『闇を見る眼』

segakiyui

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第2章

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 本当はお風呂に入れればいいんだけどな、そう思いながら、美並はベッドに潜り込んでじっとこちらを見上げている真崎を見下ろす。
「伊吹さん?」
 掠れた声で呼んだ相手が、布団の端をふかふか上げて見せながら微笑む。
「早く」
「んー」
「風邪、移されるのがやっぱり心配?」
「苦しい時に寝苦しいんじゃないかな、と」
「離れてるほうが苦しいよ」
 真崎が甘えた声で呟いて、またふかふか、と布団を浮かせる。
「……まあ、いいか」
 今夜はさすがに枕元ででも侍っていた方がいいかと思っていたのだが、パジャマを着替えに行ったはずの真崎がいそいそと美並用のジャージまで持ってきて、仕方なしにお風呂を借りて軽く汗を流してから着替えさせてもらった。
「あ……いい匂い」
 真崎の隣に滑り込むと、待ちかねたように半身のしかかりながら首元に顔を埋めてくる。くんくん、と子犬のように鼻を鳴らして、嬉しそうに囁いた。
「僕、伊吹さんの匂い好きだな」
「…いつも、そうしますね」
「うん」
 週末、一緒のベッドに入るとき、真崎は必ず美並にくっついてきて一度は匂いを確認する。
 本当に犬っころみたい。
 始めは驚いて緊張したけれど、それがおやすみなさいの代わりのようになっているのか、済めばほっと息を吐いて隣に埋まるのがわかってからは慣れた。
 慣れない子犬が自分の寝床の匂いを確認してから眠りにつくってやつ?
 思わずくす、と笑うと、問いかけるように今にも落ちそうになっていた目蓋を持ち上げて真崎が目を開ける。基本的には眼鏡の奥にある瞳だから、さっきみたいに迫られでもしない限り、この色はそうそう見られないのだけれど、覗き込むと黒に近い深い茶色の瞳で甘い。
「なに…?」
「ん、綺麗な色だなって」
 いつも思ってみてるんですけどね。
「………伊吹さんの方が凄いよ」
「凄い?」
 それはなんて言うのか微妙な表現だな、と思わず引きつった。
「凄いって何」
「……どこを見てるのか、わからない時がある」
「えーと、それは」
 焦点が合ってないってやつですか、と確かめると、軽く首を横に揺らせた。
「……話をするとき」
 風邪薬が効いてきたのか、さっきよりは楽そうな顔でぽつぽつとことばを紡ぐ。
「大体、二種類に分かれる。目を見て話す人、絶対目を見て話さない人」
「うん」
「前者はできればストレートにはっきり話した方がいい……いや、話そうとした方がいい、かな」
「……どう違うんですか?」
「要は、ちゃんと話そうとしてる、ごまかしてない、そう見えればいいってこと…」
「ああ」
 真崎がこうやって寝物語をするのが意外に好きだとは、週末一緒に過ごし出してから知った。
「後者は…難しい」
 微かに真崎は笑った。熱っぽい吐息が零れてちょっとどきりとする。覗いた舌がちろっと唇を舐めて引っ込む、それも意識しているのだろう、美並が目で追うと嬉しそうに目を細める。
 この人は本当に見られるのが好きだよね。
 胸の中で美並は密かに思う。
 真崎京介というのは、確かに持って生まれた華やかさがあるけれど、それに加えて自分をどう見せればいいのかを、ホスト並みに心得ている。穏やかさが必要ならばその雰囲気で、柔らかさが望まれるならそのように、いささか頼りない感じが欲しがられるならその通りに、自分を演出してこれる。
 相手の視線を自分に魅きつけるその能力が、大輔や恵子に振り回される中でなお伸びたとなると酷いことだけど、と思わずためらうと、聞こえたように首を伸ばして唇を求めてきた。
「ん」
 まだ触れ合わせるだけのキスしかしていないけど、もっと深くと誘うように僅かに舌で舐めて離れる。
 これは誰に教えられたものだろう、そう思うと何だか胸が苦しいような切ないような気分になって、美並は話の続きを促した。
「どう難しいんですか?」
「……ひどく揉めたことがあるか、自分の能力を疑ってるか、相手の存在に恐怖を感じているか」
 こちらがどれほど丁寧に向き合おうとしても、それだけで怯えてしまうことが多い。
「だから、こっちもあんまりぎっちり詰めないようにして始めるんだよ」
「なるほど……で、私はどうして凄い、の?」
「……こっちを向いてるのに、こっちを向いてないんだよね…」
「え?」
「………顔見てるとするでしょ? なのに、表面よりもっと深く見られてるみたいで…」
 真崎が薄く赤くなった。
「身体も…そうだよね……服よりもっと奥を見られてるみたいに感じる時がある」
「……痴漢みたいに聞こえますけど」
「……気持ちいいって言ってるんだけど」
「…………襲われたいって言ってるの?」
「………伊吹さん限定……だよ?」
 あんたはそんなことを考えながら仕事してるのか、と思わず突っ込みそうになって眉をしかめ、いつぞやの華やかな笑みを思い出した。
 じゃあ、あれは襲ってくれ、って言ってたのか、やっぱり。
「職場では止めて下さいね」
「なんで…?」
 掠れた声がわかっている答えをねだってくる。
「むかつくから」
「……嫌い?」
「誰にでも媚びるのは嫌いです」
「……伊吹さん限定だって」
 満足そうに笑って、また首に顔を押し付けてくる。
「なら…いいでしょ?」
「……譲歩します」
「ふふ」
 くすぐったい鼻息で笑って、やがてそのままゆっくりとした寝息に変わっていくと、くっついている身体が少しずつ重くなってくる。
「…ん、しょ」
 さすがにそのままでは眠れなくて、少しだけ体を避けて目を閉じる。
 こういうときは男性なんだなと思う。絶対的な重量感が違う。全力かけてのしかかってこられたら、美並がどこまで逃げ切れるかは微妙なところだ。けれど、その真崎は恵子にのしかかられて受け入れてしまったというあたり、覚えた恐怖の強さというか、刻まれた感覚の激しさというか、そういうものは男性の方が拘束力が強いのかもしれない。
 それとも、美並が特別なのか。
 思い出したのは小学校の頃、盗みの疑いをかけられた時のことだ。
 全て誤解だったのだけど、話すわけにはいかない事情があって、美並はあえて誤解を解かなかった。
 帰り道、突然石をぶつけられたことがあった。あたったのは腕で前に立ち塞がった数人がにやにや笑いながら、まだ手に石を持っている。泥棒、と一人が囃し立てると、後は一斉に連呼された。家に戻るためには迂回してもその道しかない。
 じゃあ、行くしかない。
 ぎゅっと唇を噛んで、ランドセルを降ろした。何をするのかと戸惑う顔に、それを顔の前に掲げて、「わあああああっ」と叫びながら突進した。ぶつかるかもしれないけれど、ぶつかっても撥ね飛ばす勢い、そのまま一気に走り抜けて、茫然とした相手方が我に返って追い掛けてくるまでの数秒を必死に走って、何とか家に飛び込んだ。
 激怒したのは明だった。
『ばっかじゃないの、姉ちゃん。そいつらどこにいるの。まだ居る? 締めてきてやるっ』
 小学校低学年だった明が今にも飛び出しそうなのを、いいから腕にばんそうこ貼って、と必死に引き止めた。
『明日も学校行くの?』
 不安そうな明の顔を見て、笑った。
『行くよ。大丈夫、あきくんだって居るもの』
 じゃあ、俺が姉ちゃん守るから。
 ぐいと逸らしてくれた小さな胸を、美並は今も覚えている。
 大石のことで崩れそうになったときも、脳裏を掠めたのはそのきかんきな顔。
「……そういうものって………なかったんだろうなあ」
 美並の側で静かな寝息をたてている真崎を見遣った。
 ぎりぎりのときに支えになってくれる、小さな小さな思い出さえ真崎にはない。だからあれほどあっさりと自分の命を投げ捨てようとしてしまう。
 せめてそういうことがなくなるまで。せめて、たとえ美並のことではなくてもいい、思い出してぎりぎりをしのげるような記憶が真崎の中に宿るまで。
「…一緒に居ようね」
 そっと囁いて、美並も目を閉じ寄り添った。
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