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第5章
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冬の風が穏やかに吹いていた。
「あそこですか?」
「そうです」
頷く有沢は車椅子に座った体をゆっくり振り返らせる。
「重いでしょう?」
「大丈夫ですよ」
美並は微笑む。
「慣れてますから」
応えた瞬間、まるで時間が全て巻き戻って『さわやかルーム』に居る時に戻ったような気がした。
「ああ、そうでしたね」
苦笑する有沢はマスクを着けて日差しの中で微かに笑う。
顔色は良くなかった。病院から最後の外出的な気配で送り出されるのも道理、何かあったら連絡をと教えられた電話番号にかければ、すぐに救急が手配されるらしい。何より、いつか喫茶店で扉を押さえた逞しい体つきが消え失せて、美並が車椅子を押して段差を超えられるほど軽くなっている。
身内はもういませんから、私が死ねば、同じところへ埋葬されるんです。
微笑みながら話す有沢には、既に違う世界を見ているような気配があった。
横断歩道の信号が変わる。車椅子を押して道路を渡る美並に、車が早めにブレーキをかける。
「…怖いものですね」
「え?」
「この高さで自動車が来ると、圧迫感がある」
「…そうでしょうね」
止まった車の前を横切る。エンジン音が小さくなるが、熱を帯びた車体は近い。
「一人なら逃げられないな」
有沢が呟く。
「こんなことも、見えてなかった」
美並達が横断歩道を渡り切るや否や、信号が変わった。車が走り出す。美並と同じように振り返ってタイヤに踏まれていく横断歩道を見た有沢が、少し体を強張らせた。
「粉々だ」
踏みしだかれた枯葉が砕け散って風に舞う。
「あんな風にさえ吹き飛ばされる」
「…行きますよ?」
「…ああ、そうですね」
美並の声に、少し離れた共同墓地の入り口に有沢は向き直る。
『向田市営共同墓地霊園 たまゆら』
車椅子を押してかろうじて通れるぐらいの狭い入り口は、石柱と金属柵で作られている。すぐ近くに管理事務所があって、手続きをすると地図を渡され、石畳の小道を奥へ進んだ。
中は思ったよりも広かった。道路沿いにあるから、そちら側は高い生垣に遮られているが、広々とした芝生に小道が通り、点々と文字を刻んだ石のプレートがおかれている。所々に桜が植えられていて、まだ若い木々が多かった。中を区切る低い生垣にはこの季節でも開く花が使われ、春先や夏には色鮮やかな光景が楽しめるだろうと思われた。
「樹木葬と言うそうです」
有沢が細くなった指で指し示し、
「遺骨を納骨袋に入れて、あの芝生のあちらこちらに埋めてプレートを置く。小さなもので15万と言ったかな」
言われてみると、プレートの大きさも様々で、中には装飾的な飾りを彫り込んだ大きな大理石風のものもあって、尋ねると50万から100万すると説明された。
「まあ、私に関わるのはあちらですが」
こほ、と小さく咳き込んだ有沢が口を押さえ、しばらく苦しそうに呼吸をした後、奥の建物を指差した。コンクリートとガラスでできた小さな建物、その隣に白い塔のようなものが立っている。
「あの建物が葬儀や供養を行うメモリアルホールで、白い塔が永代供養墓です。宗教にこだわりがなければ、あそこに納骨して、年一回の供養を受けられるそうですよ」
車椅子を押してメモリアルホールに入ると、周囲をぐるりと取り囲むようなガラスの通路から、供養塔が見えた。通路の途中に何箇所か小さな机が置いてあり、今も一人年配の女性が供養塔に向かって静かに手を合わせている。なるほど、雨の日でも、ここからなら参拝できると言うことか。
「…塔の地上部分には納骨壇があって、骨壷に入れた遺骨を納め、地下には納骨袋に入れた遺骨を収める。地下の遺骨は年月とともに土に還って行くそうです」
眺めながら有沢は、納骨壇で5万、地下で2万ですよ、と付け加えた。
「管理費も何もない、入る時に支払うだけです。太田刑事と飯島はあそこに居る。……犯人と刑事が同じ場所で眠っている」
少し笑って、女性が離れた小机に促す。
「行きましょうか」
「はい」
近寄ると供養塔の前には花が置かれ、線香が手向けられているのが見えた。祭壇は狭く、なるほど車椅子の有沢が入っては誰も通れなくなる。配慮したのかと気づいて見下ろすと、有沢は手を合わせることなく、静かに目を閉じて頭を垂れていた。
美並も供養塔に目を戻した。
大石が亡くなったと聞いた時、街の至る所にあった墓石が急に目につくようになった。独り身でもなく、岩倉奈保子が居るのだから、どこかの立派な寺に葬られたのに違いない。けれど、墓石の一つ一つが大石の墓に繋がる入り口のように見えて、遠くから自分には近づくことのできない場所への祈りを向けた。
今ならそれは間違っているとわかる。墓は個人個人のもので、たとえこの供養塔のように一緒に葬られていても、向かう心に呼び出されるのはたくさんの人の塊ではない、一人の人間だ。そうして、美並には、ここに頭を垂れるべき相手はいない、今は。
有沢に目を落とす。
有沢が死んだ後、彼はここに眠ると言った。有沢の葬儀や供養に加わることを、真崎は同意するだろうか。
ふと、有沢だけではない、美並も、そして真崎もいつか、この世から離れることになるのだと改めて考えた。
「あそこですか?」
「そうです」
頷く有沢は車椅子に座った体をゆっくり振り返らせる。
「重いでしょう?」
「大丈夫ですよ」
美並は微笑む。
「慣れてますから」
応えた瞬間、まるで時間が全て巻き戻って『さわやかルーム』に居る時に戻ったような気がした。
「ああ、そうでしたね」
苦笑する有沢はマスクを着けて日差しの中で微かに笑う。
顔色は良くなかった。病院から最後の外出的な気配で送り出されるのも道理、何かあったら連絡をと教えられた電話番号にかければ、すぐに救急が手配されるらしい。何より、いつか喫茶店で扉を押さえた逞しい体つきが消え失せて、美並が車椅子を押して段差を超えられるほど軽くなっている。
身内はもういませんから、私が死ねば、同じところへ埋葬されるんです。
微笑みながら話す有沢には、既に違う世界を見ているような気配があった。
横断歩道の信号が変わる。車椅子を押して道路を渡る美並に、車が早めにブレーキをかける。
「…怖いものですね」
「え?」
「この高さで自動車が来ると、圧迫感がある」
「…そうでしょうね」
止まった車の前を横切る。エンジン音が小さくなるが、熱を帯びた車体は近い。
「一人なら逃げられないな」
有沢が呟く。
「こんなことも、見えてなかった」
美並達が横断歩道を渡り切るや否や、信号が変わった。車が走り出す。美並と同じように振り返ってタイヤに踏まれていく横断歩道を見た有沢が、少し体を強張らせた。
「粉々だ」
踏みしだかれた枯葉が砕け散って風に舞う。
「あんな風にさえ吹き飛ばされる」
「…行きますよ?」
「…ああ、そうですね」
美並の声に、少し離れた共同墓地の入り口に有沢は向き直る。
『向田市営共同墓地霊園 たまゆら』
車椅子を押してかろうじて通れるぐらいの狭い入り口は、石柱と金属柵で作られている。すぐ近くに管理事務所があって、手続きをすると地図を渡され、石畳の小道を奥へ進んだ。
中は思ったよりも広かった。道路沿いにあるから、そちら側は高い生垣に遮られているが、広々とした芝生に小道が通り、点々と文字を刻んだ石のプレートがおかれている。所々に桜が植えられていて、まだ若い木々が多かった。中を区切る低い生垣にはこの季節でも開く花が使われ、春先や夏には色鮮やかな光景が楽しめるだろうと思われた。
「樹木葬と言うそうです」
有沢が細くなった指で指し示し、
「遺骨を納骨袋に入れて、あの芝生のあちらこちらに埋めてプレートを置く。小さなもので15万と言ったかな」
言われてみると、プレートの大きさも様々で、中には装飾的な飾りを彫り込んだ大きな大理石風のものもあって、尋ねると50万から100万すると説明された。
「まあ、私に関わるのはあちらですが」
こほ、と小さく咳き込んだ有沢が口を押さえ、しばらく苦しそうに呼吸をした後、奥の建物を指差した。コンクリートとガラスでできた小さな建物、その隣に白い塔のようなものが立っている。
「あの建物が葬儀や供養を行うメモリアルホールで、白い塔が永代供養墓です。宗教にこだわりがなければ、あそこに納骨して、年一回の供養を受けられるそうですよ」
車椅子を押してメモリアルホールに入ると、周囲をぐるりと取り囲むようなガラスの通路から、供養塔が見えた。通路の途中に何箇所か小さな机が置いてあり、今も一人年配の女性が供養塔に向かって静かに手を合わせている。なるほど、雨の日でも、ここからなら参拝できると言うことか。
「…塔の地上部分には納骨壇があって、骨壷に入れた遺骨を納め、地下には納骨袋に入れた遺骨を収める。地下の遺骨は年月とともに土に還って行くそうです」
眺めながら有沢は、納骨壇で5万、地下で2万ですよ、と付け加えた。
「管理費も何もない、入る時に支払うだけです。太田刑事と飯島はあそこに居る。……犯人と刑事が同じ場所で眠っている」
少し笑って、女性が離れた小机に促す。
「行きましょうか」
「はい」
近寄ると供養塔の前には花が置かれ、線香が手向けられているのが見えた。祭壇は狭く、なるほど車椅子の有沢が入っては誰も通れなくなる。配慮したのかと気づいて見下ろすと、有沢は手を合わせることなく、静かに目を閉じて頭を垂れていた。
美並も供養塔に目を戻した。
大石が亡くなったと聞いた時、街の至る所にあった墓石が急に目につくようになった。独り身でもなく、岩倉奈保子が居るのだから、どこかの立派な寺に葬られたのに違いない。けれど、墓石の一つ一つが大石の墓に繋がる入り口のように見えて、遠くから自分には近づくことのできない場所への祈りを向けた。
今ならそれは間違っているとわかる。墓は個人個人のもので、たとえこの供養塔のように一緒に葬られていても、向かう心に呼び出されるのはたくさんの人の塊ではない、一人の人間だ。そうして、美並には、ここに頭を垂れるべき相手はいない、今は。
有沢に目を落とす。
有沢が死んだ後、彼はここに眠ると言った。有沢の葬儀や供養に加わることを、真崎は同意するだろうか。
ふと、有沢だけではない、美並も、そして真崎もいつか、この世から離れることになるのだと改めて考えた。
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