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第5章
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宇野みさとは『さわやかルーム』に通っていた。
一人暮らし、73歳。まだまだこれからよねと笑う顔は、子ども二人を事故で亡くし、夫を数年前に見送ったとは思えないほど穏やかで。
それでも、見えない病魔が体の中に生きていた。
デイサービス中に倒れて、病院へ搬送され、駆けつけたのはその朝自宅へ迎えに行った美並だった。静かな部屋、病衣を着せられ、ベッドに横たわる宇野の腕は思っていたよりうんと細くて。その腕に透明な袋から点滴が繋がれていた。
「伊吹ちゃん」
「宇野さん…」
伊吹さんではなく、美並ちゃんでもなく、そう呼ぶのは宇野だけだった。理由を聞くと、寂しいでしょと答えた。だって身内でもないのに、名前呼びなんてしたら、忘れられなくなっちゃうでしょ。
「倒れちゃった」
微笑む顔はこんなに青白かっただろうか。声はこれほど弱かっただろうか。
「無理しすぎですよって怒られたわ」
「…悪かったんですか」
「治療はしないって決めてたの。告知を受けたときに」
私は私の生き方を試して見たかった。
「こんな風に迷惑かけたり………心配させるなら、受けとくべきだったかしら」
溢れた美並の涙を案じてくれた。
「いいえ……いいえ!」
椅子に座って、差し伸べられた手を握った。
「伊吹ちゃんのことも美並ちゃんって呼んで」
「いいえ」
「家に来てよって誘って」
「いいえ」
「苦手な料理を頑張って練習して食べてもらったり」
「いいえ」
「とりあえず部屋を片付けて見たり……ああ、痛み止めの頓服隠しておかなきゃならなかっただろうけど」
伊吹ちゃん、よく見てるから。
「いいえ、いいえ、いいえ宇野さん!」
医師は数日持たないと『さわやかルーム』の職員に告げていた、身内はほとんどおらず、関わっているのは施設だけだったから。
折れそうな細い手を両手で握りしめて額をつける。
「いいえ、宇野さん、そのままで、望むままに、どうぞ」
あなたのままに。
あなたが生きたかった、そのままに。
「ああ、良かった、伊吹ちゃんで」
宇野は笑った。
「伊吹ちゃんならそう言ってくれると思ってた」
楽しげに、嬉しそうに、それでも少し息を弾ませながら。
「忘れてね」
静かな声で呟いた。
「私が死んだら忘れてね」
死人は重荷になるものよ。
「死んだ後の時間をあれこれ考えて、その分まで背負ってしまう」
先に逝く者の聡明さで、いずれ美並が関わる生死を見届けてでもいたのだろうか。
まさに美並は背負った、大石の死を、孝の死を、そして、有沢の死を。
「けれど、死んだら、そこで終わりなの」
その先はあなたの世界には存在しない。
「だから気にしなくていいの。あなたはあなたの人生を生きるのよ」
その瞬間に、後悔しないように精一杯。
「私は後悔してないわ」
宇野は伊吹の手から自分の手を抜き、泣きじゃくる伊吹の頭を撫でた。
「だから、忘れて、伊吹ちゃん」
囁いた途端、指から力が消えて滑り落ちた。微笑みながら息を引く。薄目を開けた視線が固まる。
背後でドアが鳴り、駆け去る足音が響き渡る、医師を求めるけたたましい叫びとともに。
「宇野さん?」
有沢の声が美並を引き戻した。
「……昔の、知り合いです」
大石を忘れず探し回ったのは、自殺だったからだけではない、愛しい人だったからでもない、過去に助けられなかったからだけでもない、きっとこの記憶が、失ったはずの過去から呼びかけていて。
忘れて欲しいから、繋がりを作らなかった老婦人の生き方もまた真実だと気が付いて。
けれど美並は忘れたくなくて。
宇野の望むようにしてやりたかった、同時に忘れたくない自分の気持ちも捨てられなかった。
苦しくて悲しい思い出だけの場所だと思っていた『さわやかルーム』の記憶が、全く別の形で蘇り笑いかけてくる。
「…有沢さん」
「はい?」
「後悔、していますか?」
「今ですか」
有沢が苦笑する。
「してますよ、してるに決まっているでしょう。このままじゃ死ぬに死ねない。大輔を落としきっていない、『羽鳥』がまだ捕まっていない……あなたに愛してももらっていない」
言い放った有沢に微笑む。
「死ぬからって、願いを叶えなくていいですよね」
「は?」
「忘れてくれと言われたって、忘れなくていい」
そうだ、確かに宇野は言った、気にしなくていい、美並は美並の人生を生きればいいと。
「…伊吹さん?」
「私も今、過去からの褒美と言うのを受け取りました」
もう一度背中を押される、進め、怯むな、と。
「では、戻ります」
凝視する有沢の視線を浴びたまま立ち上がった。
「たとえ、これが最後の別れでも?」
有沢が低く尋ねた。
「次に私はあなたに会えないかも知れない」
そうやって見捨ててしまっていいんですか。今あなたのために頑張っている男がここに居る。
瞳が引き止める、いつかの夜のように、一瞬でいいから落ちてくれ、と。
「…有沢さん」
優しく語りかけた。
少し落ち窪んだ目の、次第に痩けていく頬の、無精髭が目立ち出した顔に、静かに頭を下げる。
「あなたに、敬意を……その、努力、全てに」
「伊吹さん?」
「いずれ私も世界から離れる」
顔を上げると有沢が笑みを消した。自分の手駒だった『死』を、さらりと突き返されて戸惑っている。
そうだいずれ美並もまた、この明るい世界を離れ、見知らぬ場所に踏み込んでいく。
その刻はこの一瞬後かもしれない、ただ知らされていないだけで。
有沢と何の違いがある。
「忘れてください、私のことを。そして、どうか」
あなたの人生を全うして。
「伊吹さん……」
「失礼します。ああ、それから」
部屋を出る前に伝える。
「赤来課長の指紋が取れたら檜垣さんに伝えます」
「え…伊吹さんっ」
うろたえて体を起こす有沢に頷く。
「もう少しです、頑張って」
閉まるドアの向こうで、有沢が叫ぶ。
「待ってください、今なんて……伊吹さん、あなたまた、無茶を!」
美並は笑って歩き出した。
一人暮らし、73歳。まだまだこれからよねと笑う顔は、子ども二人を事故で亡くし、夫を数年前に見送ったとは思えないほど穏やかで。
それでも、見えない病魔が体の中に生きていた。
デイサービス中に倒れて、病院へ搬送され、駆けつけたのはその朝自宅へ迎えに行った美並だった。静かな部屋、病衣を着せられ、ベッドに横たわる宇野の腕は思っていたよりうんと細くて。その腕に透明な袋から点滴が繋がれていた。
「伊吹ちゃん」
「宇野さん…」
伊吹さんではなく、美並ちゃんでもなく、そう呼ぶのは宇野だけだった。理由を聞くと、寂しいでしょと答えた。だって身内でもないのに、名前呼びなんてしたら、忘れられなくなっちゃうでしょ。
「倒れちゃった」
微笑む顔はこんなに青白かっただろうか。声はこれほど弱かっただろうか。
「無理しすぎですよって怒られたわ」
「…悪かったんですか」
「治療はしないって決めてたの。告知を受けたときに」
私は私の生き方を試して見たかった。
「こんな風に迷惑かけたり………心配させるなら、受けとくべきだったかしら」
溢れた美並の涙を案じてくれた。
「いいえ……いいえ!」
椅子に座って、差し伸べられた手を握った。
「伊吹ちゃんのことも美並ちゃんって呼んで」
「いいえ」
「家に来てよって誘って」
「いいえ」
「苦手な料理を頑張って練習して食べてもらったり」
「いいえ」
「とりあえず部屋を片付けて見たり……ああ、痛み止めの頓服隠しておかなきゃならなかっただろうけど」
伊吹ちゃん、よく見てるから。
「いいえ、いいえ、いいえ宇野さん!」
医師は数日持たないと『さわやかルーム』の職員に告げていた、身内はほとんどおらず、関わっているのは施設だけだったから。
折れそうな細い手を両手で握りしめて額をつける。
「いいえ、宇野さん、そのままで、望むままに、どうぞ」
あなたのままに。
あなたが生きたかった、そのままに。
「ああ、良かった、伊吹ちゃんで」
宇野は笑った。
「伊吹ちゃんならそう言ってくれると思ってた」
楽しげに、嬉しそうに、それでも少し息を弾ませながら。
「忘れてね」
静かな声で呟いた。
「私が死んだら忘れてね」
死人は重荷になるものよ。
「死んだ後の時間をあれこれ考えて、その分まで背負ってしまう」
先に逝く者の聡明さで、いずれ美並が関わる生死を見届けてでもいたのだろうか。
まさに美並は背負った、大石の死を、孝の死を、そして、有沢の死を。
「けれど、死んだら、そこで終わりなの」
その先はあなたの世界には存在しない。
「だから気にしなくていいの。あなたはあなたの人生を生きるのよ」
その瞬間に、後悔しないように精一杯。
「私は後悔してないわ」
宇野は伊吹の手から自分の手を抜き、泣きじゃくる伊吹の頭を撫でた。
「だから、忘れて、伊吹ちゃん」
囁いた途端、指から力が消えて滑り落ちた。微笑みながら息を引く。薄目を開けた視線が固まる。
背後でドアが鳴り、駆け去る足音が響き渡る、医師を求めるけたたましい叫びとともに。
「宇野さん?」
有沢の声が美並を引き戻した。
「……昔の、知り合いです」
大石を忘れず探し回ったのは、自殺だったからだけではない、愛しい人だったからでもない、過去に助けられなかったからだけでもない、きっとこの記憶が、失ったはずの過去から呼びかけていて。
忘れて欲しいから、繋がりを作らなかった老婦人の生き方もまた真実だと気が付いて。
けれど美並は忘れたくなくて。
宇野の望むようにしてやりたかった、同時に忘れたくない自分の気持ちも捨てられなかった。
苦しくて悲しい思い出だけの場所だと思っていた『さわやかルーム』の記憶が、全く別の形で蘇り笑いかけてくる。
「…有沢さん」
「はい?」
「後悔、していますか?」
「今ですか」
有沢が苦笑する。
「してますよ、してるに決まっているでしょう。このままじゃ死ぬに死ねない。大輔を落としきっていない、『羽鳥』がまだ捕まっていない……あなたに愛してももらっていない」
言い放った有沢に微笑む。
「死ぬからって、願いを叶えなくていいですよね」
「は?」
「忘れてくれと言われたって、忘れなくていい」
そうだ、確かに宇野は言った、気にしなくていい、美並は美並の人生を生きればいいと。
「…伊吹さん?」
「私も今、過去からの褒美と言うのを受け取りました」
もう一度背中を押される、進め、怯むな、と。
「では、戻ります」
凝視する有沢の視線を浴びたまま立ち上がった。
「たとえ、これが最後の別れでも?」
有沢が低く尋ねた。
「次に私はあなたに会えないかも知れない」
そうやって見捨ててしまっていいんですか。今あなたのために頑張っている男がここに居る。
瞳が引き止める、いつかの夜のように、一瞬でいいから落ちてくれ、と。
「…有沢さん」
優しく語りかけた。
少し落ち窪んだ目の、次第に痩けていく頬の、無精髭が目立ち出した顔に、静かに頭を下げる。
「あなたに、敬意を……その、努力、全てに」
「伊吹さん?」
「いずれ私も世界から離れる」
顔を上げると有沢が笑みを消した。自分の手駒だった『死』を、さらりと突き返されて戸惑っている。
そうだいずれ美並もまた、この明るい世界を離れ、見知らぬ場所に踏み込んでいく。
その刻はこの一瞬後かもしれない、ただ知らされていないだけで。
有沢と何の違いがある。
「忘れてください、私のことを。そして、どうか」
あなたの人生を全うして。
「伊吹さん……」
「失礼します。ああ、それから」
部屋を出る前に伝える。
「赤来課長の指紋が取れたら檜垣さんに伝えます」
「え…伊吹さんっ」
うろたえて体を起こす有沢に頷く。
「もう少しです、頑張って」
閉まるドアの向こうで、有沢が叫ぶ。
「待ってください、今なんて……伊吹さん、あなたまた、無茶を!」
美並は笑って歩き出した。
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