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第3章
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『村野』の入り口でやはり村野自身に迎えられて、美並は曖昧に笑った。
「あの」
「はい」
「先日のカフェプリン、おいしかったです」
「ありがとうございます。お待ち合わせでしょうか」
尋ねられて少し困惑する。
「まだ来られていませんか?」
この前の大石のように言い付けられて迎えたのではないのかと訝ると、村野が瞬きして戸惑った顔になる。
「お姿が見えましたので」
答えた自分にはにかんだような柔らかな気配で笑みを浮かべ直した。
「お席はいかがいたしましょう」
「込み入った話ができる席がありますか?」
「……ございます」
静かな瞳が問うように覗き込むのに微笑みを返す。
「大丈夫、真崎さんじゃありません」
「そうですか」
村野は小さく吐息をついて、そんな自分に驚いたようにまた瞬きした。
「桜木通販の社長さん、桜木元子さんと食事するんですが」
「ああ、それなら」
村野が頷いた。
「もうお席におられます。御案内いたします」
「ありがとうございます」
村野が先に立っていくと、奥の方から聞き覚えのある朗らかな声が響いた。
「ああ、ごめんなさい、村野さん、お手間とらせたわね」
う。
思わず美並は固まる。
パールがかったショッキングピンクのスーツ、やや小太りで丸顔、ふっくらとした指には眩いほどのダイヤのリング、胸元にも大粒のダイヤのネックレスを飾って、艶やかに軽くまとめた栗色の髪を揺らしながら、中年女性が手を振っている。
「こっちこっち、伊吹さん!」
店の中には半分以上の客が入っていて、数人が顔を上げて女性と伊吹を見比べ、面白そうに笑っていた。いろんな意味で人目を引く相手だ。
けれど、あれほど用心深い電話をしてくる人間が、自分の容姿が与える印象を無視しているわけがない。自分の言動がどう取られるか、わかっていないはずがない。
この派手な振る舞いも様相も、きっと全て計算のうちだ。
美並は気を引き締め直した。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
19時にはまだ10分ほどあったが、相手の手元に食前酒らしいグラスがあるのに、美並は頭を下げた。
「ああ、これ? 今度扱おうかと思ってた商品の味見、そうよね、村野さん?」
美並の後ろにいた村野に向かって、おいしいわ、とグラスをあげてみせた。
「さぁて、何を頼みましょうか」
上機嫌でメニューを開こうとする相手に、美並は席についてもう一度、頭を下げた。
「すみません、まず自己紹介をさせて下さい」
ぴたりと元子が動きを止める。
「伊吹美並です。今回の異動のことで御配慮頂いたと伺いました。ありがとうございます」
「真崎くんが話したの?」
「……」
黙って微笑み返す。本当は石塚が「会議で課長、あなたのことでやりあったらしいわよ」と教えてくれたのだが。そして、その情報源がおそらくは高山あたりからではないかというのは、何となく想像がつく。
「この場は仕事だ、そういうこと?」
元子は美並の意図を的確に掴んだ。
どれほど時間外に別の場所で待ち合わせたからといって、プライベートなことについて触れるつもりはない、そういう枠をはっきりさせたのだ。
時々、こういう相手がいる。職場の外で気持ちを解していくように振るまいながら、その実、そこで手に入れた情報を職場に持ち込んでくる人間だ。
意識的に情報を集める相手ならいい。職場に持ち込んではならない情報、持ち込むべきでない情報もちゃんと理解し区別してくれる。最悪、それを悪用しようとする場合でも、自分の中にその区別があるから、ここから先は押してはまずいというポイントもはっきりしている。そこさえ掴めば、反撃もできる。
問題は無意識にそれをやることが習性の人間だ。
そういう人間は、職場外で距離を縮めたと感じるのを、そのまま確認もせずに職場に持ち込む。しかも、拒まれるとそのまままたプライベートの距離で受け取って、「自分の振るまい」が拒まれていると考えるのではなく「自分が」拒まれたと感じて、攻撃に転じてくる場合が多い。自分の「善意」をなぜ受け取らないのか、という怒りだ。
セクハラ、パワハラというのは、その最たるもので、自分の「役職」「性別」が相手にどのように認識されているかを確認しないで同等のつもりで距離を縮め、相手が「役職」「性別」に脅威を感じて抵抗できないのを好意と思い込むことから起こる。
元子はどちらの人間だろう。
アルバイトを転々としてきている分、そこはきちんと押さえておかないと、不利な状況で職を追われることになるのを、美並はよく知っている。
「なるほど」
元子はグラスを持ち上げて、ゆっくり含んだ。鮮やかな濃いピンクに塗られた唇は、色は派手だがよく見るときちんと描かれ、押さえの色も重ねられていて、挑発的ではないとわかる。グラスに口紅の跡を残さないのも、相手が不愉快がる可能性を考えての化粧だ。
「これと同じものを伊吹さんに」
「はい」
命じられて村野がグラスを運んできた。
淡い黄金色の液体、滑らかに揺れる表面は食前酒には濃い印象、けれど、頂きます、と受け取って口にすると意外に舌触りは軽くて甘い。
「どう?」
元子は楽しそうに指を組み、たぷっとした顎を乗せて微笑んだ。
豊満で溢れるような気配は、ある種の仏像に似ている。色欲を司る女性系の淫らな笑み、けれど、その奥には人間の業を呑み込み受け入れる慈母の器が見え隠れする。
男性ならば、この気配はきつい、と美並は思った。
呑み込まれ砕かれる甘美な破滅の感覚、大石相手ならば落ち着いた大人に見えた村野が、まるで少年のように感じ取れるほど怯んでいるのがわかる。
さっき、この酒を元子は『今度扱おうかと思ってた商品の味見』と言っていた。『思ってた』ということばから、これが既に元子の中ではリストから外されたことがわかる。おいしいわ、と村野に示してみせたことは、それが村野の勧めだったか、美並へのアピールだったのか、どちらかだ。村野の表情は背後にあったから読み取れない。けれど、この酒は元子の好みにあった、それははっきりしている。
「おいしいでしょう?」
煽るように詰めるように元子は美並に重ねて尋ねた。顔は微笑んでいるけれど、眼は笑っていない。
まるで猛禽類のようだ、と美並は思った。
料理の出ていないテーブル、示された酒を元子はどう評価したか、それを読み取った上で美並はこの酒をどう評価するのか、テストされている。
なぜだろう。
美並はもう一口、酒を含みながら考えた。
なぜ、美並は元子に試されているのだろう、しかも真崎のいない状態で?
「あの」
「はい」
「先日のカフェプリン、おいしかったです」
「ありがとうございます。お待ち合わせでしょうか」
尋ねられて少し困惑する。
「まだ来られていませんか?」
この前の大石のように言い付けられて迎えたのではないのかと訝ると、村野が瞬きして戸惑った顔になる。
「お姿が見えましたので」
答えた自分にはにかんだような柔らかな気配で笑みを浮かべ直した。
「お席はいかがいたしましょう」
「込み入った話ができる席がありますか?」
「……ございます」
静かな瞳が問うように覗き込むのに微笑みを返す。
「大丈夫、真崎さんじゃありません」
「そうですか」
村野は小さく吐息をついて、そんな自分に驚いたようにまた瞬きした。
「桜木通販の社長さん、桜木元子さんと食事するんですが」
「ああ、それなら」
村野が頷いた。
「もうお席におられます。御案内いたします」
「ありがとうございます」
村野が先に立っていくと、奥の方から聞き覚えのある朗らかな声が響いた。
「ああ、ごめんなさい、村野さん、お手間とらせたわね」
う。
思わず美並は固まる。
パールがかったショッキングピンクのスーツ、やや小太りで丸顔、ふっくらとした指には眩いほどのダイヤのリング、胸元にも大粒のダイヤのネックレスを飾って、艶やかに軽くまとめた栗色の髪を揺らしながら、中年女性が手を振っている。
「こっちこっち、伊吹さん!」
店の中には半分以上の客が入っていて、数人が顔を上げて女性と伊吹を見比べ、面白そうに笑っていた。いろんな意味で人目を引く相手だ。
けれど、あれほど用心深い電話をしてくる人間が、自分の容姿が与える印象を無視しているわけがない。自分の言動がどう取られるか、わかっていないはずがない。
この派手な振る舞いも様相も、きっと全て計算のうちだ。
美並は気を引き締め直した。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
19時にはまだ10分ほどあったが、相手の手元に食前酒らしいグラスがあるのに、美並は頭を下げた。
「ああ、これ? 今度扱おうかと思ってた商品の味見、そうよね、村野さん?」
美並の後ろにいた村野に向かって、おいしいわ、とグラスをあげてみせた。
「さぁて、何を頼みましょうか」
上機嫌でメニューを開こうとする相手に、美並は席についてもう一度、頭を下げた。
「すみません、まず自己紹介をさせて下さい」
ぴたりと元子が動きを止める。
「伊吹美並です。今回の異動のことで御配慮頂いたと伺いました。ありがとうございます」
「真崎くんが話したの?」
「……」
黙って微笑み返す。本当は石塚が「会議で課長、あなたのことでやりあったらしいわよ」と教えてくれたのだが。そして、その情報源がおそらくは高山あたりからではないかというのは、何となく想像がつく。
「この場は仕事だ、そういうこと?」
元子は美並の意図を的確に掴んだ。
どれほど時間外に別の場所で待ち合わせたからといって、プライベートなことについて触れるつもりはない、そういう枠をはっきりさせたのだ。
時々、こういう相手がいる。職場の外で気持ちを解していくように振るまいながら、その実、そこで手に入れた情報を職場に持ち込んでくる人間だ。
意識的に情報を集める相手ならいい。職場に持ち込んではならない情報、持ち込むべきでない情報もちゃんと理解し区別してくれる。最悪、それを悪用しようとする場合でも、自分の中にその区別があるから、ここから先は押してはまずいというポイントもはっきりしている。そこさえ掴めば、反撃もできる。
問題は無意識にそれをやることが習性の人間だ。
そういう人間は、職場外で距離を縮めたと感じるのを、そのまま確認もせずに職場に持ち込む。しかも、拒まれるとそのまままたプライベートの距離で受け取って、「自分の振るまい」が拒まれていると考えるのではなく「自分が」拒まれたと感じて、攻撃に転じてくる場合が多い。自分の「善意」をなぜ受け取らないのか、という怒りだ。
セクハラ、パワハラというのは、その最たるもので、自分の「役職」「性別」が相手にどのように認識されているかを確認しないで同等のつもりで距離を縮め、相手が「役職」「性別」に脅威を感じて抵抗できないのを好意と思い込むことから起こる。
元子はどちらの人間だろう。
アルバイトを転々としてきている分、そこはきちんと押さえておかないと、不利な状況で職を追われることになるのを、美並はよく知っている。
「なるほど」
元子はグラスを持ち上げて、ゆっくり含んだ。鮮やかな濃いピンクに塗られた唇は、色は派手だがよく見るときちんと描かれ、押さえの色も重ねられていて、挑発的ではないとわかる。グラスに口紅の跡を残さないのも、相手が不愉快がる可能性を考えての化粧だ。
「これと同じものを伊吹さんに」
「はい」
命じられて村野がグラスを運んできた。
淡い黄金色の液体、滑らかに揺れる表面は食前酒には濃い印象、けれど、頂きます、と受け取って口にすると意外に舌触りは軽くて甘い。
「どう?」
元子は楽しそうに指を組み、たぷっとした顎を乗せて微笑んだ。
豊満で溢れるような気配は、ある種の仏像に似ている。色欲を司る女性系の淫らな笑み、けれど、その奥には人間の業を呑み込み受け入れる慈母の器が見え隠れする。
男性ならば、この気配はきつい、と美並は思った。
呑み込まれ砕かれる甘美な破滅の感覚、大石相手ならば落ち着いた大人に見えた村野が、まるで少年のように感じ取れるほど怯んでいるのがわかる。
さっき、この酒を元子は『今度扱おうかと思ってた商品の味見』と言っていた。『思ってた』ということばから、これが既に元子の中ではリストから外されたことがわかる。おいしいわ、と村野に示してみせたことは、それが村野の勧めだったか、美並へのアピールだったのか、どちらかだ。村野の表情は背後にあったから読み取れない。けれど、この酒は元子の好みにあった、それははっきりしている。
「おいしいでしょう?」
煽るように詰めるように元子は美並に重ねて尋ねた。顔は微笑んでいるけれど、眼は笑っていない。
まるで猛禽類のようだ、と美並は思った。
料理の出ていないテーブル、示された酒を元子はどう評価したか、それを読み取った上で美並はこの酒をどう評価するのか、テストされている。
なぜだろう。
美並はもう一口、酒を含みながら考えた。
なぜ、美並は元子に試されているのだろう、しかも真崎のいない状態で?
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