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第4章
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電話を切って、風呂に入って、ことさらごしごしと体を洗って、上がった時は2時を回っていた。
身動き出来ない社会の裏側を、今美並は有沢と覗き込んでいる。不安定な足下に手を伸ばして探れば、支えてくれるのは真崎の涼やかな笑みではなくて、有沢の熱っぽい腕の感覚で。
自分の存在が本当に役立つのは、真崎の側ではなくて、ひょっとしたら有沢の側、なのだろうか。
「……」
携帯の有沢の番号に一つの曲を設定した、真崎のそれと同じように。
それは有沢の電話を待つという意味、それを自分は本当にわかっているんだろうか。
「京介」
声が、聞こえません。
顔が、見えない。
どうして今、ここにいないの?
唇を噛んで、ベッドに潜り目を閉じる。
いつかこの部屋に真崎が居た、それが幻のように遠く感じる。
うつうつと反転を繰り返す寝床で、奇妙な夢を見た。
「京介、どこ?」
闇の道を彷徨い歩く。
「美並」
「京介」
ようやく見つけた相手を抱き締めて、互いに唇を重ね合う。
と、ふいに掌の中の腕の感触がくしゅりと潰れた。
力をいれると果てしなく握り込めそうな実体感のなさ、目の前の京介の顔がぼやけて、眼鏡の奥の瞳がますます平に、やがてボタンかスパンコールのように無機物的な黒い塊になり、どうみてもぬいぐるみに変わってしまう。
「キス」
虚ろな声でよびかけてきて我に返った。
「正体が見えてますよ」
「オネガイ」
「ぬいぐるみですか、それとも」
自分の中の暗闇に苦笑する。
「懐かしい顔の亡霊ですか」
「ミナミ」
どうして、見捨てた?
つぶやきは美並の傷みを抉る。
「救いを求めたのに」
助けてくれと願ったのに。
「他には何もなかったのに」
お前しかいなかったのに。
大石だろうか、有沢だろうか、それともこれから見捨てることになるかもしれない京介だろうか。
繰り返す声は怨嗟と呪詛に満ちている、けれど美並はそれを耳にしたまま、握り締めた掌から熱を送り込む、命の熱を、今生きている強い願いを。
「お願い」
相手のことばより遥かに強く呼びかける。
「京介、ここに来て下さい」
視界の奥を掠める真白な雪の庭。
「ミナミ、ボクハ、ココニ」
くしゅくしゅのぬいぐるみが機械的な声で応じる。
それをなおも抱き締めて願う。
「京介」
私の声を聴き取って。
落ちる紅、命を抱えて。
また一つ、美並は失ってしまうのか。
「ミナミ」
平坦な声に目を閉じる。体の内側の闇の孤独と傷を見つめる。
ずっと一人で生きてきた。ずっと一人で生きていくつもりだった。それでも、今この時、愛しい人を抱き締めて歩く幸福を、大事な人が笑い返す喜びを、美並は必要としている。
「だって、私はずっと」
一人が辛かったんです。
落ちても花でいる。
踏みにじられてもまた花のままで。
そうやって気を張って、一歩も引くまいと、ただ気を張って。
それでもずっと。
閉じた視界を濡らして溢れる、真珠色の光。胸の内の空虚に滴り、零れ落ちていく甘やかな祈り。
「誰かを、待っていた」
押しつぶされそうな、この重圧の中で。
「もういいよ、と言ってくれるのを」
もう一人で背負わなくていい、そう笑ってくれる存在を。
「一緒に行こうって」
一緒に生きようって。
約束してくれたのはただ一人。
約束を守ろうと必死にあがいてくれているのも、ただ一人。
傷だらけの命の中で、
『美並』
その笑顔をどれほど望んでいるだろう。
目を開いた。ぬいぐるみになった京介の顔に微笑みかける。
「京介」
私を、見つけて。
「迷子になっちゃいました、私」
京介。
呼ぶ声が溢れる涙に途切れた。
身動き出来ない社会の裏側を、今美並は有沢と覗き込んでいる。不安定な足下に手を伸ばして探れば、支えてくれるのは真崎の涼やかな笑みではなくて、有沢の熱っぽい腕の感覚で。
自分の存在が本当に役立つのは、真崎の側ではなくて、ひょっとしたら有沢の側、なのだろうか。
「……」
携帯の有沢の番号に一つの曲を設定した、真崎のそれと同じように。
それは有沢の電話を待つという意味、それを自分は本当にわかっているんだろうか。
「京介」
声が、聞こえません。
顔が、見えない。
どうして今、ここにいないの?
唇を噛んで、ベッドに潜り目を閉じる。
いつかこの部屋に真崎が居た、それが幻のように遠く感じる。
うつうつと反転を繰り返す寝床で、奇妙な夢を見た。
「京介、どこ?」
闇の道を彷徨い歩く。
「美並」
「京介」
ようやく見つけた相手を抱き締めて、互いに唇を重ね合う。
と、ふいに掌の中の腕の感触がくしゅりと潰れた。
力をいれると果てしなく握り込めそうな実体感のなさ、目の前の京介の顔がぼやけて、眼鏡の奥の瞳がますます平に、やがてボタンかスパンコールのように無機物的な黒い塊になり、どうみてもぬいぐるみに変わってしまう。
「キス」
虚ろな声でよびかけてきて我に返った。
「正体が見えてますよ」
「オネガイ」
「ぬいぐるみですか、それとも」
自分の中の暗闇に苦笑する。
「懐かしい顔の亡霊ですか」
「ミナミ」
どうして、見捨てた?
つぶやきは美並の傷みを抉る。
「救いを求めたのに」
助けてくれと願ったのに。
「他には何もなかったのに」
お前しかいなかったのに。
大石だろうか、有沢だろうか、それともこれから見捨てることになるかもしれない京介だろうか。
繰り返す声は怨嗟と呪詛に満ちている、けれど美並はそれを耳にしたまま、握り締めた掌から熱を送り込む、命の熱を、今生きている強い願いを。
「お願い」
相手のことばより遥かに強く呼びかける。
「京介、ここに来て下さい」
視界の奥を掠める真白な雪の庭。
「ミナミ、ボクハ、ココニ」
くしゅくしゅのぬいぐるみが機械的な声で応じる。
それをなおも抱き締めて願う。
「京介」
私の声を聴き取って。
落ちる紅、命を抱えて。
また一つ、美並は失ってしまうのか。
「ミナミ」
平坦な声に目を閉じる。体の内側の闇の孤独と傷を見つめる。
ずっと一人で生きてきた。ずっと一人で生きていくつもりだった。それでも、今この時、愛しい人を抱き締めて歩く幸福を、大事な人が笑い返す喜びを、美並は必要としている。
「だって、私はずっと」
一人が辛かったんです。
落ちても花でいる。
踏みにじられてもまた花のままで。
そうやって気を張って、一歩も引くまいと、ただ気を張って。
それでもずっと。
閉じた視界を濡らして溢れる、真珠色の光。胸の内の空虚に滴り、零れ落ちていく甘やかな祈り。
「誰かを、待っていた」
押しつぶされそうな、この重圧の中で。
「もういいよ、と言ってくれるのを」
もう一人で背負わなくていい、そう笑ってくれる存在を。
「一緒に行こうって」
一緒に生きようって。
約束してくれたのはただ一人。
約束を守ろうと必死にあがいてくれているのも、ただ一人。
傷だらけの命の中で、
『美並』
その笑顔をどれほど望んでいるだろう。
目を開いた。ぬいぐるみになった京介の顔に微笑みかける。
「京介」
私を、見つけて。
「迷子になっちゃいました、私」
京介。
呼ぶ声が溢れる涙に途切れた。
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