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32.『真実を知らせるなかれ』(1)
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あれ、ここどこなんだろう?
カザルは途方にくれて周囲を見回した。
『華街』でオウライカをずっと待っていたはずだった。
白い襦袢は素肌にひんやりしていた。腰が頼りなくて、ひらひら揺れる裾が気になる。ふわ、ふわ、と足下から吹き上げてくる風は湿気を帯びている。
と、遠くの山を煙らせていた霧があっという間に押し寄せてきた。
うわ、雨だ。
慌ててカザルは側の軒へと身を寄せた。
さあ……っと細かな雨が、密度濃く降りしきって通りを埋める。足につっかけた漆塗りの黒下駄のあたりまで跳ねた泥水が飛んできて、少し身を竦めた。
………さむ。
両手を体に回してぎゅっと抱く。
気温だけではない、その雨はいつかの闇を思わせる。大勢の前で押し倒されて好きように扱われて。口に流れ込んだのは、滴り落ちた汗なのか慟哭の果ての涙なのか、それともえづくような生臭い液体でしかなかったのか。べったり濡れた体を揺さぶられながら必死に反撃の隙を狙った。
仕方ないんだ、と思っていた。仕方ないんだ、と言い聞かせ続けた。けれど、どうしても納得できなかった。
……苦しかったなあ……。
いつ思い出しても傷む記憶のはずなのに、降りしきる雨に溶け入る紅格子の街並に思うのは、なぜかぼんやりと遠い。ずきずきする体の奥の感覚にすり替えられていくのは、ブルームの重みや、任務遂行の達成感だったはずなのに、今そこにふわりと柔らかな布がかぶせられている。
その布は薄緑色だ。淡く透けて、真っ赤に焼けた鉄のような記憶の上に静かに広げられている。
そして、その布の端をそっと押さえている指先を追うと、黒いスーツに包まれた穏やかな、けれど凛とした姿に繋がっている。
……オウライカさん。
目を伏せた横顔を十分に味わいたくて、カザルは目を閉じた。
俺を壊したって言った。
防御を一枚外さなくてはならなかった、と困った顔で呟いた優しい声。しがみついたカザルをゆっくりと抱き締めてくれた腕の感覚。すり寄せた額に触れた仕立てのいいスーツと柔らかな吐息。
違うじゃん。
カザルはそっと腕から力を抜いて、甘い感覚に浸った。
あんた、俺を壊したんじゃなくて、俺のきついところを代わってくれたんだ。
ぐずぐずといつまでも熱をもって焼け爛れて傷みを訴える箇所を確かめ、そこをそっと覆ってくれた。
いつでもカザルは布を引き剥がすことができる。自分の傷みを確認し、蹴り散らすことができる。
だがしかし、とてもそこに向かえないほどへたっている時には、オウライカの指先がその帳を押さえている。たった数本置かれただけの指が絶対の意志を持って、記憶が溢れ落ちるのを遮ってくれる。
大丈夫だ。
オウライカはカザルを連れ帰ってくれると言った。すぐにではないけれど、オウライカがそう約束してくれたのだから、それは確かだ。カザルはオウライカの元に戻れるのだ。
戻って、再び、側に居られる。
………へへっ。
嬉しくて思わず笑みを零したとたん、雨の音が変わったのに気付いた。
目を開くと、雨の向こうからしずしずやってくる一群が居る。
……何……?
道の中央をやってくる行列は艶やかな着物と高く結び上げた金の帯を身につけ、真っ赤な傘を差し掛けられてゆっくりとやってくる女達だ。雨だからというのではなさそうな飾りのついた高下駄、俯き加減の頭は大きく派手に結い上げられて驚くほど幾本も簪を差している。
簪。
はっと気付いて頭に手をやれば、オウライカにもらった蝶の簪がなくなっていた。
やば。
落としたんだ、と慌てて身を起こしたが、行列はすぐ目の前まで迫っている。遮るのもためらわれて動きを止め、唐突に奇妙さに気付いた。
雨に濡れていない。
軒から少し顔を出したカザルの前髪をすぐに濡らすほどの降りなのに、行列の女達が誰一人雨に濡れていない。
なんで…?………っっ!
首を傾げた矢先、先頭の女がふいと呼ばれたように顔を上げ、カザルは凍りついた。
白くて透き通るような細面の顔、通った鼻筋、紅の唇、けれどその瞳は中央にたった一つ見開かれているのみ。二つ分はある、その巨大な瞳が黒々と潤んで瞬き、にんまりと笑ったとたん、微かな声が響く。
『お迎えに、参りました』
ひ…っ。
カザルは途方にくれて周囲を見回した。
『華街』でオウライカをずっと待っていたはずだった。
白い襦袢は素肌にひんやりしていた。腰が頼りなくて、ひらひら揺れる裾が気になる。ふわ、ふわ、と足下から吹き上げてくる風は湿気を帯びている。
と、遠くの山を煙らせていた霧があっという間に押し寄せてきた。
うわ、雨だ。
慌ててカザルは側の軒へと身を寄せた。
さあ……っと細かな雨が、密度濃く降りしきって通りを埋める。足につっかけた漆塗りの黒下駄のあたりまで跳ねた泥水が飛んできて、少し身を竦めた。
………さむ。
両手を体に回してぎゅっと抱く。
気温だけではない、その雨はいつかの闇を思わせる。大勢の前で押し倒されて好きように扱われて。口に流れ込んだのは、滴り落ちた汗なのか慟哭の果ての涙なのか、それともえづくような生臭い液体でしかなかったのか。べったり濡れた体を揺さぶられながら必死に反撃の隙を狙った。
仕方ないんだ、と思っていた。仕方ないんだ、と言い聞かせ続けた。けれど、どうしても納得できなかった。
……苦しかったなあ……。
いつ思い出しても傷む記憶のはずなのに、降りしきる雨に溶け入る紅格子の街並に思うのは、なぜかぼんやりと遠い。ずきずきする体の奥の感覚にすり替えられていくのは、ブルームの重みや、任務遂行の達成感だったはずなのに、今そこにふわりと柔らかな布がかぶせられている。
その布は薄緑色だ。淡く透けて、真っ赤に焼けた鉄のような記憶の上に静かに広げられている。
そして、その布の端をそっと押さえている指先を追うと、黒いスーツに包まれた穏やかな、けれど凛とした姿に繋がっている。
……オウライカさん。
目を伏せた横顔を十分に味わいたくて、カザルは目を閉じた。
俺を壊したって言った。
防御を一枚外さなくてはならなかった、と困った顔で呟いた優しい声。しがみついたカザルをゆっくりと抱き締めてくれた腕の感覚。すり寄せた額に触れた仕立てのいいスーツと柔らかな吐息。
違うじゃん。
カザルはそっと腕から力を抜いて、甘い感覚に浸った。
あんた、俺を壊したんじゃなくて、俺のきついところを代わってくれたんだ。
ぐずぐずといつまでも熱をもって焼け爛れて傷みを訴える箇所を確かめ、そこをそっと覆ってくれた。
いつでもカザルは布を引き剥がすことができる。自分の傷みを確認し、蹴り散らすことができる。
だがしかし、とてもそこに向かえないほどへたっている時には、オウライカの指先がその帳を押さえている。たった数本置かれただけの指が絶対の意志を持って、記憶が溢れ落ちるのを遮ってくれる。
大丈夫だ。
オウライカはカザルを連れ帰ってくれると言った。すぐにではないけれど、オウライカがそう約束してくれたのだから、それは確かだ。カザルはオウライカの元に戻れるのだ。
戻って、再び、側に居られる。
………へへっ。
嬉しくて思わず笑みを零したとたん、雨の音が変わったのに気付いた。
目を開くと、雨の向こうからしずしずやってくる一群が居る。
……何……?
道の中央をやってくる行列は艶やかな着物と高く結び上げた金の帯を身につけ、真っ赤な傘を差し掛けられてゆっくりとやってくる女達だ。雨だからというのではなさそうな飾りのついた高下駄、俯き加減の頭は大きく派手に結い上げられて驚くほど幾本も簪を差している。
簪。
はっと気付いて頭に手をやれば、オウライカにもらった蝶の簪がなくなっていた。
やば。
落としたんだ、と慌てて身を起こしたが、行列はすぐ目の前まで迫っている。遮るのもためらわれて動きを止め、唐突に奇妙さに気付いた。
雨に濡れていない。
軒から少し顔を出したカザルの前髪をすぐに濡らすほどの降りなのに、行列の女達が誰一人雨に濡れていない。
なんで…?………っっ!
首を傾げた矢先、先頭の女がふいと呼ばれたように顔を上げ、カザルは凍りついた。
白くて透き通るような細面の顔、通った鼻筋、紅の唇、けれどその瞳は中央にたった一つ見開かれているのみ。二つ分はある、その巨大な瞳が黒々と潤んで瞬き、にんまりと笑ったとたん、微かな声が響く。
『お迎えに、参りました』
ひ…っ。
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