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第5章
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京介は、源内と金曜日の合気道の日に少し時間をもらう約束をした。
もし、源内の師匠が確かに『羽折』の祖父ならば、ひょっとすると指紋が残るようなものを保管していないか。伊吹が言うように、赤来の指紋を取ることができれば、それをカード・キーと照合できる。捜査に大きな進展をもたらすのは間違いない。
それに今赤来を追い詰めるのは、桜木通販としても有効だった。今なら桜木通販の膿を出し切る一環として捉えられる。大輔が捕まり、売春サークルの存在が暴かれ、その捜査が進む中での赤来確保で繋がるが、大輔の一件が落ち着いてしまってからでは、あらゆる意味で遅すぎる。
『想像以上にややこしい話だな?』
「申し訳ありません」
『まあいい、そう言う時期なんだろう、ハル流に言えば』
源内は溜め息まじりに了承してくれた。
『ついでだ、本気で弟子になるか?』
誘った口調は笑みを含んでいたが真剣で、京介は考えてもいいと思いながら通話を切った。
とんとん。
「…はい?」
ドアが静かに叩かれたと思ったら、返答と同時に阿倍野が滑り込んできて驚く。
「阿倍野さん?」
確か体調を崩して休んでいるのではなかったか。
「…」
阿倍野はドアを後ろ手に押さえたまま俯いている。
こんな状況において、会議室に二人きり、良からぬ噂が立たないかと思っても良さそうなものだが、相変わらず無防備で無神経だ。
冷ややかに相手を眺めていると、のろのろと上がった顔が京介を見据えてぞっとした。
「…どうしてなの」
真っ黒な穴のような二つの目。
「何?」
「どうしてこんなことになっちゃったの」
意味が取れない。
けれど阿倍野が絶望しているのはよくわかる。伊吹なら、薄黒い靄が見えるとでも表現するのだろうか。
ゆらりと前に体を起こした仕草が、人形のように見えて落ち着かない。
「何が間違っていたの」
「阿倍野さん、何の話をしているの?」
仕事はどうしたの。
「体調が悪いと聞いたけれど」
冷静に尋ねてみる。
「っ…」
ぼろぼろぼろぼろと見開いた目から大粒の涙が溢れ落ちた。
「あなたが仕組んだのよね?」
「…」
「あなたが、私を陥れたのよね?」
相子と同じく。
のろのろと取り出された果物ナイフに京介は立ち上がる。部屋の明かりが陰った気がした。ゆらゆらと体をふらつかせながら、阿倍野は近づいてくる。
脳裏に青いゴミ袋が過る。猫のイブキが自分と重なり、阿倍野に相子の姿が重なる。息苦しくなる、過去に引き戻されていくようで。
「流産したわ、知ってるでしょ?」
大事な大事な、赤来さんの赤ちゃん。
「産んでいいって言ってくれてたのに。楽しみにしててくれたのに。会社に迷惑はかけないわ、ちゃんと一人で育てるつもりだった。みほだってお義母さんに連れてかれて、私にはもうこの子しかいなかったのに」
半分笑った顔に涙は溢れ続ける。
「あなたが……そういう薬を渡したんでしょ、赤来さんに。聞いたのよ、知ってるのよ、気持ち良くなる薬だって真崎から貰ったんだって言ってたのよ」
そういうことか。
ようやく少し構図が見えた。
薬を都合したのは大輔だろう。阿倍野の妊娠を疎ましがった赤来が頼んだのか大輔が気を利かせたのか。いずれにせよ、交渉は行われ、結果は定まった。
この件を阿倍野はおおっぴらにできない。全てを失ったのだと飲み込むことしかできない。
辿り着けるはずだった未来はあまりにも綺麗すぎて、阿倍野は耐えることができなくなった。
「あなただけ、結婚して幸せになるなんて……許さない」
昼休憩に入ったのだろう、周囲がざわめき出した。職場を離れる者も多い、ここにはできるだけ人が近づかないように配慮されている。京介の窮地を知る者はいない。
忙しく頭を働かせる。
果物ナイフ一本だ、刺されても場所さえ選べば大きな怪我にならないだろう。刺したこと、刺さったことでパニックになり、阿倍野が力を込めきれない可能性は高い。腕一本犠牲にすれば、阿倍野にも怪我をさせることなく、ナイフを回収できる。
駄目です、京介。
「っ」
柔らかな声が体の内側で響いて震えた。
泣きますよ?
「……ああ…」
そうか、これがまずい方法か。
「何…」
ならば。
「……僕を、殺したいの、阿倍野さん」
「っ」
「そのナイフで刺して、刻んで、ぐしゃぐしゃにしたいの? 血が一杯出るよね」
「っっ」
「僕は倒れてのたうって、君の足を掴んだりする、血の海の中で」
阿倍野の顔色がみるみる青ざめていく。
「君は何度も思い出すよね、刺した感触とか、僕の悲鳴とか、その手が血でべたべたになった光景とか。毎晩夢に見るほどずっと」
椅子を押し退け、一歩前へ進むと、阿倍野がナイフを握り締めた。
「こ、ないで」
「凄く痛いから、僕は泣き叫んで、吐いたりするかも知れないね、死に切れないと」
「ひ…」
もう一歩進むと阿倍野が後じさりした。
「阿倍野さん?」
薄く笑う。
「なぜ僕を刺すの?」
「い……っ」
大きく息を引いた阿倍野が握り込んだナイフを目を閉じて突き出した途端、
「おっと!」
背後から手を伸ばした富崎がかろうじて阿倍野の腕を掴んだ。
「こらこら何をしてるんだ、阿倍野さん」
話しかけながら手際よくナイフを取り上げる。へたへたと崩れ落ちた阿倍野を見下ろし、京介にも険しい顔を向けた。
「君も妙な挑発をして犯罪者を作るんじゃない」
「…すみません」
「…と言うか、僕がドアを開けてたのに気づいてたね? 入ってくるのもわかっていた」
富崎は苦笑する。
「とんだ食わせ物だな、君は」
もし、源内の師匠が確かに『羽折』の祖父ならば、ひょっとすると指紋が残るようなものを保管していないか。伊吹が言うように、赤来の指紋を取ることができれば、それをカード・キーと照合できる。捜査に大きな進展をもたらすのは間違いない。
それに今赤来を追い詰めるのは、桜木通販としても有効だった。今なら桜木通販の膿を出し切る一環として捉えられる。大輔が捕まり、売春サークルの存在が暴かれ、その捜査が進む中での赤来確保で繋がるが、大輔の一件が落ち着いてしまってからでは、あらゆる意味で遅すぎる。
『想像以上にややこしい話だな?』
「申し訳ありません」
『まあいい、そう言う時期なんだろう、ハル流に言えば』
源内は溜め息まじりに了承してくれた。
『ついでだ、本気で弟子になるか?』
誘った口調は笑みを含んでいたが真剣で、京介は考えてもいいと思いながら通話を切った。
とんとん。
「…はい?」
ドアが静かに叩かれたと思ったら、返答と同時に阿倍野が滑り込んできて驚く。
「阿倍野さん?」
確か体調を崩して休んでいるのではなかったか。
「…」
阿倍野はドアを後ろ手に押さえたまま俯いている。
こんな状況において、会議室に二人きり、良からぬ噂が立たないかと思っても良さそうなものだが、相変わらず無防備で無神経だ。
冷ややかに相手を眺めていると、のろのろと上がった顔が京介を見据えてぞっとした。
「…どうしてなの」
真っ黒な穴のような二つの目。
「何?」
「どうしてこんなことになっちゃったの」
意味が取れない。
けれど阿倍野が絶望しているのはよくわかる。伊吹なら、薄黒い靄が見えるとでも表現するのだろうか。
ゆらりと前に体を起こした仕草が、人形のように見えて落ち着かない。
「何が間違っていたの」
「阿倍野さん、何の話をしているの?」
仕事はどうしたの。
「体調が悪いと聞いたけれど」
冷静に尋ねてみる。
「っ…」
ぼろぼろぼろぼろと見開いた目から大粒の涙が溢れ落ちた。
「あなたが仕組んだのよね?」
「…」
「あなたが、私を陥れたのよね?」
相子と同じく。
のろのろと取り出された果物ナイフに京介は立ち上がる。部屋の明かりが陰った気がした。ゆらゆらと体をふらつかせながら、阿倍野は近づいてくる。
脳裏に青いゴミ袋が過る。猫のイブキが自分と重なり、阿倍野に相子の姿が重なる。息苦しくなる、過去に引き戻されていくようで。
「流産したわ、知ってるでしょ?」
大事な大事な、赤来さんの赤ちゃん。
「産んでいいって言ってくれてたのに。楽しみにしててくれたのに。会社に迷惑はかけないわ、ちゃんと一人で育てるつもりだった。みほだってお義母さんに連れてかれて、私にはもうこの子しかいなかったのに」
半分笑った顔に涙は溢れ続ける。
「あなたが……そういう薬を渡したんでしょ、赤来さんに。聞いたのよ、知ってるのよ、気持ち良くなる薬だって真崎から貰ったんだって言ってたのよ」
そういうことか。
ようやく少し構図が見えた。
薬を都合したのは大輔だろう。阿倍野の妊娠を疎ましがった赤来が頼んだのか大輔が気を利かせたのか。いずれにせよ、交渉は行われ、結果は定まった。
この件を阿倍野はおおっぴらにできない。全てを失ったのだと飲み込むことしかできない。
辿り着けるはずだった未来はあまりにも綺麗すぎて、阿倍野は耐えることができなくなった。
「あなただけ、結婚して幸せになるなんて……許さない」
昼休憩に入ったのだろう、周囲がざわめき出した。職場を離れる者も多い、ここにはできるだけ人が近づかないように配慮されている。京介の窮地を知る者はいない。
忙しく頭を働かせる。
果物ナイフ一本だ、刺されても場所さえ選べば大きな怪我にならないだろう。刺したこと、刺さったことでパニックになり、阿倍野が力を込めきれない可能性は高い。腕一本犠牲にすれば、阿倍野にも怪我をさせることなく、ナイフを回収できる。
駄目です、京介。
「っ」
柔らかな声が体の内側で響いて震えた。
泣きますよ?
「……ああ…」
そうか、これがまずい方法か。
「何…」
ならば。
「……僕を、殺したいの、阿倍野さん」
「っ」
「そのナイフで刺して、刻んで、ぐしゃぐしゃにしたいの? 血が一杯出るよね」
「っっ」
「僕は倒れてのたうって、君の足を掴んだりする、血の海の中で」
阿倍野の顔色がみるみる青ざめていく。
「君は何度も思い出すよね、刺した感触とか、僕の悲鳴とか、その手が血でべたべたになった光景とか。毎晩夢に見るほどずっと」
椅子を押し退け、一歩前へ進むと、阿倍野がナイフを握り締めた。
「こ、ないで」
「凄く痛いから、僕は泣き叫んで、吐いたりするかも知れないね、死に切れないと」
「ひ…」
もう一歩進むと阿倍野が後じさりした。
「阿倍野さん?」
薄く笑う。
「なぜ僕を刺すの?」
「い……っ」
大きく息を引いた阿倍野が握り込んだナイフを目を閉じて突き出した途端、
「おっと!」
背後から手を伸ばした富崎がかろうじて阿倍野の腕を掴んだ。
「こらこら何をしてるんだ、阿倍野さん」
話しかけながら手際よくナイフを取り上げる。へたへたと崩れ落ちた阿倍野を見下ろし、京介にも険しい顔を向けた。
「君も妙な挑発をして犯罪者を作るんじゃない」
「…すみません」
「…と言うか、僕がドアを開けてたのに気づいてたね? 入ってくるのもわかっていた」
富崎は苦笑する。
「とんだ食わせ物だな、君は」
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