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倉庫の中は廊下よりなおひんやりとして薄暗かった。
廃液と同じ刺激臭が漂っている。小さな窓が正面に一つだけあって、そこから外の光が入り、中に埃の通路を浮き上がらせていた。
六畳ほどもない小さな部屋だ。窓を挟んだ左右の壁は、何列か無理に押し込まれたようなスチールの棚が並んでいて、棚にはぎっちりとダンボール箱が詰め込まれている。それらの箱も古びて変色し、形が崩れたものが多かった。
人の気配はほとんどなく、ひょっとして、部屋を間違ったのかとどきっとした。
だが、しばらく感覚を広げていると、正面の窓の下、棚に入り切らないダンボール箱が積まれた狭苦しい空間に、小さな姿がうずくまっているのがわかった。
(秋野さん)
弱ってはいるけど、秋野さん特有のほっとするようなエネルギーを感じて、俺は急いで移動し始めた。ゴミと埃だらけの床を、ためらうことなく、それらをかき集めながら、人影の側に寄っていく。
部屋の暗さに感覚が慣れてくると、人影ははっきりとした輪郭になって浮かび上がった。
秋野さんは目を閉じて、まだ俺には気づいていなかった。
ぐったりと壁と箱の間に挟まれるようにもたれている。両手は後ろで縛られているみたいで、口に茶色の梱包用テープが張られている。薄汚れた頬は青ざめ、ひどく疲れているみたいだ。目の下にめったにできない隈ができていた。
カメラは取り上げられたままなのか、持っていない。
「秋野さん」
俺はそっと声を出した。
秋野さんはぴくっとして顔を上げ、目を開けてきょろきょろした。見かけのわりには、秋野さんの目は光も覇気も失っていない。
「秋野さん」
体が減った分、声がうまく出せなかったのだろうか、秋野さんは壁や棚を見回している。
俺は体を集めて凝縮させ、音が響くように中空を作って、再び呼びかけた。
秋野さんはなおもあちこちを見回した後、床に落ちた小さな四角い光の中に出て行った俺に気がついてくれた。目を大きく開いて、もごもごもご、と何かをつぶやく。
「ごめんね、遅くなって」
移動に体を使っているために不明瞭になってしまう声を、何とか保とうとしながら、俺はいそいそと近寄った。
「今、手とか自由にするからね」
秋野さんがゆっくりとためらいがちにうなずいて、俺は秋野さんの前へ伸ばした足にたどりついた。スニーカーからジーパンの上へと這い上り始める。
「む!」
突然、秋野さんが鋭い声を上げて、体を強ばらせ、俺はぎょっとした。背後から、やっぱり気を変えた氷川かしびれを切らした石崎でも来たのだろうかと、慌ててドアの方を感覚で探る。
大丈夫、ドアは開いていないし、廊下の方にも誰も来ていないようだ。
「大丈夫だよ、秋野さん、今なら逃げられ……秋野さん?」
話しかけながら、再び秋野さんの足を上ろうとして気がついた。
秋野さんが強ばった凍りついた表情で見ているのは、ドアや人間の影じゃない。大きな目が警戒心を満たして凝視しているのは、ほかでもない、秋野さんの足の上にねったりと乗っている俺そのものだ。
眉をしかめ、目を見開き、じっと俺を見つめているその顔はとても不安そうに、いぶかしげに見えた。
「秋野さん…」
呼びかけると、ひくっと体の下の秋野さんの足が脅えたように震えた。
「俺…」
近江だよ、といいかけたことばが、体の表面で蒸発していった。
秋野さんと暮らし出してから、秋野さんが夜中のバイトを始めてから、『近江潤』の存在と秋野さんの思いを知ってから、そして、行方不明になってしまった秋野さんを追いかけて来た間、ずっとわかっていたけど見ないようにしていた問いかけが、いきなり目の前を遮った。
秋野さんは俺を必要としていないんじゃないか。
俺の存在は秋野さんにとって迷惑なんじゃないか。
本当は…本当は。
(秋野さんが必要なのは『近江潤』で、こんなスライムじゃないんだ)
唐突にそう思った。
秋野さんは、こんな状態の俺に助けられるなんて、いやなんだ。
そう、だよな。
抵抗する気持ちが沸き上がるよりも先に、残酷なほどはっきりと納得してしまった。
本当なら、こういうときに助けに来るのは、白馬の王子と相場が決まっている。
ここが汚れた倉庫で、悪者が環境破壊企業ならば、せめてびしっとした精悍な映画スターというところで、断じて、汚れて悪臭を放っている、埃まみれのスライムなんかじゃないはずだ。
(俺は何をしに来たんだ)
秋野さんを助けるために、何とか適応して生き延びて来た世界を放り捨ててまで。汚い溝をはいずり回り、ずたずたになって体を失いながら。
くたくたと力が抜けて、なにもかもが空しくなって、秋野さんの足から滑り落ちてしまいそうだった。床に広がり細切れになったら、きっともう一度元には戻れないだろう。
けれど、それでも、それはきっと、秋野さんにとっても、いや、この世界にとってさえ、何の意味もないことなんだろう。
俺はこの世界のものじゃなかったから。
俺は体を固くしたまま俺を見つめている秋野さんを見返した。
(それでも)
それでも、失いたくなかったのは俺の方。
泣き出しそうな気持ちで思った。
廃液と同じ刺激臭が漂っている。小さな窓が正面に一つだけあって、そこから外の光が入り、中に埃の通路を浮き上がらせていた。
六畳ほどもない小さな部屋だ。窓を挟んだ左右の壁は、何列か無理に押し込まれたようなスチールの棚が並んでいて、棚にはぎっちりとダンボール箱が詰め込まれている。それらの箱も古びて変色し、形が崩れたものが多かった。
人の気配はほとんどなく、ひょっとして、部屋を間違ったのかとどきっとした。
だが、しばらく感覚を広げていると、正面の窓の下、棚に入り切らないダンボール箱が積まれた狭苦しい空間に、小さな姿がうずくまっているのがわかった。
(秋野さん)
弱ってはいるけど、秋野さん特有のほっとするようなエネルギーを感じて、俺は急いで移動し始めた。ゴミと埃だらけの床を、ためらうことなく、それらをかき集めながら、人影の側に寄っていく。
部屋の暗さに感覚が慣れてくると、人影ははっきりとした輪郭になって浮かび上がった。
秋野さんは目を閉じて、まだ俺には気づいていなかった。
ぐったりと壁と箱の間に挟まれるようにもたれている。両手は後ろで縛られているみたいで、口に茶色の梱包用テープが張られている。薄汚れた頬は青ざめ、ひどく疲れているみたいだ。目の下にめったにできない隈ができていた。
カメラは取り上げられたままなのか、持っていない。
「秋野さん」
俺はそっと声を出した。
秋野さんはぴくっとして顔を上げ、目を開けてきょろきょろした。見かけのわりには、秋野さんの目は光も覇気も失っていない。
「秋野さん」
体が減った分、声がうまく出せなかったのだろうか、秋野さんは壁や棚を見回している。
俺は体を集めて凝縮させ、音が響くように中空を作って、再び呼びかけた。
秋野さんはなおもあちこちを見回した後、床に落ちた小さな四角い光の中に出て行った俺に気がついてくれた。目を大きく開いて、もごもごもご、と何かをつぶやく。
「ごめんね、遅くなって」
移動に体を使っているために不明瞭になってしまう声を、何とか保とうとしながら、俺はいそいそと近寄った。
「今、手とか自由にするからね」
秋野さんがゆっくりとためらいがちにうなずいて、俺は秋野さんの前へ伸ばした足にたどりついた。スニーカーからジーパンの上へと這い上り始める。
「む!」
突然、秋野さんが鋭い声を上げて、体を強ばらせ、俺はぎょっとした。背後から、やっぱり気を変えた氷川かしびれを切らした石崎でも来たのだろうかと、慌ててドアの方を感覚で探る。
大丈夫、ドアは開いていないし、廊下の方にも誰も来ていないようだ。
「大丈夫だよ、秋野さん、今なら逃げられ……秋野さん?」
話しかけながら、再び秋野さんの足を上ろうとして気がついた。
秋野さんが強ばった凍りついた表情で見ているのは、ドアや人間の影じゃない。大きな目が警戒心を満たして凝視しているのは、ほかでもない、秋野さんの足の上にねったりと乗っている俺そのものだ。
眉をしかめ、目を見開き、じっと俺を見つめているその顔はとても不安そうに、いぶかしげに見えた。
「秋野さん…」
呼びかけると、ひくっと体の下の秋野さんの足が脅えたように震えた。
「俺…」
近江だよ、といいかけたことばが、体の表面で蒸発していった。
秋野さんと暮らし出してから、秋野さんが夜中のバイトを始めてから、『近江潤』の存在と秋野さんの思いを知ってから、そして、行方不明になってしまった秋野さんを追いかけて来た間、ずっとわかっていたけど見ないようにしていた問いかけが、いきなり目の前を遮った。
秋野さんは俺を必要としていないんじゃないか。
俺の存在は秋野さんにとって迷惑なんじゃないか。
本当は…本当は。
(秋野さんが必要なのは『近江潤』で、こんなスライムじゃないんだ)
唐突にそう思った。
秋野さんは、こんな状態の俺に助けられるなんて、いやなんだ。
そう、だよな。
抵抗する気持ちが沸き上がるよりも先に、残酷なほどはっきりと納得してしまった。
本当なら、こういうときに助けに来るのは、白馬の王子と相場が決まっている。
ここが汚れた倉庫で、悪者が環境破壊企業ならば、せめてびしっとした精悍な映画スターというところで、断じて、汚れて悪臭を放っている、埃まみれのスライムなんかじゃないはずだ。
(俺は何をしに来たんだ)
秋野さんを助けるために、何とか適応して生き延びて来た世界を放り捨ててまで。汚い溝をはいずり回り、ずたずたになって体を失いながら。
くたくたと力が抜けて、なにもかもが空しくなって、秋野さんの足から滑り落ちてしまいそうだった。床に広がり細切れになったら、きっともう一度元には戻れないだろう。
けれど、それでも、それはきっと、秋野さんにとっても、いや、この世界にとってさえ、何の意味もないことなんだろう。
俺はこの世界のものじゃなかったから。
俺は体を固くしたまま俺を見つめている秋野さんを見返した。
(それでも)
それでも、失いたくなかったのは俺の方。
泣き出しそうな気持ちで思った。
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