『闇を見る眼』

segakiyui

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第2章

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「あんなこと言っちゃって」
 鳴海工業から戻る電車の中で、また美並の肩を借りて目を閉じている真崎に思わずぼやいた。
「大丈夫なんですか」
 何か策を持ってるんですか。
「ん? いや、まだ全然」
 ぼんやりとした声で真崎が応じる。
「全然?」
「うん、全然」
「なのに、あんなこと約束したんですか」
 鳴海さん、きっと期待しましたよ。
 思わず責める口調になったのに、真崎が目を閉じたまま微笑する。
「大丈夫だよ」
「何が」
「僕は真崎京介だし」
「理由になってませんけど」
「期待を裏切ったことはないから」
「……凄い自信ですね」
「単なる事実」
 ふ、と息を付いて眉を寄せる。
「苦しい?」
「……ちょっとね」
「………しばらく寝てます?」
「……伊吹さん」
「はい」
「あのさ」
「はい」
 真崎がすうっと目を開ける。それでも美並を見ないまま、
「今度新しい課ができる」
「はい」
「開発、管理課」
「開発、管理……じゃあ、商品も作るってことですか」
「うん。うまくいくとね、僕、そこの課長になるんだ」
「……流通管理課は?」
「なくなるんだと思う」
「……そうですか」
 なるほど、真崎の無理を押してのこの動きは、そういうところからも来ているのか、と美並は納得した。
「おめでとうございます」
「……まだだよ」
「え?」
「これをしのいだらってこと」
「これって……」
「『Brechen』と岩倉産業」
「ああ…」
 それは少し大変ですね、と呟くと、真崎がぐ、と詰まったように黙り込む。
「………じゃあ、私もお払い箱ですね」
 美並は溜め息をついた。
 もちろんそれはアルバイトだから、必要とされなければ次を見つけるしかないのだけど。またその動きの軽さを魅力として、今までやってきたのだけれど。
「どうして」
「だって、流通管理課がなくなるんだから」
 再編成するんでしょう?
 美並は自分のしている仕事を思い起こす。
「他の課にもアルバイトさん、いっぱいいるし」
 流通管理課の中で処理仕切れない事務補佐として美並は雇われている。それが社内の再編成となれば、しかも新しく作られる課なのだから、必要な人員は始めから調達されるだろう。
「それで……いいの」
「は?」
「伊吹さんは、それでいいの?」
 やっぱり美並を見ないまま真崎が尋ねてきて戸惑った。
「いいのって……会社の経営に口を出せるわけないですし」
「………」
 真崎がゆっくりと目を閉じる。
 やっぱり苦しいのか、こめかみから汗が光り落ちる。
「辞めちゃうの」
「……辞めたくなくても」
 辞めざるを得ない、ですよね。
 美並は応えて、胸の中で動いた靄に気付く。きっと今、美並が美並を外から見たら、胸を覆う黒い霧が見えるはずだ。自分の気持ちをごまかし偽り、あたりさわりなくやり過ごそうとする卑怯な想いが。
 本当は。
 もう少しだけでも側に。
 けれど真崎は何も言わない。
 美並に残れとも辞めるなとも言わない。
 黙って電車に揺られている真崎が、風邪の熱で黙っているのか、それとも何も言いたくなくて黙っているのかがわからない。
 さっきは婚約者、って言ってくれたけど。
 でも、ことばを信じるな、とも言ったよね。
 開発管理課が動きだしたとき、それが美並が真崎と離れる時だということだろうか。
 思った瞬間、ずきりと胸が疼いた。
「……伊吹さんは」
「はい?」
「………辞めたら、どこに行くの?」
「……そうですね」
 年齢的にもだんだんアルバイトを見つけるのが厳しくなってきている。家には戻って来なくてもいいと言われているし、一人で暮らすのもずいぶん慣れた。
「また、アルバイトを、探して」
 貯金はどれぐらいあっただろうか。明が結婚するときには多少なりとも祝ってやりたい。
「すぐに見つかるんじゃないでしょうか」
 左肩の真崎の温もりがふいに切なくなる。
 ほら、やっぱり、そうなんだ。
 どこかで小さな声が呟いた。
「最近、どこでもアルバイトは募集してますし」
 気持ちを持っていかれてから、いつもこんな風に放り出されて。
 首の付け根にキスマークをつけられたのが、ずっと前のことのように思えるのに、まだ今朝のことなんだ、と思った。
「職種にこだわらなければすぐに」
「………僕は……?」
「え?」
「……僕は、どうなるの」
 ふい、と眼鏡の隙間から流してきた目が煙っていてどきりとする。
「僕はって」
「………僕は伊吹さんにとって、欲しいものじゃないんだ?」
「課長…」
「…っしょ」
 向田駅、のアナウンスに真崎が立ち上がりかけてふらつくのを慌てて支えると、ぐい、と袋を押し付けられた。
「伊吹さん、もう一つ向こうから帰ったほうが近いでしょ」
 会社行って、書類まとめてくるから、もう帰っていいよ。
「課長、これ」
「あげる」
 さっさと電車から降りた真崎が振り向いた。夕方の明るい光を反射させて、眼鏡を光らせた顔には表情がない。
「似合うよ、きっと『Brechen』の方が」
「かちょ」
 続いておりようとした矢先、とんと軽く胸を突かれて身を引いたとたん、ドアがびしりと音をたてて閉まった。
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