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99.『昔日を懐かしむなかれ』(2)
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とおんと蒼銀の簪が記憶に突き立てられた。
守りたかったのだろうな。
低い声が呟いてオウライカは訝る。
誰だ、お前は。レシンじゃないな?
幼い頃から夢中になると突っ走る子どもだったよ。
声は柔らかく懐かしむ。
蒼銀の細工を覚えた時にはたくさんの仲間が居たもんだ。『夢喰い』や他の力が人の心を蝕むのを遮れると知って、なお日々細工に打ち込むようになった。
この子の『紋章』を知らぬだろう? みせてやろうか。
目の前に広がったのは聳え立つ緑溢れる峡谷。這い降りる蔦も生い茂る下草も差し伸べる樹々も鮮やかで健やかな光に満ちている。
なんと美しい。
ありがとう。
相手は心持ち嬉しそうに礼を述べた。
峡谷の間には豊かな水が流れていた。崖から滴り落ちる雫、所々で小さな滝となり跳ね散る水しぶきに空気が濡れている。
谷を一艘の小舟が流されていた。
小舟には一人の子どもが乗っていて背中を丸めせっせと何かを作っている。周囲の美しさにはお構いなし、磨き続けるのは輝く小さな簪だ。
カザル、ではないな、レシンか。
そっくりなのだろうよ、守ろうと必死に蒼銀を磨く姿が。
叶うはずのない望み、満たされることのない願い、そんなものに心身打ち込んで老いていくのが見えたのだろうよ、自分に重なって。
けれどまた、信じたのだろうよ、繋ごうとする絆が奇跡を呼ぶことを。
不可能を可能にする一縷の希望を見いだしたのだろうよ、カザルに。
そうして、私に期待したのか、その支えに拠って未来に蝶が辿り着くことを。
そうだ、わたしが前の贄に祈ったようにな。
存在は彼方の過去へ視線を向けている。
時が足らなかった。
人が居なかった。
力が少なかった。
願いだけではどうにもならなかった。
ごおう、と空間が揺れた。
天空から巨大な火の柱が降り落ちて突き立った。
これは何だ。
息を呑み尋ねるがもう答えは戻らない。
肌を熱が灼く。息苦しい。全ての世界が焼かれている。
消し炭になった様々な大きさの塊が転がり、なおも叩きつける火柱に突き崩されて粉々になる。
『斎京』の竜がエネルギーを吐きつくして都市を崩壊させていく様か。
なるほどこれではとても、人は生き延びては居られまい。
納得しようとした矢先、視線が高く高く空に惹きつけられる。
違う。
人は滅んでいない。
あそこにいる。
あの、赤く禍々しい月に。
そうだ、私はあそこに居る。
衝撃と共に理解する。
私はここに居なかった。
この焼け爛れていく世界におらず、清冽で透明な大気の彼方で、じっとこの破滅を見つめていた。
『なぜ?』
なぜ、そんなことができたのか。
凍りつきながら、転がってきたものに視線を落とす。
ころころと、ころころころと、焦げて小さくなった頭が足元にやってくる。
見上げてくる眼窩、とうに目玉などなくなってしまっているのに、その瞬間に『紋章』が読み取れた。
真っ白な雪景色。ふわふわと柔らかく積もり全てを覆い隠していく、ささくれ立ち尖った木々も赤く色づいた花も。小さな白い雪玉が積み上げられている。
『雪だるま』
っっっ。
重なってくる橙色の果実。
それを欲しがった、まっすぐで明るい心。
『なぜ』
人など生き延びていないじゃないか。
あんな高みで、命の出来栄えを観察するような心のどこが人だろう。
この世界が獣の楽園ならば、あの宙空に浮んでいるのは魂の柩ではないか。
人はどこだ。
護ろうとし、残そうとし、慈しもうとした人はどこに居る。
震えながら歩きだす。『斎京』で鍛えられた感覚は、破壊された体からさえ『紋章』を読み取っていく。
真っ青で深い泉。小魚が銀色の光を散らして跳ね、舞い落ちた花びらが笹の小舟に乗っていく。
赤茶けた険しい巌。刻まれた岩影に鳥の巣がある。雛はもう飛び立った。親鳥は数日前にこの巣を捨てたが、巣には和毛が残って居る。
紫の小花が満ちる野原。子犬が走っていく。飼い主の声が響く、朗らかに誘う、次の遊び場へと。
灰色の建物が続く街。明かりが灯る屋台が並ぶ。香ばしい匂い、甘い香り。夜空に細かな星が散る。
人がいない。
人がいない。
『紋章』が影のように焼き付けられて残り、なのに人がいない。
再生は無駄なのだ、陰が残ってしまうから。
限られた因子は歪んだ像しか再現しないと、どうして誰も伝えてくれなかったのか。それとも伝えたけれども誰も聞かなかったのか。
滅びよ人。
そう望んだのは誰か。
滅びよ世界。
誰も望まなかっただろう、こんな結末の只中に残るならば。
だからこそ、引く気はなかったのだ、もう二度と。
この身一つが残るぐらいなら、この身一つを捧げる方がいいと選んだはずなのに、なぜまたここで一人残ってしまったのか。
『あたし達じゃない方がいいってことはないの?』
え?
誰の声だ。
『この道を開くためにはある段階の知恵がいる。単なる通り道ではなく、無数の中継点を備えていて、その扉を一つ一つ通り抜けて初めて繋がるようになっている』
封じたのは誰だ。
贄を受け入れたのはなぜだ。
自分一人の犠牲で済むからと、そんな独り善がりの誇りによって、本当に力を注ぐべきことに目を逸らせていたのは誰だ。
『私は』
この状態を繰り返したくなかったのなら、戦うべきだった、同じように泥に塗れ這いずり回って未来を探し。
カークを案じ、カザルを抱え、『斎京』の未来を背に負った顔で、ただ座り続けているだけではなく、トラスフィと共に駆けるべきだった、次の世代に犠牲を強いない方法を求めて。
『あかね』
お前が正しかった可能性を俺は認めたくなかったのか。
もがいた挙げ句、自分達の命が誤りだったと知りたくなかったのか。
そして、一人でもりとを逝かせてしまったのか。
そのためのこれは償いなのか。
違うよ。
守りたかったのだろうな。
低い声が呟いてオウライカは訝る。
誰だ、お前は。レシンじゃないな?
幼い頃から夢中になると突っ走る子どもだったよ。
声は柔らかく懐かしむ。
蒼銀の細工を覚えた時にはたくさんの仲間が居たもんだ。『夢喰い』や他の力が人の心を蝕むのを遮れると知って、なお日々細工に打ち込むようになった。
この子の『紋章』を知らぬだろう? みせてやろうか。
目の前に広がったのは聳え立つ緑溢れる峡谷。這い降りる蔦も生い茂る下草も差し伸べる樹々も鮮やかで健やかな光に満ちている。
なんと美しい。
ありがとう。
相手は心持ち嬉しそうに礼を述べた。
峡谷の間には豊かな水が流れていた。崖から滴り落ちる雫、所々で小さな滝となり跳ね散る水しぶきに空気が濡れている。
谷を一艘の小舟が流されていた。
小舟には一人の子どもが乗っていて背中を丸めせっせと何かを作っている。周囲の美しさにはお構いなし、磨き続けるのは輝く小さな簪だ。
カザル、ではないな、レシンか。
そっくりなのだろうよ、守ろうと必死に蒼銀を磨く姿が。
叶うはずのない望み、満たされることのない願い、そんなものに心身打ち込んで老いていくのが見えたのだろうよ、自分に重なって。
けれどまた、信じたのだろうよ、繋ごうとする絆が奇跡を呼ぶことを。
不可能を可能にする一縷の希望を見いだしたのだろうよ、カザルに。
そうして、私に期待したのか、その支えに拠って未来に蝶が辿り着くことを。
そうだ、わたしが前の贄に祈ったようにな。
存在は彼方の過去へ視線を向けている。
時が足らなかった。
人が居なかった。
力が少なかった。
願いだけではどうにもならなかった。
ごおう、と空間が揺れた。
天空から巨大な火の柱が降り落ちて突き立った。
これは何だ。
息を呑み尋ねるがもう答えは戻らない。
肌を熱が灼く。息苦しい。全ての世界が焼かれている。
消し炭になった様々な大きさの塊が転がり、なおも叩きつける火柱に突き崩されて粉々になる。
『斎京』の竜がエネルギーを吐きつくして都市を崩壊させていく様か。
なるほどこれではとても、人は生き延びては居られまい。
納得しようとした矢先、視線が高く高く空に惹きつけられる。
違う。
人は滅んでいない。
あそこにいる。
あの、赤く禍々しい月に。
そうだ、私はあそこに居る。
衝撃と共に理解する。
私はここに居なかった。
この焼け爛れていく世界におらず、清冽で透明な大気の彼方で、じっとこの破滅を見つめていた。
『なぜ?』
なぜ、そんなことができたのか。
凍りつきながら、転がってきたものに視線を落とす。
ころころと、ころころころと、焦げて小さくなった頭が足元にやってくる。
見上げてくる眼窩、とうに目玉などなくなってしまっているのに、その瞬間に『紋章』が読み取れた。
真っ白な雪景色。ふわふわと柔らかく積もり全てを覆い隠していく、ささくれ立ち尖った木々も赤く色づいた花も。小さな白い雪玉が積み上げられている。
『雪だるま』
っっっ。
重なってくる橙色の果実。
それを欲しがった、まっすぐで明るい心。
『なぜ』
人など生き延びていないじゃないか。
あんな高みで、命の出来栄えを観察するような心のどこが人だろう。
この世界が獣の楽園ならば、あの宙空に浮んでいるのは魂の柩ではないか。
人はどこだ。
護ろうとし、残そうとし、慈しもうとした人はどこに居る。
震えながら歩きだす。『斎京』で鍛えられた感覚は、破壊された体からさえ『紋章』を読み取っていく。
真っ青で深い泉。小魚が銀色の光を散らして跳ね、舞い落ちた花びらが笹の小舟に乗っていく。
赤茶けた険しい巌。刻まれた岩影に鳥の巣がある。雛はもう飛び立った。親鳥は数日前にこの巣を捨てたが、巣には和毛が残って居る。
紫の小花が満ちる野原。子犬が走っていく。飼い主の声が響く、朗らかに誘う、次の遊び場へと。
灰色の建物が続く街。明かりが灯る屋台が並ぶ。香ばしい匂い、甘い香り。夜空に細かな星が散る。
人がいない。
人がいない。
『紋章』が影のように焼き付けられて残り、なのに人がいない。
再生は無駄なのだ、陰が残ってしまうから。
限られた因子は歪んだ像しか再現しないと、どうして誰も伝えてくれなかったのか。それとも伝えたけれども誰も聞かなかったのか。
滅びよ人。
そう望んだのは誰か。
滅びよ世界。
誰も望まなかっただろう、こんな結末の只中に残るならば。
だからこそ、引く気はなかったのだ、もう二度と。
この身一つが残るぐらいなら、この身一つを捧げる方がいいと選んだはずなのに、なぜまたここで一人残ってしまったのか。
『あたし達じゃない方がいいってことはないの?』
え?
誰の声だ。
『この道を開くためにはある段階の知恵がいる。単なる通り道ではなく、無数の中継点を備えていて、その扉を一つ一つ通り抜けて初めて繋がるようになっている』
封じたのは誰だ。
贄を受け入れたのはなぜだ。
自分一人の犠牲で済むからと、そんな独り善がりの誇りによって、本当に力を注ぐべきことに目を逸らせていたのは誰だ。
『私は』
この状態を繰り返したくなかったのなら、戦うべきだった、同じように泥に塗れ這いずり回って未来を探し。
カークを案じ、カザルを抱え、『斎京』の未来を背に負った顔で、ただ座り続けているだけではなく、トラスフィと共に駆けるべきだった、次の世代に犠牲を強いない方法を求めて。
『あかね』
お前が正しかった可能性を俺は認めたくなかったのか。
もがいた挙げ句、自分達の命が誤りだったと知りたくなかったのか。
そして、一人でもりとを逝かせてしまったのか。
そのためのこれは償いなのか。
違うよ。
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