『闇から見る眼』

segakiyui

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第5章

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「…早かったのね」
 社長室で窓際に立っていた元子は静かに振り返った。
「ちょうど良かったわ、私もあなたに話さなくてはいけないことがある」
 珍しく紺色のスーツだった。地味で目立たない姿、指のダイヤも外している。
「あなたの話は?」
「複雑で、難しい問題です」
 駆け上がってきた呼吸を整えつつ、京介は口を開いた。元子が頷く。
「聞きましょう」
「先にお話を伺っても?」
「その方がいいの?」
 女帝は冷ややかに笑った。
「聞いたらなかったことにはできない話よ?」
「岩倉産業ですか? 『ニット・キャンパス』は進んでいますが」
「この間、伊吹さんに頼み事をしてきたの」
「え?」
 嫌な予感がした。
「噂を信じているんですか。彼女を岩倉産業にやるのは論外ですよ」
「まさか」
 元子は一蹴し、座って、と命じた。長くなる話、しかも中途半端に終わらせられない話だと感じる。素早く頭を働かせ、京介の話と等価なら交換条件が出せると踏んで腰を下ろす。
「桜木通販は終わる」
「え?」
 目の前に座った元子が微笑みながら言い放って、呆気にとられた。
「終わる?」
「あなたが社長を引き受けてくれなければね」
「……は?」
 さすがに頭がついていかなかった。
「伊吹さんにはあなたが社長を引き受けた後の秘書をお願いしたわ。経験はないみたいだけど、今必要なのはあなたを心身共に支えられる人、二人でしのげば何とかなるでしょう」
「…どう言うことですか」
 寝耳に水どころか、全てが予想外だ。
「どこまであなたに連絡があったかわからないけれど、数日内に真崎大輔が大学時代からの暴行傷害、『ニット・キャンパス』に関わる詐欺と横領の罪で逮捕される」
 元子は淡々と続けた。
「その中には家族へのDVも含まれている………5年前の緑川事件も」
 ひやりとした塊が背中を滑り落ちる。恵子の顔が脳裏を過ぎっていった。
 恐らくはそうだ、恵子は大輔を売ったのだ。
「事情聴取の状況によっては、あなたへのDVも明らかにされる」
「…それ、は…」
「…何か飲む?」
 元子が一瞬目を伏せて席を立った。隅のサーバーからコーヒーを淹れて目の前に置いてくれる。
「もう一つ。『ニット・キャンパス』にも司法の手が入り、桜木通販はイベントから外される可能性が出てきた……私が社長でいる限り」
「…司法取引…ですか」
「それほど大層なものじゃないわ」
 元子は苦く笑った。
「岩倉産業が桜木通販抜きで『ニット・キャンパス』の成功は難しいと訴えてくれたの。勿論、岩倉産業が全てを請け負う形にすることも検討したけれど、今からでは時間も準備も足りない。ならば、私が引責辞任して、あなたに譲る形で桜木通販を存続させ、『ニット・キャンパス』を成功させようと言うわけ」
「…喜多村会長ですか」
 すぐに察しがついた。
 子飼いの大輔が使えなくなり、社会評議会も後押ししている市を挙げてのイベントの頓挫は、誰にとっても不利益しか残らない。元子のすげ替えで始末がつくなら、それに越したことはないと『諸機関と調整』したのだろう。
「イベントの成功如何によっては、終了後に桜木通販が存続できるかも知れない。不十分なら、あなたの社長の話もなくなるし、桜木通販は消滅する。販路や顧客は岩倉産業が引き継いでくれるそうよ」
「悪くない話です、今の条件では」
 京介はカップを持ち上げた。一口飲む間に、元子が話したかった内容を考える。
「けれど、それだけではないんでしょう?」
「…あなたの酷い噂が流れるわ」
「そうですか」
 想定範囲だ。
 今の状況ならば、桜木通販が生き残るためには、たとえ同情票であろうと集める必要がある。犯罪者である兄に酷いDVを受けつつ、再生していく被害者の弟と言う美談は有益だ、それがどんな憶測を呼び、どれほど不快な視線を浴びることになっても。
 相子なんかは、ここぞとばかり『壊れてしまっている可哀想な真崎京介』の話を、面白おかしくメディアにぶちまけてくれるのだろう。
「では、伊吹さんは手放します」
 微笑んだ。
「え?」
「そんな状況に彼女を巻き込めない」
 胸の中心で微かに触れ合った指輪が鳴った気がした。
 今夜急に予定を変えた、伊吹の話もそう言うことなのだろう。そんな状況に追い込まれる京介とは一緒に歩けないと伝えてくるのだろう、京介の夢見たような優しい決意ではなくて。
「でも、伊吹さんは」
「お話があります」
 京介は元子を遮った。
「社長を引き受ける代わりに、桜木通販が抱えている膿を出しきりたい」
「…どう言うこと?」
 今度は元子が眉を寄せた。
「赤来課長の履歴情報を下さい。高山さんに協力の指示もお願いします、あなたが社長でいる間に」
「何の話をしているの?」
「緑川課長の買春事件に真崎大輔が関わっていたのなら、もう一人、桜木通販で事件に関わった人間がいる可能性があります」
「……それが赤来くんだと…?」
 元子が掠れた声で確認した。
「はい」
 京介は顔を上げた。
「これから、僕の古い親友が関わった事件について、今わかっていることを全てお話しします。友人の名前は難波孝。牟田相子さんの兄で………大輔か、赤来さんに殺された可能性があります」
 元子がごくりと唾を呑んだ。
「桜木通販の後始末は僕がつける。ご協力をお願いします」
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