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第4章
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「み…な…」
声を限りに呼んでいるのに、自分の声が聞こえない。仰け反った伊吹が涙を溢れさせながら眉を寄せて叫んでいる声も聞こえない。それほどならば離れればいい、やめればいいのに、二人とも別の何かに取り憑かれたようにお互いをしっかり握りながら、同じリズムで揺れ続けている。
やめて、そう叫んだ気がする。
助けて、そう願った気がする。
白熱の焔の渦に焼き焦がされて、皮膚も骨も肉も血も、かき混ぜられて自分が消える。
伊吹に入っているのかそれとももう離れているのか、手の感覚も自分の感覚も、区別できるものは何もなくて、ただただ暴風雨のただ中を駆け抜けていくようにびしょ濡れになって声を上げ続けて。
「ひ…、ああっ」
どくん、と大きな波が一気に京介の中を駆け抜けた。
まるで中身全てをひっ攫うように遠ざかるその波に引きずられ運ばれて、やがて放り投げられるようにとてつもなく広い空間に落ちていく。
僕が、消える。
恐怖と快楽の彼方に、いきなり重圧から抜け出たような壮絶なほどの開放感。
もう、自由だ。
「……ああ……」
満足感に酔い痴れて、崩れた温かな胸の中で、京介は目を閉じた。
「……ん……?」
瞬きして目を開ける。
「………」
しばらく目の前にある小さな顔をじっと見つめた。
すうすうと穏やかな寝息を立てる顔。
「………美並…」
手を伸ばしてそっと頬に触れる。
室内灯の光に産毛が光っているのが、明るいオーラをまとっているように見えた。
「……んーと…」
そのまま体を探り、既に中心からゴムも外されているのを確認する。
「あのまま…寝ちゃったのか…」
枕元の時計は夜中の3時。
夜中じゅう抱き合っていたような気がしたけど。
「美並……気持ちよかったかな…」
布団の中には柔らかな熱気が満ちている。汗の匂いも結構残っているし、明日の朝は布団を干した方がいいだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、じっと伊吹の顔を見ている。
「全然…違ったなあ……」
あれが二人でするものなんだ。
唐突に思った。
襲うとか襲われるとか、欲情するとかされるとか、技術とか気持ちとか手順とかそういうのとは、とにかく全く違う何かだ。
「…気持ち…よかった…」
伊吹が京介と同じぐらいに感じてどうしようもなくなっているのを感じた。それを突きつけられて京介もまたもっと感じて、その感じている京介に伊吹が煽られていくのがわかった。
お互いに高め合う、とよく言うけれど、あれはまさにそうだよね、と一人ごちる。
相手をどうしようとかこうしようとか、そんな余裕なんかなくて、自分の感覚を受け止めるのに手一杯で、なのに、そのぎりぎりになっている相手の感覚がまともに降り注いできて、言わば二人分の快感をそれぞれ受け止めるようなもの。そうやって最後には、自分で辿りつけない限界を越えていくから、怖くて辛くていてもたってもいられなくて、止めてほしい助けてほしいと懇願しつつ、それでもついに飛び越えて。
その先に見えたあそこは。
「……海に見えたなあ…」
真っ白な、光を反射させて泡立ち波だっている混沌の、けれど、どこまでも透明できららかでまばゆい海。
そこに居るだけで何もかも十分で、渇くことなく餓えることなく、ただ満たされる、光の海。
思い出した瞬間、ぞわっと全身に鳥肌が立って泣きそうになる。
あそこは無理だ。
あそこに一人ではいけない。
けれどきっと、疲れ切ったり死にそうになったり、自分が保てなくなったりしたら、あの海を知っているなら絶対あそこへ行きたいと願うだろう、男なら。
あれは到達点なのだ。
魂が辿りつきたいと願う最高の地点。
「……ああ……そっか…」
京介は目を閉じて深い溜め息をつく。
あれを京介は知っている。
もっともあそこまで完成されたものではなくて、もうちょっと貧弱な感じだが、とても難しい仕事を何度も危機を乗り越え工夫を重ねてついに望む形に成し遂げたときの感覚。
「あれ…かあ…」
だから、どうしても欲しくなるのだ。
他で似たものが得られる間はそれに固執し、それでも得られないとなると、女と寝ることでそれを得ようとする。
それが一番単純で誰にも得やすくて簡単そうに思えるから。
でもそこにもまたゲートはあるのだ。
お互いへの思いなしに、あそこへ辿りつくのは至難の技、それが今の京介にはわかる。
「一人じゃいけない場所……なんだなあ…」
仕事でもそうだ。セックスでも。
あの場所に辿りつくためには、一人の速度では足りなくて、最低でも二人分の速度が必要なのだ、地球を飛び出すロケットのように。
目を開けて、もう一度伊吹を見つめる。体を起こして見下ろして、その細い肩が布団から出て冷えているのに気づいて、布団を引き上げ、乱れた髪を整える。
お互いに高め合って、競り合って、駆け上がりあって、そうして得た一番高い位置の先から手を握り合って飛び出して、初めてあの海が見える。
「伊吹さんにも見えた…かな…」
「見えました」
「っ」
ぽつりと伊吹がいきなり答えてぎょっとした。ゆっくりと目を開く相手を覗き込む。
「起きてた?」
ちらっと横目でみやった伊吹がくすぐったそうに笑って、京介を引き寄せたから、ぱふんと一緒に頭まで布団に潜る。どちらからともなく手を伸ばして、お互いをそっと抱き締める。
「海、でしょ?」
「うん」
「真っ白な,海」
「そう」
「京介が見てるの、見えました」
「美並も見てた?」
「綺麗でしたね」
「綺麗だったね」
「あんなのが見えたの初めてです」
「僕も」
密やかに交わす囁き声と甘い吐息。
また見たいね。
さりげなく、けれど確信犯で呟いて、伊吹が黙ったのに緊張する。
「美並?」
「………京介」
「なに?」
「話さなくちゃいけないことがあります」
布団の中に籠もった熱気が不意に息苦しくなってきた。伊吹もそうだったのか、それぞれに手を伸ばして布団を押し開ける。改めて部屋の空気が冷たいと感じて不安が増した。
「……ひょっとして」
もうこれで終わりとか、そういうのじゃないよね?
伊吹の瞳を覗き込む。伊吹も反らさず見上げてくる。そのまま淡々と続けた。
「孝さんのことです」
「孝?」
思いもかけない名前が出てきて困惑する。
「孝さんを殺した犯人」
「うん…」
続いたことばに京介は茫然とした。
「私が捕まえられるかもしれません」
「み…な…」
声を限りに呼んでいるのに、自分の声が聞こえない。仰け反った伊吹が涙を溢れさせながら眉を寄せて叫んでいる声も聞こえない。それほどならば離れればいい、やめればいいのに、二人とも別の何かに取り憑かれたようにお互いをしっかり握りながら、同じリズムで揺れ続けている。
やめて、そう叫んだ気がする。
助けて、そう願った気がする。
白熱の焔の渦に焼き焦がされて、皮膚も骨も肉も血も、かき混ぜられて自分が消える。
伊吹に入っているのかそれとももう離れているのか、手の感覚も自分の感覚も、区別できるものは何もなくて、ただただ暴風雨のただ中を駆け抜けていくようにびしょ濡れになって声を上げ続けて。
「ひ…、ああっ」
どくん、と大きな波が一気に京介の中を駆け抜けた。
まるで中身全てをひっ攫うように遠ざかるその波に引きずられ運ばれて、やがて放り投げられるようにとてつもなく広い空間に落ちていく。
僕が、消える。
恐怖と快楽の彼方に、いきなり重圧から抜け出たような壮絶なほどの開放感。
もう、自由だ。
「……ああ……」
満足感に酔い痴れて、崩れた温かな胸の中で、京介は目を閉じた。
「……ん……?」
瞬きして目を開ける。
「………」
しばらく目の前にある小さな顔をじっと見つめた。
すうすうと穏やかな寝息を立てる顔。
「………美並…」
手を伸ばしてそっと頬に触れる。
室内灯の光に産毛が光っているのが、明るいオーラをまとっているように見えた。
「……んーと…」
そのまま体を探り、既に中心からゴムも外されているのを確認する。
「あのまま…寝ちゃったのか…」
枕元の時計は夜中の3時。
夜中じゅう抱き合っていたような気がしたけど。
「美並……気持ちよかったかな…」
布団の中には柔らかな熱気が満ちている。汗の匂いも結構残っているし、明日の朝は布団を干した方がいいだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、じっと伊吹の顔を見ている。
「全然…違ったなあ……」
あれが二人でするものなんだ。
唐突に思った。
襲うとか襲われるとか、欲情するとかされるとか、技術とか気持ちとか手順とかそういうのとは、とにかく全く違う何かだ。
「…気持ち…よかった…」
伊吹が京介と同じぐらいに感じてどうしようもなくなっているのを感じた。それを突きつけられて京介もまたもっと感じて、その感じている京介に伊吹が煽られていくのがわかった。
お互いに高め合う、とよく言うけれど、あれはまさにそうだよね、と一人ごちる。
相手をどうしようとかこうしようとか、そんな余裕なんかなくて、自分の感覚を受け止めるのに手一杯で、なのに、そのぎりぎりになっている相手の感覚がまともに降り注いできて、言わば二人分の快感をそれぞれ受け止めるようなもの。そうやって最後には、自分で辿りつけない限界を越えていくから、怖くて辛くていてもたってもいられなくて、止めてほしい助けてほしいと懇願しつつ、それでもついに飛び越えて。
その先に見えたあそこは。
「……海に見えたなあ…」
真っ白な、光を反射させて泡立ち波だっている混沌の、けれど、どこまでも透明できららかでまばゆい海。
そこに居るだけで何もかも十分で、渇くことなく餓えることなく、ただ満たされる、光の海。
思い出した瞬間、ぞわっと全身に鳥肌が立って泣きそうになる。
あそこは無理だ。
あそこに一人ではいけない。
けれどきっと、疲れ切ったり死にそうになったり、自分が保てなくなったりしたら、あの海を知っているなら絶対あそこへ行きたいと願うだろう、男なら。
あれは到達点なのだ。
魂が辿りつきたいと願う最高の地点。
「……ああ……そっか…」
京介は目を閉じて深い溜め息をつく。
あれを京介は知っている。
もっともあそこまで完成されたものではなくて、もうちょっと貧弱な感じだが、とても難しい仕事を何度も危機を乗り越え工夫を重ねてついに望む形に成し遂げたときの感覚。
「あれ…かあ…」
だから、どうしても欲しくなるのだ。
他で似たものが得られる間はそれに固執し、それでも得られないとなると、女と寝ることでそれを得ようとする。
それが一番単純で誰にも得やすくて簡単そうに思えるから。
でもそこにもまたゲートはあるのだ。
お互いへの思いなしに、あそこへ辿りつくのは至難の技、それが今の京介にはわかる。
「一人じゃいけない場所……なんだなあ…」
仕事でもそうだ。セックスでも。
あの場所に辿りつくためには、一人の速度では足りなくて、最低でも二人分の速度が必要なのだ、地球を飛び出すロケットのように。
目を開けて、もう一度伊吹を見つめる。体を起こして見下ろして、その細い肩が布団から出て冷えているのに気づいて、布団を引き上げ、乱れた髪を整える。
お互いに高め合って、競り合って、駆け上がりあって、そうして得た一番高い位置の先から手を握り合って飛び出して、初めてあの海が見える。
「伊吹さんにも見えた…かな…」
「見えました」
「っ」
ぽつりと伊吹がいきなり答えてぎょっとした。ゆっくりと目を開く相手を覗き込む。
「起きてた?」
ちらっと横目でみやった伊吹がくすぐったそうに笑って、京介を引き寄せたから、ぱふんと一緒に頭まで布団に潜る。どちらからともなく手を伸ばして、お互いをそっと抱き締める。
「海、でしょ?」
「うん」
「真っ白な,海」
「そう」
「京介が見てるの、見えました」
「美並も見てた?」
「綺麗でしたね」
「綺麗だったね」
「あんなのが見えたの初めてです」
「僕も」
密やかに交わす囁き声と甘い吐息。
また見たいね。
さりげなく、けれど確信犯で呟いて、伊吹が黙ったのに緊張する。
「美並?」
「………京介」
「なに?」
「話さなくちゃいけないことがあります」
布団の中に籠もった熱気が不意に息苦しくなってきた。伊吹もそうだったのか、それぞれに手を伸ばして布団を押し開ける。改めて部屋の空気が冷たいと感じて不安が増した。
「……ひょっとして」
もうこれで終わりとか、そういうのじゃないよね?
伊吹の瞳を覗き込む。伊吹も反らさず見上げてくる。そのまま淡々と続けた。
「孝さんのことです」
「孝?」
思いもかけない名前が出てきて困惑する。
「孝さんを殺した犯人」
「うん…」
続いたことばに京介は茫然とした。
「私が捕まえられるかもしれません」
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