。
微かに震えが走って、エレベーターと、その辿り着く先を見上げた。
「違う、よね」
自分の声が震えている。
すれ違った女性のことば。濡れた床。耳に響いたこの声と、視界の裏を満たす月光。
それらが何を語っているのか、美並は痛いほどに知っている。それらが何を告げているのか、その偶然は必然と呼ばれる合図でもある。
盗らないで。
盗らないで。
その人を私から盗らないで。
エレベーターのボタンを叩き付けるように押す。
頭の中で勝手に鳴り響く声が切なく寂しく訴える。
だって、その人は唯一の。
唯一、美並の能力ごと受け入れてくれた、未来を一緒に歩けそうな、ただ一人の。
「違うじゃないか」
意識の遠く、その声を届けてきた恵子の幻影に向かって唸る。
「違うだろ」
あなたには何人も相手が居た。孝という恋人、大輔という夫、そして京介。
恋人に満足しなかったのはあなたじゃないのか。夫に納得しなかったのはあなたじゃないか。あなたが選びあなたが見初め、あなたが手に入れたものがその瞬間から色褪せしなびていったとしても、それは他の誰のせいでもないのに、まるで壊れたおもちゃが勝手にどこかに落ちていったように容赦なく切り捨てて、次のおもちゃを探し回る。
「何が一人だ」
自分のわがままを通したいがための、自分の欲望を完全に満たしたいがための願い。
「そんなものが一人なもんか」
一人というのは。
一人で居る、というのは。
「くっ」
脳裏で鮮烈に輝く紅い花。
雪の上に落ちて、どこまでも凍りつく光景に、ただ、一つ。
「ううん、もう一台あるわよ、でも」
美並が電車を降りて改札を通り過ぎるとき、入れ違いに入ってきた女性達がくすくすと笑いながら背後を振り返る。
「恵子は乗れないわよね」
恵子。
思わず振り向く美並に気づかず、華やかな色のスーツ姿の、どこかで気楽な会合を楽しんできた奥樣方と言った気配の彼女達が笑い声を上げる。
「旦那も旦那だろうけど」
恵子も恵子よねえ。
「昔からあちこち騒がれるのが好きだけど、今度はちょっとやりすぎよぉ」
笑い声に苦笑まじりの溜め息。
「義弟となんて小説の読みすぎ」
「ああ私、一度見かけたことがあるわよ」
得意げな声が響いた。
「『ハイウィンド・リール』のロビーで。恵子のマフラーを首に蝶結びされて」
そりゃ可愛いらしいったら、憎らしいほど。
まさか、それは、真崎のことか。
背筋を冷たい怒りが走った。
偶然にしてはできすぎた合致、似ている出来事と考える方が不自然だ。
あの時だろうか、真崎が恵子に孝のことをネタに連れ込まれた日。戻った真崎は疲弊していて今にも死にそうだったけれど、恵子のマフラーの蝶結びなんて。
「そんなことされて大人しくしてたって?」
呟いた自分の声がうっとうしいほど暗い。
嫌々だと訴えた、男の性もある、仕方がないのだろうと思っていた部分をぐさりと貫かれて美並は唇を噛む。
本当にそうか?
それは美並の都合のいい妄想、自分が好かれていると思いたい気持ちが先走っただけであって、実は真崎も恵子との逢瀬を楽しんでいたのではないのか、心の底で。
「兄弟二人を相手になんて、ねえ」
嘲る声は低められて見る見る遠ざかっていく。
その集団に無理に背中を向けて、美並はアスファルトを蹴りつけて歩く。
ハルと別れた後感じた不愉快な感覚、真崎が誰かと今一緒に居る、お互いを貪り合って過ごしている、そう想像してしまった自分と、今しがた聞いた会話が噛み合って、ぎちぎちと心臓を鈍くすりあわせている。
細かい雨が降っていたのが、少しずつまばらになり止んでいった。
真崎のマンションの入り口を擦り抜けるようにして入っていく時に、ふと視界の端に濡れた床が掠める。
まるでずぶ濡れの誰かがそこに立って誰かを待っていたような。
瞬間、耳の奥に微かな吐き気を伴った声が響く。
盗らないで。
盗らないで。
私からその人を盗らないで。
「んっ」
思わず口を押さえて襲っためまいを堪えた。
「なに?」
もう一度濡れた床に視線を向ける。何も聞こえない。何も感じない。けれど、その声には覚えがあり、この感覚にはくっきりとした映像が伴っている。
冴え冴えとした月光。
静まり返った山の、澄み渡った空気の中に沈む墓標の群れ。
まさか。
微かに震えが走って、エレベーターと、その辿り着く先を見上げた。
「違う、よね」
自分の声が震えている。
すれ違った女性のことば。濡れた床。耳に響いたこの声と、視界の裏を満たす月光。
それらが何を語っているのか、美並は痛いほどに知っている。それらが何を告げているのか、その偶然は必然と呼ばれる合図でもある。
盗らないで。
盗らないで。
その人を私から盗らないで。
エレベーターのボタンを叩き付けるように押す。
頭の中で勝手に鳴り響く声が切なく寂しく訴える。
だって、その人は唯一の。
唯一、美並の能力ごと受け入れてくれた、未来を一緒に歩けそうな、ただ一人の。
「違うじゃないか」
意識の遠く、その声を届けてきた恵子の幻影に向かって唸る。
「違うだろ」
あなたには何人も相手が居た。孝という恋人、大輔という夫、そして京介。
恋人に満足しなかったのはあなたじゃないのか。夫に納得しなかったのはあなたじゃないか。あなたが選びあなたが見初め、あなたが手に入れたものがその瞬間から色褪せしなびていったとしても、それは他の誰のせいでもないのに、まるで壊れたおもちゃが勝手にどこかに落ちていったように容赦なく切り捨てて、次のおもちゃを探し回る。
「何が一人だ」
自分のわがままを通したいがための、自分の欲望を完全に満たしたいがための願い。
「そんなものが一人なもんか」
一人というのは。
一人で居る、というのは。
「くっ」
脳裏で鮮烈に輝く紅い花。
雪の上に落ちて、どこまでも凍りつく光景に、ただ、一つ。
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