『ハレルヤ・ボイス』

segakiyui

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選択は
いつも為されている

気づかないのは愚かなのだ
認めないのは未熟なのだ

押し迫る時の流れに
自分の真実を問うがいい


9

 うなされている。
 茹だるような熱に侵されながら、中谷は叫び続けている。
 見ているのは悪夢一歩手前の幻。
 倒れたシャワー室の中で、やはり中谷は竦んで座り込んでいる。
 ぽとん。
(ひ)
 ふいに頬に直に雫が落ちる感触があって、中谷は体を強ばらせた。声を限りに上げていた悲鳴が喉に詰まって止まる。その一瞬の空白に滑り込むように、
『中谷、さん』
 柔らかな声が中谷を呼んだ。そして、再び。
 ぽとん。
(う…)
 頬に落ちる水滴。けれど、それは続かずに、しかも温かく、穏やかな響きに震えながら流れ落ちていく。その感触に誘われるように中谷は目を開けた。
(笙……子……)
 いつの間にキィと入れ替わっていたのだろう。中谷がしがみついていたのは笙子の細い体だった。どぶに捨てられていた子犬のように、全身濡れそぼってがくがく震えながら、中谷は笙子の胸に抱えられているのだ。
 そして、笙子は例えようのない瞳から涙を零して中谷を見下ろしながら、微かに小さく、身体の中で音を鳴らしていた。
 歌っていた、とは言えない気がする。声としては聴こえなかったからだ。ただ、肌が触れ合うその部分から、笙子の中に響いている何かがゆっくりと中谷に伝わってきた。微かな微かな震動。けれど、それはじんわりと中谷の中へ入ってきて、身体の中で中谷の罪を告発し続ける鋭く痛い水の滴りを、やがて集まって怒濤のようになる流れへの恐怖を、緩やかに散らしていってくれる。
 ぽとん。
 また笙子の涙が滴って、それが今度は唇に落ち、中谷は震えながら口を開いた。

「んっ」
 目を覚まして、自分が今にも誰かを抱き締めるような形に両腕を上げていたのに気がついた。
「夢……か」
 もちろん、そうに決まっている。
 半端に閉めたカーテンの隙間から上り始めた朝日が差し込み、目を焼いた。差し伸べていた手を顔にあて、ごしごしと強く擦る。脂の浮いたねっとりした感触にうんざりしながら、のろのろと起き上がった。
「ち」
 ずきりと強く痛んだのは田尾に刺された腹だ。
 中谷が退院したいと訴えると、臓器をぎりぎりで逸れたのはほんの偶然で、それでも捻られたときに筋肉を深い部分まで傷つけたから、傷を縫うのは技術がいったんだぞと医者は苦い顔になった。それでも、病院にいることで心理的に不安定になっているようだ、後は自宅療養と通院の方がいいのではないのかとキィが口添えしてくれて、中谷は晴れて娑婆に戻ってこれたというわけだ。
 けれど。
 自宅に戻って一週間になるのに、中谷はまだベッドから離れられない。今も立ち上がったはずの足がフローリングを踏み抜きそうに感じて、体重を乗せ切れない。
 回復が遅れているのは一向に戻ってこない食欲と眠るたびに襲ってくる悪夢のせいだ。加えて何とかコップで飲めるようになった水は今もペットボトルから注いでいる。まだ、蛇口やコックに触れないのだ。
「……くそっ……」
 夢は『ハレルヤ・ボイス』による治癒を求めている。笙子に抱かれ、肌を合わせて優しい声を響かせてもらって、自分の痛む心身を休ませろと中谷に迫ってくる。
 けれど、その笙子の一番弱い部分、一番脆い部分を貫いて逃げてきたのは、他でもない中谷自身だ。
(あんなところにいると思わなかった)
 ドアの向こうで、中谷の吐き出す冷たいことばを、笙子はどんな顔で聞いていたのだろう。
 『……ごめんなさい。私、子どもだから』。にこりと笑った顔があの無表情さに満ちて。『勘違い、してました』。頭をゆっくりと下げながら震える声で謝った。
(勘違い、なんかじゃない)
 中谷は唇を噛んだ。
(俺は、あんたを)
 夢も体も正直だ。
 痛みにうなされるのに神経が擦り切れそうになると、夢に笙子の幻が現れる。悲鳴をあげる中谷をそっと抱き締めて、汗でべたべたの顔を胸に引き寄せてくれる。甘い匂いに体が疼く。温かな胸に縋りついて、身をよじるように揉み込んでいくと、荒れ狂う欲望を気づいているだろうに、それごと中谷を包み込んで静かな声が響き始める。体だけでなく心まで侵入して、ほんのわずかもずれないようにぴったりと重なりあいたい、そうもがく中谷は呼吸を荒げて笙子を引き寄せ……その瞬間、叫びながら目を覚ますこともある。
 やめてくれ、もう、許してくれ、と。
 跳ね起きれば裂かれるような傷の痛みにうなり、抱え込んで丸くなる、その体の中心にどうしようもなくなってしまったものがあって。馬鹿馬鹿しさに笑い、目一杯落ち込んだまま処理することも多かった。
(やっぱり、側にいちゃいけねえ)
 どこまで抑えがきくのかと問われても、ほとんど自信がない。
(たった十七の小娘相手に)
 今もまた下半身が微妙におかしい。夢で事に及ばない部分がダイレクトに残ってしまうのか、それとも繰り返される悪夢に箍が外れていきつつあるのか、日毎にコントロールがきかなくなってきているようだ。
 忌々しく舌打ちをして、揺らめく体をベッドから引きはがした。きりきりする内側の緊張をこらえながら、トイレに向かう。
 そうだ。小用一つも疲れるのだ
 自分のものでさえ、一瞬でも例の『水音』と重なったと感じ取ったが最後、押さえ切れない悲鳴が喉に競り上がってくる。こらえてこらえて意識をずらせながらかろうじて用を足し、水を流す音が止まりそうになる瞬間を耳に入れまいとして、できる限り急いでトイレから出る。
 風呂もそうだ。シャワーは使えなくて、耳栓をして湯を張り、体を洗い、すぐに湯を流して換気扇をがんがん回しながら浴室を出る。
 使った皿が洗えないから、コンビニとほか弁で済ませてはいるけれど、こんなことをしていては遠からずささやかな貯金が底を尽くだろう。かといって、今の体力や精神力では『ジャーナル』の記事や取材どころか、地元のフリーペーパーの『譲ります譲って下さい』の三行広告さえまとめられそうになかった。
 不安と恐怖をごまかすために手にしたのは、お定まりの酒で、部屋の隅には焼酎やウォッカの瓶が転がり始めていた。とにかく手っ取り早く酔って、意識をなくせるものが欲しかった。雑事で疲れているはずなのに、ささくれだった神経は眠りを拒否する。悪夢を予感するせいかもしれない。
 そして、睡眠不足でエネルギー不足で余裕がなくて尖り続ける体の感覚はあっさりと暴走を許す。生き延びようと抵抗するのか、やたらと女が、笙子が欲しかった。
(笙子を抱きたい)
 そんなことばかりを思っていつの間にか暮れる日は、中谷を崩壊させていく。
 この数日、気がつけば自分が台所の包丁のある場所をずっと凝視していて、ぎょっとしたことが何度もあった。
(遠からず……死ぬな……)
 苦笑いをした。
(キィのやつ、怒るだろうな、せっかく人が助けてやったのに、と)
 それとも安堵するだろうか、笙子にとっての脅威が一つ永久に消え失せた、と。
 ぴいん。
 軽い音が響いて中谷は顔を上げた。
 自分がぼんやりとリビングに座り込んでいたことにふいに気づく。いつここへ移動したのか覚えがない。記憶が途切れつつあった。
(まじに、やばいらしい)
 ヒトゴトのように思いながらよろよろと立ち上がる。
 ぴいん。ぴいん。
 またドアチャイムが苛立ったように鳴らされた。
「出るよ」
 つぶやく。
「開けてほしかったら待ってろ」
 くすくす笑った。笑いながら、ドアノブを回す。鍵がかかっていない。いつからだろう。
(どうでもいいか)
 もうすぐ死ぬんだし。
 またくすくす笑っていたが、ドアの向こうに立っていた姿に少し正気に戻った。
「編集長……」
「…………酷い顔だな」
「なんで……」
「あがるぞ」
 高岡は立ちすくんでいる中谷を押し退けるように部屋に入ってきた。靴を脱ぎ、部屋の中をぐるっと見回す。ごろごろしている酒瓶に顔をしかめ、くるりと中谷を振り返って、拒みようのない強さで命じた。
「着替えろ。一緒に来い」

 高岡はタクシーを待たせていた。どこか怯みがちな中谷を押し込み連れていったのは、最近できたビルの最上階にある回転式の中華料理店だ。不安定な足取りの中谷をカウンターに座らせると、
「食えるものを食え」
「え?」
「奢りだ。喜べ」
「あ……はい……」
 中谷は戸惑った。目の前に次々と流れてくる湯気をあげている小さな蒸籠や、目の前の厨房で餃子や肉マンや炒めものなどを手早く皿に盛り付けていく調理人を見つめる。ことんと音がして手元に置かれたおおぶりのガラスコップに注がれた薄茶色の液体に、一瞬体が竦んだ。
「烏龍茶だ」
「……俺できれば……酒の方が……」
 不規則に打ちだした心臓に思わずつぶやくと、高岡は冷淡なほど静かな目で中谷を見た。
「もう十分飲んだだろう」
「……でも…」
「それに、この後、医者のところへ行くんだ、酒はまずい」
「医者…?」
 胸の鼓動がより不規則になった。掌にじっとりと滲み出した汗をジーパンの膝に擦り付ける。
「田尾の傷ならもう」
「違う。こっちの方だ」
 とん、と手の甲で軽く胸を叩かれて、中谷は体を強ばらせた。
「いや……です」
 自分の声が弱々しく響くのが聞こえた。
「そういうのは、俺、いやです…………」
 かたかた、と膝が上下に震え出す。押さえようとした手が虚しく一緒に揺さぶられる。
 実は病院の退院条件の一つとして、精神面の方も通院することが条件だった。中谷もそちらのフォローが欲しかったので、その条件に異論はないとして、退院直後に紹介された医者の元へ出かけたのだ。
 だが、そこで中谷はパニックになり我を失って暴れた。最後には意識を失い、とても診察を受けるどころではなく、今度は別の病院に再入院させられかけたのを、かけつけた高岡が引き受けてくれて連れ帰ってくれたらしい。
 医師は『重篤なPTSD』と診断した。
 中谷自身は受診したことはかろうじて思い出せたが、次の記憶は自分の部屋で蹲るようにしてウォッカを舐めている場面からでしかなく、高岡のこともほとんど思い出せない状態だった。
「俺………もう………今…………そういうの…………無理です…………」
 ことばがどんどん遠くに離れていくのを、中谷は必死に繋ぎ止めた。
「次は………もう………もちません…………」
 体が震えて止まらない。恐くて恐くてたまらない。今すぐにでもここから走り去って逃げ出したい。
「潰れる気か」
 ぽつんと高岡が言った。
「このままじゃ死ぬぞ」
 ごくん、と中谷は唾を呑み込んだ。つううっと冷えたコップの表面から流れ落ちていく水滴に意識が持っていかれそうになる。必死に堪えて目を閉じ、自分の体を抱き締めた。
「中谷……覚えてるか」
 しばらくの沈黙の後、高岡の声が響いた。
「入社のとき、俺がどうして『ハレルヤ・ボイス』を追うんだ、と聞いたの」
「…はい」
 中谷は目を開けた。目の前の皿に緑色の小さな餃子が二つ載せられている。白い皿に鮮やかな緑。『ジャーナル』のニ階の窓から、同じような緑が見えていた。つやつやとして生命力に溢れて。踊る木漏れ日が目を射るのが腹立たしくてならなかった。深雪はいないのに世界はこんなにも生き生きしている。それがどうにも許せなかった。
「お前は『納得できない』と言った」
「はい」
「『歌が人の意志を越えてを操るなんてことができるのか。形もなにもない、放っておけば空中に消えてしまう音じゃないか。そんなことは納得できない』と」
「……はい」
 社会的な居場所を持てずにアルバイトを転々として、それでも疑いは膨れ上がるばかりで、ウチに来てみるかと言った高岡は汚れた世間の代表のようにさえ思えた。どうせ妄想だの被害者意識の塊だの罵倒されるぐらいなら、好き勝手に言わせてもらう。そう居直った矢先に尋ねられたから、これ幸いとまくしたてた。
「あのとき、妹の復讐だの真実の追及だの言い出したら、俺はお前を放り出してたぞ」
「え」
 振り向いた中谷に、高岡はグラスのビールをゆっくりと飲み干した。旨そうに、この世の幸福を味わうかのような顔で最後の一滴まで口に注いで、
「うまいな」 
 ごく、と中谷の喉が鳴った。からからに渇いた口に水気が欲しくなって、おそるおそる烏龍茶のコップを掴む。濡れた手触りに鳥肌が立つような思いをしたが、それでも口に運んだ後は夢中で呑み込んでいた。食道を通り胃の形まではっきりわかる、水の通路が体に刻まれる。抉られるような、犯されるような、その侵食を受け入れて、眉を強くしかめながら、
「んっ……んっ……っはぁ」
 啜り上げるように飲み切ってコップを置くと、ほとんど何も入っていなかった腹がくう、と締まった。
 それに刺激されたのか、気がつけば目の前の小さな餃子を箸で摘んで口元に入れていた。じゅわ、と甘味を帯びた肉汁が広がって、香辛料のぴりぴりした感覚が眠っていた味覚を叩き起こすほど新鮮だ。
 次の一つを口に押し入れる中谷の前に、高岡が無造作に蒸籠を取りおろし、並べてくれる。肉まんじゅう、シューマイ、麻婆豆腐、豚肉とカシューナッツの炒めもの、チンゲンサイとエビの煮物。湯気を上げる皿の中身に、中谷は次々と箸を伸ばした。
(うまい)
 まんじゅうの皮のしなやかさ、シューマイのむっちり感、麻婆豆腐のとろける感触、豚肉のまろやかさが舌を包み、エビの甘さ、チンゲンサイの清冽さが入り交じる。熱さと豊かな味わいと押し寄せるような感触に我を忘れていた中谷の前に、色の違う皿が差し出され、凍りつく。
 桃まんじゅう。
 白い皮にピンクと緑の色が載せられたそれは、深雪の好物だったはずで。
 両手に包み込むようにしながら、あんこを舐め取る濡れた舌。はく、と噛みつく歯の白さ。くりんと丸くした目を一気に細めて満足そうに笑い返す瞳。中谷の胸に広がる深く柔らかな安らぎ。
(深雪)
「…っく」
(もう、いない)
 溢れ出す思いに胸が詰まって、愛おしむようにそれを手に取ってかぶりつく。
(深雪)
 甘いものは苦手だった。ずっと苦手だった。
 最後に食べた甘いものは、深雪が作ってくれたチョコレートクッキーで、好きな男にやるための練習台だと言われてほろ苦い気持ちで口にした。
(俺の深雪は、どこにもいない)
 まるで定められた筋書きのように、怪我をした中谷の手を握りしめている笙子の顔が浮かんだ。涙でいっぱいの、すがりつくように頼りなげな瞳。大丈夫だ、と答えた声に見る見る弛んだ緊張の色、桜色に上気していく白い頬に零れ落ちた涙の温かさ。甘やかな、とろけるような、その感覚。だが。
(笙子も、いない)
 脳裏に揺れたのは笙子を待っていた甘党喫茶、とろけていくクリームとあんこが絡んだそれを、食べもしないのに注文してしまった愚かさに臍を噛んでいたのだけれど、本当は待っても待ってもこない相手に傷ついていたのだ。
(いくら待ってもくるわけがない)
 中谷は笙子を傷つけた。自分のキィへの敗北感を摺り替え、安っぽいプライドを保つために、言わなくていいことばを言い、彼女が必死に守ろうとした砦を叩き壊した。
(俺は)
 そうか。
(俺は)
 笙子を、待っていたのか。
 深雪が生き返り、笙子が再び中谷の元へ来てくれることだけを、ただただあの部屋で待っていたのか。
(そんなことは、あるはずがないのに)
 苦い笑いが込み上げた。
 いつの間にかまた満たされていた烏龍茶のコップを握り割るぐらいの勢いで掴み、あんこでべたべたになった口の中へがんがん流し込む。どく、どく、どく、と体の中で全く違う『水音』が鳴って、背筋をぞくぞくさせながら、それでも最後まで口の中へ注ぎ込んだ。吐きかけた口元を引き締めながら必死に呑み込み、目を閉じる。
 流れ落ちていく『水』が喉を過ぎ、胃を走り、そこから見えない通路を流れて下半身まで貫かれていく。冷たく痛い柔らかな刃、赤く固まった内側の炎を天からまっすぐ二つに裂いて、地面深くに滴り落ちる。意味もなく吸い込まれて消え失せて、命は無駄に土塊に戻る。
(俺が最後……最後の一人…………ここで全てが終わりになる)
 中谷の『水』は、もうどこへも続かない。
 自分の源が断たれたような、重苦しい絶望感が腹の痛みとともに体中に広がった。
「くっ……ぅ……ぅ」
 息が上がり、激痛に視界が眩んだ。熱くなった目許に体を硬直させて俯き唸る。
「うまいか」
 低い声で高岡が言った。
「……うまいです」
「じゃあ泣くな」
「…汗です…」
 ふ、と高岡が唇の端で笑った。
「お前は狼じゃない、ただの野良犬だ。野良犬の生き方を俺は教え込んだはずだ。このまま潰れるつもりなら、死に土産に『ハレルヤ・ボイス』のネタをよこせ。ここの支払いにあてる」
「…いやです」
 中谷はお絞りで冷や汗の伝う顔を拭い、口元を拭った。息を吐きながら、のろのろと顔を上げ、楽しむような顔で追加のビールを口に運ぶ高岡の横顔に視線を向ける。
「俺は納得してません」
「いつよこす?」
 にやりと酷薄な笑みを浮かべて、高岡が中谷を見た。笑みを裏付けるような醒めた目が値踏みしている。
「一ヶ月後には、少しは形にしてみせます」
「よし。前払いだな…………まだ食うのか?」
 蒸籠を数個手元に引き降ろした中谷に、高岡は嫌な顔をした。
「『ジャーナル』の名前を轟かせるネタですから、まだ安いです」
「ふん」
 高岡は財布から無造作に数枚の札を抜いた。中谷の上着のポケットに突っ込み、
「俺は忙しいから、後は勝手にやれ」
「…………医者は?」
 きょとんとする中谷に肩を竦めて一枚の名刺を取り出す。
「『音楽療法 大月シンフォニア 医師 大月清司』……?」
「そいつは、音楽を聴かせることで心身の問題を解決するらしい」
 中谷は高岡の薄笑いに気づいた。
「ひょっとして、これ……」
「『ハレルヤ・ボイス』も音を元にしてるなら、何かヒントがあるかもしれないだろ。それに、『幸い』お前は治療が必要だ。取材は断れても患者は断れないだろうしな」
 カウンターを滑り降り、ひょうひょうと店を出て行く高岡の後ろ姿には、壊れかけた部下への同情や思い遣りなどというものは微塵も感じ取れない。利用できるものはとことん利用する、ネタになるなら悪魔とでも取り引きする。『ジャーナル』の編集長は、一番効果的に標的に向かって中谷を弾き飛ばせるチャンスを、ひたすら狙って待ち続けていたのだ。
「……食えねえ」
 キィといい、高岡といい、どうして自分の周りはこういう人間ばっかりなんだ、とぼやきながら、餃子を口に押し込んだ中谷は、数十分前まで落ち込んでいた這い上がりようのない穴が、他の人間にとっては取るに足らないちっぽけなものでしかないのだと感じた。
 冷たくて容赦がなくて貪欲な世界。
「緩くなってたのは、俺の方か」
 『ハレルヤ・ボイス』に惑わされて自分の居場所を見失い、癒しと許しに浸って蕩けていた中谷を、高岡は叩き起こして引きずり出した。
(笙子……)
 相手を思えば、体の疼きだけが思いを本物だと伝えてくる。笙子が欲しい。体を繋げて自分の命を注ぎたい。即物的だと言われようが、今の中谷にはそれしか確かめるものがない。
 だが、そこへの扉はもう固く閉ざされて、中谷の望むような形で開く可能性は二度とない。『ハレルヤ・ボイス』を暴けば暴くほど、きっと距離はどんどん開くだろう。いつかあの澄んだ瞳が満身の憎悪を込めて中谷を糾弾する日がくるのかもしれない。
 つきりと痛んだ胸をごまかそうとビールを注文しかけたがやめた。席から立ち上がり、ふらつく足下に苦笑しながら、それでも一歩ずつ前へ進む。
 野良犬に必要なのはいざと言うときに粘れる体力、ただでさえずたずたの体をこれ以上使いものにならない状態にしては、それこそどぶ泥の中で野垂れ死にするしかない。
「ありがとうございました!」
 レジの明るい声に送られて、中谷は体を起こした。
(笙子)
 自殺者を出しながら歌うことが止められない、至上の歌姫は全身を鎖で縛られている。
 『ハレルヤ・ボイス』の謎を突き止め、闇から伸びる鎖の先にある重しを見つけるためには、きっと闇に入るしかない。それこそ、キィにはできない、汚れ役にははまり過ぎるほどはまった仕事だ。
(俺がそれを切ってやる)
 中谷は目を細めて街の中へ歩き出した。

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